熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 百年の歴史を持つ桑名屋の「宿場そば」をいただく
                    … 川崎宿〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿
第二日目 
2006年11月17日(金) 曇り
今日のコース : [熊野神社]〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿
日記の記録  : 旅人のM(熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  江戸時代の文化や庶民の生活に興味があって!
 Jさん(夫)から、『宿場や一里塚、松並木などに江戸時代の面影を求めて、東海道五十三次を歩いてみないか?』と、耳に響きのいい提案があった。私としては、自然観察会などで歩き回っているので足には自信があり、江戸時代の文化や江戸庶民の生活に興味があったので、すぐに了解した。しかし、先日、日本橋から川崎宿・熊野神社までを歩いてみて、結構疲れ、予想以上に大変だった。今日はゆっくり歩こう。
 熊野神社に道中の無事を祈る

今朝は午前5時前に起き、5時半、車で千葉駅に向かった。途中、JR品川駅あたりで信号トラブルがあり少し遅れたが、京浜急行鶴見市場駅には8時、熊野神社には午前8時5分に着いた。二日目になる「五十三次テクテク旅」は、ここ熊野神社からスタートだ。熊野神社は、徳川家康が入国に際し武運を祈った神社とのこと、私も道中の無事を祈った。

 桐の木が旅人の目を楽しませた?

午前8時15分、戸塚宿に向かって出発した。鶴見川を渡ると道の両側に桐の木がある。来年の芽がたくさんついており、多分、江戸時代もこのような桐の木が旅人の目を楽しませたのだろうと思った。これからも京までの五十三次沿いの植物を観察できるのが楽しみだ。


  街道を行く

 日本橋から五里二十九町
  (22.8Kmあたり)

 
  (横浜市鶴見区鶴見中央)
  「市場一里塚」は、左側が残っている

 すぐに五番目の一里塚、市場一里塚があり、その左側だけが残されていた。やがて、「国道」というJRの駅を通り過ぎると、生麦魚河岸通りとなり、少しだけ海の香りのする街道を黙々と歩いた。
 午前9時35分、市営バスの末広橋停留所で休憩し、バナナを食べた。やがて、京浜急行・神奈川新町駅を過ぎて、神奈川宿となる。

 東海道五拾三次 武蔵国
 神奈川宿

 人口:5793人
 総家数:1341軒
 本陣:2軒
 脇本陣:0
 旅籠屋:58軒

神奈川 [臺の景]
 
 
海辺の神奈川湊には、多くの廻船が出入りしており、宿場では巡礼と思われる親子など旅人が行く。
当時、神奈川宿は、台地の中腹にあり、海の景色が非常に良かったとある。

 
  「神奈川宿」

神奈川宿到着は、午前10時、ちょうど。
 神奈川宿は、日本橋から七里で、女性や足の弱い老人の一日の行程であったという。
  また、幕末の横浜港開港にともない、宿場内の寺院は諸外国の公館として使われたり、防衛のための台場が築かれたという。

  一見の価値がある神奈川地区センター

  神奈川宿では、横浜市神奈川地区センターがすごい。
  センター内には、わかりやすい資料、宿場町の詳しい模型の展示、さらに敷地内には実物大の高札場もある。旧街道沿いで近くにあった高札場を復元したものだという。

  五十三次、全般にわたり、勉強になった。一見の価値がある。

復元された高札場を見る
  神奈川本陣跡

 センターで勉強してから、旧街道、京浜国道に戻る。
 滝の橋を渡ると「神奈川本陣跡」さらに進むと陸橋の青木橋、眼下に東海道本線、横須賀線が見え、ガイドブックによれば、わが国初めての鉄道が開通した際の軌道跡の一部であるという。


  街道を行く

 日本橋から七里二十五町
  (30.2Km)

 
  (横浜市神奈川区台町)
実践的なマップ「宿場マップ 歩く・知る・発見する東海道!」

  午前11時20分、陸橋上台橋の橋詰で休憩、近くの公園のトイレを利用させてもらう。手持ちのマップとして利用している「宿場マップ 歩く・知る・発見する東海道!」(国土交通省関東地方整備局 横浜国道事務所)は役に立つ。実践的で史跡のほかにトイレの位置も明示しているので本当にありがたい。
 このマップを作成、配布(無料)している国、県、市町の関係者の方々に感謝、感謝。もちろん、「五十三次テクテク旅」の距離の測定にも利用している。

  

  保土ヶ谷宿の「江戸方見附跡」

 街道の路面に「旧東海道」と書かれたレリーフを見ながら直進すると、やがて、天王町商店街の中に保土ヶ谷宿の「江戸方見附跡」がある。さらに直進するが、ここはもう、保土ヶ谷宿である。

