夕螺の読書ページへようこそっ!! 2006年8月から2007年1月までに読んだ本です。。 直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。 こちらに収められた作品は、以下の本たちです。 「タトゥーへの旅」 銀色夏生 「風に舞いあがるビニールシート」 森絵都 「八月の路上に捨てる」 伊藤たかみ 「ものを作るということ」 銀色夏生 「デッドエンドの思い出」 よしもとばなな 「うらない」 銀色夏生 「ヘヴンリー ブルー」 村山由佳 「阿房列車」 内田百 「ざらざら」 川上弘美 「やがて今も忘れ去られる」 銀色夏生 「ハヅキさんのこと」 川上弘美 「真鶴」 川上弘美 「無辺世界」(新潮文庫版) 銀色夏生 「若者はなぜ3年で辞めるのか?」 城 繁幸 |
タトゥーへの旅 |
角川文庫 |
銀色 夏生 著 |
先に出版された「女っておもしろい」の中に、「エイジくん」がタトゥーを彫りに秋田に行くというのでついていくというお話がありました。この秋田の旅の中での夏生さんと「エイジくん」とのおしゃべり本です。「おしゃべり本」第2弾。 本には「エイジ君」のプロフィールはなく、前書きに換わる「『タトゥーへの旅』のいきさつ」には、「エイジくん」について 「エイジくんっていうのは、1988年4月に出した『LESSON』という本の中で、写真を撮らせてもらった人のうちのひとりです。」 と、書かれています。 日記エッセイ「つれづれノート」シリーズの中にも「エイジくん」「エージくん」として登場しますが、同じ方だと思います。現在でも時々会う夏生さんとは古くからのお友だちです。「LESSON」当時は、10代だと思いますので、現在30歳後半だと思います。本文中には、「LESSON」で使われた写真もありますし、現在の「エイジ君」の写真もあります。職業は、やはり音楽関係?の雑誌の仕事をしていらした(やっている)ようでインタビューに行ったという記事が出てきます。 本文中に、「カネミツ」という夏生さんと「エイジくん」共通のお友だちの名前が出てきますが、「カネミツ」という名は、「Go Go Heavenの勇気」の本文中にでてきますし、「タトゥーへの旅」本文中(54頁)にも「LESSON」の時に少し写真をとらせてもらったとありますし、興味深いです。同じ方だとすれば、「いきさつ」にある 「友だちの友だちで、家に遊びに来て、知り合った」 という友だちとは「カネミツ」?とも想像してしまいます。本文中の「カネミツ」、「エイジくん」、夏生さんの関係については、「つれづれノート」にもでてきます。 「LESSON」「Go Go Heavenの勇気」は、3ヶ月の時間をおいて次々へと出版された本ですが、夏生さんも46歳。。。お二人は約20年という時間が経た今でもそんな若い頃の思いでも感じあいながらおしゃべりをしたのではないかと思います。 「(エイジくんがいった言葉で、)話してもだめな人と関係を切れない状況って、けっこう地獄ですね」(背表紙より引用) これは生活上での一般的な話というものからくる言葉だと思いますが、「おしゃべり本」シリーズ1として出版されたトゥトゥさんはもちろん、今回の「エイジくん」、そしてこれから出版される2冊も、夏生さんがゆったりとお話ができる古い友人としても、ツーカーの仲というのか、そういう中間としての打ち解けた雰囲気が伝わります。 「タトゥーへの旅」は、タトゥーを彫るということはどのようなことなのかというような一つのテーマによっておしゃべりが続いていくといった中身ではなく、古くからの友人「エイジくん」との楽しいおしゃべりというものそのものがこの本から伝わるものだと思います。 ですからお二人のお話は様々な中身のおしゃべりとして展開されていきます。 「女っておもしろい」のトゥトゥさんとのおしゃべりは、今の社会での「女の生き方」というものがある程度出ていましたが、今回は特殊な世界であるタトゥーのお話ですから、夏生さんの予備知識や考え方も足りなかったのか?タトゥーのお話しそのものを通じての直接的な「エイジくん」の生き方は足りなかったと思います。これはテーマということからの感想です。 それでも、「エイジくん」のこれまでのお仕事のお話や会社でのことなど、やはり「エイジくん」もアウトローな生き方をしている方なのでしょう。このアウトローというのは、「女っておもしろい」にもでてくる意味でのアウトローであり、「話してもだめな人と関係を切れない状況って、けっこう地獄ですね」という「エイジくん」の生き方が垣間見えます。 「エイジくん」のタトゥーを彫る問いことは、あうとろーな生き方しかできない中での一つの形ではないかと思います。この形に現すというのは、ある願いや希望を実現するまでお茶や酒を断つというような形もありますが、人というのはみんな弱いもので、心の中の決意を自分でいつも見つめるためには、いろいろな形というものが必要なのかもしれません。「エイジくん」が睡眠薬に頼ったお話と、このタトゥーを彫るということの関連性についていろいろ考えさせられました。 これからもこういう生き方(ある意味でのアウトローな生き方)をして行くんだというような思いが伝わるような気がします。夏生さんご自身も自分の生き方をアウトローとしますし、作家という職業という面でもその中ではアウトローでしょう。「つれづれノート」にでてくる生活や人との関係においてもアウトローでしょう。やはりここでもトゥトゥさんとの関係と同じく「エイジくん」との関係でも「生き方」というものが伝わってきます。 この意味でのしんみりとしたお二人の会話はおもしろいと思います。夏生さんと「エイジくん」とは、約10歳ほどの年齢差がありますが、その中での、「エイジくん」の夏生さんへの心くばりと落ち着いた雰囲気・・・そして夏生さんの「エイジくん」への年上としてのそして女性としてのいたわり・・・お二人の暖かいふれあいを感じます。 僕は、「Go Go Heavenの勇気」の感想の中に、 「ツッパリといってもどこか偏差値の高いツッパリというのか、悪いことばかりをするグループというよりも、大人社会に反発をしたりいろいろなことを感じ考え生きているというものを感じます。ある意味では純粋に生きている若者たちという印象を強く受けます。 純粋だからこそその恋は傷つけあったりします。 そんな恋を感じます。 これといったはっきりとした未来が見えず、そのために今何をしたらいいのか、そんなことわかるはずもない青年たち。毎日すぎていく時間、その中に現れていく周りの事象。振り回されたり、逆らったり、不安を抱いたり、友達の中に現れるいろいろなこと。。。。そんな毎日の時間の中を必死に生きる青年たち。 大人たちが忘れた純粋さがありました。 こんなツッパリ。 夏生さんのその後の生き方は、この青春時代の純粋さ、先に書いたようなツッパリをそのままに生きているという感じがします。 若いころに突っ張るのは簡単です。でも社会に出ていろいろな不純物に対して純粋さを守る、こんなツッパリは難しいのです。 そんな生き方に共感をする僕です。」 と、書きましたが、今回「タトゥへの旅」を読んで、またこの感想を思い出しました。 2006年8月14日 記 夕螺 |
風に舞いあがるビニールシート |
文藝春秋 |
森 絵都 著 |
<2006年上半期直木賞受賞作> 表題作の「風に舞いあがるビニールシート」を含め、六つの短編からなる短編集です。先に読んだ篠田説子さんの短編集「レクイエム」にあとがきにある 「作品を1作ごとに気分を変えつつ読まれ、全体のテーマを感じとっていただければ、たいへんにうれしい。」 という意味において、この作品も短編集の一つの表現方式に沿った短編集であると思う。 一つひとつの短編がテーマ的には複雑なところで絡み合いながら進むが、最後に全体的な感想の中に何か心の中に残る。この残るものもあんがい複雑である。 僕はタバコを吸う。たしかに吸わない人に迷惑をかけているかもしれない。しかし、一部の人の中には、タバコ税を上げて一箱500円や1000円にすればタバコをやめる人が多くなり禁煙につながるというような乱暴な意見を言う。嫌煙運動は否定をしないが、増税という制裁的な金による強制の言動には、狂気、病的さを感じる。 嫌煙運動は、タバコの吸える場を限っていき、分煙を進める中にも存在をするし、もっと穏やかなもののはずである。JRが駅や電車の中から灰皿をなくせないのはその理由がある。同じようにタバコ税をとっている行政は、最低限の分煙を支援しなければならないし、町の美化にも灰皿の設置は当たり前であり、その灰皿にゴミを突っ込むようなマナー違反もなくさなければならない。 こう見ると、タバコの問題は、狂気的な病的なものでの視野の狭さを捨てなくてはならない。 タバコの例は、ここでは吸うものの立場からのものだが、この狂気的な病的なものは、視野の狭さから生まれる行動であり、このようなものはあんがい多くあるものである。 