熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 舞坂の松並木を歩き、脇本陣の遺構を見学する!
                               … 浜松宿〜舞坂宿
第十六日目 
2007年3月30日(金) 雨のち曇り、晴れ
今日のコース : 浜松宿〜舞坂宿
日記の記録  : 旅人の J  (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今回も見どころ、満載だ!

今回の「五十三次テクテク旅」は、見どころが満載だ! 本陣、脇本陣の遺構(旧東海道の遺構3箇所のうち、今回2箇所ある)や新居関所史料館、二川宿本陣資料館、御油松並木資料館などの資料館の見学、さらに、旧東海道随一といわれる御油の松並木と、楽しみが連続。今回、とりあえずの予定は、2泊3日で、天気がよければ、もう一泊する予定である。

   浜松宿、伝馬町交差点をスタート !

 午前6時2分発の一番のバスで千葉駅へ、千葉駅発、午前6時40分の快速で東京に向かう。東京駅発、午前8時6分の新幹線に乗り、浜松駅には午前9時35分に着いた。
 駅から旧街道である「伝馬町交差点」まで歩き、交差点の角にある「梅屋本陣跡」前で、浜松宿出発の写真を撮り、午前9時57分、舞坂宿に向けてスタートした。

  まち並みに往時の面影は全くなく…

 このあたりは、浜松宿の西のはずれであるが往時の面影は全くなく、「  …跡」という案内板が立っているだけである。成子町交差点で右手に折れると、「浜松弥次喜多ウォークコース」の案内板や「子育て地蔵尊」がある。

  街道を行く

 日本橋から六十八里九町
  (268.0Km)

  菅原町交差点付近
  (静岡県浜松市菅原町)

 「鎧橋」と「若林一里塚跡」

菅原町交差点を斜め左に進み、JR東海道線のガードをくぐり、しばらく進むと「鎧橋」がある。午前10時30分。平安時代、比叡山の僧兵が攻めてきたとき、水田一帯に水を張って鎧を着て戦い、橋を守ったことから「鎧橋」と名付けられたといわれている。すぐ、右手に「若林一里塚跡」がある。

 「高札場跡」や「秋葉常夜灯」

 ところどころに、東海道の松並木が数本残っていたり、「高札場跡」の碑や「秋葉常夜灯」があるなか西進する。JR高塚駅そばのコンビニで、午前11時24分、休憩する。旧街道を進むと「立場」という遠鉄のバス停留所がある。篠原立場のこと。

 すっかり、春の気配のなか、旅人は行く

 さらに進むと「篠原一里塚跡」がある。今朝方、浜松市内はどしゃぶりだったようだが、今は風もなく陽も差し、ソメイヨシノや春の草花が我々旅人を迎えてくれて、すっかり、春の気配であり、気温はむしろ初夏に近い。
 愛宕神社の境内で昼食とする。午後0時15分。

  街道を行く

 日本橋から七十里二十四町
  (277.5Kmあたり)

  舞坂の松並木
  (静岡県浜松市舞阪町浜田)

 舞坂の松並木を歩く

 まもなく、舞坂のりっぱな松並木が見えてくる。江戸時代には並木の延長が約920m、松が1420本あったが、今では約700mに300本のみという。しかし、旧東海道の面影をよく残しており、しばし、江戸の旅人気分で歩いた。松並木の終わったところで、京都から江戸(東京)を目指して歩いている一人旅の男性に出会う。青春18切符で、この春、集中的に歩いているという。楽しい出会いであった。

   「見付石垣」…舞坂宿の東の入口

旧街道は舞坂新町交差点で国道一号線と交差するが、直進すると「見付石垣」「舞坂一里塚跡」がある。見付とは見張り所のことであり、見付石垣は、舞坂宿の東の入口にあたり、石垣で入口を制限するとともに、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視し、治安の維持に当たったという。

