熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
  最後の難所 鈴鹿峠越え 険しい峠から茶畑へ !!
                             … 関宿〜坂下宿〜土山宿
第二十五日目 
2008年1月15日(火) 曇り
今日のコース : 関宿〜坂下宿〜土山宿
日記の記録  : 旅人のM (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  私たち、旅人J&Mの「五十三次テクテク旅」も足掛け3年目を迎える。47番目の宿「関宿」まで来たので、京都三条大橋まで、あと78Kmである。
 しかし、早く三条大橋まで行きたいという気持ちとテクテク旅が、まだ終わらないでほし いという気持ちが交錯している。(先達の方々は、どうでしたか?)
 第25日目は、関宿から、坂下宿、鈴鹿峠を越えて土山宿までであり、日記は私(旅人のM)がつけることになった。

  昨夜は関ロッジに泊まり ……

  昨日、千葉を立ち、昨夜は関宿の関ロッジに泊まったので、今日のスタートは、関ロッジからのスタートとなる。午前7時に朝食、午前7時45分にロッジを出発した。

   鈴鹿峠の難易度はどのくらい?   …… 今日の見どころ
関宿のまちなかに入り、そこで「関宿」出発の写真を撮る。「関宿を午前7時58分、出発」と記録し、箱根と並ぶ西の難所、鈴鹿峠を目指す。今日の見どころは、@明治になって急速にさびれてしまったという坂下宿に往時の面影はあるの? A鈴鹿峠の難易度はどのくらい? B土山宿のまちなみや土山本陣に江戸時代は感じられるの? の3点かな。

  「西の追分」を右手に進む

  歩き出してすぐに「西の追分」になる。左手は、加太越え(かぶとごえ)で奈良に向かう大和街道、右手は、鈴鹿峠を越え京都に向かう、私たち(旅人J&M)の行く旧東海道となる。右手を進むが、すぐに国道一号線に合流し、少し行くとガイドブックには「転び石」とあるが、見落としてしまった。

  優しい形をしている ……  名勝・筆捨山

 国道一号線は、緩やかに上り、途中、右手の旧街道に折れ、鈴鹿川を渡る。市瀬のバス停で国道一号線に合流し、緩やかな坂道をのぼっていくと、名勝・筆捨山がどんどん迫ってくる。案内板があり、そこで立ち止まって、「筆捨山」を見る。優しい形をしていて、私は好きだ。犬が激しく吠えたので早々に引き揚げ、緩やかな国道一号線を進む。
        (筆捨山の名前の由来は 「五十三次のおしゃべり 15」 を見てね。)

 街道筋には、古い構えの家が残っていて … 「江戸時代もこのような…」

  国道一号線はトラックなどの大型車両が行き交い、歩道らしきものがあるとはいえ、ゆっくりゆったり歩く気分ではない。
  国道と分かれて旧街道を右手に入っていくと一転して騒音がなく、街道筋には、古い構えの家が残っていて『江戸時代もこのような雰囲気だったんでしょうね。』とJさんと話をする。

  江戸時代のまま、取り残されたような風景 ……

  やがて、鈴鹿馬子唄会館、鈴鹿峠自然の家があり、一休みすることとする。
午前9時15分。共に休館だったので、鈴鹿峠自然の家(元坂下尋常高等小学校)前の誰もいないグランドを歩き回った。何となくほっとするような自然と江戸時代のまま取り残されたような風景を楽しんだ。馬子唄会館の「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る。」の鈴鹿馬子唄をきけなかったのが、ちょっぴり残念でした。


  街道を行く

 日本橋から114里25町
  (450.4Kmあたり)
   鈴鹿峠自然の家付近
 (三重県亀山市関町沓掛)

  「あの三子山の左が鈴鹿峠 … 」 と Jさんが …

  道沿いに、五十三次の宿名をかいた木の柱が3〜4m間隔で並び、私たち旅人J&Mを迎えてくれた。日本橋、品川宿、川崎宿 … と声に出して読み上げながら、三条大橋まで進んだ。三子山がよく見えて、『あの三子山の左が鈴鹿峠だね。』 とJさんが言っていた。
  

  旅人でにぎわったとされる坂下宿

  やがて、河原谷橋を渡ると、昔、旅人でにぎわったとされる坂下宿の跡である。すぐに、「松屋本陣跡」の標柱があり、そこを「坂下宿」到着として写真を撮る。
 午前9時46分。 9724歩。 坂下宿は、かっては、鈴鹿峠を控え、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒の大きな宿場であったという。引き続き、「大竹屋本陣跡」「梅屋本陣跡」の標柱がある。