この視野の狭さからの狂気・病的さを人間のマイナス部分のある一面とすれば、その対極にはプラス部分での自己犠牲や常識に縛られない美的意識的な陶酔などの行動がある。たしかに自己犠牲をバカな奴だという見方もあれば、浮世離れした美的意識を笑いもする。しかしこれは見る側の意識や見識の問題であり、対極な関係にあることは間違いないだろう。また、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔は、一人の人間の中に裏表として同時にあらわれることもあるが。 短編集としての「風に舞いあがるビニールシート」は、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を短編集全体から表現をしたものではないかと思う。 自己犠牲と美意識への陶酔のよさを表現するだけの短編集ならば、駄作だろう。 「器を探して」の弥生は、ヒロミの作るケーキを絶賛をし、そのケーキのためには自分の人生をも犠牲にする。そのケーキを乗せる器を探す弥生は、これしかないという器を手に入れるために。。。。。恋人を裏切ることにもなる。いや、弥生には裏切るという意識すらなくなるほどに陶酔をする。この自分を犠牲にするほどの陶酔の中に狂気と病的さを同時に感じるのである。 「犬の散歩」の恵利子は、捨て犬の里親のボランティアのために昼は犬の散歩があるので働けないからと夜にスナックでのアルバイトをする。夫もいて生活面では何の不自由もないのに。捨て犬の里親のボランティアという素敵な運動に参加をするために自己犠牲の上に行うが、夜の仕事にまで行くという狂気と病的さを同時に感じるのである。 この二つの短編に見る一つの側面である狂気と病的さは、人間が物(犬は物ではないが)に支配をされていくという異常さを見る思いがあるのである。 森絵都さんは、人の持つ自己犠牲と美的意識への陶酔という素晴らしいものを直接的に描かないで、なぜもうひとつの裏返しの側面である狂気と病的さを感じるものを描いたのか。ここにこの短編集を全体的に理解をする鍵があり、駄作ではないことが読み取れるのでる。 先に、「一つひとつの短編がテーマ的には複雑なところで絡み合いながら進むが、最後に全体的な感想の中に何か心の中に残る。この残るものもあんがい複雑である」と書いたが、この複雑さがこの狂気と自己犠牲、病的さと陶酔の二面性にあるのである。 森絵都さんは、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔の二面性を描いた後に、人の持つこの二面性をどう解釈するのかを「守護神」「鐘の音」「ジェネレーションX」という3つの作品で描く。 「守護神」は、働く人たちが集まる二部の大学が舞台であり、働きながら学ぶ大変さの中に論文を書く時間的な余裕もない中にレポート代筆のカリスマ的女性学生「ニシナミユキ」を探し頼る祐介を描く。なかなかあえないカリスマという神秘性の中にあるニシナミユキを探す祐介に病的さを感じるのであるが、結局はニシナミユキも普通の女性であり、カリスマ学生や代筆の守護神であるという神秘性のベールはなくなる。ニシナミユキから、レポートを自分で書き上げてと渡される守護神としての人形は、ニシナミユキが仕事上で失敗をしてまったく売れなくて倉庫に眠るキャラクター人形だったのである。ここに狂気と病的さが消えうせる。 「鐘の音」では、慈悲。。。。この慈悲という魂を抜いた仏像はただの彫刻である。仏像の修理をする潔は彫刻の美としての慈悲を見るが、心の慈悲を忘れている。ここに錯覚があり、狂気と病的さがある。潔が病的なほどに陶酔しきって修理をした仏像は後年、信じていた不空羂索ではなかったと知り、人を狂気的にも病的にまで心を支配する恋と同じだったと潔は思う。潔という一人の人間の人生の時間の流れの中に狂気と病的さが消えうせる。 この人生の時間の流れの中に狂気と病的さが消えうせるというものが、「ジェネレーションX」という短編に継がれるのか。 入社時は、「新人類」という呼び名で呼ばれた健一。健一の上司は団塊の世代。団塊の世代が消え去ろうとしている今、新人類の健一の世代が中心になろうとしている。そしてまた健一の世代が今風の若者に接するのである。「今の若い者は。。。」という嘆きは世代を超えて共通している。 健一が取り扱った商品に苦情が来て、その商品の発売元若い社員根津とお客のところに謝りに行くという一日を描く。 「今の若い者は。。。」という苦言の裏には、自分を越えていく若い人の成長を見ることでもあり、自分の世代にないものを発見することでもある。健一は根津の今風のノリにはっとする。 このような一つの世代が消えてまた新たな世代が現れる中に、社会の中にはその新しい世代の若さからの純粋さというものが伝わるのではないか。それに気づいたとき、古い世代は自分の今を見直す。 若さからの純粋さといったものも古い世代から見れば一種の狂気でもあり病的さにも見える。自分の理解を超えているものであるから。しかし、この侠気や病的として見えるものも世代を超えて消え去っている。 狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性。。。 この作品の読後感の複雑さは、この二面性を分離して見てしまうと、読後感に引っ掛かりが残ってしまい、この短編集全体の主題が薄れてしまう。短編集全体が描くものは、この二面性を常に人は持つということである。 問題なのは、狂気や病的なものから冷静さを取り戻すことであり、この冷静さから自己犠牲と陶酔というものをもう一度見ることにある。 里佳の夫アメリカ人のエドは言う。 すさまじい風にビニールシートは舞いあがる。いくら押さえようとしても強い風は吹きすさぶと。 表題作「風に舞いあがるビニールシート」は、紛争地域で難民を救う国連難民高等弁務官事務所に働く里佳とエドの二人を描くが、戦争という風は亡くならずに難民はその風に吹き飛ばされてさまよう。エドは犠牲となって死ぬ。里佳は「普通の」女性だった。エドの活動と自己犠牲、夫婦の犠牲を理解できなかった。里佳は理屈ではわかるが、1年に1週間や10日ぐらいしか日本に帰らないエドの自己犠牲を。 いくら自己(自国)の正当性を美辞麗句に並べた戦争でも、それは狂気と病的な世界であり、一般庶民が犠牲となったり難民となる。その狂気と病的さに対してエドのようなビニールシートを押さえる自己犠牲がある。このような人間の持つ狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性は、常に社会の中に様々な形として現れる。様々な部分で冷静さのなくなった凶器と病的さは、一方においてはその矛盾から生まれる弊害を抑えようとするほかの人間の自己犠牲を産んでしまう。 こう書くと誤解をされそうだが、国連難民高等弁務官事務所などというものはないほうが良いのである。里佳は言う。 「やはりこの国は平和でいい、平和ボケ万歳だ、望むところだ、」(中略)「彼らがその下に敷いたビニールシートをしっかりと大地に留め、荒ぶる風に抗い続けますようにーー。」 (313ページから引用) 人間は、一人ひとりの中にも狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を持ち、その一人ひとりの人間が集まってできた社会や国家の中にも狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を持つ。この二面性をそのままにしていれば、矛盾はなくならない。狂気と病的さは、誰でもが持つが、それは良い意味での自己犠牲と陶酔に昇華されなくてはならない。その昇華される過程に自己犠牲などという矛盾も、必要性のないものはなくなっていくのである。 その中に生きているのは、里佳を「普通の」女性と書いたが短編集全体にでてくる普通の人間達なのである。そして読者も。。。。 その普通の人間が狂気と病的さを離れてどう冷静に考えるかである。 2006年9月6日 記 夕螺 |
八月の路上に捨てる |
月刊「文藝春秋」2006年9月特別号 |
伊藤 たかみ 著 |
