熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 西行も更級日記の作者も難渋した「小夜の中山」を歩く
                           … 金谷宿〜日坂宿〜掛川宿
第十三日目 
2007年2月27日(火) 晴れ
今日のコース : 金谷宿〜日坂宿〜掛川宿
日記の記録  : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M)


今回、2泊3日の「五十三次テクテク旅」の楽しみは、次の三つ。
 東海道三大難所のひとつで、歌枕でよく詠まれている「小夜の中山」、峠は険しい登りか?どんな風景か?
 次は、どまんなかで売り出し中の袋井宿の「東海道どまん中茶屋」、ここでの出会いが楽しみ!!
 三つ目は、家康の若き日の拠点「浜松城」。どんな城なのか?なぜ浜松か?

 午前5時に起き、午前6時2分発の一番のバスで千葉駅に向かう。千葉駅発、午前6時40分の快速で東京へ、東京駅発、午前8時6分の新幹線で静岡へ、静岡駅発、9時24分の普通電車で金谷へ、そして金谷駅には午前9時56分に着いた。駅前で金谷宿出発の写真を撮り、午前10時5分、日坂宿に向けてスタートした。

  街道を行く

 日本橋から五十六里八町
  (220.8Kmあたり)

  金谷駅前への道
  (静岡県島田市金谷)

 平成の道普請 「金谷坂の石畳」

 駅前広場の右手の階段を下り、ガードをくぐり、緩やかな坂道を登っていく。県道を横切るとすぐに旧街道は石畳の金谷坂の上りとなる。右手に石畳茶屋があり、「宿場にゆかりの資料の展示あり。」とあるが、先が長いので、寄らないことにする。金谷宿の石畳について、案内板に「平成3年、町民約600名の参加を得て、平成の道普請として延長430メートルが復元された。」とあった。

  甲賀流築城法による山城「諏訪原城跡

 坂道を登りきり、茶畑を進むと諏訪原城跡の案内板がある。この城は、戦国時代、武田勝頼が家臣に命じて築城したもので、甲州流築城法により、築城された山城であったという。また、城内には、武田家の守護神の諏訪明神が祭られている。

  間の宿「菊川」のひなびた風情の家並みを歩く

  さらに進み、今度は、菊川坂を下る。菊川坂も石畳になっており、地域の人による平成13年の道普請によって石畳を復元したとある。途中からは江戸時代後期に造られた石畳を進む。下りきって、午前10時45分、一休みする。間の宿「菊川」のひなびた風情の家並みを歩く。「菊川名物「菜飯田楽」はおいしかっただろう。」との案内があった


  街道を行く

 日本橋から五十六里三十一町
  (223.3Kmあたり)

  間の宿「菊川」
  (静岡県島田市菊川)
  小夜の中山峠、急勾配の箭置坂(やおきざか)を登る !
 間の宿「菊川」を過ぎると、箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所のひとつといわれる「小夜の中山峠」が待ち構えている。茶畑が広がるなか、急勾配の箭置坂(やおきざか)を上る。急勾配は続くが思ったほど長くはない。右手に「久延寺(きゅうえんじ)」が見えてくると、上り坂も終わる。
  家康をもてなした「接待茶屋跡」

  「久延寺」の境内には、掛川城主の山内一豊が関が原に向かう家康をもてなしたという「接待茶屋跡」と、昔、妊婦が盗賊に殺されたが、おなかの子は助かり、殺された母の霊が石にこもり毎晩泣いたという伝説の「夜泣き石」がある。その先に西行の歌碑と「小夜の中山公園」があり、公園で休憩する。午前11時39分