 東海道五拾三次 伊勢国
 坂下宿
 
 人口:564人
 総家数:153軒
 本陣:3軒
 脇本陣:1軒
 旅籠屋:48軒

坂 下 [筆捨嶺]
 名勝・筆捨山の絵である。奇岩、滝、松などの景勝を、旅人たちが茶屋で一休みしながら眺めているところを描いている。
 

  「坂下宿」 … 由来は、坂の下の宿

  坂下宿は、鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来している。「宗長日記」に「坂の下の宿」とあることから、室町時代には宿として機能していたものとみられるが、古名は、鈴鹿宿といったらしい。

  鈴鹿峠まで、あと600m  杉林の中を進む ……

  旧街道は集落を通り、国道と合流すると山は深くなり、「旧東海道鈴鹿峠 0.6km」の案内がある。国道と分かれて、右手の細道に入り、杉林の中を進むが、ここは片山神社の参道とのこと。昔はここに坂下宿があったが、、慶安3年(1650年)の大水害で宿場の大半が埋没してしまった。そこで、宿を下方に移設して再興したという。


  街道を行く

 日本橋から115里15町
  (453.2Kmあたり)

   鈴鹿峠の下
  (三重県亀山市関町坂下)
  石の階段を上り、鈴鹿峠へ!

片山神社の右手の石の階段が旧東海道。そこを進み国道一号線の橋の下をくぐり、左から回り込むと広場に出る。ベンチにリュックを置き、一休みする。鈴鹿峠は近い。
 休憩後、少しのぼると、芭蕉句碑「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」があり、その先に「馬の水飲み場跡」と思われるところを左手に見て、さらに石の階段をのぼる。やがて、少し広い平坦地となり、そこが鈴鹿峠(山頂)であった。

  盗賊が旅人の姿を写したという …… 鏡岩

  左手に「鏡岩」の標示があり、脇道に入る。150mほど行くと「鏡岩」があった。珪岩が断層によって擦られ、露出面が鏡のようにつやが出たので、そう呼ばれたが、鈴鹿峠の盗賊が往来する旅人の姿を鏡に映して危害を加えたという。

 峠に案内板があり
「鈴鹿峠は、伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、旧東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にある時は、伊賀から加太峠を越え伊勢に入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886年)近江から鈴鹿を越え伊勢に入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められてから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋になった。」
 とあった。

  昔は、6軒の茶店が立ち並び ……  今は氷が張っており …… 

  江戸時代には、鈴鹿峠には6軒の茶店が立ち並び、旅人でにぎわっていたという。これらの茶店の石垣が今でも残っており、往時の情景をしのぶことができる。
  寒いと思ったら、氷が張っており、足でちょっと割ってみた。

  茶畑のなか、「万人講大石灯籠」が …… 

  峠から、茶畑のなか近江側に進むと、「万人講大石灯籠」がある。資料によると、もとは四国の金毘羅神社にあったものを、江戸時代にここに持ってきたものだという。ここには、休憩所、トイレもあり、一休みした。
 午前10時58分

  沿道の柿に、思わず声が …… 

  「万人講大石灯籠」から、土山宿までは、国道一号線に沿って茶畑の中、緩い坂道を下っていく。途中、沿道に柿がまだ残っていて、思わず声を出してしまった。500mほど下って、地下道で国道の右側に出る。

  新名神高速道路、亀山〜草津間、2月開通 ! 

  国道に沿ってどんどん進むと、前方に新名神高速道路の高架橋が見えてくる。工事中で、亀山〜草津間、平成20年春完成とある。(道の駅「あいの土山」の幟には、亀山JCT〜草津田上IC間、2月23日開通とあった。)

  元猪鼻村の家々には屋号が ! 

  旧街道は、猪鼻交差点で右手に折れ、いったん戻るように進んでから、左手に折れ進む。元猪鼻村の集落のようで、家々には屋号が掛けられている。


  街道を行く

 日本橋から116里20町
  (457.7Kmあたり)

  旧猪鼻村の家並み
 (滋賀県甲賀市土山町猪鼻)

 巨樹がそびえていた !!

ふたたび、国道一号線と合流するが、すぐに旧街道は、白川神社の手前を右手に折れる。
 境内には、御神木と思われる巨樹がそびえていた。

 新しい「海道橋」が架かっており ラッキー!! 