<2006年上半期芥川賞受賞作> 角田光代さんの作品に、「みどりの月」「かかとの下」「エコノミカル・パレス」というフリーターと呼ばれる人々の恋と生活、人間関係を描いた「フリーターもの」という作品がある。 伊藤さんは、角田さんのご主人である。 電車の吊り広告に「フリーターの純愛物語」?というような作品紹介があり、角田さんと同じフリーターを扱った作品ということで、同じ題材を男女それぞれの作家がどのように描くのかに興味があった。 角田さんの「みどりの月」は、恋人と同居することになった主人公の女性が、いざ同居をはじめてみたら、そこにはあれた生活と戸籍上に残る妻とその恋人が同居しているという作品です。この同居するもとの妻は、精神的な異常さを感じるのだが、「八月の。。。。」においても、精神的に不安定な妻が出てくる。作品の設定上の共通点はあるのではないか。 角田さんの先に書いたそれぞれの作品は、激しい恋というような際立った盛り上がりのある作品ではない。そして「八月の。。。」もある意味平凡な一日を描いた作品といえる。そこには激しい恋愛があるわけではない。この点においても作品上の共通点があのではないか。 毎日の生活をぎりぎりのところで遣り繰りをし、そのような生活を維持するのにバイトに出かける。毎日が平凡に過ぎていく。その中の恋。。。。それもやはり生活の中にぎりぎりとなっていく。角田さんの作品も、この「八月の路上に捨てる」も同じ生活を描き同じ恋を描く。この生活や恋を角田さんは女性の立場で書き、伊藤さんは男性の立場で書く。それがご夫婦となるとなおさら興味を引かれるのである。 毎日の生活をぎりぎりのところで遣り繰りをし、そのような生活を維持するのにバイトに出かける。毎日が平凡に過ぎていく。その中の恋。。。 夏である。Tシャツは汗に濡れてそして乾き塩を吹き、首筋は汗のべたべたは汗の結晶になってざらざらとする。もくもくとして働く体の中には一方的な恋の心が。相手の心は恋なのか?人の日常にある1日という時間はドラマチックではない。汗を流して働くのも心の中の恋も淡々と流れていく。一日という時間が終わったとき、汗が引いていくのと同じように恋も終わる。こんな「フリーターの純愛物語」 敦は、缶ジュースなどの自販機に缶を補給しながら集金をするアルバイトしている。その日は正社員の女性水城と廻っていた。 敦は30歳で離婚届を明日出そうとしていた。水城は明日からトラックを降りて事務の仕事に回る予定であった。水城は最後の仕事を急ぐ。ルートを廻りきる営業所の最高記録を作るために。そして「もう一つの理由」のために。 平凡で単調な仕事の中にも二人にとっては一つの区切りの日であった。 そんな一日の二人の仕事を描きながら敦の過去とが絡み合いながら物語は語られる。 敦は、脚本家を目指すが、同棲していた女性が働き敦を支えていた。そのうちに籍を入れるが妻は仕事を辞めることとなる。敦がアルバイトで働き始める。この中で働いて稼ぐ側と支えられる側の軋轢が生じる。精神的にもどうすることもできないようにもなり離婚を。ここに男女間のすれ違いがある。 水城とトラックで自販機を廻る敦は、離婚届を明日出すこと、そして水城が明日にも会えなくなる地に離れて行くという、今日という最後の日を意識している。しかし水城は。。。。ある「もう一つの理由」を最後に敦に話す。ここにまた男女間のすれ違いがある。 この今日という一日の中での心のすれ違いと、過去の中での心のすれ違いが交互に語られていく中での敦の文字では書き表さない行間というものというのか、その表現にぐっと来るものがあるのである。 文藝春秋には、芥川賞選考委員のコメントがあるが、あまり高くは評価されていないようである。たしかに技術的には低いのかもしれないが、ぽつんと一人残る敦の心になんともいえないものを感じるし、小説の設定自体に隠れる生活そのものを感じ取れるのである。 「八月の路上に捨てる」。。。敦の心は、ある意味結末としてはリセットされたはずである。30年間の敦の生活の中での心を、Tシャツは汗に濡れてそして乾き塩を吹き、首筋は汗のべたべたは汗の結晶になってざらざらとする。もくもくとして働く体の中には一方的な恋の心。。。敦は照り返しの強いアスファルトの路上に捨てたのである。 その後、敦の人生がどうなるのか。ぽつんとたたずむ塩を吹いた敦の背中を見つめてしまう読後感が残る。 2006年9月11日 記 夕螺 |
ものを作るということ |
角川文庫 |
銀色 夏生・木ア賢治 著 |
おしゃべり本第4弾 夏生さんと音楽プロデゥーサー「キーちゃん」こと木ア賢治とのおしゃべりをまとめた本です。 夏生さんと「キーちゃん」とのお付き合いは長いらしく、夏生さんが大学を卒業した後の22歳からのお付き合いとか。。。(6頁「前書き」) 夏生さんの日記エッセイ「つれづれノート」によると、ノートに100曲ぐらいの作詞をした詞を持って音楽関連の会社に持っていったら、すぐに採用されたそう(正確な引用からではありません)ですが、その中に「キーちゃん」もいらしたのだと思います。僕は、作詞家時代の夏生さんとなるとまるで記憶がないのですが、「作詞 銀色夏生」の曲は、80年代の多くのアイドルたちにも歌われたようです。その頃の思い出が「つれづれノート@」45ページには、たくさんのアイドルたちや「キーちゃん」そしてこの「ものを。。。」にも登場する「小林くん」もイラストとして描かれています。 「うん。待ち合わせには遅れるけどね(笑)」(キーちゃんへの夏生さんの言葉)(212頁) 初期の作品「黄昏国」104ページには、「あたろうの悲しみ」という作品があり、「キーちゃん」が待ち合わせていたのに来ないから「あたろうちゃんはもうきーちゃんはきらいでした」という文がありますが、こんなお二人の中のエピソードも想像することもできます。 ファンとして「つれづれノート」や詩集を読み続けていると、「ものを作るということ」という作品全体からこのようなお二人の古い「仲間」そして友人という関係の雰囲気が流れています。 また、最後のページには夏生さんのイラストがあるのですが、そこに「竹林の七賢○」(最後の1文字は判読できません。たぶん「国」または「図」と誤って書いて消したもので、「人」だと思います)という言葉があり、これは「無辺世界」146ページの「竹林のナピスコ」のお話にあるものと同じものを感じます。 「つれづれノート」も14巻で終わり、これからの夏生さんがどのような作品を書くのかに興味がありましたが、「メール交換」そして9月の「うらない」を含めた「おしゃべり本」4冊が出され、ひとつの区切りが見えます。それが「つれづれノート」以前の夏生さんに戻るものなのかどうか?この点もファンとしてはいろいろと考えさせられる作品でした。 132ページから133ページに、「おしゃべり本」シリーズの話しになり、夏生さんが昔のお話しをしたかもということに対して「キーちゃん」が「集大成だから」と言います。読者も同じものを感じるのではないでしょうか。また、これは深読みしすぎかもしれませんが、子供のことを話すことへの嫌悪感や本職からはなれて本を出版することについての「キーちゃん」「小林くん」夏生さんのお話もありますが、作詞家から詩人へと変わっていき、「つれづれノート」を出版するという夏生さんへのちくりとした言葉も感じます。ここにも昔の「仲間」としての雰囲気を感じます。 僕もどこかでおしゃべり本シリーズは「つれづれノート番外編」あるいは「つれづれノート別冊」というような印象を書きましたが、一つの区切りを感じますね。。。。 最後の「うらない」の中で夏生さんは人生をどのようにお話しをするんでしょか?楽しみです。 「前書き」に夏生さんの写真があります。 夏生さんの写真は多くは見ることができませんが、このような表情の夏生さんは見たことがありません。「つれづれノート」での結婚生活あるいは家庭生活の中での心の動きという世界や、詩集の世界にある恋を中心にした内面的な心の動きでの夏生さんとも違う。やはり初期の河出書房新社時代の夏生さんというものを感じます。言い方を変えれば、「つれづれノート」の世界や恋の世界というのは、ある意味ご自身の生き方の具体的な表れであり、この具体的な表れの根底にあるのが、夏生さんの人生観や価値観にあるわけで、そんな内面を見ることができるのが河出書房新社の「黄昏国」であり「無辺世界」ではないかと思います。そして今回の「ものを作るということ」のおしゃべりの中にも表れていると思います。もちろん「メール交換」から前作の「女っておもしろい」や「タトゥーへの旅」も夏生さんの人生観や価値観がでているのですが、今回の作品は、「さすが心の友キ−ちゃん」と思われるように夏生さんとのからみが良い。 お二人の中に、初めの部分には「タトゥーへの旅」での「エイジくん」が少し加わり、後半ではやはり昔の仲間である「小林くん」が加わってお話が弾みます。 本の題名が「ものを作るということ」ですから、仕事の話からお話しも広がりますが、116ページには大リーガーのイチロウを評して「孤高の人」という言葉があります。また、111ページには「自分流」という言葉が出てきます。そして、どこのページか探せないのですが、夏生さんが娘さんになぜ勉強をするのかをいうときに「勉強することによって自由が広がる」というようなことをいいます。「孤高の人」「自分流」「自由」。。。 これらの言葉にお二人のお話が集約できるのではと思います 作家そして音楽プロデゥーサーという「もの」を作る仕事。やはり業界というものがあると思うのですが、その業界の中での自分流を語ります。それは時には孤高の人にもなるし、それを恐れない中に自由がある。