熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 見ごたえあり、天井川の草津川と
                草津宿、田中本陣 !!
                             … 石部宿〜草津宿
第二十八日目 
2008年2月11日(月) 曇りのち晴れ
今日のコース : 石部宿〜草津宿
日記の記録  : 旅人のM (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  今日の見どころは、三つある。
天井川の草津川、江戸時代は、草津川をどのようにして渡ったのでしょう?
二つ目、遺構をそのまま残しているという「草津本陣」ぜひ見たい。
さらに、三つ目、江戸時代の旅装束を体験できるという「草津宿街道交流館」は、楽しみ!!

  午前8時27分、石部宿 スタート ……

  草津のホテルを午前7時50分に出て、草津駅へ。草津からはJR草津線で石部駅へ。「熟年夫婦の東海道五十三次テクテク日記・第28日目、石部宿出発」のボードを持ち、駅前で石部宿スタートの写真を撮る。午前8時27分。

   近江富士は優しい姿をしている
  駅前通りを少し進むと、旧街道となり右手に折れる。旧街道を進み、宮川を宮川橋で渡り、JR草津線沿いに進む。右手に近江富士と呼ばれている「三上山(みかみやま)」がよく見える。優しい姿をしている。また、この街道の左手は、「石部金吉」でおなじみの石部の金山の跡らしい。

  屋号を掛けた家並みが続く

  やがて、名神高速道路の下をくぐり、伊勢落という集落があり、そこで休憩する。午前9時7分。水分を補給し、チョコレートを口にする。少し進むと旧林村の屋号を掛けた家並みが続く。何となく往時の雰囲気があり、Jさんは、「屋号はすべて、撮る。」と、はりきっている。

  家康が直々名付けた … 「和中散」

 旧街道が左に大きく曲がるあたりは、六地蔵という「間の宿」で、左手に「旧和中散本舗」がある。「和中散」という薬は、徳川家康が腹痛を起こした時、この薬でたちまち直したことから、家康が直々に名づけたといわれている。「旧小野村…」と書かれた屋号を掛けた家が続く。

 栗東市の観光案内で街道ウォークの話 …… 

 名神高速道路に接続する取付道路の下をくぐり、進むと、左に「稲荷神社」がある。その角を右に曲がり、つきあたりのJR手原駅で休憩する。
午前10時5分。
 駅舎の2階には、栗東市の観光案内があり、親切に説明してくれる。また、私たちが、東海道を歩いていると知った、担当の方(女性)は、「実は、私も中山道を日本橋から京・三条大橋に向かって歩き始めたところ」とのこと。街道ウォークの話は弾む。

  「やせうま坂」と「目川一里塚」

 休憩を終え、旧街道に戻る。旧街道は左へ大きく迂回し、上つり池の土手に沿って進む。金勝川(こんぜがわ)の手前、「やせうま坂」との標柱を左に見て、大きく右、左と迂回すると「目川一里塚」がある。

  街道を行く

 日本橋から125里29町
  (494.0Kmあたり)
   葉山川橋付近
 (滋賀県栗東市川辺)

  田楽発祥の地 … 立場茶屋・目川

 また、この目川には、東海道を往来する旅人の休憩所として立場茶屋が置かれていたとあり、「田楽発祥の地」の碑があった。ここで、供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、街道名物になっていたという。

  旧草津川の下を国道一号線が ……

  旧街道は、右に折れ、東海道新幹線の下をくぐり、草津川の土手沿いに進む。国道一号線を渡る手前から、旧街道は草津川の堤防の上となり、左側は水のない旧草津川、その下を国道一号線のトンネルがあるという、なんとも不思議な光景の中を進む。
  あとで、地元の人に聞くと、昭和50年代まで、この旧草津川には、水が流れていて、周辺の地盤よりも川底が高い天井川であったという。そののち、川の流れを切り替えたと言っていた。

  江戸時代、天井川の草津川 … 
  周辺の地盤より高い川底を歩いて渡ったという。

江戸時代、この草津川は、徒歩渡し(かちわたし)であったが、増水すると、人足の肩車で渡ったようである。そして、平成の旅人は、水のない旧草津川を橋で渡る。堤防には桜の木が植えられ、春には美しい散歩道になるという。