  旧街道を更に500mほど進み、田村川の手前を左に折れて国道一号線に合流する予定であったが、なんと、田村川には新しい橋「海道橋」が架かっており、さらにその先、田村神社の参道まで新たに道路が造られ、舗装までされていた。旧街道ルートが再現されていた。ラッキーだ!! 

 道の駅「あいの土山」に到着、 名物「かに坂飴」は、素朴な味がした !! 

  新しくできた、旧街道のルートを通り、田村神社の参道に出る。田村神社に手を合せ、参道を戻るように国道に向かう。国道一号線を歩道橋で渡り、道の駅「あいの土山」に着いた。
 午後1時2分。
 土山宿の名物といえば、手作りで昔懐かしい素朴な甘さで、昔、このあたりに出たカニの化け物の伝説から生まれた飴、「かに坂飴」がある。田村神社前の高岡商店、道の駅「あいの土山」で売っているというので買った。素朴な味がした。
 

 連子格子で町屋風の宿場 …… 「ふじき屋」「旅籠平野屋」などが !! 

  道の駅「あいの土山」を出てストランを出て、右に回り込むように旧街道を進むと、そこは連子格子で町屋風の家が残る宿場である。家々には、「松屋跡」「木綿屋跡」「ふじき屋跡」などの屋号が掛けられ、「旅籠大槌屋跡」の先、右手に「東海道一里塚跡」の標柱がある。更に、「旅籠車屋」「旅籠阿波屋跡」「旅籠寿し屋跡」などがあり、森鴎外が泊まった「旅籠平野屋」が続く。 
 東海道五拾三次 近江国
 土山宿
 
 人口:1505人
 総家数:351軒
 本陣:2軒
 脇本陣:0
 旅籠屋:44軒

土山 [春之雨]
 降りしきる雨の中、田村川に架かる橋を大名行列が渡る。
 春の雨は斜めの線であらわされ、雨足の強さを強調しているが、雨を線で表現する手法が、ヨーロッパの印象派に大きな影響を与えたと、テレビで放送していた。

  街道を行く

 日本橋から117里20町
  (461.6Kmあたり)

  土山宿土山本陣付近の家並み
  (滋賀県甲賀市土山町北土山)

 「土山本陣(跡)」で、 第13代から、江戸時代の興味深い話を …

  すぐ右手に「東海道伝馬館」があり、東海道の宿場や伝馬制度を紹介しているとのことで楽しみにしていたが、休館であった。
  「問屋場跡」を過ぎると、今日の最後の楽しみ「土山本陣(跡)」である。
 午後2時20分。
  明治天皇の行幸の時の玉座や江戸時代の宿泊記録などの古文書など多数保存されている。「土山本陣(跡)」には事前に予約していたので、本陣第13代目の方から、庭を拝見しながら、古文書とともに江戸時代の興味深い話を聞かせていただいた。
 (「五十三次の出会い 10」 を見てね。)
 
 小さな公園を土山宿として、写真を撮った。

「土山本陣(跡)」を見学し、出会いを楽しんだ後、旧街道に戻り、少し進むと、小さな公園がある。そこを土山宿到着として、写真を撮った。その角を右手に折れ、今日の宿に向かった。

  第二十五日目 2008年1月15日(火)

    前日までの距離    445.2Km(696,324歩)
  今日のコース    関宿〜6.5Km〜坂下宿〜9.8Km〜土山宿
  今日の歩行距離  16.3Km(今日の歩数 27、368歩)
  今日の歩行時間  7時間27分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       461.5Km(723,692歩)
     京・三条大橋まで、あと  61.8Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜関宿〜坂下宿〜土山宿〜宿)7時間50分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)17.9Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり14 関宿の美しいまちなみを
               散歩しながら、あれこれ……の話

  庵看板(いおりかんばん)の字、ひらがなは京へ? 漢字は江戸へ?
 