 東海道五拾三次 遠江国
 舞坂宿
 
 人口:2475人
 総家数:541軒
 本陣:2軒
 脇本陣:1軒し
 旅籠屋:28

舞 坂 [今切真景]
 かっては舞坂から対岸の新居まで砂州でつながっていて、その上を東海道が通っていたという。しかし、明応7年(1498年)の地震と大津波によって、砂州が切れてしまった。今切といい、江戸時代には、今切の渡しとして船で渡った。 
 「舞坂宿」

舞坂宿は、江戸日本橋より、67里、30番目に位置する宿駅であり、宿駅の規模は中〜小の部に属する。しかし、今切渡船場という交通の要所にあたったため、常に重要な地位を占めていたという。また、文化6年(1809年)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に難儀したとある。火防の山、秋葉信仰の高まりとともに常夜灯が建立されたとあるが、宿場内に「秋葉常夜灯」が多く見られるのはそのためかもしれない。

 「舞坂郷土資料館」

「見付石垣」で、いったん旧街道から分かれて左折し、舞坂図書館に併設されている郷土資料館に向かう。郷土資料館は、遠州灘近く、舞坂中学校の西側にあり、周辺遺跡出土品の展示や舞坂宿の復元模型などがある。また、東海道五十三次の宿場図と街道の標高が表示されており、我々旅人には参考になった。午後1時52分。

 脇本陣を復元し、後世に伝える
  NHKの金曜時代劇「御宿かわせみ」のタイトルのバックに使われ…

 旧街道に戻ると、すぐに「舞坂宿本陣跡」があり、その先に、「舞坂宿脇本陣」がある。午後2時28分。東海道宿場の中では、遺構が残っている唯一の脇本陣である。天保8年(1838年)の建築で脇本陣(茗荷屋)の書院棟が残されていたという。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと書院棟の他、主屋棟、繋ぎ棟を復元して、三棟から成る脇本陣とした。また、書院棟の「下段ニの間」の床の間に掲げられている軸は、NHKの金曜時代劇「御宿かわせみ」のタイトルのバックに使われたという。 

  街道を行く

 日本橋から七十一里三町
  (279.1Kmあたり)

  舞坂宿脇本陣付近
  (静岡県浜松市舞坂町舞坂)
  今切の渡し、南雁木は庶民用

脇本陣を出て、西進すると、浜名湖畔、今切の渡しに出る。現在は漁港になっているが、当時は階段状の桟橋、雁木(がんぎ、がんげ)で3ヶ所あったという。北雁木は大名用、中雁木は武士用、南雁木は庶民用、荷物用であり、今は北雁木のみ残っている。海のような広い今切の渡しが広がっている。

 すこし冷たくなった潮風を受けながら、『江戸時代の旅人はどんな気持ちで渡し船に乗ったのだろうか?多分あまり大きくない船だろうから。』とMと話をした。
  「今切(いまぎれ)の渡し」
 舞坂と新居の間の海を今切(いまぎれ)という。浜名湖はかって閉じた淡水湖だったが、明応7年(1498年)の大地震と大津波によって、湖水と海がつながり、永正7年(1511年)の大津波によってその間が広がり、今切の名が生まれたという。
 江戸から京に上る場合、舞坂の雁木から新居関所前の渡船場まで海上約一里を船で渡る。今切の渡しという。

我々は、歩いて弁天橋を渡り、弁天島に入った。弁天島に今日の宿がある。午後3時44分に到着。今日は歩く距離が短かく、時間の余裕があったので、ゆっくり歩き、ゆっくり見学が出来た。

  第十六日目 2007年3月30日(金)

    前日までの距離    266.7Km(440、400歩)
  今日のコース    浜松宿〜11.5Km〜舞坂宿
  今日の歩行距離  11.5Km(今日の歩数 20、568歩)
  今日の歩行時間  5時間47分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       278.2Km(460、968歩)
     京・三条大橋まで、あと 245.1Km
《参考》
  今日の全所要時間(自宅〜浜松宿〜舞坂宿〜宿)9時間42分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)12.7Km
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