熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
   東海道一 美しい「関宿」の家並みを歩く !!
                              … 庄野宿〜亀山宿〜関宿
第二十四日目 
2007年10月13日(土) 晴れ
今日のコース : 庄野宿〜亀山宿〜関宿
日記の記録  : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今日のコースは、庄野宿から亀山宿を経由し、関宿までの旅。見どころは何といっても東海道一美しいといわれている「関宿の家並み」だ。明治時代中頃までの建物が半数以上を占め、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。また、亀山宿の亀山城では、堀や石垣、多門櫓が残っていて、楽しみだ。さらに関の名物といえば、こし餡を求肥で包み、和三盆をまぶした「関の戸」、これも茶請けとして楽しみだ。

  往時のままの旧街道を行く ……

  午前7時25分、宿を出て鈴鹿川を渡り、庄野宿に向かう。「庄野宿本陣前」の石碑の前で庄野宿スタートの写真を撮る。午前7時46分。
 往時のままの旧街道を川俣神社や「郷会所跡」の説明文を見ながら進む。

  田園地帯のなかの旧街道をゆっくり進む

  旧街道は国道一号線に合流し、立体交差の下を通り、左に折れる。小さな集落の中の旧街道をゆっくり進むと何かホッとする。

  「女人堤防」に女の覚悟が ……

 やがて「従是東神戸領」の碑と「女人堤防」の碑が並んで立っている。
  「女人堤防」とは、禁止されていた堤防の工事を打ち首覚悟で女だけで夜間ひそかに行った。案の定、藩に知られ、女たちは刑場に送られたが、赦免の早馬で救われたという、標石である。

  「中富田一里塚跡」の碑、 川俣神社で一休み ……


旧街道を西進すると、左手に川俣神社があり、「中富田一里塚跡」の碑がある。庄野には川俣神社が三つあるという。一里塚跡の碑から500メートルほど先に三つ目の川俣神社がある。

  午前8時35分。そこで休憩、落ち着いた雰囲気だった。

  安楽川に架かる和泉橋を渡っていると、河原では40〜50人がゲートボールを楽しんでいた。また、少し高い棒の先にとまっていたモズが、長い尾を振りながらキイキイキチキチと鋭い声で鳴きながら飛び立っていった。


  街道を行く

 日本橋から110里11町
  (433.2Kmあたり)

   (三重県鈴鹿市小田町)

  田園地帯を行く ……

  旧街道は土手の上を進み、JR関西線の踏切を渡り、左に折れると、井田川駅前に出る。午前9時8分。さらに、JR関西線沿いに進み、国道一号線を歩道橋で渡ると田園地帯に入っていく。

  元禄3年(1690年)に建立された「和田の道標」

  旧街道は、しばらくは、JR線、国道一号線と平行に進むが、亀山バイパスの高架をくぐると「和田の道標」がある。元禄3年(1690年)に、建立されたらしい。

  復元された「和田一里塚」

  「和田の道標」の先を右に折れて、石上寺を右に見ながら長いだらだら坂を登る。登りきったところに、最近復元された「和田一里塚」がある。小さな公園になっており、木陰やベンチもあり、少し長い休憩をとった。
  午前10時8分。

  宿内の家並みには、「だいくや」「なべや」などの屋号が ……

  旧街道は栄町に入り、左手にローソク工場を見て進むと、「従是西亀山宿」の標柱がある。亀山は、ローソク出荷の全国シェアの四割を占めるという。宿内の家並みには、「こんにゃくや」「たちばなや」「だいくや」「なべや」「かみゆいや」といった職人や店屋の屋号が掲げられていた。
  やがて、旧街道は突きあたり、広い道に出ると「江戸口門跡」の標柱がある。ここが亀山城下の東の入り口で、堀と土塀で囲まれたなかに門と番所を構え、通行人を監視していたという。


  街道を行く

 日本橋から111里14町
  (438.4Kmあたり)

  東町江戸口門跡
  (三重県亀山市本町)
  東海道を歩いているのですか?