 江戸時代、宿場内の看板で、歩く方向にひらがなが見えていれば、その先は、京、漢字ばかり見えていれば、その先は江戸、と、東海道を歩く人は認識していたらしい。これは旅人が向かう方向を間違えないための工夫と言われている。
 関宿の銘菓「関の戸」の深川屋の庵看板は、ひらがなの看板には、[関の戸](その先が京)漢字の看板には、[関能戸](その先が江戸)と書かれている。なお、当時の庶民は、草書と行書、漢字とひらがなの区別はついたのだそうです。
 因みに、看板の上の屋根は、唐破風、両側に魔除けの獅子を配し、中央には関の字を形どった瓦がシンボルマークとなっている。
ひらがなの先は、京 漢字の先は、江戸 銘菓「関の戸」の
深川屋とその庵看板
 百六里庭・眺関亭(ひゃくろくりてい・ちょうかんてい)
                   ここは、江戸から百六里
 関宿のまちなみの中に小さな公園があり、その名を「百六里庭」という。関宿が江戸から百六里余りあることから名付けられたという。また、通りに面した建物は、眺関亭と呼ばれ、関宿の家並みが一望できる。
 ことわざ「関の山」の関とは? 山とは?
 「関の山」とは、それ以上できないという限度、最上の程度、精いっぱい、のこと。また、「関の山」の関とは、三重県関町(現亀山市)のことで、山とは、ダシ(山車)の意味。関町八坂神社の祭礼祇園会に出る山(ダシ)は、大変立派なので、それ以上の贅沢はできないということから、使われたとのこと。
 因みに、この祭礼は、毎年七月二十日すぎの土・日に行われている。
五十三次のおしゃべり13 五十三次のおしゃべり15
 熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり15 筆捨山 … 広重も描いた筆捨山
            その「筆捨山」という名前の由来は? …の話

筆捨山(平成20年1月15日撮影) 案内板の筆捨山(伊勢参宮名所図会)
 @(ガイドブックなど)
 「筆捨山」は、あまりにも素晴らしいので、絵師も筆を捨てて眺めいってしまう、ということからこの名がついたという。しかし、いくら江戸時代の風景だったといわれてもこの筆捨山の景色が素晴らしかったとはどうしても思えない。風景が変わってしまったのだろうか。
 A(筆捨山の案内板、亀山市発行のパンフレットなど)
 その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに絵を描くことをあきらめ、筆を捨てたことから、この名がついたという。
 B(広重・東海道の解説本)
 その昔、室町時代に狩野派を大成させた古法眼元信(こほうげんもとのぶ)が、東国に下る途中、この山の姿を描こうとしたが、納得のいく絵にならず、山間に筆を捨ててしまったという言い伝えから、この山を筆捨山と呼ぶようになった。
五十三次のおしゃべり14 五十三次のおしゃべり16
 熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
  五十三次の出会い 10  
  土山宿、土山本陣で、第13代T.Hさんから
        『ほぼ国中の大名が泊まり、明治天皇の天長節も…」
  出会いの人  : 土山本陣 第13代 T.Hさん
  出会いの日時 : 2008年1月15日(火) 午後2時20分
  出会いの場所 : 土山宿、土山本陣

土屋本陣 第13代 T.Hさん(右の方)

江戸時代の宿泊記録
 
 旅人のJ(私):「この本陣は、非常に長く続いていたと聞いていますが?」

 土山本陣第13代T.Hさん:「この本陣は、徳川三代将軍家光の上洛に際し
    て、設けられ、明治3年までの236年間続きました。」
  J:「これらの古文書が、江戸時代の宿泊記録だと思いますが、九州の大名
   などいろいろな方が宿泊されたとか?」

 T.Hさん:「54万石の肥後のお殿様をはじめ、ほぼ国中の大名が泊まり
   ました。九州と言えば、長崎に来たオランダ人も江戸への道中、ここに
   宿泊されました。また、明治天皇が即位後、初の天長節をここで迎えられ
   ました。

 J:「13代目というと、その間、エピソードもいろいろあったんじゃない
   ですか?」
 T.Hさん:「7代目当主は『一代記』を書いています。そのなかで、庭に
   珍しい鳥が舞い込んできたので、羽織をかぶせて捕まえ、籠で飼っていた
   ところ、数日後宿泊されたお客様から『この鳥はケリという珍しい鳥、
   わけてほしい。京に持っていきたい。』と言われたので、その客にわけ
   たとあった。」

  J:「これだけの歴史をもった本陣ですから、今でも取材は多いのでしょう
   ね。」

 T.Hさん:「古い話ですが、2001年、NHKの「おーい日本!!今日は
   とことん滋賀県」という番組の取材で、石塚英彦さんが訪ねてきました。
   肥後のお殿様に召し上がっていただいた献立を準備し、家族7人で応対
   しました。また、2006年6月、やはりNHKの番組「岩本輝雄さんの
   東海道てくてく旅」で岩本さんに茶うどんを味わっていただきました。

 
  貴重なお話を伺い、勉強になりました。贅沢な時間を過ごし、五十三次
 テクテク旅がより深いものとなりました。
 ありがとうございました。
 
 
これからも平成の旅人をよろしくお願いいたします。 
             
五十三次の出会い9 五十三次の出会い11
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