熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 有松の絞り染め と 七里の渡しの風情 !!
                         … 知立宿〜鳴海宿〜宮宿
第二十一日目 
2007年5月13日(日) 曇りのち快晴
今日のコース : 知立宿〜鳴海宿〜宮宿
日記の記録  : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今日の「五十三次テクテク旅」の楽しみのポイントは、三つある。
  順に、知立宿名物の「あんまき」、有松の家並みと絞り染め、七里の渡しの風情、と、盛りだくさんである。
  
午前7時56分、知立宿のホテルから、スタート。

  地元の方から「おはよう。」と声をかけられる。

  旧街道を少し外れ、ウナギ屋の駐車場にある「知鯉鮒宿本陣跡」の碑の前で、知立宿出発の写真を撮る。旧街道に戻り、西進し、T字路を右折すると西町公園があり、「知立城跡」の碑がある。
  写真を撮っていると、地元の方から「おはよう。」と声をかけられる。どうやら、我々は、東海道を歩いている格好に見えるらしい。この知立城(跡)の説明から我々の旅のスケジュールの心配までしてくれながら、話しかけられ、旅人には、うれしいさわやかな出発となる。

  東海道・知立名物「あんまき」 おいしかった。

すぐ、了運寺の前を左折すると、知立神社への参道の入り口があり、その角に知立名物「あんまき」の元祖という「小松屋本家」がある。「あんまき」は、黒飴や白飴がたっぷり入った、昔ながらの手焼きの菓子である。
 午前8時15分というのに、店はすでに開いている。小松屋本家の説明によると焼き菓子の「二つ折り」を焼いていたが、その中に餡を入れてみたところ、東海道を往来する旅人に評判がよく、百年以上の長きにわたり親しまれているという。
  NHK「街道テクテク旅」の旅人岩本輝雄氏が「あんまき」づくりに挑戦し、飴を入れすぎた、とあった。この後、「あんまき」を河原で食べたがおいしかった。

  「東海道を歩いていると、体重も減りダイエットになるでしょう。」とよく言われるが、とんでもない、逆に体重は1〜2キロほど増えている。それもそのはず、朝昼晩三食食べた上に名物もしっかりいただくのだから…。 

  逢妻橋を渡り、国道1号線に合流し…

  旧街道は、国道155号線の下の地下道となり、進むと右手に「総持寺」がある。逢妻川の堤に出て、左折右折を繰り返してから、逢妻橋を渡ると国道1号線に合流する。

  自然観察好きの旅人Mは、路傍の植物に ……

 このあと、国道1号線の途中、ガソリンスタンド手前の細い道を右手に入るところを直進してしまい、工業団地入り口交差点を右折して、旧街道を進む。自然観察好きの旅人Mは、時々止まって路傍の植物に目をやる。旧街道は、国道1号線と交差し、今度は国道の西側を通る。再度、国道を橋の下で横切ると境川に出る。境川は三河と尾張の国境であり、境橋を渡って尾張の国へと進む。

  街道を行く

 日本橋から九十里十町
  (354.4Kmあたり)

  刈谷市今岡町今岡町交差点付近
  (愛知県刈谷市今岡町)
  国指定の「阿野一里塚」史跡

  旧街道は、伊勢湾岸自動車道の高架下を通り、国道1号線と合流する。再度、左手に入ると、街道の両側に塚が残っていて、国指定の史跡となっている「阿野一里塚」がある。ちょうど、子供たちが草取りや清掃などをしていて、軽く声をかけて写真を撮らせてもらった。

  東海道の松並木の一本
 旧街道を西進すると、大きな松が一本立っており、「東海道の松並木」の看板が立っている。「この松は徳川家康が東海道を開いて植えた松並木の一本で市内では数少ない名残りの一本である。豊明市」とあった。
  「西雲寺」で休憩 午前10時11分
 名鉄前後駅近くの「西雲寺」で休憩した。午前10時11分。  スタートして2時間以上、万歩計もT万歩以上を指している。お菓子をつまみ、喉をうるおすと急に元気が出てくる。
 旧街道を進むと右手に「常夜灯」や「寂応庵跡」の碑がある。国道1号線と合流し、並行していた名鉄のガードをくぐると、旧街道は左に分かれて進むが、再び合流する。大将ヶ根交差点で、ふたたび、国道と分かれて右斜めに進むと、有松絞りの産地として栄えた、間の宿「有松」はもうすぐである。