 東海道五拾三次 武蔵国
保土ヶ谷宿

 人口:2928人
 総家数:558軒
 本陣:1軒
 脇本陣:3軒
 旅籠屋:67軒

保土ヶ谷 [新町橋]
  新町橋を渡って宿場に入る。虚無僧や家来を連れた駕籠が行く。天秤を担ぐ者は家来であろう。
  橋の袂に「二八そば」の看板をだした蕎麦屋がある。この宿で一息入れて、権太坂を登るのであろう。

 
 「保土ヶ谷宿」

  江戸を出立した旅人が、戸塚宿まで、たどり着くのが困難な場合、最初の宿を、この保土ヶ谷宿にしたという。また、保土ヶ谷宿は、北に八王子道、南に金沢・鎌倉に至る鎌倉道があり、交通の分岐点でもあった。
  保土ヶ谷は、程ヶ谷ともいったようである。

  百年の歴史を持つ桑名屋の「宿場そば」をいただく
 東海道五十三次のあるガイドブックに「名物のうまいもの・宿場そば桑名屋の手打ちそば」とあり、おなかもすいてきたし、休憩もかねて、桑名屋に向かった。午後0時40分。
せいろ蕎麦
 桑名屋は、いかにも古く、室内も昔風、障子も黒ずんでおり、当時の宿場の雰囲気があった。1260円のせいろ蕎麦をいただいた。おいしかった。ごちそうさまでした。
 Jさんは、『きさくで知識が豊富なご主人に、更に話を聞いてみたい。』といって、取材を申し込む。私が記録係。「五十三次の出会い 2」 を見てね。)
  「本陣」の屋根付き通用門が残っていた
 旧街道に戻り、高札場跡を見て、JR東海道線の踏切を渡ると国道一号線と合流する。この合流地点に本陣があったが、今でも「本陣の屋根付きの通用門」が残っており、初めての本物にしばしの時間をかけた。
 本陣を過ぎて、国道を進むと一里塚と上方見付跡の説明板があった。ここまでが保土ヶ谷宿で、しばらく歩くと、国道は分岐、右手の旧街道を行く。
 最大の難関「権太坂」と投げ込み塚を行く
 そして、いよいよ、今日最大の難関、権太坂となる。私は登りが大の苦手、テクテクというか、一歩一歩、やっと歩を進めた。一番高いと思われる地点に着くと、急に展望が開けた。晴れた日には富士山が見えるとガイドブックにあるが、残念ながら、富士山は顔を出してくれなかった。
 更に、少し進むと「投げ込み塚はこちら」の説明板があり、旅の途中、権太坂で行き倒れた人を埋葬した場所との説明があった。
 権太坂は、近年改修工事により、緩やかになったといわれているものの、それでも私には堪えた。『江戸時代なら、私も投げ込み塚行きになっていたかも知れない。』そういったら、山男だったJさんが『私がおぶってやるよ。』と、言っているが当てにならない。
 ここには、権太坂にちなんだ名物菓子「ごんた餅」があるというので、菓匠「栗山」をさがしたが、見当たらない。時間もないのであきらめることにした。

  街道を行く

 日本橋から九里八町
  (36.2Km)

  権太坂
  (横浜市保土ヶ谷区権太坂)
  両側の塚が残る「品濃一里塚」に街道の面影を偲ぶ
 旧街道は下りになる。切通しになっている品濃坂を下ると、「品濃一里塚」だ。この一里塚は、両側の塚が当時のままで残っており、往時の街道の面影を偲ぶことができた。右手の一里塚には、大きなスダジイの木が、他の多くの木と重なり合って空を覆っていた。その梢の下で旅人は一時の休憩をとったのであろう。更に進むと旧街道は、歩道橋となって、環状2号線をわたった。
  ツッコミ・ボケ夫婦 ???
 戸塚宿近くになって、私は『同じ40キロメートルでも、私たちは二日かけてやっと到達するのに、マラソン選手は2時間と数分で走りぬける。アスリートってすごいね!』というと、Jさんは、なにボケかましているのか、『旅人(私たち)は歩いて2日、マラソン選手は走って2時間。基準が違う。私たちも走ってみれば2時間で行けるかも、それはやってみなければどうなるかはわからない。』と全く訳のわからないことを大きな声でいう。まだ、元気はあるみたいだけれど、ばかばかしくて相槌を打つ気もおこらない。これでは、テクテク夫婦は、ツッコミ・ボケ夫婦になってしまう。
  「戸塚宿」…午後4時1分
  やがて、戸塚宿の「江戸方見附跡」の碑があり、ここが戸塚宿の江戸方の入口、やがて、吉田大橋にさしかかり、広重の案内板のところで、戸塚宿、到着とする。午後4時1分
 戸塚宿は、江戸からの旅人が最初に泊まる宿場である。また、宿場の西にある富塚八幡宮の境内の古墳は、富属彦尊(とつきひこのみこと)のもので、その名から富塚(とつか)、戸塚(とつか)になったという説がある。
 東海道五拾三次 相模国
 戸塚宿

