日本列島徒歩縦断記

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北海道編              
【出発の日 7月20日:1日目午前】

 そして,1977年(昭和52年)7月20日,遂に計画を決行する時が来た。(ええ〜っ,28年も前のことじゃないか。)
 その日の東京は朝からうだるように暑く,午前中に30度を超えた。
 私はこの日のために綿密な計画を立てていた。
 住んでいる東京から北海道までは飛行機で行って,そして,北海道から鹿児島まで歩き,鹿児島に着いたら,再び飛行機で東京に戻る,という計画である。あれ,単純な計画じゃないか。
 しかし,この計画に異を唱える者がいた。曰く「わざわざ飛行機で北海道に行って,鹿児島からまた飛行機で東京に戻ってくる?何考えてんの。飛行機代がもったいないじゃないか。しかも,北海道に行ったら,次の飛行機に乗るために,鹿児島まで歩いて行くだと〜。バカ言っちゃ〜いけないよ。飛行機の乗り換えってぇ〜のは空港内でやるもんに決まってら〜な。」と。
 だはは,そりゃそうだ。

 それはそれとして,その日の朝,当時住んでいた東京都文京区の寮を出るときに,先輩達の見送りを受けた。
 この寮は目白台にあり,寮生は東京都内の大学生である。広大な敷地の中に,西寮,東寮,北寮の三つの寮に分かれ,当時は一つの寮に約150人,三つの寮を合わせると450人ほどがいた。この学生寮の面白いところは,一つの大学ではなくて色々な大学の学生が住んでいる,という点である。ほとんどはいわゆる東京6大学の学生であった。
 私を見送った先輩達に「おお〜,アイツがまたおかしなことを始めたぞ」と思わせたとしたら,それは私にとって本望である。何しろ,非常識なことをするのが当時の寮生のステータスだったから(呆)

 羽田空港にも友人が見送りに来てくれた。
 確か午前11時頃の飛行機だったと思うが,千歳空港行きの飛行機に乗っていよいよ北海道へ。
 ま,しかし,この一ヶ月後には,今度は歩いて北海道から東京まで戻ってくるんだがら,呆れた話である(笑)
 この日,東京は午前中で既に気温30度を超える暑さになっていた。




【北海道に到着 7月20日:1日目昼】

 千歳空港で乗り換えた稚内空港行きの飛行機はYS−11。
 今日から歩く北海道を空の上から見ようとしたものの,あいにく雲が広がっていて何も見えない。
 そして,着陸した稚内は霧だった。しかも気温17度で寒い。
 朝,羽田を出るときには30度を超えていたのに,一気に13度も気温が下がると体感気温は突然冬になったと同じである。東京は真夏だったから来ていた服はTシャツ,短パン。なおさら寒さを感じた。

 稚内空港からバスで稚内市街地に到着し,先ずは昼食。
 その後,スタート地点に決めていた稚内市役所に行って,そこで日本列島徒歩縦断のスタートの証明書を書いて貰った。
 それが下の証明書。

               



 稚内市役所の総務課長さんが言っていたが,北海道・鹿児島間の徒歩による縦断に,年間に何人もの人が挑戦するとのこと。しかし,成功するのは2〜3人らしい。
 その話を聞いてちょっと心配になった(笑)
 その総務課長さんからは,途中の心構えと最後まで頑張るようにとの激励の言葉をいただいた。本当に有り難かった。
 




【いよいよ3,000キロ走破を目指してスタート 7月20日:1日目午後】

 そして,7月20日午後2時30分,稚内市役所を職員の人達に見送られて,一路鹿児島を目指し,3,000キロの日本縦断の旅の第一歩を踏み出した。
 
 それまで体験したことのない3,000キロもの途方もない長い道のりを目の前にして,最後まで歩けるのだろうかという少しの不安と,それを大きく凌ぐ「絶対に最後まで歩き通すぞ」という闘争心を胸に抱きつつ,静かに歩き始めた。何事にもクールを装うのが男の美学である。でも,この時は,寒くて体がかじかんでいただけであったが。