  街道を行く

 日本橋から九十一里二十八町
  (360.4Kmあたり)

  名鉄名古屋本線中京競馬場前駅付近
  国道一号線から旧街道は左へ
  (愛知県豊明市栄町)
  有松は、古い商家の残る家並みが続き…
 名鉄名古屋本線有松駅に向かう道と分かれて、左に進むと、古い商家の残る家並みが続き、からくり人形を乗せた山車がみられる「有松山車会館」がある。白い土蔵づくりであり、名古屋市文化財指定とある。(からくり人形が文化財指定)
  有松絞りの伝統の美と技が…

やがて、左手に有松絞りの歴史資料や実物見本を展示、解説している「有松鳴海絞会館」がある。午前11時8分に到着。
 「有松鳴海絞会館」は、1階が絞りのネクタイ、ハンカチなどの売り場、2階は、絞り技法の実地公開、歴史資料の展示、紹介ビデオなどがあり、伝統の美と技を見せてくれる。江戸時代、旅人が郷里への土産にと競って手拭い、浴衣を買い求め、有松絞は、街道一の名産品になったという。

  塗籠造り、なまこ壁の町屋が並び、…  往時の賑わいが目に浮かぶ!
  「有松鳴海絞会館」あたりから、豪華なたたずまいの家並みが続いている旧街道を西進する。大火のあった教訓から、塗籠造り、なまこ壁の防火建築の町屋が並び、往時の賑わいが目に浮かぶ。 
  鳴海宿の東の入り口に …  大きくて華麗な常夜灯 !

名鉄の踏切を渡り、手越川を越え、しばらく進むと、平部北交差点の角に大きくて華麗な常夜灯が立っている。
 ここが鳴海宿の東の入口にあたるという。この常夜灯は、文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目安や宿場内並びに宿の安全と火災厄除けなどを秋葉社(火防神・ひぶせがみ)に祈願したとある。
 なぜか、往時の面影をしのんだ気がした。

  遺構が全く残っていない、鳴海宿
  右手に金剛寺を見て、扇川にかかる中島橋を渡ると「鳴海宿」に入る。
  「鳴海宿」は、宿場としての遺構は全くといっていいほど残っていない。かろうじて「鳴海宿本陣跡」の案内板が分かりにくい場所にあるのみである。ここを[鳴海宿の到着]として写真を撮った。午後0時33分。
  向かいに、「鳴海宿食い飲み問屋場」なる飲み屋があった。
 
 東海道五拾三次 尾張国
 鳴海宿
 
 人口:3643人
 総家数:847軒
 本陣:1軒
 脇本陣:2軒
 旅籠屋:68軒

鳴海 [名物有松絞]
 名物の有松絞りを売る店である。
 入母屋造りで、2階には白の塗籠の連子窓が付いている。店の前を徒歩や駕籠で女性たちが通って行く。
 有松絞は、浴衣、手拭いなどに使われ、街道一の名物としてにぎわったという。
 旧街道を道なりに進むと北上し、「三皿交差点」に出る。幸いレストランがあったので、昼食とする。午後0時50分
  鳴海宿の西の入り口にも …  立派な常夜灯 !

「三皿交差点」に戻り、旧街道を北上すると、右手に立派な常夜灯が立っている。
 丹下町常夜灯で鳴海宿の西の入口にあたるという。表に「秋葉大権現」と彫られており、寛政4年(1792年)に、篤志家の寄進により設置されたものとある。平部の常夜灯とともに、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重であると付け加えられてあった。

 本当に立派な 「笠寺一里塚」
  旧街道は、名古屋第二環状線を三王山交差点で横切ると、緩い上り坂となり、天白橋となる。午後1時55分
  赤坪町交差点を過ぎると右手の本当に立派な「笠寺一里塚」が見える。
  日本橋より、88番目の一里塚という。エノキの古木が塚の上に立っているというより、高さ約3m、直径約10mの塚、そのものがエノキの根となっている。
  一里塚は、旅人の行程の目安となり、また、その木陰を休憩場所にしたとあるが、大いに納得、江戸時代の旅風景が想像できた。
高さ約3m、直径約10m
「笠寺一里塚」
 観音に笠をかぶせた娘が   玉照姫に !

