熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 新居関所、関所史料館、二川宿本陣資料館などの
                        施設に感動!!

                    … 舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿
第十七日目 
2007年3月31日(土) 曇り
今日のコース : 舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿
日記の記録  : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今日は、新居関所、新居関所史料館、新居宿旅籠紀伊国屋資料館、おんやど白須賀、二川宿本陣資料館、旅籠清明屋と見どころが続く。
 宿泊地は、弁天島である。午前7時48分に出発し、中浜名橋、西浜名橋を渡り、新居宿を目指す。新居駅前で休憩する、海からの微風でも朝が早いせいか気持ちがいい。休憩後、すぐ、新居関所に着く。午前8時45分

  紀州藩の「御用宿」と「七里飛脚の役所」

 「新居関所」や「史料館」の開館時間は、午前9時からで、ボランティアガイドは9時半に来るというので、先に「新居宿旅籠紀伊国屋資料館」を見学する。
 紀伊国屋は、紀州の出身者が江戸時代の初めに新居に来て、茶屋を営んだが、後に旅籠屋を始めたという。そして、元禄16年には御三家のひとつ紀州藩の御用宿をつとめるようになり、「紀伊国屋」を名乗ることを許されたとある。その後、帯刀御免、五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があったという。

「新居関所」  渡船場は、昔のまま …

 午前9時30分、新居関所に戻り、関所と史料館を見学する。新居関所は正式には今切関所といい、慶長5年(1600年)に設置された。当初は、浜名湖の今切口、近くにあったが、地震や津波などの災害で移転を余儀なくされ、三度目で現在地という。江戸時代には、現存する面番所、書院などのほかに、船会所、土蔵などがあり、敷地の西側には大御門、東側には渡船場があったという。渡船場は当時のまま残っており、江戸時代、舞坂宿から湖上一里の渡し船は関所前に到着し、旅人は船から下りるとそのまま関所に入ったという。渡船場前の木の杭は、護岸を保護するための消波杭であり、木杭の数は、見えている4倍ほどあったという。

「新居関所史料館」 ボランティアの説明が良かった。

関所史料館は、関所に関する歴史資料、江戸時代の交通資料などの収集・展示をしている。1階の「街道と関所」のコーナーでは、新居関所の変遷と役割などの紹介が興味深く、2階の「旅と宿場」コーナーでは、旅の様子を描いた浮世絵版画、各地の名物、庶民の暮らしの道具類の展示など参考になった。また、ボランティアの説明が良かった。

宿場には「常に百人の人足と百疋の馬」

 午前10時39分新居関所を出発し白須賀宿を目指す。旧街道はすぐに左折し、「本陣跡」の碑、「寄馬跡(よせうまあと)」の案内板がある。「寄馬跡」とは、東海道の宿場では常に百人の人足と百疋(ひゃくぴき)の馬を用意していたが、交通量の多い場合は助郷制度といって、付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。こうして寄せ集められた人馬の溜まり場が寄馬所と呼ばれていたという。
 東海道五拾三次 遠江国
 新居宿
 
 人口:3474人
 総家数:797軒
 本陣:3軒
 脇本陣:なし
 旅籠屋:26軒

荒 井 [渡舟ノ図]
 この絵は舞坂宿から新居宿への今切の渡しを渡る舟を描いている。
 左奥に白帆の舟が見えている海は遠州灘である。
 

小さい割には栄えていた 「新居宿」

当初、新居宿は、今切口にあり、東西を走る街道に町屋が並び、その東に関所があったが、地震、津波などにより現在地に移転した。しかし、移転後は街道筋だけではなく裏通りにも町屋が立ち並び周辺には寺社を配置している。新しい新居宿は、宿場町、関所のある町、渡船場、今切湊の四つ機能をもっていた。また、渡船の管理は、新居宿側・吉田城主が行っていたので、新居宿が小さいわりには、栄えていたとボランティアの説明があった。

  「一里塚跡」「棒鼻跡」「松並木」「立場」
 さらに旧街道を進むと左手に新居の「一里塚跡」の碑がある。その先を右に折れ「棒鼻跡」の案内板を見て、左に曲がると国道一号線に合流する。すぐに国道一号線と分かれて、右手の旧街道を進むと左側のみであるが美しい松並木が続く。松並木が終わると「立場跡」の碑と案内板がある。ここは新居宿と白須賀宿の間の立場で、代々加藤家がつとめてきたとある。ちなみに立場(たてば)とは、旅人や人足、駕篭かきなどが休息する施設のことで東海道の宿場と宿場の間に設けられていた。

  街道を行く

 日本橋から七十二里二十八町
  (285.8Kmあたり)

  新居町浜名旧街道
  (静岡県浜名郡新居町浜名)

   白須賀宿は、地震と津波で高台に移動した!