写真を撮っていると、『東海道を歩いているのですか?』と、若い男性が声をかけてくる。『そうです。京・三条大橋に向かって歩いています。』と答えると、その方、Fさんは、(今日は仕事の帰り)『実は、私も東海道を日本橋に向かって歩いています。現在、新居宿まで行きました。』という。それから、Fさんと旅人J&M(我々二人)の三人は、しばし、楽しい五十三次テクテク談義となった。(「五十三次の出会い 9」 を見てね。)

  「左江戸、右西京」の道標あり ……

  「江戸口門跡」も交差点を右折すると、「脇本陣跡」「本陣跡」があり、「高札場跡」で左折すると、「西口問屋場跡」の標柱がある。
  問屋場とは、宿場において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務を行う施設で、宿役人が請け負っている。
  ここで注目すべきは、亀山宿は、東町の樋口家と西町の若林家が定期的に交替しながら問屋業務を担当していたことである。(「五十三次のおしゃべり13」を見てね。)

 東海道五拾三次 伊勢国
 亀山宿
 
 人口:1549人
 総家数:567軒
 本陣:1軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:21軒

亀山 [雪晴]
 亀山城は、南は鈴鹿川、北は渓谷と天然の要害の台地に築かれている。
 昨夜からの雪は晴れて、青空には雲ひとつない。急な坂道を大名行列が京口門に向かって登っていく。

 往時の趣を伝える … 「多門櫓」

旧街道からそれて亀山城跡に向かう。亀山城は、白壁に囲まれ、県粉城郭を持ち、蝶が舞う姿にたとえられ、粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれたという。現在は、石垣の上に多門櫓、堀などが残るのみであるが、それでも多門櫓は風景としても見ごたえがある。

 亀山に過ぎたるもの … 「京口門」

旧街道まで戻り、西に進むと、「京口門跡」の標柱がある。京口門は、亀山城下の西の入口で、江戸口門と同様、門と番所を構えている。また、壮麗な姿であったことから、「亀山に過ぎたるものは二つある.伊勢屋ソテツに京口門」と謡われ、広重の東海道五十三次にも書かれている。


  街道を行く

 日本橋から112里5町
  (440.3Kmあたり)

  野村の家並み
  (三重県亀山市野村)

 「野村一里塚」 … 樹齢400年のムクの巨木

旧さらに旧街道を西進すると、「野村一里塚」がある。幹回り6メートル、樹齢約400年のムクの巨木がそびえている。

  さらに西進すると、旧街道のコースで分かりにくい個所があったが、たまたま、工事中の関係者の方の道案内で、迷わず順調に進んだ。
  旧街道は、観音坂を下ると、ほどなく、国道一号線とJR関西線の陸橋に出る。陸橋の手前のレストランで遅い昼食とする。午後0時46分。

 関宿の東の入口 … 東追分

  レストランを出て、陸橋を渡り、名阪国道の高架下をくぐる。高架下の壁には、広重の絵パネルが数枚貼ってあった。
  旧街道は、鈴鹿川沿いに延びて、田園風景の中をしばらく歩いた。JR関西線の踏切を過ぎ、国道一号線を歩道橋で渡ると、ほどなく、関宿の東の入口に当たる東追分に着く。この追分とは、東海道と伊勢別街道の分岐点のこと。
 

  街道を行く

 日本橋から113里12町
  (445.0Kmあたり)

  関宿の家並み
  (三重県亀山市関町中町)
 連子格子の百五銀行が…
  この東の追分から西の追分までの1.8キロメートルが、関宿重要伝統的建造物保存地区である。東海道一といわれている、関宿の家並みを見ながらゆっくり歩くのが今日の一番の楽しみである。もちろん電線電柱などはなく、江戸時代もこのような街並みであったのかと感動しながら歩いた。連子格子の建物の中に百五銀行があった。
 東海道五拾三次 伊勢国
 関 宿
 
 人口:1941人
 総家数:632軒
 本陣:2軒
 脇本陣:2軒
 旅籠屋:42軒

関 [本陣早立]
 本陣の絵である。参勤交代の大名が宿泊した本陣の出立のあわただしさが描かれている。
 本陣には、その宿場の有力者などがあてられており、関宿では、川北氏と伊藤氏が本陣を務めていた。
関宿の歴史的な家並みが
江戸時代の宿場の
世界に導く


「関まちなみ資料館」「旅籠玉屋
歴史資料館」では、
江戸時代に栄えた旅籠や
庶民の旅が
よくわかる。

 「関まちなみ資料館」 「問屋場跡」 「川北本陣跡」が続く …
  街道は十字路となり、左へ行くとJR関駅へ、まっすぐ、少し進むと左手に町屋を開放した「関まちなみ資料館」がある。さらに進むと「問屋場跡」「川北本陣跡」の碑がある。関郵便局の前には、復元された高札場があった。 

  関宿の街並みを散歩し、その後、JR関駅に 午後4時15分 着く。
  駅隣りの「道の駅・関宿」で買い物をしたり、関宿の銘菓「関の戸」「志ら玉」を味わったりした。帰途は、関駅発17時35分の電車で名古屋に向かい、名古屋からは新幹線で東京へ、千葉に着いたのは、22時30分。タクシーで帰宅した。