 人口:2906人
 総家数:613軒
 本陣:2軒
 脇本陣:3軒
 旅籠屋:75軒

戸塚 [元町別道]
  「こめや」と書かれた茶屋の軒先に「大山講中」「神田講中」等の講中が何枚もかかっている。講中仲間が宿泊できる安く安全な宿の意味らしい。
  馬に乗ってきた旅人が下りようとしている。


  街道を行く

 日本橋から十里二十七町
  (42.2Km)

  横浜市戸塚区元町交差点付近
  (横浜市戸塚区吉田町)
   権太坂、がんばった賞 ?
 歩いてJR戸塚駅に行く。午後4時12分、着く。
 戸塚駅まで、自分ながらよく歩いたと思う。(ご苦労さん)
 しかし、「権太坂がんばった賞」のごんた餅はどうなるのか、心残り。そういう心配をしてくれるのがJさんの役割だと思うが…。あとは電車で千葉に向かう。千葉駅にはちょうど午後6時、自宅に着いたのは午後6時40分だった。
  第二日目 2006年11月17日(金)

    前日までの距離      21.2Km(32、768歩)
  今日のコース [熊野神社]〜7.1Km~〜神奈川宿〜5.8Km〜保土ヶ谷宿〜9.4Km〜戸塚宿
  今日の歩行距離  22.3Km(今日の歩数 34、680歩)
  今日の歩行時間  7時間46分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から        43.5Km(67、448歩)
     京・三条大橋まで、あと 479.8Km
《参考》
  今日の全所要時間(自宅〜[熊野神社]〜戸塚宿〜自宅)13時間10分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)25.4Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
五十三次の出会い   桑名屋のおいしいそばと楽しいおしゃべり…
  出会いの人  : 保土ヶ谷宿 宿場そば「桑名屋」のご主人 Kさん
  出会いの日時: 2006年11月17日(金)午後1時5分



左の写真は、
桑名屋のご主人Kさん(左の方)と旅人のJ


  百年の歴史を持つ手打ちそばの「桑名屋」は、JR保土ヶ谷駅前にある。
  そのご主人に、話を伺った。また、桑名屋では、季節に応じて出される
 「季節の変わり蕎麦」がおすすめとか。


 J(私) : お店の名前が、「桑名」とありますが、東海道五十三次の桑名宿と
       関係ありますか?
 ご主人 : はい、あります。実は今から120年前に三重県の桑名から ここに
       越してきて、私で四代目です。
 J : やはり、お蕎麦屋さんだったのですか?
 ご主人 : はじめは、甘酒の曳き売りをやっていたようです。途中でお蕎麦屋
       さんをやったのですが、ここにある安藤広重の東海道五十三次の
       浮世絵「保土ヶ谷宿」を見てください。「二八」というお蕎麦屋さんが
       描かれています。五十三次の浮世絵の中で蕎麦屋が描かれている
       のはここだけです。
       それで、蕎麦屋をを始めたのです。

 J : 
五十三次に詳しいようですね。
 ご主人 : 実は「歴史の道 東海道宿駅会議」というNPO法人の役員を
     やっており、東海道沿いには、仲間がたくさんいます。
 J : ところで、蕎麦といえば「コメディーお江戸でござる」で
     お馴染みの江戸風俗研究家の杉浦日向子さんは、無類の蕎麦好き
     だったとか?
 ご主人 :杉浦日向子さんは、本当に蕎麦好きです。お会いしたことが
     ありますが、蕎麦のことでも江戸のことでも話し出したら止まり
     ませんでしたね。すごく楽しかったです。

  このほか、五十三次や蕎麦の歴史の話、近くテレビ取材があること
 など話は尽きなかったが、旅人、今日は、戸塚宿まで行かねば
 ならぬ。そのため、なるべく早く、発たねばならぬ。

  
十五分程度のおしゃべりであったが、すごく元気をもらった。
  こんな出会いがあるから、五十三次は楽しい。
 五十三次の旅人に、おいしい蕎麦と優しい声掛けをこれからもよろ
 しくね

五十三次の出会い 五十三次の出会い
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