 しかし,何はともあれ,3,000キロもの長旅の記念すべき1日目である。寒い中にも,やはり色々準備してきて,いよいよ始まったという感がフツフツと湧いてくる。
 日本海側,すなわち北海道の西側のコースを南下することにしていたので,稚内の市街地を一旦東方向へ歩き,空港方向へ1時間近く戻ったところの交差点を右折。今度は南へ延びる国道40号線を進む。
 国道40号線に入ったら民家が急に少なくなり,目の前には広大な草原が広がり始めた。
 これが幕別平野である。
 おお〜,これが北海道か〜,広いな〜,雄大だな〜,ゴミゴミした東京とは全然違うな〜,う〜ん,景色は良いし快調,快調なんて思いながら,一路南へ,南へと歩いた。気分は念願の舞台に立てた喜びでルンルンである。

 ところが・・・ところがである。その喜びは長くは続かなかった。
 先ほどあんなに大きかった闘争心もどんどん萎んでいくではないか。
 歩き始めて1時間もしないうちに睡魔が襲ってきて,眠くて眠くてフラフラ,思考能力停止である。考えてみれば,前夜,寮の仲間と壮行会と称して遅くまで呑んでいたのがいけなかった。
 まだ少ししか歩いていないのに,さっそくダウンである。
 仕方がないので少し寝ようと思って横になったが,今度は寒くて寝るどころではない。仮にそのまま寝込めば間違いなく風邪をひいてしまう。
 再び立ち上がって歩き始めた。
 しかし,行けども行けども果てしない草原が広がり,その先は霧で見えない。
 人家は無いし,車はほとんど通らず,段々と不安になってきた。そう言えば,今夜の食事は途中の食堂で食べようと思っていたけど,果たしてこの先に飲食店があるのだろうか。
 3時間半ほど歩いた午後6時頃,辺りが薄暗くなってきた。
 食堂はあきらめて,仕方なく1日目の宿泊場所を探していたら,小学校の門が見えた。
 校門には「サラキトマナイ小学校」と書いてある。
 今夜の晩ご飯は万が一のために買っていたパンでしのぐことにし,今夜はこの小学校の校庭で寝ることにした。
 でも,無断で泊まることは非常識である。当時も今も非常識な私ではあるが,それぐらいの常識はあるので,一応,学校の先生に許可を受けることにした。
 普通,小学校には校長官舎が隣接している。サラキトマナイ小学校の場合は,ほかに家が無かったので,捜さなくても校長官舎は直ぐに分かった(笑)
 官舎を訪ねて,恐る恐る校長先生に「校庭の端っこにテントを張らせて欲しい」とお願いしたら,気さくな校長先生は快く認めてくださった。
 それだけでなく,校長先生は私を自宅に呼び,暖かい食事まで出してくれた。寒さで冷え切った体も,腹ぺこで気力が萎えていた心までもが元気になった。
 そして校長先生が「若いときの挑戦は必ず人生の糧になる。最後まで頑張りなさい。」と励ましてくれた言葉は,それからの62日を歩き通す支えになった。
 この後も,同じようなもてなしを何回も受け,また,多くの見知らぬ人達から励ましの言葉をもらった。人生経験の少ない若い私には大変ありがたく,人の世の情けの大切さを勉強できた。そのことだけをもってしても,この馬鹿げた日本列島徒歩縦断はやって良かったと思う。
 こうして3,000キロ日本列島徒歩縦断の1日目は,やぁ〜と終わったのである。
 ちなみに,この日は15キロの前進。



 







【サロベツ原野 7月21日:2日目】
 
 サラキトマナイ小学校を午前5時15分に出発。
 国道40号線をひたすら南へと歩く。
 この日もどんよりとした雲が漂う曇天。

 国道40号線の右(西)側には広大な天塩平野が広がり,その中には,食虫植物が自生していることもで知られているサロベツ原野がある。
 
 幌延に午後4時に到着。
 足の痛みがきついのと,次の町までが遠いので,この日はここで終了,大きな建物の軒下で野宿することにした。
 夕食はカップ麺1個。











【日焼け 7月22日:3日目】
 
 朝7時に出発。
 幌別の南端で,国道40号線を右折して,今度は海岸線沿いに走る国道232号線に出る。
 この日は昨日までとうって変わって雲一つ無い晴天。この日以降,北海道では快晴が続くが,まさか,北海道の紫外線が日焼けを通り越した火傷を引き起こすことになるとは,この時は考えもしなかった。この話は第3章にあり。