  西行も更級日記の作者も難渋した「小夜の中山」
 「小夜の中山」は、歌枕として古くから人々に親しまれ、詠みこまれた和歌は勅撰集だけでも四十余首にのぼるという。西行法師は69歳で二度目の峠越えをしたとき、「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけり小夜の中山」と詠んだ。また、平安時代の日記物語「更級日記」に、当時13歳であった作者「菅原孝標の女」は『小夜の中山など、越えたのだろうが、病気のため何もわからなかった。』と書いている。小夜の中山は、歌枕であるとともに、旅人が難渋した険しい峠道であったことがわかる。(更級日記については、「五十三次のおしゃべり 8」を見てね!)
  「二の曲がり」を下る
 松尾芭蕉や紀友則などの句碑、歌碑を見ながら、旧街道を進むと、下り坂となり、下るに従って急となっている『二の曲がり』を下る。また、この急な坂は、急坂の連続のために草鞋を履き替えて、古い草鞋を木にかけたということから「沓掛」ともいわれているという。下りきって、国道1号線を渡ると、そこは山間の小さな宿、日坂宿である。
  橋が西木戸の役割を!

  日坂宿の家々には、江戸時代の屋号がそのままかけられており、往時の雰囲気が残っている。旧街道を行くと、すぐに、防火の神として信仰を集めた「秋葉常夜灯」と立派な門と松のある「扇屋本陣跡」がある。また、江戸時代の面影の残る旅籠「川坂屋」があるが、土日だけの開館で、残念ながら見学できなかった。日坂宿の西木戸は、逆川にかかる橋がその役割を果たしており、夜間や非常時にはここを閉鎖して通行を制限したという。そこに高札場もあった。

 東海道五拾三次 遠江国
 日坂宿
 
 人口:750人
 総家数:168軒
 本陣:1軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:33軒

日坂 [佐夜ノ中山]
 急な坂道で知られている、東海道の難所のひとつ、「佐夜ノ中山峠」である。
 夜泣き石伝説の夜泣き石が、坂道の下にあり、旅人が不思議そうに眺めている。
 
 「伊達方一里塚跡」
 旧街道は、国道1号線に合流し、バイパスの交差点を越え、二叉路を左に進むと「伊達方一里塚跡」がある。旧街道は国道と合流、いったん左折して旧街道を進むが、また国道と合流して進むと千羽交差点がある。バス停に、イスが二つあったので休憩することにした。午後1時56分

  街道を行く

 日本橋から五十八里十六町
  (229.5Km)

 
  (静岡県掛川市伊達方)
 馬の顔がデザインされている馬喰橋の橋柱
 旧街道を進み、成滝で国道を左手に折れると、橋柱に馬の顔がデザインされている馬喰橋がある。橋を渡った左手に「葛川一里塚」があり、右手には振袖餅屋があるが、掛川名物の振袖餅はすでに売り切れていた。
  宿場出入り口の七曲り
 やがて新町の七曲りにさしかかる。七曲りは、枡形といわれる「曲尺手(かねんて)」であり、容易に敵を侵入させないための構造といわれている。我々は、地図を片手に宿場入口の七曲りを丁寧にたどった。三つ目の角に電気の明かりのついた常夜灯があった。七曲りの終点に木戸と番所があったというが、ここからが掛川宿である。
  「掛川宿大祭壁画」
 旧街道は、七曲りを終え、さらに二度ほど右、左と折れ、商店街を進むと、掛川駅前通りとの交差、連雀西交差点のところに「東海道五十三次掛川宿大祭壁画」がある。連雀西交差点から掛川城までの道は「城下町風町並み」となっていて、それなりの雰囲気がある。今日の宿が近くなので、荷物だけを預けて掛川城に向かった。午後3時10分

  街道を行く

 日本橋から四十七里二十一町
  (186.9Kmあたり)

  静岡市間の宿「手越宿」
  (静岡市駿河区手越)
 東海道五拾三次 遠江国
 掛川宿
 
 人口:3443人
 総家数:960軒
 本陣:2軒
 脇本陣:0軒
 旅籠屋:30軒

掛川 [秋葉山遠望]
 火伏(ひぶせ)の神として知られている秋葉権現の秋葉山を遠望している。
 常夜灯が手前に立っており、旅僧や旅人が橋を渡っている。
 「掛川宿」
 掛川宿は、掛川城六代目城主山内一豊が整備した城下町として、また、東海道の宿として発展してきた。さらに、相良と信州を結ぶ「塩の道」の要所でもあった。