  追分道標「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」 …… 草津宿

  橋を渡ると旧街道は右折し、町なかに向かうが、道の左に横町道標があり、そこからが「草津宿」であるという。横町を進むと、まもなく東海道と中山道の分岐となり、そこに火袋付きの追分道標が立っている。「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」と彫られ、高さ、4mほどの常夜灯である、 このあたりが草津宿の中心であり、その昔、街道を往還する多くの旅人でにぎわったという。

 東海道五拾三次 近江国
 草津宿
 
 人口:2351人
 総家数:586軒
 本陣:2軒
 脇本陣:2軒
 旅籠屋:72軒

草津 [名物茶屋]
 草津宿の名物茶屋とは、
織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の血をひく子を養うために、その乳母が売り出した餅「乳母が餅」を売っている茶屋のこと。
 その立場茶屋前の街道風景を描いている。

  街道を行く

 日本橋から126里19町
  (496.9Kmあたり)

   旧東海道・中山道追分
  (滋賀県草津市草津)
 草津宿
 
 草津宿は、東海道と中山道との追分(分岐点)として、栄えていたという。近江では大津に次いで繁華な宿場で、ここには貫目改所(かんめあらためしょ)があった。貫目改所は、街道を運ぶ荷物には重量制限があるのでその重さを検査するところである。

  草津宿の田中本陣、部屋数39室 …… 

  追分を左に折れると、草津宿「田中七佐衛門本陣」がある。本陣屋敷は、建坪、468坪、部屋数は39室、268畳を有する平屋妻入りの建物である。大名・公家の宿泊鑑札や宿泊大福帳が保存されており、歴史の重みを感じる。また、幕末の動乱期、朝廷と幕府による公武合体の犠牲となった、悲劇の皇女、その皇女和宮の婚礼行列に際しての宿の割り振りの記録などがある。急に幕末が身近に感じて、旅人J二人の皇女談義が続いた。(「五十三次のおしゃべり16」を見てね。)

  「草津宿街道交流館」 

 本陣を出て、商店街となっている旧街道を進むと、左手に「草津宿街道交流館」がある。午後1時15分。
 この交流館の特徴は、旅籠の食事や問屋場のマジックビジョンなど、情報が非常にわかりやすいし、なによりも道中合羽や脚絆、三度笠など、当時のままの旅装束を身につけることができる「旅体験コーナー」があることだ。旅人は、ぜひ、訪ねてほしい。

  鹿島明神が柿の木を植えた 「立木神社」  

  すぐに、草津宿の氏神「立木神社」がある。
 資料によれば、立木神社の名称は、767年、常陸の鹿島明神がこの地に着いて、1本の柿の木を植えたことに由来するらしい。旧街道は、草津川放水路を渡り、矢倉小学校前を過ぎると、国道一号線バイパスを横断することになるが、手前のレストランで昼食とした。
午後1時32分。

  鎌倉時代からの宿 「野路の宿」 

  国道一号線バイパスを矢倉南の交差点で渡り、上北池公園へと進む。公園の中に「野路一里塚跡」の石碑がある。このあたりは、鎌倉時代、すでに野路の宿として栄えたところとある。さらに進むと、野路の玉川跡がある。平安時代に、源俊頼が「あすもこん、野路の萩こえて色なる波に月宿りけり」と詠み、歌枕として、六玉川(むたまがわ)(歌に詠まれる六つの玉川)の一つとして、知名度が高いという。 

  街道を行く

 日本橋から127里28町
  (501.7Kmあたり)

  下月輪池付近
 (滋賀県大津市月輪)

 今日は、「一里塚跡」まで !!