 国道232号線沿いの景色は,右(西)側は日本海になっており,反対方向の左(東)側方向は平野若しくは緩やかな丘陵である。
 どちらも木が全く無いため,休憩をするときも直射日光を避けることがなかなか出来ない。建物でもあれば,日陰を借りるのだが,次の建物まで2時間も3時間もかかるのである。
 仕方無く,道路沿いにある電柱の陰に立ったままで直射日光を避け,休憩した。

 途中,天塩町を通過。
 午後5時40分,遠別町の川の原っぱでキャンプすることにする。
 川で洗濯をして,脱水は近くの家の洗濯機を借りた。
 夕食は遠別の食堂でラーメン&ライス。私が徒歩で鹿児島を目指していることを知った店のおかみさんが料金をまけてくれた。北海道では何かにつけ,こういった人情の厚い人達との出会いがあって,弱虫の私を助けてくれた。二十歳の私にはどれもこれも心に響き,何にも代え難い勉強をしたと思っている。
 
 この日,足にマメが出来た。この後,マメが同じ場所に次々に出来るのだが,その話は第三章で。
 










【海水浴 7月23日:4日目】
 
 朝6時30分にテント撤収,出発。
 昼に初山別村を通過。
 羽幌町に午後6時10分着。
 この日は羽幌町の羽幌海水浴場でキャンプ。
 直ぐに海に入って泳いだ。日焼けで痛み出した肌がひんやり冷えて心地良い。でも,やはり北海道の海だ。海水がとても冷たくて長く入っていられない。
 海から上がって海水浴場のシャワーで体を洗った。4日振りである。この後分かるのだが,4日振りはまだ良い方だった。もっと長い間,風呂に入れなくなるのだ(笑)
 
 北海道の夏は短い。
 その短い夏を楽しむため,北海道の人は泊まり掛けで海水浴場に来ているので,海水浴場はキャンプ場にもなっている。今はどうか知らないが,どこの海水浴場もテントでいっぱいだ。
 この夜も沢山の人達がキャンプをしていた。












【海と平野 7月24日:5日目】
 
 羽幌海水浴場を朝8時30分に出発。
 早くも疲れがきているのだろうか,朝起きるのが辛くて出発が遅れた。
 午後6時に小平町の花岡海水浴場(キャンプ場)に到着。ここでキャンプ。

 この日も昨日に引き続き,ひたすら国道232号線を南下した。
 右には日本海,左には平野と羽幌線の線路があるだけ。他には何もない。木の1本も生えていない。
 歩いても歩いても次の町にたどり着かない。
 直射日光がアスファルトで照り返して猛烈に暑いし,日焼けした肌は徐々に水ぶくれが出来始めて火傷の状態になって痛み,背中に背負っているバックは肩に食い込んで,足は棒のように疲れ,思考能力さえ低下してきた。
 こうなると,何度もくじけそうになる。
 そんなとき,羽幌線を走る列車に乗った人達が窓から手を大きく振って「お〜い,頑張れ〜」と声を掛けてくれる。
 その声援でまた歩き出す。
 しかし,またフラフラになって倒れそうになる。苦痛のために涙までこぼれてしまう。
 すると今度は,車に乗った人達が「頑張れー」と大きな声で励ましてくれる。
 こんな励ましがあったから次の一歩を踏み出すことが出来た。 
 みんな知らない人ばかりだが,28年経った今でもその声と光景は記憶の中に残っている。












【内陸コース 7月25日:6日目】

 花岡海水浴場を午前7時30分に出発。
 この日も国道232号線をひたすら南下。
 午前11時に留萌に到着。
 そのまま留萌市街地を通り抜け増毛町に向かう日本海沿いコースも考えたが,地元の人に聞くと道があまり良くないらしい。
 そこで,留萌から内陸側に入って国道233号線を進む内陸コースを選択。
 留萌を左折し,それまでの海沿いの平坦コースから一転して,山道を進むことになった。
 アップダウンでヒーコラ言いながら歩いていると,トラックがクラクションを鳴らしてくれたり,列車に乗った人達が手を振ってくれた。
 
 留萌市立峠下小学校に午後5時30分着。
 許可をもらってここでキャンプ。

 この日の食事。
   朝  玉子丼1個
昼  パン1個
夕食 カップ麺1個
 何とも寂しい食事である。お金がないので我慢しているのだ。この頃はまだ我慢が出来た。あとになると定量知らずの食事になるが(笑)