  「掛川城」と「二の丸茶室」

 旧街道から離れて、「城下町風町並み」を通って、掛川城のある掛川公園に向かう。掛川城の天守閣に上って、掛川市の街並みを眺めていると、ボランティアと思われる案内人が東の山並みを指して「あの辺りが小夜の中山で、久延寺には山内一豊が徳川家康を接待した茶室があったところ」と教えてくれた。その後、二の丸茶室でお茶をいただき、小間「桔梗庵」を見学した。また、二の丸御殿は内部が創建当時のままであり、見ごたえがあった。また、大名行列の模型が展示されており、興味深かった。その後、公園をゆっくり散策し、宿に着いたのは、午後4時50分だった。

  第十三日目 2007年2月27日(火)

    前日までの距離    219.9Km(353、064歩)
  今日のコース    金谷宿〜7.2Km〜日坂宿〜7.8Km〜掛川宿
  今日の歩行距離  15.0Km(今日の歩数 28、261歩)
  今日の歩行時間  6時間54分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       234.9Km(381、325歩)
     京・三条大橋まで、あと 288.4Km
《参考》
  今日の全所要時間(自宅〜金谷宿〜掛川宿〜宿)10時間48分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)16.4Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり 「更級日記」から、日本庭園の名称が…の話
 「小夜の中山」という言葉は、歌枕や「更級日記」などに出てきて、高校時代から、気になっていた地名だったが、今回の「五十三次テクテク旅」で、小夜の中山峠を走破し、なにやら、ほっとした。
 しかし、実のところ、小夜の中山峠は、もっと急勾配の連続で…  しかも素晴らしい景色で…  と、期待?していたのだが…。
 
 
ところで、「更級日記」から名付けられた日本庭園があることをご存知だろうか? 千葉市美浜区幕張にある千葉県立幕張海浜公園内にある日本庭園の「見浜園」という名称は更級日記に由来する。紹介しよう。
 旅の途中、ある浜辺の月夜の素晴らしい光景に感動し、この光景を「再び見ることができるだろうか?」と浜辺への『想い』を歌に詠んだ、13歳の文学少女の話である。この文学少女は、平安時代の日記物語「更級日記」の作者であり、この浜辺への『想い』から千葉県立幕張海浜公園の日本庭園は、「見浜園」と命名された。
 「更級日記」の作者、菅原孝標の女(むすめ)は、国司である父とともに京から「いまだて」(現在の千葉県市原市あたり)に来ていた。作者は、京に帰って早く源氏物語を読みたいという文学少女で、作者が13歳の時、3年の任期を終えて京に帰ることになった。「いまだて」を出てから14日目に「くろとの浜」(現在の千葉市稲手区の黒砂あたり?)に着いた。その「くろとの浜」は、ひろびろとした砂浜で遠くまで広がり、松が茂り、月が明るく照っていた。しかも、松の梢を渡る風の音に趣があったので、この浜への想いを歌にした。

 まどろまじ、今宵ならでは、いつか見む
  くろとの浜の、秋の夜の月

 訳としては、今日は眠たくても起きていよう。今宵をおいて、いつの日にか、この素晴しい、くろとの浜の秋の夜の月を見ることが出来ようか。
 実際には、この文学少女は、二度と「くろとの浜の秋の夜の月」を見ることは出来なかった。
 日本庭園の「見浜園」という名称は、「このくろとの浜を、いつの日にか、見ることが出来ようか?」と詠んだ、文学少女の想いから名付けられたものである。

 「見浜園の茶会」はこちら

 ※なお、「見浜園の茶会ホームページ」の制作、管理は私(旅人J)です。また、命名にもかかわっていました。
 

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