熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
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桑名宿「七里の渡し」で、名物「なが餅」をいただく !!
… 桑名宿〜四日市宿 |
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第二十二日目 |
2007年10月11日(木) 曇り |
今日のコース : 桑名宿〜四日市宿 |
日記の記録 : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M) |
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今回の「五十三次テクテク旅」は、2泊3日で、桑名宿から関宿までの予定である。江戸時代の東海道五十三次ならば、宮宿の「七里の渡し」から桑名宿の「七里の渡し」まで、七里(約28キロメートル)の舟旅となるが、今回は省略である。
今日の予定は、桑名宿から四日市宿まで。このコースの楽しみは、桑名宿「七里の渡し」の風情、東海道を模したという「歴史を語る公園」、それに名物のうまいものでは桑名宿の「安永のなが餅」である。
また、桑名名物といえば、「焼き蛤」であり、江戸時代は庶民でも宿場内の茶店で気軽に食べていたようだが、今では高級料亭で食するとのこと、今回は残念だがあきらめよう。 |
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自宅を午前6時に出て、バスで千葉駅へ、快速で東京へ、新幹線で名古屋へ、さらに関西線に乗り換えて桑名駅に午前10時48分に到着した。東海道もだんだん遠くなり、自宅を出てからすでに5時間近くかかっている。さらに、東海道のスタート地点となる、桑名宿「七里の渡し」までに30分程度時間がかかる。 |
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桑名駅から「七里の渡し」へ |
桑名駅を、午前10時55分スタートする。
「七里の渡し」は、駅から1.5キロメートル程、東の揖斐川の河口にある。ところどころに案内板があり、道はわかりやすく、その道路は清潔で、街灯のデザインなどもよかった。途中、永餅屋老舗で「なが餅」を買った。 |
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東海道五拾三次 伊勢国 |
桑名宿
人口:8848人
総家数:2544軒
本陣:2軒
脇本陣:4軒
旅籠屋:120軒 |
桑名 [七里渡口] |
宮宿から桑名宿への海上七里を船で渡るが、いまちょうど船が到着するところである。
すでに帆は下ろし始め、あとは櫓をこいで、渡し口まで進むのであろう。七里の渡しは、東海道の往来や伊勢参りの人々で賑わってことだろう。
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桑名宿 … 港町でもある
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尾張国宮宿から海上七里を渡しで桑名宿に着くと、伊勢神宮「一の鳥居」が立っており、遷宮ごとに建て替えられているという。
東海道42番目の宿場で、慶長6年(1601年)本多忠勝が入封以来、街は隆盛をきわめた。また、木曽三川の河口の港町としても栄え、現在では商工業都市として栄えている。 |
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伊勢一ノ鳥居を見ながら、名物「なが餅」を食べる ……
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やがて、七里の渡しの渡船場に着くが、揖斐川に高い堤防が築かれていて、昔の面影はない。
最近整備されたと思われる公園に、伊勢一ノ鳥居が建てられてあった。ここは、伊勢神宮への入口でもある、また、伊勢国の東の入り口でもあるのだ。伊勢一ノ鳥居を見ながら、途中で買った桑名宿名物「なが餅」を食べた。まあまあの味である。元気が出た。
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「七里の渡し」から、スタート
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旧街道は、「七里の渡し」から、まっすぐ南に延びている。午前11時30分に出発。渡し跡付近に船だまりが残っていた。舟会所跡、問屋場跡の碑を見て進むと、すぐ左手に「歴史を語る公園」が見えてくる。日本橋、富士山が見え、最後は三条大橋と東海道五十三次を模した公園である。
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歴史を語る公園(左から、日本橋、富士山、三条大橋) |
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街道を行く
日本橋から101里19町
(398.7Kmあたり)
歴史を語る公園付近
(三重県桑名市片町)
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復元された火の見櫓、… 「矢田立場」
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公園を過ぎ、突きあたりを右に曲がり、京町公園の角を左に曲がる。勤労青少年ホームの角で右折左折を繰り返し、進む。伝馬町を過ぎて、日進小学校前交差点を右に曲がる。ほどなく。復元された火の見櫓があり、そのあたりが「矢田立場」のあったところ。午後0時16分。その角を左に曲がるとあとはひたすら南下する。
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街道を行く
日本橋から101里32町
(400.1Kmあたり)
矢田町付近
(三重県桑名市矢田町)
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木材商から寄進 … 「伊勢両宮常夜灯」
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やがて、右手に伊勢両宮常夜灯が見える。案内板には「この常夜灯は、文政元年(1818年)」に東海道の灯標として、伊勢神宮への祈願を込め、桑名・岐阜の木材商によって寄進されてものとある。また、この場所・安永は、町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などでにぎわった場所であり、この常夜灯は、そのころをしのばせる遺物」とあった。
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町屋橋、一里塚の碑を過ぎ… |