【民泊 7月26日:7日目】

 午前5時15分に峠下小学校を出発。
 南東に歩いていた国道233号線を途中で右折し,275号線を南下。

        
               国道275線。一直線の道路がはるか向こうまで続く。


 午後4時40分に新十津川町役場に到着。ここで通過証明書を書いて貰う。
 すると役場の中に私の大学の先輩がいるという話が出て,その夜はその先輩の家に泊めていただくことになった。
 先輩と言っても,50歳代の大先輩である。
 久しぶりに寝る布団は気持ちが良く,朝まで熟睡した。
 
 役場の助役さんが「頑張りなさい。」と言って餞別をくれた。通りすがりの若造に,身に余る心遣いである。

 












【 7月27日:8日目】

 泊めていただいた先輩の家で朝食を食べ,午前6時に出発。
 昼飯のおにぎりまでいただいた。

 この日は国道233号線を一直線に南下。
 ドライブインの駐車場にある大きな木の下で,昼食のおにぎりを食べていたら,ドライブインの経営者風の人がタラの干物をたくさんくれた。ドライブインを利用した訳でもないのに,親切な人である。

 午後6時に月形町立中和小学校に到着。
 校庭でキャンプすることの承諾を貰いに校長官舎に行ったら奥さんしかいなかったが,OKであった。お茶までいただいたので,タラの干物)をお礼に差し上げた。
 











【北海道大学 7月28日:9日目】

 中和小学校を午前5時に出発。
 札幌市役所に午後4時20分着。通過証明を書いてもらう。
 北海道大学に午後5時20分着。

 札幌市内を通過するときは,札幌大学に立ち寄って,クラーク博士の銅像を見ることにしていた。
 あの「少年よ,大志を抱け」のクラーク博士である。
 北大に着いたのが夕方だったので,今夜はそのまま北大の中に泊めてもらおうと思って,正門の守衛室に「中に野宿させてもらえませんか。」とお願いした。
 しかし,大学構内に野宿することは禁止されているとのことで,諦めて引き返そうとしたら,守衛の人が小さな声で「目立たないところに寝なさい」と言ってくれたではないか。
 こういうことは何だか嬉しい。お礼を言って構内へ。
 大学の構内に入って,先ずクラーク博士の銅像と「少年よ,大志を抱け」のプレートを見に行き,よし,これで自分も大志を抱く少年になったと思った(笑)
 ところが,今では大志にボーがくっ付いて,「中年よ,タイシボーを抱け」・・・体脂肪を抱く中年である。

 当時は「大志を抱け」と良く言われていたものだが,近年は死語になったのか,あまり聞かない。

 夜になって雨が降り出し,その音で目が覚めた。
 でも,校舎の大きな軒下に寝ていたので,濡れることはなかった。これも守衛さんの思いやりのお陰だと感謝しながら,また夢の中に入っていった。

 この日,荷物を軽くするために,バスタオル,ヘッドランプ,シェラカップ,三脚,衣類の一部等を東京に送った。


                
                              札幌駅にて



             









 

【中山峠の熊 7月29日:10日目】

 北海道大学を午前7時30分発。
 キャンプ地に午後6時20分着。
 
 札幌から函館までのコースは,東回りの苫小牧経由のコース,西回りの小樽経由のコース,それにその中間で中山峠経由のコースがある。
 アップダウンは激しいけど,距離的に短い中山峠経由のコースで進むことにし,札幌市街地を真駒内方向に行き,そこから国道230号線で中山峠を目指した。
 しかし,行けども行けども登りの坂道が続き,この日の歩行距離は32kmだけに終わった。