 さらに西に進むと、元白須賀宿がある。ここは宝永4年(1707年)の地震と大津波で潮見坂の上の高台に移動するまで「白須賀宿」があったところである。右手に「一里塚跡」「高札場跡」の案内板がある。

   潮見坂からの雄大な景色に歌などを詠む!

 さらに「蔵法寺」を右手に見ながら進むと旧街道は右手に折れ、潮見坂の上りになる。上り坂の途中、振り返ると雄大な遠州灘が眺められ、ほっと一息つく。京から江戸に向かう旅人は、この坂の上に立って初めて太平洋を眼前にし、この雄大な景色に、また、初めて遠くに富士山が見えたことに、歌などを詠んだという。

  「おんやど白須賀」では、和紙人形が庶民の旅模様を表現 !!

潮見坂を上りきると白須賀宿のお休み処「おんやど白須賀」がある。午後0時40分。施設内には、白須賀宿の案内のほかに、潮見坂を行き交う庶民の旅模様を和紙人形で生き生きと表現したコーナーがあった。

 東海道五拾三次 遠江国
 白須賀宿
 
 人口:2074人
 総家数:613軒
 本陣:1軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:27軒

白須賀 [汐見坂図]
 白須賀宿を出発した大名行列が、汐見坂を下っていく。
 松の木の間から、広々とした遠州灘を見渡すことが出来る。
 
 「白須賀宿」
 白須賀とは、白い砂浜という意味のようで、その名のとおり遠州灘の浜辺にあった が地震と津波によって壊滅し、潮見坂の上に新しい宿場が出来た。それが白須賀宿である。また、汐見坂は、東海道一の景勝地として、たくさんの紀行文などにその風景が記されている、  
 「曲尺手」「本陣跡」そして、神明宮で、昼食
 お休み処を出て、旧街道を進むと「潮見坂公園」があり、さらに進むと旧街道が枡形に折れ曲がり「曲尺手」である。このあたり、宿場町を彷彿させる民家が軒を並べている。「本陣跡」「脇本陣跡」の碑と案内板がある。神明宮で、休憩、昼食とする。午後1時10分。このあたりは食堂も売店も少ないので、要注意だ。我々は一軒開いていた売店で昼食になるものを購入した。

  街道を行く

 日本橋から七十四里四町
  (291.0Km)

  白須賀宿
  (静岡県湖西市白須賀)
 火災の延焼を防ぐ「火防け地」のマキ
 旧街道に戻り進むと、「火防け地」としてマキの木が植えられており、火災の延焼を防ぐためとある。白須賀宿は、津波の難を逃れて、宝永5年(1708年)潮見坂の下から坂上に宿場を移動した。しかし、今度は冬期に西風は強くたびたび火災が発生した。しかも大火になることが多いことから、この火事をくい止めるために「火防け地」を設けた。火防の広さは、間口2間(3、6m)奥行4間半(8、2m)で、常緑樹で火に強いマキが10本くらい植えられ、宿内に6箇所の火防があったという。
 三河は土が赤い…  「遠江」と「近江
 旧街道は国道一号線に合流し、進むと、境川となり、遠江と三河の国境となる。境川を渡り、三河に入ったとたん、畑の土の色が赤くなり、驚かされる。「遠江」とは、一国名(現在の静岡県西部)であるが、もともとは海につながる以前の浜名湖(遠淡湖・とおつおうみ)のこと、これに対して「近江」とは、琵琶湖(近淡湖・ちかつおうみ)のことで、いずれも京からみた淡海(湖)をさしている。
 のどかな田園風景のなかを行く
 国道一号線と重なる旧街道を進むと「一里山交差点」となり、すぐ右手に一里山の一里塚跡がある。しばらくは、のどかな田園風景の中、国道一号線をひたすら進む。
  楽しく学べる「二川宿本陣資料館」に、感動 !!
 やがて、旧街道は国道一号線から右手に入り、東海道新幹線のガードをくぐり、JR東海道線の踏切をわたると、二川宿にはいる。すぐに右手に「二川一里塚跡」があり、「脇本陣跡」「西問屋場跡」を過ぎると、「二川宿本陣資料館」がある。午後3時3分。
  本陣は、大名や公家など貴人の泊まる宿で、東海道筋では2箇所しか現存していない。今も当時の姿をそのまま残し江戸時代の情緒が感じとれる。本陣資料館は、「東海道」「二川宿」「本陣」の3つのコーナーがあり、江戸時代の街道や宿場、本陣、大名行列などについて知ることが出来る。なにしろ、江戸時代のたびを楽しく学ぶことが出来る。
  実は、この本陣資料館の素晴らしさに感動し、抹茶をいただいた時間も含めて、1時間30分の時間をかけた。(1分でも早く先に進みたい貴重な時間のなか)『今度はゆっくり一日かけて見に来よう。』と、旅人のMと話した。最近、行った美術館、科学館、資料館等の中で群を抜いて素晴らしい!!
  