夏生さんの様々な作品を読むとこの生き方をしていることがわかりますが、「キーちゃん」にも同じ人生観・価値観があるようです。 作家や音楽プロデゥーサーという仕事自体、自分の感性やこだわりを生かせる仕事であるというのもあると思いますが、それは様々な美的な職業や職人という職業にもそしてスポーツ選手にも通じるものがあります。お話は進みます。 夏生さんご自身、本の出版ではすべてをご自身でプロデゥースし、作り上げていくということをしているわけですし、それで生きてきたわけですから、「経験してみなければわからない」という言葉に重みがあります。 しかし、「つれづれノート」出版時から、夏生さんへの嫉妬(自分は夏生さんのようには生きられないというような)や、生き方への疑問もありましたし、「タトゥーへの旅」の前書きにある「私たちの会話に興味のある人は、読んでみてください。」という出版姿勢を感じる言葉などに読者はたじろぐこともあります。言い換えれば、夏生さんの「孤高の人」さ、「自分流」、「自由」の前にたじろぐわけです。 そして心の中の片すみに「こういうタイプの作家はあまり好きではない」と思いつつも夏生さんの作品に心がひきつけられる自分にまたたじろぐわけです。 「ものを作るということ」においても、サラリーマン批判的なものを感じますが、「じゃ、サラリーマンはどうすれればいの?」というような置いてきぼりにされたようなものを感じます。独立すればいいといっても、サラリーマン(人に使われて給料を受け取るという意味)がいないと社会は成り立ちませんよということも含めて、今の社会では存在せざるを得ないものです。そしてそのサラリーマンの妻や家族も。。。 「孤高の人」「自分流」「自由」。。。これは、夏生さんの職業は別にして、「つれづれノート」においては一般女性のひとりとしての夏生さんの姿を見ることができて、その日常の中においての様々な庶民的なものの中に「孤高の人」「自分流」「自由」があったわけです。ファン層の厚さはここにあったはずです。この中ならば、みすぼらしくもサラリーマンはサラリーマンの、そしてその妻や家族の「孤高の人」「自分流」「自由」が活かせたわけです。 ものを作るということという仕事を通した人生観や価値観を表現したのが今回の作品ですから、その作品の性格上あのようなお話の中身になっていったのでしょうし、この中に読者はドキッとする言葉をたくさん読めました。でも、最後に学校を作るというお話になり、読んでいると自由人のサロン的なものになりそうです。なんとなく夏生さんが雲の上に行ってしまうのかという不安を感じます。 次の作品は、「学校ができました」でしょうか?(笑) 「つれづれノート」再開は無理にしても、ぐっと庶民が心をつかまされるようの作品を期待したいです。 これは夏生さんの変化なのでしょう。 お子さんたちも成長しましたし、年齢も四捨五入すれば50歳。 でも、50歳なりの「つれづれノート」もあるはず。。。 そんな変化する夏生さんをこれからも見つめたい。 2006年9月20日 記 夕螺 |
デッドエンドの思い出 |
文春文庫 |
よしもと ばなな 著 |
表題作の「デッドエンドの思い出「を含む5編からなる短編集です。 よしもとばななさんは、文庫版の「あとがき」に 「『これを書いてほんとうによかった』と思える本はなかなかないものです。そういう意味でも、やはりこの本は私にとって大切な本です。」 と、書き、単行本「あとがき」にも短編としての 「『デッドエンドの思い出』という小説が、これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです。これが書けたので、小説家になってよかったと思います。」 と書いています。 それぞれの短編で描かれることはよしもとばななさんの実際の経験ではないようですが、 「私小説的な小説ばかりです。」とも書いています。 よしもとばななさんは、この短編集に書かれた物語は実際に経験したものではないが、私小説的というのがなぜなのだろう。 「出産をひかえて、過去のつらかったことを全部あわせて清算しようとしたのではないか?」 よしもとばななさんにとっては、この短編集はご自身の心の清算であると同時に「救い」ではなかったのではないか。その意味において私小説的なのではないか。 よしもとばななさんにどんな辛い過去があったかはわからないが、この短編集を読み通すとそこには温かみのある「救い」を感じるのである。一つひとつの細かな設定として書かれている事柄自体はよしもとばななさんの経験ではないが、短編集全体で描かれているものは、結婚や家庭である。もちろんその前提には恋愛がある。結婚にいたるものにはよしもとばななさんもいろいろあったようですが、結婚をし、妊娠をしたよしもとばななさんの過去の恋愛・結婚・家庭での出来事を清算する中での救いなのだろうと想像できる。 清算というのは、ある過去を自分自身で解決したりリセットするというようなものだが、救いというのは、他者の力によるものである。短編集全体から読み取れるものは、主人公が他者から救われるというものを読み取れる。不幸な過去を自身で解決して清算していくという力強さというようなものは少ない。だから作品自体としては「救い」ではないだろうか。 「ともちゃんの幸せ」(177ページ)には 「これを書いているのはともちゃんではなくて、ともちゃんの人生をかいま見た小説家なのだが、」 と、ある。 この作品自体を書いたのは、よしもとばななという小説家である。この作品を書いたことはよしもとばななという作家の自身の力であり、その意味では清算である。 しかしそのよしもとばななという作家は主人公の救いを描く。 よしもとばななという作家は、自身において清算するが、作品自体を読む読者は救いを読むこととなるのではないか。そしてゲラ刷りを読んで涙したというよしもとばななさんもその時点において救いを見たのではないか。 「幽霊の家」では、古いアパートに1室に、まだ霊として残る老夫婦が出てくる。その霊は時々現れてその部屋で平凡な一日の風景の中にいる。それを見た主人公は、夫婦というものの本質的なものを見つめることができた。 「おかあーさん!」では、母親から虐待され離婚した両親から離れておばあちゃんと暮らす主人公は、彼氏の愛や周りの人々の暖かさから、人というものを見つめなおす。見つめなおすことにより両親が自分にとってどのようなものであるのかというものを知る。「おかあーさん!」と呼べる主人公がそこに入る。 「あったかくなんかない」は、主人公が子供の頃に近所にいた少年の思い出である。裕福ではあるがその少年の生い立ちとその後は不幸である。家に灯りがともり明るいのは電灯の灯りではなくて人が放つ明るさである。家庭とは何か。。。主人公は平凡な我が家を見つめなおす。そして人の心にある明るさを見る。 「ともちゃんの幸せ」は、思春期にレイプを受けた主人公の小さな恋を描くが、その恋が成就するかはわからない。しかしともちゃんの心には暖かいものが常にある。そして終わりには、そのともちゃんの幸せを見つめる小説家が描かれる。神の存在ではない見つめてくれるものの暖かさ。 最後の「デッドエンドの思い出」は、婚約者にふられた主人公が傷心の中に居候することとなった「袋小路」という店とそこに働く男とのお話し。袋小路=デッドエンド。。。 過去に暗いものを持ちながらもやさしく包み込むような男の暖かさ。そして家族の暖かさ。世の中にはもっと不幸がある。その不幸に比べれば今の自分の不幸なんて小さなものかもしれない。今の袋小路に迷い込んだような心は開放される。 このように見てくると、どの主人公は、周りの人達の暖かさに救われているのである。 「ともちゃんの幸せ」の最後に 「いずれにしても神様は何もしてくれやしない」 と書いていますが、この人の世を見渡せば神も仏もないように写る。神は自然と同じであり、存在するとすればただの存在以上のものではない。それではなぜ人は神を見るのか?人の心の中に見るのである。しかし人の心には神と必ず一対をなすものもいる。悪魔である。人は人を傷つけるが、人はこの心の中の神を見たときに涙する。デッドエンド=袋小路に迷い込んだときに人の心に神を見るのである。 人は救われる。。。 よしもとばななさんもたくさんの人たちに救われてきたのだろうか? よしもとばななさんの「日々の考え」というエッセイの感想に 『「日々の考え」のエッセイにある面白楽しくそしてその中にも鋭い見方をするばななさん自身の行き方でもあります。そしてどこか物悲しいような・・・・ ここにばななさんが好む人間像があるのではないかと思いますし、読んでいると自分の好む人には最大限の誉め言葉を送るというような僕から見ればどこか「身内意識」が強すぎると受け止められるのですが、ばななさんは、本物の人間を自分の主観において潔癖なのかもしれません。』 と書いたが、人に何を求めるかという意味においての「救い」は、よしもとばななさんから感じる人なつこさのようなものは、この人の心を通じた救いを求めることにあるのかもしれません。だから潔癖な人を求めるのかもしれない。 この短編集は、一番初めに引用したよしもとばななさんの言葉からしても、作家よしもとばななを動見るかということではおもしろい作品だと思います。 2006年10月3日 記 夕螺 <追記>2006年11月8日 記 僕の読んだ文庫版にはあったかどうか覚えがないのだが、この作品は、藤子・F・不二雄に捧げられているという。 藤子・F・不二雄と言えばドラエモン。。。ううう・・・ん? ドラエモンとのびたくん? 僕はドラエモンのテレビの漫画を見ていると、ドラエモンがのびたくんの「救い」の道具(ロボットだからねぇ。。。)に思える。 人とロボットは違うけど、「救い」の過程にある存在。。。。ばななさんにとっては、救いを与えてくれた人々は皆ドラエモンのような存在なのかな? もう少し機会があれば考えます。。。。ううう・・・ん |