 北海道には至る所に「熊注意」又は「熊出没」の看板が立っている。
 平野や人家がある所はまだ良いが,問題は山道である。
 特に,札幌市から洞爺湖方面まで行くときに越える国道230号線の中山峠は,毎年9月中旬〜下旬になると「北海道の中山峠に雪が降りました」とニュースで放送されるほどの山深いところだ。北海道でも最も早く雪が降る所の一つであり,ここの道は,大自然の中にある険しく長い山道なのだ。まさに,熊出没常習地帯である。
 道路脇に立っている「熊注意」の看板を見ながら中山峠を目指して歩いていたら,途中で日暮れが近づいてきた。中山峠はまだまだ十数キロ先なので,交通事故防止(北海道の夜間の山道は非常に危険。車が猛スピードで走っていく。)のことも考えて,途中で泊まることにした。
 泊まると言っても,前を見ても後ろを見ても山しか見えない所である。
 道路から数メートル入った所に程良い平地があったので,そこにテントを張ってキャンプすることにした。先ほどの「熊注意」の看板から50mぐらい行った所であるが,他に適当な場所もなかった。
 この日は,最初から中山峠まで行けないことを予想し,夕食用と翌日の朝食用のパンだけは準備していたので,パンを食べてテントの中に8時過ぎには寝た。
 そして,何かの音で目が覚めた。時計を見たら10時だ。
 車の音だったのかなと思っていたら,また聞こえてきた!
 「グォォォ〜」「ウォォ〜ォ」
 おお,太く低いこの声は間違いなく熊の咆吼だ。
 しかも,それほど遠くない距離にいる。
 一瞬体がこわばると同時に,右手が無意識にシャモニーナイフを握りしめていた。
 近くで見た「熊注意」の看板のこともあって,危機が切迫していると感じざるを得なかった。日本徒歩縦断の旅,最大の危機である。
 鳴き声は,止んだかと思うとしばらくしてまた吠える,その繰り返しだ。
 その声からして熊は複数いるようだ。
 テントの外は真っ暗闇である。山奥の中だから明かりは全く無い。暗闇の中でこだまする熊の鳴き声がさらに恐怖をあおる。
 もし,熊が襲ってきたらどうしよう。近くに逃げ込む家は無いし,車も全く通らないし・・・,やはり死んだ振りをして動かないのが一番良いのだろうか。
 そんなことを考えながら,やがて決心した。そうだ,俺はその他大勢の弟子の中の一人にすぎないが,一応大山倍達先生の門下生じゃないか!大山館長は牛を素手で殺し,その弟子のウイリー・ウイリアムスも素手でグリズリーを倒したではないか!
 その門下生が熊に恐れおののいていたのでは,極○空手の名折れになる。大山館長に会わせる顔が無い(池袋の道場でお顔を数回拝見しただけであるが/笑)。ここは覚悟を決め,腹を据えて,熊と戦うしかない。よし,戦おう!
 そう決意してシャモニーナイフを右手にぐっと握りしめ,靴を履き,何時でも戦える状態でテントの中に座り応戦体制をとった。
 その後,1時,2時と時間は過ぎていくが,熊は一向に襲って来ない。
 しかし,油断はならない。鳴き声は相変わらず時々している。もしかしたら,私が寝込むのを待っているのかも知れない。そうか,きっとそうだ,寝たら襲われるぞ,まだ死ぬわけにはいかない,絶対に寝ないようにしなければ!
 誇張気味ではあるが(笑),不安があったのは確かである。

 誰もいない山奥の中で,聞こえるのは熊の鳴き声だけという実にスリリングな夜は,時間だけがゆっくりと過ぎて,気が付いたら午前5時前になっていた。
 「明るくなったら熊も出てこないだろう。よし,撤収だ,こんな所に長居は無用だ。」とテントを3分で片付けて,中山峠を目指し歩き始めた。
 そこから200mほど進んだところで,信じられないものを目にした。
 「熊牧場」の看板である。
 ゲゲェ〜,そこには何と「熊牧場」があるではないか!
 と言うことは,夕べの熊の鳴き声はここの熊達だったのか〜(唖然)
 かくして,睡魔と戦いながら徹夜で臨戦態勢をとっていた昨夜の行動は,全てが無駄だったことが判明し,全身から力が抜けていった。
 この後,熊牧場から中山峠までの,何とも足取りの重いことと言ったら無かった。
 












【留寿都村小学校の子供達 7月30日:11日目】
 
 国道230号線沿いの空き地のキャンプ地を午前5時に出発。
 そこから中山峠までの約15kmは,最後まで急な登り坂が続き,国道を車にも乗らずハァハァ喘ぎながらの歩行は,傍目から見れば「何やってんだ〜,アイツ」である(笑)
 登りがあれば,必ず下りがあるんだ,頑張れ!と自分を励ましながら登ったこの坂,結構疲れた。
中山峠には午前8時30分着。


                        


 少し休憩してから,今度は下りである。
 喜茂別川沿いに国道230号線を下っていくと,右前方に標高1,893mの羊蹄山が見えてくる。北海道富士と呼ばれる美しい山である。

