熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
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旧街道の面影残す美しい大磯の松並木を歩く
… 平塚宿〜大磯宿〜小田原宿 |
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第四日目 |
2006年12月3日(日) 曇り |
今日のコース : 平塚宿〜大磯宿〜小田原宿 |
日記の記録 : 旅人のM(熟年夫婦の夫 J、妻 M) |
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虹が出ている ! 市場を立てねばならない ? |
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「五十三次テクテク旅」初の泊まりで、目が覚めて身体を動かしてみる。昨日の疲れはそれほどでもなく、どうやら、歩けそう。まずはやれやれですね!!
朝食のとき、「虹が出ている!!」という宿泊客の声で、窓の外を見ると、平塚市の北西の方向に虹が立っていて、七色がはっきりしている。朝、虹を見るとその日の天気はどうだったかしら?と考えていると、Jさんは、『虹が立つと市場を立てねばならない』などと謎めいたことをいっている。 (五十三次のおしゃべり 2 「虹が立つと市を立てる」を見てね。) |
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平塚宿、史跡絵地図を見ながら… |
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午前7時52分、宿を出てJR平塚駅を通り、駅前通りと旧街道の交差点まで戻った。途中、平塚駅付近で「お早う!」と声をかけられる。
交差点で平塚宿出発時の写真を撮り、地図、万歩計を確認して 午前8時6分に、小田原宿を目指して歩き出した。まず、「江戸口見附」の碑が立っており、ここに、平塚宿史跡絵地図がある。平塚宿の配置を頭に入れながら、「脇本陣跡」「高札場跡」「本陣跡」のそれぞれの碑を見る。
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街道を行く
日本橋から十六里十三町
(64.2Km)
平塚駅前交差点
(神奈川県平塚市紅谷町) |
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「たいらづか」から「ひらつか」へ |
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旧街道を右手にそれ、春日神社に向かう。神社の右側に平塚の名前の由来となった塚がある。桓武平氏の祖、平真砂子(たいらまさこ)がここで没したため、ここに塚を築いて弔った。呼び方も初めは「ひらつか」ではなく「たいらづか」だったという。この塚を見て、旧街道に戻ろうとしたとき、町内防犯パトロール(多分)の一人から、『お早う!』と声をかけられた。心がさわやかになり、ここはいい町だと思った。町名板を見ると「見附町」とある。声を交わしたことによってか、気分はさわやか、身体の調子も良い。今日も行けそう。
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広重の東海道五拾三次「平塚宿」の高麗山 |
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「上方見附跡」を過ぎ、花水橋まで来ると「高麗山(こまやま)」が大きく見えてくる。高麗山は、安藤広重の東海道五拾三次の旅景色「平塚(縄手道)」に描かれている。
高麗という名の交差点があり、ふもとには高来神社がある。資料に寄れば、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた高麗の一族が渡来し、ここに住み、付近の開墾に尽力したという。 |
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旧街道の面影を残す美しい松並木を歩く |
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やがて、大磯に入ると、今も残る美しい松並木が見られる。
午前9時30分。
松並木を歩くのが今日の大きな楽しみの一つ。気分は完全に江戸時代。
大磯宿は、近い。
街道を行く
日本橋から十七里九町
(67.7Km)
大磯の松並木
(神奈川県中郡大磯町大磯) |
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東海道五拾三次 相模国 |
大磯宿
人口:3056人
総家数:676軒
本陣:3軒
脇本陣:0
旅籠屋:66軒 |
大磯 [虎ヶ雨] |
副題の「虎ヶ雨」とは、曽我十郎の愛人である虎御前が、十郎をしのんで流す涙雨のことらしい。
また、右側の大きな山は高麗山。
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「大磯宿」 |
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大磯は、古代から相模の国府が置かれ、江戸時代は宿場町として、明治以降は要人たちの別荘として、現在は海水浴場として知られている。
また、大磯宿は、宿場や街道の案内板が充実しており、本陣や高札場などの位置や内容がわかりやすい。
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街道を行く
日本橋から十七里二十三町
(69.3Km)
大磯中学校前の松並木
(神奈川県中郡大磯町東小磯) |
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「東海道の名残り」の案内板あり |
大磯宿を過ぎ、西小磯防災館で、トイレ休憩する。ここで、大磯宿の写真を撮るのを忘れたことに気が付き、あわてて「大磯宿、10時25分」(実際は、防災館前)で撮影。
国道一号線を進むが、ところどころ「東海道の名残り」と書かれた案内があり、旧街道であるわき道に入る。
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天むす定食を食べる |
