熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
   日永の追分…
     右は東海道、左は伊勢参宮道 !!
                         … 四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿
第二十三日目 
2007年10月12日(金) 晴れ
今日のコース : 四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿
日記の記録  : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今回のコースは、四日市宿から石薬師宿を経て庄野宿までの15.1Kmである。どちらかというと、つなぎのコースかもしれないが、日永の追分の風情、日本武尊が剣を杖がわりにして越えたという故事のある杖衝坂、杖衝坂名物の「采女の杖衝」が楽しみ。

 旧街道、今はアーケード

  宿を出て、近くの諏訪公園で準備体操をしてから、四日市宿スタートの写真を撮った。午前8時30分。国道一号線に出て右へ、すぐに右手の旧街道に入る。諏訪神社を右に見て、アーケードの中を行く。旧街道は、今はアーケードだ。そのアーケードが途切れると、近鉄四日市市駅とJR四日市駅を結ぶ広い道路に出る。さらに旧街道を進むが、宿内には江戸時代の本陣、脇本陣、旅籠等は全く残っていない。一部旧家の残る浜田の家並みを進む。


  街道を行く

 日本橋から105里29町
  (415.7Kmあたり)

  旧家の残る道  
  (三重県四日市市南浜田町)

 興正寺で一休み、「日永一里塚跡」の標柱を見逃し…

  近鉄名古屋線のガードをくぐり、落合橋、鹿化橋を渡り、興正寺で一休みする。さらに、天白橋を渡ると日永神社がある。その先、右に「日永一里塚跡」の標柱があるはずであったが見のがしてしまった。

  東海道名残りの一本松

まもなく、左に「東海道名残りの一本松」が見える。江戸時代、このあたりは、両側に低い土手が築かれ、その上が松並木になっていたという。その名残りの一本の松だという。

 「日永の追分」 右は東海道、左は伊勢参宮道

  一本松を過ぎ、近鉄泊駅の先で国道一号線に合流すると「日永の追分」である。右手が東海道、左手が伊勢参宮道で、その分岐点には、小さな緑地があり、大鳥居、石の道標、常夜灯などが保存されていた。
  また、神水が湧くとのことで、大勢の人が水をもらいに並んで待っており、旅人のJ&M (我々二人のこと)は、本当にびっくりした。午前9時20分。


  街道を行く

 日本橋から106里34町
  (419.9Kmあたり)

  小古曽の住宅地内
  (三重県四日市市小古曽)

旧街道は、「日永の追分」を右に進み、近鉄内部線の終着駅、内部駅の前を過ぎると、内部橋を渡る。このあたりが采女(うねめ)町という地名である。采女というのは、宮中で天皇の食事のお世話をする女官のことである。

  采女(うねめ)の地名の 由来 !

 采女の地名の由来は、地元の郷土研究会の資料によると、
 「その昔、女官には、地方の豪族から未婚の美しい女性がつかわされていたという。天皇が、欅の下で、宴を催された時、伊勢国の三重の采女が捧げ持ってきた盃に欅の葉が落ち、采女は、それを知らずに天皇に差し上げた。天皇は怒って切ろうとしたが、采女は非礼を詫び、歌を詠んだという。すると、天皇は罪を許し、多くの品物を与え、彼女の故郷の地を「采女」と呼ぶことが許された。」という。

 名物「采女の杖衝」は、美味しかった!

内部橋を渡ると、旧街道は左に入る。
 名物「采女の杖衝」を売っている菊屋本店を探すために、最初の交差点を右にとり、国道一号線に出ると、偶然にもその角が菊屋本店であった。「采女の杖衝」は、粒餡の中に求肥を入れた最中で、おいしかった。

 伝説の急な坂 … 「杖衝坂」 !

  旧街道に戻り、集落を過ぎると杖衝坂の登り口となる。日本武尊は、伊吹山の賊を打ち、病に倒れ、剣の杖にすがりながら、この坂を越えたという故事がある伝説の急な坂である。坂の途中に「杖衝坂」の石碑と「徒歩ならば、杖つき坂を落馬かな」の芭蕉の句碑が立っている。坂の上には「血塚社」がある。日本武尊が怪我で血を流し、流れ出た地を封じたところだという。

  「采女一里塚跡」を右に見て…  

旧街道は、国道一号線と合流し、途中、レストランに入り、昼食とする。午後0時15分。
 
国道一号線を進むと、右手に「采女一里塚跡」の石碑がある。


  街道を行く

 日本橋から107里29町
  (423.4Kmあたり)