「笠寺一里塚」を過ぎ、緩やかなのぼりを進むと右手に笠寺観音(笠覆寺)がある。
 雨ざらしになっていた観音に笠をかぶせた娘が、のちに都の藤原兼平卿の妻「玉照姫」となり、寺を再建したことから笠覆寺の名がついたという。

  江戸時代は、風光明媚な景勝地 !
  旧街道は、名鉄の踏切を越え、「東海道 是より北よびつき」の石碑を見て右折する。塩付街道との交差点を超えたところに長楽寺がり、境内に「宿駅制度制定四百年記念碑」がある。それによれば、江戸時代、東海道の西側は、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残しているという。また、ここでつくられた塩は、塩付街道を通じて、小牧、信州におくられていたという。
  いずれにしても、松林を遠く望む風光明媚な景勝地として有名であったとある。
  磯浜「あゆち潟」が、「愛知」地名の起源に !

旧街道を進み、鎌倉街道との分岐を過ぎると熊野三社があり、その境内にも、「宿駅制度制定四百年記念碑」がある。それには、鎌倉街道と交差している西側の磯浜は、「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったといわれているとあった。

 「山崎の長坂」を下って …

旧街道は、「山崎の長坂」といわれる坂を下り、山崎橋を渡って左折する。
  松田橋の角にある「東の宮神社」で一休みする。
 午後3時2分


  街道を行く

 日本橋から九十四里四町
  (369.5Kmあたり)

  松田橋交差点付近
  (名古屋高速大高線との交差点)
  (名古屋市瑞穂区明前町)
 「伝馬町」という町名が残るのみ。
 松田橋の歩道橋を渡って、国道一号線に合流する。内浜交差点から左手の国道に進み、JR東海道本線の踏切、熱田橋、名鉄のガードをくぐると、宮宿の中心地、伝馬町である。しかし、往時の面影は全くなく、ところどころに史跡の案内板があることと、「伝馬町」という町名があるのみである。
 東海道五拾三次 尾張国
 宮宿
 
 人口:10342人
 総家数:2924軒
 本陣:2軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:248軒

宮 [熱田神事]
 毎年5月5日に近隣の村人たちが馬を熱田神宮へ引いて行った奉納、「馬の塔(うまのとう)」という行事のようである。
 また、熱田神宮には、日本武尊が使った草薙の剣(くさなぎのつるぎ)が奉祀されている。
  「東海道道標」を左折し、七里の渡し場跡へ

伝馬町の商店街を進むと、突き当りがT字路となっており、「東海道道標」がある。左折すると「宮の渡し公園」七里の渡し場跡であり、そこからは海路となる。回路を嫌い、陸路で京に上る場合は、「東海道道標」から右折し、佐屋街道で桑名に向かうことになる。
 


  街道を行く

 日本橋から九十四里十九町
  (371.2Kmあたり)

  突き当りが七里の渡し場跡
  (名古屋市熱田区内田町)
  七里の渡し場跡、「時の鐘」に往時の風情が …

「宮の渡し公園」七里の渡し場跡に午後3時47分到着。
 常夜灯と蔵福寺の鐘を復元した「時の鐘」があり、往時のたたずまいのある風情に観光客も多い。東海道は、ここから桑名まで海路で七里、約二十七キロの船旅である。 潮によっては、十里にもなったという。

 日本橋から、宮宿「七里の渡し場跡」まで、約370Km、21日間かかったが、よく歩いてきたものだと思う。しかも、途中、名城だ!、東海道の貴重な資料がある博物館だ!、往時の面影のある家並みだ!、といっては、寄り道し、さらに、名物を食し、出会いを楽しんでおしゃべりをしてきた。それは、膨大なメモ帳と約6500枚の写真が物語っている。
 その体験を、旅人J&M(我々のこと)は単純に喜んだ。 

 次回の「五十三次テクテク歩き」は、夏は暑いので秋になりそうだ。
 伝馬町駅まで歩き、地下鉄で名古屋に向かい、新幹線で東京へ、千葉市内の自宅に着いたのは、午後9時55分であった。お疲れ様。
  第二十一日目 2007年5月13日(日)

    前日までの距離    351.7Km(581、883歩)
  今日のコース    知立宿〜12.4Km〜鳴海宿〜7.3Km〜宮宿
  今日の歩行距離  19.7Km(今日の歩数 32、476歩)
  今日の歩行時間  7時間51分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       371.4Km(614,359歩)
     京・三条大橋まで、あと 151.9Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜知立宿〜鳴海宿〜宮宿〜自宅)11時間59分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)22.1Km
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