 喜茂別町まで来るとやや平地になる。
 更に230号線を進み,午後5時半に到着した留寿都村の留寿都小学校でキャンプをすることにした。
 先ず校長先生の承諾を貰って,それから校庭の隅にテントを張った。
 すると,テントが珍しいのか,それとも真っ黒に日焼けした旅行者が珍しいのか,いつの間にかテントの周りには物珍しげに子供達がたくさん集まってきた。15,6人ぐらいだっただろうか。
 子供達は好奇心の固まりである。どこから来たの?,どこへ行くの?,どうしてそんなことをするの?次から次に質問してくる。もう大騒ぎだ。
 その子供達と野球をして遊んだ。久しぶりに楽しんだ。
 一旦家に帰って夕食を済ませた子供達が,テントの所に再びやって来た。
 スイカや餅まで持ってきて差し入れてくれたではないか。本当にありがとう。
 子供達の帰りが遅くなるといけないので,「親が心配するから早く帰りなさい。」と言ったら,「親に言ってあるから大丈夫」とのこと。結局,10時前までの2時間半ほどワイワイ話した。
 この時の子供達のキラキラした目は,夜空に光る星よりも輝いて見えた。













【洞爺湖 7月31日:12日目】

 留寿都小学校を午前6時に出発。

            
               見送りに来てくれた留寿都小学校の子ども達

 昨日の子供達が5人,出発を見送ってくれた。
 早い子供は5時前には既に来た(驚)
 5人は途中まで一緒についてきた。
 私の冒険を一緒に体験したかったのもあったのだろう。
 あまり遠くまで来ると帰りが心配だったので,途中で「ここで良いよ」と言って止めた。 その後,5人の子供達は私が見えなくなるまで大きな声で叫びながら,手を振り続けてくれた。
  「さようなら」
  「頑張ってね」
  「元気でね」
  「また会おうね」
と・・・・。
 その気持ちが嬉しくて,不覚にも子供達の姿が滲んで見えた。

 そんな寂しさと嬉しさが入り交じった気持ちを胸の奥に刻み込んで,更に前へと歩く。

 昼頃に洞爺湖の湖畔を通過。
 この1週間後の8月7日、有珠山が大爆発して,洞爺湖周辺の町は大打撃を受けた。
 幸いにも私は間一髪でその被害から逃れることが出来たが,私を見送ってくれた留寿都小学校の子供達は大丈夫だったのだろうか。
 
 この洞爺湖は北海道でも美しい湖の一つである。
 いつかまた来てみたいと思わせる雰囲気がある。
 その機会は結婚してからあった。
 平成7年8月,家族で洞爺湖を訪れることが出来た。
 あの時から18年経った洞爺湖周辺の町は大爆発の被害から復興し,美しい洞爺湖が戻っていた。

 この日は,朝食代に予定以上の経費を使ってしまったので,やむなく昼飯抜き。何しろ金が無いので節約せざるを得ない。

 洞爺湖から近道を通って,内浦湾沿いに走る国道37号線に出て函館方向へ。
 豊浦町を午後3時通過。
 室蘭本線大岸駅近くにある大岸キャンプ場に午後6時20分着。












【歌とさざ波とイカ釣り船 8月1日:13日目】
 
 寝坊したため,大岸キャンプ場を出発したのは7時。
 静狩に入ったら,国道37号線は内浦湾に沿って南へ一直線に延びている。気持ちが良いほどの直線だ。北海道の雄大さを感じる。
 
 長万部を午後2時30分通過。
 長万部からは国道5号線を歩く。
 遂に,国道5号線である。北海道の5号線から東北の4号線,東海道の1号線,山陽道の2号線,九州の3号線と続くのだ。
 
 国縫に午後6時着。

          

 この日は国縫の砂浜でキャンプすることにした。(上の写真)
 見渡す限り砂浜が続いている。
 浜にテントを張り,近くの水道を借りて,体を拭き,洗濯を済ませ寝るだけにしてから,砂浜の波打ち際に座った。
 夜空には満天の星が輝き,目を閉じれば,ザザー,ザザーと渚に寄せては引いていくさざ波の音が心を静めてくれる。
 遠くにはイカ釣り船の漁り火が見える。
 周りには誰もおらず,一人だけの世界だ。
 時を忘れてさざ波の音に聞き入っていたら,いつの間にか近くに来た女性が「隣りに座っていいですか」と話しかけてきた。
 鼻筋がきれいに通った知的な感じのする30歳代のその女性は,忘れたいことがある時に,こうやって海岸に来て海を眺めるのだそうだ。海を見ていると嫌なことを忘れ,また明るい気持ちになる,と言っていた。
 今夜も忘れたいことがあって,海に来たのだろう。
 「世の中って,色々なことがあるもんね」
 「そうなのよね〜。本当に色々あるわ」
 「それも人生だね」 
 「人生なのよね・・・・」
 