すぐに町屋川に突き当たり、いったん、国道1号線の町屋橋を渡り、また、旧街道に戻る。最近建てられた「一里塚跡」の碑がある。 |
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徳川家ゆかりの菩提寺 … 「淨泉坊」 |
近鉄名古屋線の踏切を渡り、朝日町役場を過ぎると、右手に「浄泉坊」がある。資料によれば、「この淨泉坊は、徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三つ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名は、この寺の門の前では。駕籠からおりて一礼したと伝えられる。」とあった。
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なぜか、桜の花が咲いて … |
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さらに旧街道を進むと、なぜが桜が咲いていた。自然観察指導員でもある旅人のMは、『小彼岸桜かな、台風などで葉が落ちて葉がない場合、暖かくなると花が咲いてしまう。今年は全国的にその傾向があるらしい。」とのこと。
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「富田一里塚跡」 |
伊勢湾岸自動車道の高架をくぐり、朝明橋を渡る。三岐鉄道のガード、JR関西線の踏切を渡ると、旧街道は左に折れ、三岐鉄道、近鉄のガードをくぐると「富田一里塚跡」の碑がある。
午後2時29分。 |
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道しるべ (桑名宿から四日市宿までの道しるべ)
… このおかげで迷わずに安心して歩けました。
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1本残った「かわらづの松」樹齢200年 |
旧街道は、国道1号線に並行して進むが、羽津町に入ると「かわらづの松」がある。江戸時代、このあたりは松並木が続いていたが、戦後、道路の拡幅、松くい虫の被害などで、姿を消し、1本のみになってしまったという。
「かわらづ」とは、地名(川原津)であり、この松は樹齢200年といわれている。 |
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街道を行く
日本橋から105里9町
(413.3Kmあたり)
海蔵橋付近
(三重県四日市市浜一色町) |
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旧街道が国道一号線に合流し、海蔵橋を渡る。午後4時4分。
渡り終え、左手に折れて、三滝橋を渡る。四日市宿である。
午後4時35分。 |
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東海道五拾三次 伊勢国 |
四日市宿
人口:7114人
総家数:1811軒
本陣:2軒
脇本陣:1軒
旅籠屋:98軒 |
四日市 [三重川] |
かなりの強風で三重川に架かる橋を前かがみで必死に耐える旅人と菅笠をあわてて追いかけている旅人の二つの対比が面白い。
左上に帆柱が見えるが、宮宿「十里の渡し」の四日市湊であろう。
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四日市宿 … 交通の要衝の地 |
四日市宿は、東海道43番目の宿場。四日市は、市と湊で発達したところで、16世紀頃にはすでに毎月4日、14日、24日と4のつく日に、市が立ったので、それが町名となった。
戦後は、区画整理事業や工業化、また、海陸交通の要衝の地であったことから、近代商工業都市として発展し続けている。 |
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第二十二日目 2007年10月11日(木)
前日(宮宿)までの距離 371.4Km(614、359歩)
七里の渡し 27.0Km
今日のコース 桑名宿〜16.4Km〜四日市宿
今日の歩行距離 16.4Km(今日の歩数 27、658歩)
今日の歩行時間 5時間5分(休憩、昼食、見学を含む)
日本橋から 414.8Km(642、017歩)
京・三条大橋まで、あと 108.5Km
《参考》
今日の全所要時間(自宅〜桑名宿〜四日市宿〜宿)10時間35分
今日の全歩行距離(万歩計換算)20.5Km |
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熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
五十三次のおしゃべり10 「折り鶴」と「折り紙つき」
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○「折り鶴」は、江戸時代、桑名で考案
ある資料によると、折り鶴は、江戸時代、桑名で考案されたという。
折り紙は、もともと宗教儀礼に付随して出来たもので、紙は清浄でケガレを祓うものであるということから、様々な形に折って祭具として用いられてきた。 |
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また、鶴は長寿の象徴であり、折り鶴を一つ折るごとに寿命が延びると考えられ、千羽鶴を折ると願いがかなうという風習が江戸時代に生まれた。千羽鶴は、現代でも病人の快癒祈願やスポーツの必勝祈願に用いられている。
なお、千羽鶴の千という数字は、めでたいものを数多く重ねて、よりめでたさを得る、よりご利益が大きい、と考えられている。また、ある願いをかなえるために、千の寺社を参拝するという千社詣は、江戸時代に流行したといわれている。
○「折り紙つき」
品質や技術が確実と保証付きであることを「折り紙つき」という。
奉書紙(ほうしょし)という最上質の和紙を横半分二つ折りにした紙(文書)のことで、江戸時代、本阿弥家の刀剣の鑑定書が有名である。「折り紙つき」の刀剣は、「折り紙太刀」ともよばれ、それがひろまり、美術品や刀剣以外に、人物などにも使われるようになったという。
「折り紙つき」の折り紙は、千羽鶴の折り紙とは、ちょっと意味が違う……ヨネ。
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知立宿〜鳴海宿〜宮宿 このページ 四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿 |
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旅人 J&M |
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