やがて、押切坂の急な坂を下り、押切橋を渡ると小田原市に入る。
JR国府津駅手前で休憩、午後0時55分。
小田原海岸が見えるレストランで、天むす定食を食べる。まあまあの味で、食べると元気になる。
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街道を行く
日本橋から二十里二十一町
(80.8Km)
小田原市印刷局入口交差点
(神奈川県小田原市酒匂) |
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小田原宿の入口「江戸口見附跡」 |
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また、国道一号線を西進し、酒匂川を渡り、一時、左手に折れ、旧街道を歩く。国道に戻り、山王橋を渡ると、小田原宿の入口「江戸口見附・一里塚跡」の碑がある。
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東海道五拾三次 相模国 |
小田原宿
人口:5404人
総家数:1542軒
本陣:4軒
脇本陣:4軒
旅籠屋:95軒 |
小田原 [酒匂川] |
小田原の酒匂川、旅人たちは、川越人足を雇い、肩車に乗るか、蓮台に乗って川を渡っている。
川を渡り、今夜は小田原宿に泊って、英気を養い、明日は箱根の難所を越えて三島宿まで行ったのであろう。
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「小田原宿」 |
小田原宿は、城下町をかねた宿場町として、さらには箱根越えや関所を控えた宿場として、最盛期には約100軒の旅籠があったという大きな宿場町であった。また、日本橋を出立した旅人の多くが二日目の宿として利用したという。
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「おだわら宿なりわい交流館」でひとやすみ |
小田原市本町にある「旧本陣古清水旅館」を過ぎると、すぐに、「小田原宿なりわい交流館」があり、一休みする。午後3時5分、宿場の情報に詳しく感じのいい、なりわい交流館のスタッフがお茶で歓待してくれた。おいしいお茶でした。ご馳走様でした。(「五十三次の出会い 3」を見てね!) |
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板橋見附交差点から旧街道へ |
国道一号線を進み、新幹線のガード手前、板橋見附交差点を右に折れ、板橋旧道に入る。箱根登山鉄道の付近まで歩き、今日の「五十三次テクテク旅」はここまでとした。小田原宿を1〜2キロメートル離れているが、ここを小田原宿ということにして、写真を撮る、午後3時58分。よく歩き、心地よい疲れ。 |
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次回は箱根越え、今度こそ富士も迎えてくれるだろう! |
風祭駅から箱根登山鉄道で小田原に戻り、東海道線、総武線を乗り継いで、千葉駅に午後6時58分。駐車場に車をとりにいって(駐車料金2800円)自宅に着いたのは、午後7時40分だった。
思ったほど疲れは無く、ほぼ予定通りであった。次回は、いよいよ五十三次最大の難所、箱根越えで、楽しみだ。今度こそ、富士も熟年夫婦を迎えてくれるだろう!! |
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第四日目 2006年12月3日(日)
前日までの距離 65.4Km(102,267歩)
今日のコース 平塚宿〜3.0Km〜大磯宿〜16.4Km〜小田原宿
今日の歩行距離 19.4Km(今日の歩数 38、114歩)
今日の歩行時間 7時間52分(休憩、昼食、見学を含む)
日本橋から 84.8Km(140、381歩)
京・三条大橋まで、あと 438.5Km
《参考》
今日の全所要時間(宿〜平塚宿〜小田原宿〜自宅)11時間48分
今日の全歩行距離(万歩計換算)21.1Km |
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熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
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熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
五十三次のおしゃべり2 虹が立つと市を立てる…虹は結界という話
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虹が立つと必ず、そこに市(市場)を立てなくてはならないという慣習が、平安時代の貴族の記録や室町時代の記録に残っているという。
市とは、モノを交換する市場のことである。虹が立った場所などほんとうはわからないはずだが、ともかく、市を立てなければいけないという。 |
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虹の立つところに市を立てるのは、日本だけでなく、他の民族にもそのような習慣があり、それは、虹が聖なる世界と俗界との架け橋と考えられてためらしい。すなわち、「虹は結界」と考えられているのである。
聖なる世界、神の世界では、モノも人も世俗の縁から切れ、無縁の状態になるらしい。いったん、誰のものでもない、神のものにしたうえで、モノとモノの交換が行われたのではないかと考えられている。逆説的に考えると、通常はモノとモノの交換は出来ないが、虹が立てば、そこは聖なる世界、市ではモノとモノを交換できたということらしい。
また、神の祭りの場では、妻も夫も俗界の縁が切れ、ひとりの女、ひとりの男として自由に交渉ができたという「歌垣」も市と同様ではないかといわれている。
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戸塚宿〜藤沢宿〜平塚宿 このページ 小田原宿〜箱根宿 |
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旅人 J&M |
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