うらない 銀色夏生×ミラ |
角川文庫 |
銀色 夏生 著 |
「女っておもしろい」「タトウーへの道」「物をつくるということ」に続いてのおしゃべり本シリーズNo.4です。 今回は占師ミラさん登場。(ミラさんのプロフィールにはホームページも紹介されていますので、こちらでも紹介させていただきます。) 「FairyLight ミラ」 これまでの三作は、「つれづれノート」という日記エッセイシリーズに登場した方とのおしゃべりでしたが、ミラさんは、表立っては登場していませんでした。でも、夏生さんは昔から占いに興味を持っておられ、「つれづれノート」シリーズの仲にも時々占いについて書かれています。 また、占いではありませんが、2002年(平成14年)角川文庫より発売になった「ぶつかり体験記」では、座禅・前世催眠・波動測定・絶食などの少し不思議な世界の体験を書いたものがありますが、夏生さんらしいユーモアを交えた文章とイラストの楽しく読める本で、これらの体験を通して夏生さんはご自身の行くべき道を見つけていきます。それは神秘世界に入るのではなくてあくまでも現実のご自身の人生の中に見つけます。これと同じように、占いもその神秘性に中に入るというよりも、ご自身の行くべき道をどこに求めるかを考えていく上での一つの方法のように感じます。 こういう夏生さんに対しての占い師ミラさんですが、仕事柄というものもありますが夏生さんの考えていることを引き出す事がうまく、読んでいると、占い師というものもカウンセリングのような職業なのかと思います。 このようなお二人のおしゃべりですから、夏生さんも自由に話しをしています。おしゃべり本シリーズ4冊は、おしゃべりの中身をそのままにテープ起こしをして本にしているわけですが、普通に考えると、このような対談形式を本にするには、ホストは夏生さんであり、相手のことを引き出して話が進んでいくということだと思うのですが、このシリーズでは、ちょうどお話しの相手を鏡として夏生さんを表現しているような本になっています。この鏡という言葉は、ミラさんが多用していますが、夏生さんが自分を表現するためのおしゃべり相手としてはミラさんはうってつけの方でもあり職業でもあるのではないかと思います。 シリーズ本も右往左往しながら進んできたと思いますが、4冊目として落ち着いてきていますし、締めくくりとしてもじっくり読める本になったと思います。 本の後半の165ページからは、特に作家(詩人)銀色夏生がよく出ています。 ファンそしてたまたま1冊読んだ読者は、その本から銀色夏生像が出来てしまいます。特に日記形式の『作品』である「つれづれノート」シリーズは、毎日の生活や人とのかかわりなどの一部を書いているわけですから、そこに読者から見える銀色夏生がいるわけです。しかし、銀色夏生は一人の人間として生きている。作家・詩人は職業であり、すべての生活の中の一分の自分を出しているわけである。もちろん銀色夏生という作家としての人間は大きな存在ですが。やはり日記にしてもエッセイにしても詩にしてもひとつの作品なのでしょう。。。 そこと読者の目で見た銀色夏生像とのずれは大きくなってしまう。読者は作家銀色夏生を見るのではなくて、そこにすべての人間を見てしまう。「つれづれノート」のファンにとってはつれづれノートの世界の銀色夏生という人間を見て、詩の世界には別の銀色夏生を見る。それぞれにその世界の部分的なもので見てしまう。 こういうものは、夏生さんだけではなくて、他の作家にもいえることで、よく「小説の中のことは経験からですか?」という質問が作家に対して出てくる。「つれづれノート」は日記ですから出来事は事実でしょうが、その毎日の中での出来事の一部であり、その作家としての書き方もあるはずです。ここではたしかに「経験」が表現されていますが、その書き方ではやはり作家銀色夏生なのです。そしてその作品なのです。 233ページには、「読者へのサービス」という言葉が出てきますが、一人の銀色夏生像をたとえば「つれづれノート」という形で読者へ見せてくれる。。。こういうことを言っているのか? まぁ、作家といえどもその作品を売っているわけですから、サービスといえばサービスなのですが、読者を喜ばせるということは大切なわけで、出版サイン会などという派手なことをやらないだけでも銀色夏生の生き方なわけです(サイン会をやるような作家はだめといっているわけではありませんよ。作家個人の読者との接点の持ち方の違いです)。 でも、「つれづれノート」が嘘であるということはまったくなく、夏生さんはその世界でも確実に生きているわけです。おしゃべり本シリーズ4冊を読んでもそこには「つれづれノート」の世界に生きる銀色夏生が出てくるわけです。ひとつの作品としては、その世界は現実なものであると同時に、すべての夏生さんが描かれないという意味においては読者の幻を見せているわけです。文芸というのはそういうものでしょう。 そこで特徴的な言葉が、ミラさんの言葉としてよく出てくる「人間の次元として、魂の次元として」の人というものです。 人の次元というのは、「つれづれノート」に出てくる日常生活そのままの夏生さんですが、魂の次元では、時々現れる日常生活の奥底にある精神的なものの表現者としての夏生さんでしょう。ある作品を読んだとき、その作品の字面に現れるおもしろさと、全体を通して見える作家の精神面。この二つを読み取れるわけです。字面のおもしろさから「ほんとに体験したこと?」などという作家への興味が出てくるわけですが、魂の次元では、その作家のものの考え方なども見えるわけです。 ですから、夏生さんも、この二つの狭間でいろいろと考えさせられたのではないかと感じました。特に日記形式のエッセイですからね♪ でも、作品の中の人間の次元の字面部分を楽しんではいけないというのではなく、作家がその内面の魂の次元を表現するには、人間次元のどろどろしたものを通して表現せざるを得ないわけですから、「つれづれノート」は楽しんで読むべき本です。その他の夏生さんの本も。。。 先に夏生さんも「つれづれノート」の世界に生きていることは、おしゃべり本4冊にも見えると書きましたが、作家は、自分とはまったくはなれた世界に生きるわけにはいかず、それでは作品も書けないわけです。問題は、読者がどう読むのかということですね♪そしてそれは偏見でなければ自由です。だって、読者は自分の持つ問題意識で読むわけで、そこから作品に得るものを見つけるからです。そこに作家と読者の接点があります。 おしゃべり本もまたいろいろな読者の意識で読まれていると思います。そこには、おしゃべり相手として「つれづれノート」の世界と接点が強いです。そんな楽しみとしてもステキな本です。夏生さんの精神的な世界との読者の問答も心の中でする楽しみもあります。 夏生さんにとっては、「つれづれノート」を終わらすにあたっては必然的に書かねばならなかった本かもしれません。 次は。。。。 夏生さんらしく書きたいことを書いていくことに変わりがありません。 そこに夏生さんの新たな決意が見えます。ファンとしては、「夏生さん、どこに行っちゃうの?」とどぎまぎしますが、それは昔から変わらぬこと!(笑)ミラさんの占いのように砂漠から一言も。。。ハハハ これからも読者は夏生さんにドキッとさせられることでしょう。そしていつの日かまた違う面の夏生さんの「つれづれノート」も楽しみに出来ます。 2006年10月17日 記 夕螺 |
ヘヴンリー ブルー |
集英社 |
村山 由佳 著 |