  國分町交差点
  (三重県鈴鹿市國分町)

  ほどなく、国道一号線と左に分かれ、再度、石薬師町北交差点で国道一号線を横切るとやがて、石薬師宿となる。石薬師宿に到着、午後1時38分。

 東海道五拾三次 伊勢国
石薬師宿
 
 人口:991人
 総家数:241軒
 本陣:3軒
 脇本陣:0軒
 旅籠屋:15軒

石薬師 [石薬師寺]
 集落の南に石薬師寺があった。元和元年(1616年)宿場が設けられた際、この寺の名前をとって、宿場名を石薬師宿とした。
 農村的色彩の濃い宿場で、絵は、田の中の道を、二人の農民が、重たそうなものを運んでいる。

 「信綱かるた」の三十四首の歌が掲示され …

 「石薬師宿」の石碑とならんで、最近、立てられた「石薬師宿 信綱かるた道」の案内板がある。「信綱かるた」から選んだ三十四首の歌がここから南へ1.8キロメートルの間に掲示されているとあった。

 「小沢本陣」の古い宿帳には、浅野内匠頭や大岡越前守の名前が …

宿場内の途中に、往時の威風ただよう旧家がある。
 小沢本陣の跡である。小沢本陣には、古い宿帳が残されており、元禄十年に播磨赤穂城主の浅野内匠頭の名や、伊勢山田奉行だった頃の大岡越前守の名があるそうだ。

 「卯の花、匂う垣根に…」の佐佐木信綱の生家・資料館による!

さらに進むと、石薬師小学校の隣に佐佐木信綱の生家と資料館がある。休憩も兼ねて立ち寄った。午後2時15分。佐佐木信綱は、「卯の花、匂う垣根に…」の童謡「夏は来ぬ」の作詞で有名な歌人であり、国文学者でもある。

  「くたびれた やつが見つける 一里塚」に 大笑い!!
 旧街道は下りとなり、左手に「石薬師一里塚跡」の石碑と案内板がある。案内板の最後に、江戸時代の川柳として「くたびれた、やつが見つける、一里塚」とあり、旅人J&M(我々二人のこと)は、大笑いをした。何しろ、疲れてくると「一里塚もうすぐだよネー」と話題にしていたからだ。
 旧街道は蒲川橋を渡り、田んぼの中を進む。JR関西線、国道一号線と交差しながら、また、国道一号線と合流し、進む。
 「庄野資料館」は、お休み …
 庄野町北交差点で右に折れ、すぐに左に曲がると、そこから庄野宿である。午後3時29分。旧小林家の建物が「庄野宿資料館」となっているので、楽しみにしていたが休館日であった。
 庄野宿に到着 !
  庄野の宿場は、往時と道幅もほとんど変わっておらず、また、連子格子の建物も残っており、小さな宿場としての面影が残っている。街道筋に「本陣跡」の石柱、「会所跡」の案内板が立っていた。 午後3時49分、庄野宿に到着。
 東海道五拾三次 伊勢国
 庄野宿
 
 人口:855人
 総家数:211軒
 本陣:1軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:15軒

庄野 [白雨]
 「白雨」とは、にわか雨とか、夕立ちのことである。
 雨が急に降り出し、雨宿りを求めてあわてて走り出した人々を描いている。
 庄野宿 江戸時代の何かを味わう !

  庄野宿は、東海道54番目の宿であるが、五十三次の中で最も遅い寛永元年(1624年)頃、宿として設けられた。鈴鹿川、国道一号線とJR関西線に挟まれて、ひっそりと取り残された感じがする。江戸時代もそれほど賑わいがあったわけではないらしい。現在、車の通行もそれほどなく、その分、江戸時代の何かを味わうことができる。

  今日の宿は、近鉄鈴鹿線の平田町駅付近で、庄野宿から直線距離でも2Km近くあり、もうひと頑張りだ。『今日は、一日太陽が出ていたので、その分疲れた。』と、Mは言っていた。途中、買い物をし、回り道をしたので、さらに5000歩ほど歩いた。
  宿到着は、
午後5時10分。

  第二十三日目 2007年10月12日(金)

    前日までの距離    414.8Km(642、017歩)
  今日のコース    四日市宿〜11.1Km〜石薬師宿〜4.0Km〜庄野宿
  今日の歩行距離  15.1Km(今日の歩数 25、936歩)
  今日の歩行時間  7時間19分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       429.9Km(667、953歩)
     京・三条大橋まで、あと  93.4Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿〜宿)8時間40分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)18.9Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり11 日本人の6人にひとりが、お伊勢参り、
               ブームを支えた助け合う温かい江戸の社会
日永の追分
右は東海道
左は伊勢参宮道