 しばらくして彼女が一人静かに歌い出した。
 やさしいその歌声とさざ波の音,それは渚のシンフォニーだった。
 











【台風接近 8月2日:14日目】

 台風の影響で朝から大雨。昨夜の星空が嘘のようだ。
 このため出発に手こずり8時30分に国縫のキャンプ地を出発。

 雨の中を函館に向けて国道5号線を南下。
 途中,国道5号線は八雲町で向きが東南東に変わる。

 国縫から45km行った落部にあるドライブインに午後5時。
 ドライブインの許可を貰って敷地の隅にテントを張らせてもらう。












【お寺の庭に野宿 8月3日:15日目】

 落部を午前4時20分に出発。
 函館港まで後7kmの所にある函館市の桔梗に午後5時15分着。
 この日は50kmほど進んだ。
 明日は本州入りだ。
 
 桔梗では住職さんにお願いして,お寺の境内にテントを張らせてもらった。

 函館に着いたら,銀行でお金を引き出すことにしていたので,寺の住職さんに○井銀行がどこにあるか調べて貰ったら,大変なことが分かった。
 その銀行が函館にはないのだ。
 今ならどこの銀行でも降ろせるが,当時はそれがなかったので,他の銀行でも降ろせない。
 残り1,200円しかない。
 本州を前にして,遂に餓死か!
 と思っていたら,住職さんが「局止めの郵便為替と言う手がある」と教えてくれた。
 住職さんは,私が鹿児島の実家にかける電話まで貸してた。本当にお世話になった。

 子供は何でも興味を示す。桔梗のお寺にテントを張ったら物珍しげに子供達が直ぐに集まってきた。
 その子供達と仲良しになって,色々とお話をした。
 途中でいなくなった子が蚊取り線香を持って帰ってきた。私が「北海道の北の方には蚊はいなかったが,こっちの南には蚊がいて大変だ」と話したのを聞いて,持ってきてくれたのだ。何と優しいのだろう。

 その夜は,仲良しになった子供の家に呼ばれ,風呂に入れてもらい,食事までいただき,しかも最後は泊めてもらった。
 見も知らぬ者に何故ここまで親切にできるのだろうか。感謝の連続である。
 











【北海道から本州へ 8月4日:16日目】

 朝から大雨。
 実家からの郵便為替を午後2時に受け取り,桔梗を出発。
 函館市役所で通過証明を書いてもらって,午後5時15分にフェリーターミナル着。
 
 午後6時15分発のフェリーに乗って,北海道を離れることになった。
 苦しくて辛い北海道だったのに,いざ離れるとなると寂しい気持ちになる。
 いずれにせよ,強烈なインパクトを私に与えた北海道であった。
 もう二度と来る機会はないかも知れないと思っていたが,
 我が青春の思い出の北海道には,嬉しいことに,この後4回も行くことになる。

 津軽海峡を渡る青函連絡船は大きく揺れた。
 横殴りの雨と高い波は台風の影響だろう。

 午後11時,青森県野辺地港に船は着いた。
 いよいよ今度は本州だ。
 しかし,まず,寝る場所を確保しなければならない。
 大雨の中を野辺地駅に行って,駅員に「駅に泊めて欲しい」と頼んだが,最終が出たら閉めるのでダメとのこと。冷たいな〜。いきなり北海道と違う人情に戸惑う。
 
 仕方なく,4号線を南下しながら寝る場所を探した。
 午前1時半,4号線沿いに空き地を見つけて,そこにテントを張って寝た。

 本州はいきなり大変なスタートになった。さて,この先無事に歩くことが出来るのだろうか。





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    第1章 Why?   


    第2章 3,000km&63日
        北海道編 
        東北編 
        関東・中部編  
        関西・中国編  
        九州編  


    第3章 あんなこと,こんなこと
        パート1
        パート2
        パート3
        パート4
        パート5 





 
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3,000km 一人旅
第2章 3,000キロメートル&63日間
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