 東海道五拾三次 三河国
 二川宿
 
 人口:1468人
 総家数:328軒
 本陣:1軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:38軒

二川 [猿ケ馬場]
 三味線を弾いたり、唄ったりしながら、各地を巡る「ごぜ」の3人を描いている。
 左には、この地の名物「かしわ餅」を売る店が描かれている。
 「二川宿」

二川宿は、五十三次33番目の宿場町で、宿場としては小規模で、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、人口1468人、家数328軒だったという。
  現在でも、2箇所の枡形とともに、当時の町割りをほぼ残し、本陣、旅籠、商家などがかっての宿場町の様子を今に伝えている。


  街道を行く

 日本橋から七十五里二十八町
  (297.5Kmあたり)

  二川宿「本陣資料館]あたり
  (愛知県豊橋市二川町)

  「高札場跡」のそばの燈籠に火を入れている…
 「二川宿本陣資料館」を出て、旧街道を西に進む。「高札場跡」の碑があり、そばに燈籠が立っている。その燈籠に火を入れている方(女性)がいるので聞いてみると「毎日当番の方が、この時間に火を入れています。」とのこと。二川宿の宿場に対する力の入れようがわかる。

  「高札場跡」の碑をすぎると、旧街道は、JR二川駅前に出る。午後4時46分
  今日の「五十三次テクテク旅」は二川駅前までとする。二川宿周辺には宿屋がないので、電車で一駅の豊橋駅まで行き、予約していた駅周辺の宿に泊まる。
  今日は、収穫が多かった。非常に楽しかった。これだから、テクテク旅は止められない。

  第十七日目 2007年3月31日(土)

    前日までの距離    278.2Km(460、968歩)
  今日のコース    舞坂宿〜5.6Km〜新居宿〜7.2Km〜白須賀宿〜6.5Km〜二川宿
  今日の歩行距離  19.3Km(今日の歩数 31、007歩)
  今日の歩行時間  8時間58分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       297.5Km(491、975歩)
     京・三条大橋まで、あと 225.8Km
《参考》
  今日の全所要時間(舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿〜宿)9時間36分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)20.2Km
 熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり  新居宿、関所と露地の関守石
               石、ひとつにも奥深い日本文化の話
  関所を守る役人のことを関守というようだが、実は、茶会を行う露地などにも関守がある。石を使うことから関守石といわれ、その関守石が置かれている場所から先に進んではならないとされている。従って、露地では、自ずから進むべき道が定まってくる。
 関守石とは、径が15〜20センチメートルで底の平らな石を棕櫚縄などで結んだもので、留石、関石とも呼ばれている。関守石は、露地のほか、寺院・神社の結界や公園の立入り禁止などにも使われている。関守石は、『進んではいけない。』という役割のほか、その場のひとつの景もなしており、簡素だが、奥の深い、美しい日本文化のひとつといえる。
  なお、関守石の縄の結び方に十文字掛け(四方から掛ける)と、三方向掛けがあり、夫々、上方風、江戸風であるが、地方へ行ったとき、縄の結び方により、その地方が上方文化の影響を受けているのか、江戸文化のそれかがわかり興味深い。但し昨今では、関守石も販売されており、文化の影響範囲がファジーになってきているのが、残念である。
五十三次のおしゃべり 五十三次のおしゃべり10
浜松宿〜舞坂宿  このページ  二川宿〜吉田宿〜御油宿〜赤坂宿
日記・詳細目次 ベスト3目次 道しるべ目次 歩き方Q&A 旅姿持ち物
出会い 日本橋〜 絶景ポイント 道しるべ1
おしゃべり 〜三条大橋 えっえっここも?
トップページへ
旅人 J&M