 ○ 日永の追分にて、江戸の旅の話
 
旅人のM:江戸時代後期に、お伊勢参りがブームになったようだけど、この
    「日永の追分」を左に行ったんでしょう

 旅人のJ:そう、伊勢は左だね。江戸文化や江戸風俗に詳しくて、NHKの
    「コメディお江戸でござる」の杉浦日向子さんによると、文政13年
    (1830年)の一年間だけで500万人の人がお伊勢さんに行った。
    当時の日本人の6人に一人が行った計算になるらしい。信じられない
    ね。その他の年でも年間60万人らしい。
 
M:江戸時代の旅は、旅支度やその費用など、大変だったんでしょう。
 J:一生に一度、お伊勢参りに行くのが夢だった時代だから…。
    仲間で講をつくりお金がある程度たまったら順番に伊勢に行っていた
    ようだ。講には、ツアーコンダクターなる人がいて、宿の手配から、
    荷物運搬の手配、観光案内までやったらしい。
 
M:お金のない人でも、健康に自信のある人はアルバイトをしながらでも
    行ったらしいわね。

 J:杉浦さんの話だと、若い男性の場合、旅籠に着くなりお風呂の水を汲み
    ましょうで、宿代半分、女性の場合、お膳を運びましょうといった
    具合だったらしい。
 
M:江戸時代の庶民は、たくましいわね。
 J:お互い助け合って生きていたし、連帯感もすごかったらしい。
    ある作家が『私が江戸ものを書いているのは、そういう温かい人間の
    暮らす社会があり、助け合って生きていた時代があったということを
    伝えたくて書いている。』と言っていた。
 
M:江戸時代は、現在の私たちが考えている以上に、温かいまちだったし、
    東海道筋もきっとそうだったのでしょうね。

 江戸時代の旅を支えていたのは、すでにこのころから、日本人は喜捨する国民であったということでしょうか。
                (愛読書「杉浦日向子の江戸塾」参照)
 江戸風俗研究家の杉浦日向子さんは、2005年、46歳の若さで、残念ながらお亡くなりになりました。きっと、いまごろは、江戸の町で、近所の人たちと富士を眺めながら、お蕎麦を味わっているのではないでしょうか。しかも、お酒をちょっといただきながら ……。
五十三次のおしゃべり10 五十三次のおしゃべり12
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり12  どうして宿場の数は、五十三なの?
                 数が教えを説く……という話
 
 ○ どうして宿場の数は53に決まったの?

 庄野宿は、東海道の中で最も遅い、寛永元年(1624年)頃、宿場として設けられ、これで東海道は53の宿場となった。宿場の機能は他の宿と同じだが、その区間は600メートルと短く、また、隣の石薬師宿まで25町(約3Km)と、宿場間の距離も東海道で2番目に短い。
  ………………
 Q:五十三次の五十三とは何か?
 A:日本橋から三条大橋までの人馬を引き継ぐ宿場の数でしょう!
  ………………
 それも回答のひとつ。私が質問しているのは、なぜ「五十三」なのかということ。答は「華厳経」に五十三人の賢人に出会うと『菩薩』になれるという教えがあり、その賢人の数のこと。
 
53番目に設けられた宿場、庄野宿は、五十三人の賢人に合わせて、53の宿場が必要なため、あえて、つくったのではないかと推察されるのである。
 まあ、正解は、家康に聞いてみるしかない …… ネ。
53番目に成立…庄野宿
龍安寺の石庭には 
15個の石が配され…
 ○ 龍安寺の15個の石 !!
 
「数が教えを説く」となると、京都・龍安寺で教わった石庭の15個の石を思い出す。
 龍安寺の方丈庭園は、三方を土塀に囲まれた平庭式の枯山水庭園で、白砂の中に15個の石が配されている。しかし、どの角度から見ても石と石が重なり合って14個しか見えないという。
 資料によれば、古くから、中国では、15を満(悟り)とする考え方があるという。つまり、15個ある石が14個しか見えないということは、現状に(14個)に満足することなく、さらに先にある悟り(15個)を目指して絶えざる修行と努力を怠ってはならない、と説いているという。
 ちなみに、十五夜を満月というのは(あるいは、満月を十五夜というのは)このことに由来している。       (愛読書「京の庭NAVI」参照)
五十三次のおしゃべり11 五十三次のおしゃべり13
桑名宿〜四日市宿  このページ  庄野宿〜亀山宿〜関宿
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