「天使の卵」そしてその続編の「天使の梯子」の続編です。 春妃・歩太・夏姫のそれぞれの悲しくも透明な恋の物語。そしてその物語は、「天使の卵」から10年経た中に登場する慎一の恋。ヘヴンリーブルーは、さらに2年の歳月が流れます。 僕の「天使の梯子」の感想に最後には次のように書きました。 「最後の言葉は、慎一の『僕たちはそこからはじまる。』で終わります。 慎一は夏姫への愛を貫き通そうとする。しかし『そこからはじまる』のは、夏姫にとっても同じである。歩太にとっても。 春妃への思いは吹っ切れたにしても、夏姫にとっても、歩太にとっても「これからはじまる」のである。 夏姫にとっては、初めて歩太という男が存在するであろう。歩太にとっては、春妃を抜きにした一人の女性として夏姫が存在する。 この物語がこのままではすまない予感がするのである。」 やはり村山由佳さんにとっても、この物語を完結させるには「ヘヴンリーブルー」を書かざるを得なかったのでしょうか? この作品は、2年後という意味では続編でもありますが、本の紹介としてはそして物語自体も「天使の卵」のアナザストーリーあるいは回想録というべき物語です。この物語の中でいちばん傷ついたのは夏姫であり、ボーイフレンドの歩太と実の姉の春妃との恋に苦しみ、姉を憎みとおしてその姉が死んでしまう中にその憎しみ続けた春妃への言葉が春妃を憎む以上の苦しみとして自身の苦しみになってしまう。そんな夏姫の苦しみの救いがどこにあるのか。ここをヘヴンリーブルーでは、夏姫の心の中としての回想として描かれます。 この夏姫の苦しみの救いはどこにあったのか。 「天使の梯子」では、春妃の死を受け止めると同時に、春妃の夏姫への姉妹としての愛情、歩太の春妃への同時に歩太の春妃への愛が本物であったこと、そして夏姫の歩太への思いが本物であったこと、そこに登場する慎一の純粋な夏姫への心。これらの愛が確かめられると同時に、それぞれの愛が憎み憎まれする中でそれぞれが苦しみを持っていた事が理解しあえたということ。そして互いの苦しみを癒してあげようという気持ちが高まるそんな高次の愛に救いが表れている。 これがまた死んではしまったが春妃自身の救いでもあった。 こういう中で『僕たちはそこからはじまる。』という慎一の言葉で終わるのである。 『僕たちはそこからはじまる。』ここに未来を見つめることができる。 残された3人の未来。。。。幸せということではなくても、春妃を心の中におきながらも生きていく自分を見つけること、ここに最後の救いがあるのではないか。それはまた春妃の救いでもある。「ヘヴンリーブルー」は、この救いを感じる作品です。 「天使の梯子」から2年後、夏姫は西洋朝顔ヘヴンリーブルー(makikoさんの「ミセスリビング」のサイト内のページをお許しをいただきリンクさせていただきました)に水をあげる。<天上(天空)の青>朝顔の花言葉は、愛情の絆または愛着の絆。。。ヘヴンリーブルーは、秋に咲くという。「ヘヴンリーブルー」は、ここからはじまる。 春妃の死により、残された夏姫と歩太、そこに現れる慎一。この三人にそれぞれに愛はある。この愛は春妃をめぐって起きた苦しみを互いに理解する中でそれぞれに絆がある。もちろん死んでしまった春妃と3人との絆でもある。愛情の絆または愛着の絆という朝顔の花言葉に、作品名「ヘヴンリーブルー」は、なるほどと感じさせられる。 夏姫の苦しみへの救いは、3人そして今はいない春妃との絆という表現で表されるのだろう。 慎一は、「天子の梯子」に登場し、春妃のことは知らないが、夏姫と歩太のなかに慎一が入ることで救いも生まれてきた。夏姫と歩太が結ばれることはけっしてなかった。互いにいたわる事は出来ても男女間の愛情にはならない。互いのいたわりの心は男女間の愛情以上のものになってしまっている。春妃から二人は解放されない。互いに未来を見つめることは出来なかっただろう。慎一は、歩太にとっては12年前の自分を見る鏡であり、夏姫にとっては、春妃がなぜ歩太を愛したのかの心の鏡でもある。その慎一がポツリともらした『僕たちはそこからはじまる。』という言葉。12年の歳月を感じるとともに、夏姫と歩太のなかに始めて未来をというものが見えてくる。ここで救いは完結するだろう。夏姫は、慎一が自分の前に現れたことを感謝する。この感謝は歩太のものでもあるだろう。 ここでは引用できませんが、最後に夏姫の救われた心が現れています。 12年前、春妃のおなかの中には新しい命が宿っていた。 春妃はヘヴンリーブルーの色の小さな靴下を編んでいた。歩太は、その靴下を今でも持っているだろう。歩太の描く絵にはヘヴンリーブルーの色がよく使われる。もう人物画は描かないが、そのヘヴンリーブルーの色の中に春妃は生きている。その絵の個展を開いた歩太。。。 歩太にも救いが現れている。 読み終わって本を閉じようとしたとき、もう一度ヘヴンリーブルーの色の見返しが目に写った。 明るい空の色のようなヘヴンリーブルーの色。そんな透明感のある作品でした。 2006年11月1日 記 夕螺 |
阿房列車 |
ちくま文庫 内田百闖W成 T |
内田 百閨@ 著 |
まずは感想としてブログでの「今読んでいる本」として書き留めたものをこちらにも貼り付けておきます。数日に渡って読みながら書きとめたものですからまとまりはありません。 「用事もないのに大阪までの列車の旅。でも、金がない百關謳カ。借金をします。 百閧フ借金話は有名ですが、初期のほうの借金話は、読むほうも胃がキリキリと痛むようなお話ですが、こちらの作品はのんびりとした雰囲気の借金話ではじまります。 まぁ、どちらにしても楽天的ですがぁ。。。 国鉄職員ヒマラヤ山系君が同伴。 百關謳カのツッコミに、「はぁ」と答えるヒマラヤ山系君のボケ。『「特別阿房列車』『ハト』での大阪行きも無事に帰郷します。 どうも旅費は足が出たようで、ヒマラヤ山系君からも少し用立てしてもらう。しかし。。。ボケのヒマラヤ山系君の最後の言葉には含みがありますなァ。。。切符を買いに行ったのは、国鉄職員ですから(笑) 話の中に、国鉄の切符を早めに買う話しがありましたが、僕の子供の頃の記憶では、指定席の切符ではなくても、夏のお盆休みや年末の頃の帰省の切符を買うには、前もって行列を作って買っていたようです。親父が毎年買いに行っていました。今のように機械で切符が買えるわけではなく、窓口に並んで買う。親父が手に入れた昔の硬い厚紙の切符を大事に財布の中から出した光景をはっきり覚えています。 編輯者「椰子君」 川上さんの作品に「椰子・椰子」がありますが思い出しました。 川上さんの本は、お子さんが「ヤシ、ヤシ」というので本の題名にしたと記憶しているのですが。。。。 でも、「椰子君」という名前にどこか惹かれます。。。。 区間阿房列車 今度は各駅停車のたびで御殿場線へ。丹那トンネルが出来る前は東海道線だったようです。知識として走っていましたが、僕が生まれるずっと昔のお話。 人は無駄をすることに喜びを感じるものである。金の無駄、時間の無駄。。。。 百關謳カは、また借金をしてヒマラヤ山系君をまた連れて出かけます。東海道線から御殿場線に乗り換えるのが遅れて2時間待ち。帰りの東海道線も急行に乗るのに2時間半待ち。節約はしたけど、手荷物預かりに無駄な金。 無駄はしても百關謳カの心は温かい。 駅に止まっている汽車のトイレは使ってはいけないこと。。。。 僕の子供の頃もトイレは垂れ流し状態でした。だから駅に止まっているときに用をたすと、、、ハハハ 時々線路脇に落とし紙が落ちていることがありました。線路脇で遊んでいるとしぶきもかかりました(笑) 瀬戸物の土瓶のお茶。。。 覚えがかすかにあります。高崎の達磨弁当も瀬戸物だったっけ。。。今も? お茶は、その後ビニールの容器になりましたが、列車の中でのお茶は懐かしいです。今はあまり見ませんね。。。。みんな缶のお茶になってしまったのか?窓をあけて弁当売りのおじさんを呼ぶ声もなつかしい。。。。あっちこっちから「弁当屋さ〜ん!!」 百關謳カとヒマラヤ山系君の76ページあたりからの会話は落語ですなァ。。。ハハハ 今度は鹿児島本線阿房列車。。。 さて出発というときに夢袋さんからウイスキーの差し入れが。。。。 旅行中にはウイスキーは飲まないぞと、ヒマラヤ山系君と話しながらも旅行中に飲んでしまう。 持参した魔法瓶に入れた熱燗は早くもなくなり、横浜で追加オーダー(笑) 酒の話しから始まります。 阿房列車は用事のないたび。。。。 でも、さすがに生まれ故郷の岡山に着くとそうはいかない。途中下車をしてなつかしい海を眺めます。 百閧ヘ、末無し川の百間川から来るらしい。。。百閧フ作品ファンのヒマラヤ山系君A百間川にさしかかるときに教えるが、のんきにもヒマラヤ山系君は「ハァ。。。」と(笑)相変わらずの野次喜多道中です。 鹿児島本線阿房列車 はるばる着いた鹿児島駅には迎えの人がいるはず。その人の会社の旗が見えるはず。。。 駅前に出ると、馬糞紙に達筆な字で大書きされた百關謳カの名前が!(笑)恐縮して赤面する百關謳カを想像してしまいます。鹿児島本線阿房列車は特に紀行文の傑作です!!百閭tァン、あるいは随筆に興味がなくても、列車の旅など紀行文がお好きな方には是非お薦めの本ですよ♪ ところで、この馬糞紙。。。 もしかして藁版紙(この字でよかったと思うのですが。。。)のことかな?僕の子供の頃は、真っ白な紙といえば習字のときの半紙ぐらいで、学校からの通信やテストの紙など、すべて茶色くところどころにワラの破片が見える藁版紙でした。