  弁天池を右手に見て、狼川を渡り、緩やかな上り下りをくり返しながら進むと、左手角に「一里塚跡」の大きな石碑がある。
 午後3時21分。今日の「五十三次テクテク旅」はここまでとする。
 
 草津駅周辺をぶらぶらして ……

JR東海道線(琵琶湖線)の瀬田駅まで歩き、草津駅に向かった。草津駅をでて、駅前周辺をぶらぶらし、宿に着いたのは、午後4時41分だった。

 天井川である、草津川は、大きな要塞のように、町のど真ん中にそびえ、町を二分している。何か不思議な感じがするね。

  第二十八日目 2008年2月11日(月)

    前日までの距離    485.9Km(769、248歩)
  今日のコース    石部宿〜11.4Km〜草津宿〜5.1Km〜一里塚跡
  今日の歩行距離  16.5Km(今日の歩数 26、446歩)
  今日の歩行時間  6時間54分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       502.4Km(795,694歩)
     京・三条大橋まで、あと  20.9Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜石部宿〜草津宿〜一里塚跡〜宿)8時間51分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)19.8Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
 五十三次のおしゃべり16 皇女和宮、草津宿を通り、中仙道で江戸へ
               悲壮な決意で草津川を渡った?  …の話

東海道と中山道の追分(草津宿) 天井川の草津川
土手を登り越えていった。
 (草津宿の東海道と中仙道の追分にて)

 旅人のJ:幕末の悲劇の皇女和宮は、約八千人のお伴と共に、都を出発し、中
     山道を通って江戸に向かったんだけれど、この道をまっすぐに関ヶ原
     宿のほうに向かったんだよね。

 旅人のM:徳川家と結婚した、皇女和宮の話ね。
 J:そう、幕末、開国をめぐって朝廷と幕府が対立した時、当時の孝明天皇の
     妹君、和宮が徳川14代将軍家茂と結婚するということで、一応決着
     。その結婚のための行列が、150年ほど前にこの道をまっすぐ、東
     に向かった、という話。

 M:八千人のお伴というのは、すごいね。どんな人たちなの?
 J:ガイドブックによると、八千人とは、送る公家方、迎える幕府の要人たち
     、和宮御用の調度品を運ぶ人たち、それに警護の武士たちなどのこと
     。途中で、行列には、さらに各藩の警備が加わったので常時2万人く
     らいだったらしい。

 M:ところで、和宮と八千人の大行列は、あの草津川の下をくぐっていったの
     かしら?

 J:草津川の下をくぐるトンネルは、明治19年(1886年)に掘られたと
     、ガイドブックに載っているので、あの土手を登って、川を徒歩で渡
     ったんでしょう。仮橋が架けられていたかもしれない。

 M:中仙道は、東海道に比べて、距離も長いし、山坂も多い。なぜ、東海道に
     しなかったんでしょうね?

 J:薩捶峠は、『去った』に通じるということで、これを嫌ったというが、東
     海道は、多くの旅人が通行し、不審者をチェックすることが不可能と
     いうのが、本当の理由らしい。

 M:それにしてもすごい、行列だね。
 J:記録によれば、ある宿場で、蒲団2万4千枚、風呂桶650、湯呑茶碗
     6千刀掛千を準備し、人足述べ2万8千2百人、馬850頭を動員
     したというから、すごい大行列であることには間違いない。

 M:東国は、京から見ると、鬼が住む野蛮なところと思われていた時代で、
     その東国(江戸)の徳川家茂に、降嫁するために向かったというのは
     、和宮にとって、どんなに心細く悲しかったのでしょうね。

 J:まだ、16歳の和宮は、悲壮な決意だったのだろう。こんな歌を詠んだ
     らしい。
     「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」
 M:家茂との結婚生活は幸せだったのかしら?
 J:仲睦まじかったらしいよ。その証拠に、芝増上寺に並んで葬られている。
     それも和宮の遺言でね。

 M:新橋あたりに行ったら、お参りしてきましょう。日本の危機を救った
     お二人に。

 J:お参りの時、「和宮様の歩いた(駕籠で通った)中山道を、今度、歩かせ
     ていただきます。よろしくね。」も追加しよう。(「えっえっ中山道
     も歩くの?」の声あり。)

五十三次のおしゃべり15 五十三次のおしゃべり1
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