  第二十四日目 2007年10月13日(土)

    前日までの距離    429.9Km(667、953歩)
  今日のコース    庄野宿〜9.6Km〜亀山宿〜5.7Km〜関宿
  今日の歩行距離  15.3Km(今日の歩数 28、371歩)
  今日の歩行時間  7時間59分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       445.2Km(696,324歩)
     京・三条大橋まで、あと  78.1Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜庄野宿〜亀山宿〜関宿〜自宅)15時間5分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)19.3Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
  五十三次の出会い   
  亀山宿で、東海道一人旅の若い男性と東海道テクテク談義
                『草津宿の化粧地蔵は不気味で…」
  出会いの人  : 東海道一人旅(大手電機メーカー勤務)のFさん
  出会いの日時 : 2007年10月13日(土) 午前10時30分
  出会いの所  : 亀山宿「江戸口門跡」前

左の方がFさん

Fさんがお勧めの「塩見坂」
 
 旅人のJ(私):「東海道は、いつ頃から歩き始め、今、どこまで歩いたの
   ですか?」

 東海道を歩いているFさん:「昨年の12月に京都三条大橋を出発して、
    新居宿まで行きました。一人で歩いています。

  J:「どのような日程ですか?」
 Fさん:「仕事の関係で一泊二日が限度で、二日で50Km、歩くことが目標
    です。でもだんだん遠くなってきて、一日に25Kmが困難になって
    きました。

 J:「歩いてきて、景色のよかったところはどこですか?」
 Fさん:「亀山宿から庄野宿に向かって歩いていて、左手に見える御在所山
    の山並みがよかったです。また、白須賀宿から新居宿に向かう途中、
    塩見坂を下りながら見た太平洋はきれいでした。」

 J:「松並木はどこがいいですか?」
 Fさん:「水口宿と土山宿の間の松並木が気に入っています。
 J:「我々にアドバイス、あるいは、何か変わった情報はありますか?
 Fさん:「鈴鹿峠で一部通行に危険な場所があります。また、石部宿と水口
    宿の間は、トイレは全くなかったですね。それに草津宿の化粧地蔵は
    不気味でした。三条大橋の下の河原に首のない地蔵がありました。」

  同じ東海道を歩いていても、上りと下りでは景色が違うと感じました。
 日本橋にはいつごろ着くのでしょうか?
 また、どこかでお会いしたいですね。
 
 
お互い、完歩目指してがんばりましょう。 
             
五十三次の出会い 五十三次の出会い10
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり13  一つの宿場に問屋場、二つ
               家康の一つの役職の複数制……の話
  遠山の金さん(北町奉行所)や、大岡越前の守(南町奉行所)を知らない人はいないだろう。金さんといえば、お白州の上で諸肌を脱いで「この桜吹雪を見忘れたか!」の金さんである。
 江戸時代、町奉行には北町奉行所と南町奉行所の両奉行所があった。しかし、管轄区域を二つに分けていたわけではなく、両奉行所が月番の交代で訴訟業務をこなしていたという。いわゆる、両奉行制である。
 徳川家康は、一つの役職に複数制をとって、一人の専制になることを防いでいたという。これは、鎌倉時代の南北二人制の六波羅探題を参考にしたらしいが、それにしても、江戸時代、すでに、一つの役職に独裁者をつくらないための方法、制度を考えていたとは、驚きだ。
 江戸時代の宿場で、公用を行う事務所を問屋場というが、問屋場の主な仕事は、旅人や荷物を次の宿場まで運ぶ継立業務と文書などを運ぶ飛脚業務であった。そのため、馬百匹と人足百人を用意していたという。
江戸町奉行は、
 一つの役職に複数制
 をとる両奉行制。
 独裁者をつくらない
 ための制度。
亀山宿には、二つの問屋場が…

両問屋場制とでも
江戸町奉行は両奉行制 亀山宿の西町問屋場跡 亀山宿は両問屋場制 ?
 亀山宿には、東町問屋場と西町問屋場の二つの問屋場があった。東町問屋場(樋口家)と西町問屋場(若林家)が、定期的に交替しながら問屋業務を担当していたという。これは、両問屋場制とでもいうのだろうか。
 一つの役職の複数制は、現代でも十分通用する制度、いやいや、現代のほうが必要な制度。月番の交替で問屋場の業務を行っていたとされる、亀山宿は、時代の最先端をいっていたと思う。
五十三次のおしゃべり12 五十三次のおしゃべり14
四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿  このページ  関宿〜坂下宿〜土山宿
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