馬糞には消化しきれないワラがたくさん混ざっていますから、そのワラが混ざった様子からか馬糞紙ともいい、藁版紙ともいったのかもしれません。 今は売っているのかな?風情があって見たことのない今の若い人にはおもしろいと思います。 東北本線阿房列車 仙台に行くはずが早起きが出来ないので、福島に1泊。。。 旅館の仲居さん(この言葉は今も使っていいのかな?もっと違った呼び名が?解らないので使わせていただきます)の訛りに話しが通じない百關謳カ。 昔は、駅長さんに宿の手配を頼んだり、時間があれば助役さんが旅館まで案内してくれる。これももちろん文士として有名な百關謳カであることからか? 夏目漱石が地方に公演に行くと、町をあげての出迎えで、宿には町の名士が紋付袴で集まってくる。漱石は、のんびりと浴衣姿でかしこまる。。。。(笑)百關謳カは、というよりも昭和28年ぐらいになるとこういうものもなくなってくるのか?でも、まだ小説家は「先生」ですからなァ。。。 上の書き込み。。。仙台ではなくて盛岡でした・・・どもども 朝早くて上野から乗れなかった列車に百關謳カはお昼過ぎにのんびりと福島から乗車。 もう日が暮れる頃に盛岡に到着します。 教え子の懸念仏くんご夫妻らがお迎え。夜は相変らずの酒の席。 盛岡で2泊しますが、のんびりと起きた百關謳カは、観光もせずに駅前をぶらぶらと。。。帰りは宿の帰るのに迷子。 これから青森に行くようですが、今ならトンネルと通って北海道にもいけますから、今に百關謳カがいたなら、必ず函館ぐらいまで入ったのではないかと思います。それともヒマラヤ山系君と「北斗星」のツイン個室で札幌まで。。。。食堂車で酒も飲めるし。帰りは新幹線に乗るかな? こんなことを書いていると、阿保列車夕螺号を発車させたくなってきた。。。 東北本線は、青森までは下り列車。百關謳カは下るだけ下り奥羽本線に乗車。青森から追う本線は上りとなる。百關謳カは帰路に着く。 山形に向う車窓は紅葉。。。そして秋の時雨。 百關謳カの紀行文もどこか詩的になります。車窓から見える遠くの紅葉の山道に番傘をさして歩く人。なぜはそこだけが白く光る。。。 秋の時雨の中を所在なげな二人を乗せて走る汽車。 ところどころの文章に川上弘美さんてきな雰囲気があります。いや、作品の順番からして川上さんの文章が百闢Iなのでしょうが、心が今の世界に溶け込むようで、読者も秋の時雨に溶け込みます。 雪中新潟阿房列車 上越線の電気機関車に乗り雪の新潟に行きます。 当時、日本でいちばん長いトンネルであった清水トンネルを楽しみにし、ループ上の線路を見ようと必死。窓が雲って見えないと困るというので、曇り止めのためのアルコールを沁みさせた布も持参。ところが。。。ハハハ見ることはできなかったよう。 上越線は、僕にとってもなつかしい線です。母親の実家が新潟県ですから、毎年のように夏休みには出かけていきました。僕たち子供たちよりおやじのほうが楽しみだったようで、上の方のコメントに書いたように、上野駅で並んで前売りの切符を手に入れ、各駅停車で出かけていきました。 今も覚えているのですが、一度だけイベント列車だったのだと思うのですが、蒸気機関車で上野から出かけました。なつかしい気の枠でできた向かい合いの座席。。。。清水トンネルに入ると、おやじがでかい声で『窓を閉めろ!!』そう、煙が入ってくるから。こういう蒸気機関車の煙の経験は同乗している若い人にはわからない。おやじは得意そうでした。そんななつかしい思い出がよみがえってきました。 今もループ線はあり、水上の川のそばからはこのループに走る列車を見ることができ、列車に乗っていても窓をあけてのぞけば、眼下に走ってきた線路も見える。しかし、今は窓をあけるという行為もできないかな? 特別急行『かもめ』が山陽本線を走るというので、いちばん電車に乗りにいきます。 ところが、国鉄からご招待されてしまい、のんびりした列車の旅が出来なくなるのではないかと心配する百關謳カ。なぜご招待?昭和26年から、2年間に渡って『阿房列車』が発表され、百關謳カの阿房列車も有名になってしまったようです。 行く先々で新聞記者やラジオ局からコメントを求められます。 第一阿房列車、第二阿房列車と続きましたが、こうも有名になり落ち着いた旅が出来なくなってしまったためか?『春光山陽特別阿房列車』で終わります。(この文庫では、ここで終わりますが、『阿房列車』は第三阿房列車まで出版されているようで、新潮文庫にもあります。いつか新潮文庫も読んでみたいと思います。) ところで、百閧フ没年は、1971年ですが、すでに1964年には東海道新幹線が開通しています。 もうそうとうのお年ですから新幹線には乗れなかったのかな?興味があります。『超特急東海道新幹線阿房列車』(笑)」 (ヒマラヤ山系くん、お見送りに必ず来る夢袋くんは、実在する百閧フお弟子さんのようです。平山三郎とその上司である中村武志のようです。詳しい研究はこちらのサイト百鬼園の図書館だよりにありました。<リンクのお許しは得ていませんので、不都合がありましたら削除いたします>ちくま文庫では、この平山三郎の「解説」があります。) さて、あらためて感想なのですが。。。 何で読み進めながら書いたブログの文章を長々と再録したのかというと、この「阿房列車」が発表された時代は、僕の子供の頃の記憶に残る国鉄の様子とそうはかけ離れた時代ではなく、まだ貨物列車やイベント列車として蒸気機関車を都内でも見ることができた時代です。そんな意味で、この作品は僕の記憶を呼び覚ましてくれ、思い出しながら百關謳カと列車に乗っているような気持ちにさせられた作品でした。そんな僕の記憶も感想として書きとめても良いのではないかと思いました。 列車での旅を愛する方はもちろんですが、紀行文そのものを好きな方にはたまらない作品だと思います。 用事もないのに列車に乗って出かけていく。旅先では観光もせずに酒を飲む。車内では、「はぁ。。。」と答えるヒマラヤ山系くんを相手にとりとめのない話し。夜行列車には風呂敷に包んだ2本の魔法瓶に入った熱燗とおつまみ持参。ほどよく酔った頃に二段式寝台に寝ますが、上段ベッドに登るむさくるしいヒマラヤ山系くんを評して天井裏のドブ鼠と。。。目的もなく観光もしない阿房列車ですが、旅の楽しさが伝わってきます。 紀行文というものは、旅先での風景や料理、ものめずらしいものの紹介とかいろいろな書き方があると思いますし、自身の心の中を表に出した紀行文もあると思います。ところが「阿房列車」は、とりとめがない。。。肩を張ったような気どったものは全然なく、日常そのままを引きずっていくようなそんな紀行文ではないかと思います。銀色夏生さんの紀行文「へなちょこ探検隊」がありますが、一応は取材ですからいろいろな体験をするわけですが、どことなくそのような体験にどんよりと。やはり紀行文自体は日常を引きずったものになります。この日常を引きずったような取り止めのない紀行文というのも楽しいものですし好きです。列車の待ち合わせ時間や乗り遅れて次の列車を待つまでの無駄な時間。その無駄な時間を描くこととその無駄な時間の中にある心。そもそも目的もなく列車に乗り込むこと自体が無駄である。旅費を借金までして。。。金の無駄でしょう。これらの無駄の中に一つの雰囲気が醸し出される。これも紀行文の魅力の一つです。 この魅力を読者も味わうことができる。 だからとりとめのない僕のような者の思いでも僕自身にとっては楽しい物になるのです。 「阿房列車」は、多くの作家にも影響を与えたそうですが、その意味でも傑作なのでしょう。 2006年11月6日 記 夕螺 |
ざらざら |
マガジンハウス |
川上 弘美 著 |
2002年11月から2006年7月までに雑誌「クウネル」に連載された短編集です。ひとつの作品が7ページから10ページほどのエッセイ風の小説です。 「ざらざら」の後に、やはりエッセイ風の小説を集めた「ハヅキさんのこと」(講談社刊)が出版されましたが、こちらの作品集も同じ頃にいろいろな雑誌に連載したものを集めたものです。 「ざらざら」と「ハヅキさんのこと」、この2冊は同じ作品集として読んでもいいのではないかと思います。このような意味では、「ざらざら」には「あとがき」がありませんが、「ハヅキさんのこと」には「あとがき」があり、冒頭次のように書いています。 「ちかごろ、原稿用紙にして十枚前後の、短編、というには少々短い長さの小説をしばしば書くようになった、」 (「ハヅキさんのこと」あとがきより引用 以下も同じ)) そしてこの短い小説を書くきっかけとなったのが、表題作の「ハヅキさんのこと」(1999年発表)だったらしい。短編集「ハヅキさんのこと」は、この1999年から2005年までに書かれており、「ざらざら」の中の短編と平行しつつ書かれている。ですから「ちかごろ」とは、1999年から今年までということになる。 このような意味では、「ハヅキさんのこと」にかかれた「あとがき」は、「ざらざら」へのあとがきだとしてもよいと思う。2つの作品を除き、雑誌「クウネル」に発表された作品集が「ざらざら」で、その他の雑誌に発表されたものを集めたのが「ハヅキさんのこと」なのです。 「エッセイの体裁をとった小説」 人は夢だか現実だか、その記憶が本当のことを形のままに残っているのかとなるとあやふやになることがある。「エッセイ」となればそこには本当の現実が入ってくる。このエッセイを小説化してしまうと現実なのか作品なのかがあやふやである。「エッセイの体裁をとった小説」なのか、「小説の体裁をとったエッセイ」なのかは、あやふやである。このあやふやさがまた川上さんの作品の特徴でもありひとつの世界なのである。 しかし 「虚と実のあわいにあるなんだかわからないものが知らずに現れている」(「あわい」。。。あいだ) これが表現というものだろう。 一つの短編に書かれたこと自体が川上さんの本当の体験かといえば、それは「虚」であり、ならば短編はまったくの虚であるかといえば、表現された心の動きは「実」なのではないか。。。。 これが表現するということなのではないか。 この表現の仕方に、古い作品としてのちょっと不思議な世界もあるわけで、それが川上作品の特徴でもある。最近の作品には、初期のような表現が少なくなっているが、この両短編集には、また違った形での川上さんらしさが出ていると思う。 「同行二人」は、「溺レる」の世界を思い起こしますし、「月火水木金土日」は、不思議な世界に入り込みますし、これも初期の作品を思い起こします。この作品の形として初期の川上さんの作品を思い起こすということと、同時に、すっと動く心の動きの表現としても、それは初期の作品的なのかもしれません。 話がそれますが、僕のホームページでは、銀色夏生さんを中心に、女性作家の皆さんの作品感想を書いていましたが、最近は、川上弘美さんの作品もすべて読みたいと思うようになってきました。これがなぜなんだろと考えてみると、お二人の作家の表現の中には、この「すっと動く心の表現」という一面にあるのではないかと思います。まだ「ハヅキさんのこと」は読んでいませんが、この両短編集は、僕にとっては大切な1冊に成るのではないかと思います。 「淋しいな」は、失恋の淋しさですが、淋しくなるきっかけはたくさんあるけど、よくよく考えればきっかけはきっかけ。。。残るは淋しさなのだ。ふと図書館から借りた本を思い出す。風呂に入ったらすぐにねついてしまった。「淋しいな。」ふらられた「淋しさ」と後の「淋しいな」は違います。この失恋で彼に会えない淋しさから、「あたし」は、恋愛をしたことがあるのか、彼の事が好きだったのかと自問するなかでの自分への「淋しいな」と、心の動きがあります。銀色夏生さんの「こんなに長い幸福の不在」のなかの「この悲しい気分の一つは」という詩の僕の感想には「中途半端な恋。つかづはなれずの恋。。。。恋に迷いはつきものだけど、迷いながらもたしかなものを見つけるのも恋。見つけられないうちに終わったのが悲しいのかもしれない。」とあります。淋しさと悲しさの違いはありますが、この心の動きにぐっとくるわけです。 この川上さんと銀色さんの比較は、まったくの僕の中にあるものですが、詩にしろ、超短編の小説にしろ、何を表現するかは、この心の動きの変化ではないかと思います。 この短編集は、いろいろな小説を読んでいると、頭に焼きつくような場面に遭遇しますが、そんな文章を集めたような気もしますし、小説の本題には関係ないけどなぜか印象に残る場面もあるというように、超短編にはそんな魅力もあります。 また、表題作「ざらざら」では、二人の女と一人の男との友人関係と淡い恋がありますが、この微妙な関係の中での恋が、正月用の飾りである海老のざらざらとした手触りに表現をされている。淡い恋の心を飾り海老のざらざらに結びつける。。。ここには俳句的なものを感じます。 川上弘美さんは、今はどうか分かりませんが、恒信風という俳句会の同人でいらしたようですので、ぱっと湧き立つ心の動きを短い文章にするということという点では、この両短編集は俳句的小説といっても良いのかなとも思います。 主人公は、20歳から35歳ぐらいの女性で、その恋を描きますが、恋の短編集としてだけではない人の心の揺れ動きといったものを考えさせられます。 失恋の悲しみというのは、もしかしたら淋しさとか寒さの中の温もりを求めるものなのかもしれない。 だからなぐざめや励まし、同じ体験談が救いとなるのだろう。 失恋ばかりではない。人は一生淋しさの中に生き、そして温もりを求めていくのかもしれない。 だって、心はいつも自分という孤独の中にあるのだから。 2006年11月22日 記 夕螺 |
やがて今も忘れ去られる |
角川文庫 |
銀色 夏生 著 |
2001年発行の「バイバイまたね」以来、5年ぶりの写真詩集です。この作品は、中学生ぐらいの少女をモデルとした写真詩集で、風景や花や木の写真を使った夏生さんらしい写真詩集としては、2000年の「そしてまた波音」以来6年ぶりとなります。 夏生さんの詩集は、大きく分けると写真詩集、イラスト詩集、そして題名の初めに「詩集」という題をつけられた文字だけの詩集があります。 初期の河出書房新社の「黄昏国」や「無辺世界」は、イラストが挿入されていますが、その後の角川文庫では「これもすべて同じ一日」で写真が挿入され始めます。最近出版された「うらない」(だと記憶しているのですが)の中で、写真家になろうかと思った時期があったようです。この夏生さんの写真も魅力的ですし、この写真とはっとするような言葉や心にしみこむような言葉の組み合わせは、独特な銀色夏生の世界を作り出しています。 たぶん1時間もあればさらっと読めてしまう本ですが、読み終わると心のどこかに何かが残る。この「何か」がなんだろ?と思ううちにまたページを初めからめくっていってしまいます。 写真もそのへんの身の回りにあるような風景ですし、詩も恋の詩ではあるけど歯の浮くようなきれい過ぎる気どりのある言葉は無くて、日常にふと思い浮かべるような心の動きです。激しい心の動きを見るのではなくてふとした心の動きを見るわけですが、このふとした心の動きに静かな決意や決心を見ます。人は生きている中でいろいろ思いふけることがあり、何かしらの決意をしながら生きているわけですが、その時の心の中は、美しい言葉に飾られているわけではないし、芝居じみた台詞のような言葉を思うわけでもない。やはりふとした心の動きだったり、仕事や家事をやりながら思いをめぐらすような静かな心の動きだと思います。もちろんその心には熱いものがあるわけですが、その熱い心をきれいな言葉や激しい言葉で飾るのは、のちになってからでしょう。夏生さんの詩の魅力は、この後になってきれいなことばや激しい言葉で飾る詩ではなくて、仕事をしながら、家事をしながら、子供と接しながらというその瞬間に動いた心の動きを切り取った静かなものだと思います。ここに日常風景の写真との接点もあるわけです。 この独特な世界に読者はひきつけられて何度も読んでしまうのだと思います。また、きれいな言葉や激しい言葉に飾られた瞬間、そのひとつの詩は整理され完結したものとして現れますが、そのとき心に浮かんだ一瞬の心の動きを表した詩は、まとまりもなく進みます。いつもの心の動きはそのようなものでしょう。とりとめもなく。。。。 ですから夏生さんの詩集は、わかりづらい部分が多いし、よく現れる矛盾した言葉もそのままに出てきます。しかしこのとりとめのない流れの中に一筋の道が見えるような気持ちになる。この道があるからそれが上にも書いたような「読み終わると心のどこかに何かが残る」という気持ちに読者はなるのです。それは、夏生さんの心の中にあるものと読者の心の中にあるものは具体性の中においては違いがあるわけですが、「何かが残る」中に読者の心はかえって引き込まれていき、自身の具体性とダブらせることができるのだと思います。 恋の詩ですが、恋の心に終わらず生きているということへの普遍性を感じ取れるのです。「何か」は、読者の身の回りにあるものから捜し求められるのでしょう。 もちろん詩集として1冊の本として出版されるわけですから、そこには夏生さんの「いいたいこと」はあるわけです。それが本の最後のほうに高まっていきます。読者は心を強く出来るでしょう。。。。 ここにも夏生さんの生き方が現れます。 前書きが長くなりすぎました。 でも、ここで書いた夏生さんの詩集の魅力は、今回の「やがて今は忘れ去られる」の中に十分に現れています。 2005年に発行になった「すみわたる夜空のような」を読んで、銀色夏生という詩人を好きになったのは間違いなかったと、感想を掲示板で書いた記憶があるのですが、今回の写真詩集を読み終わった感想も同じです。 夏生さんの詩を読むと、よく感じることがある。 1ページごとにちりばめられた詩や言葉にドキッとするのですが、その詩や言葉たちが数ページに渡ってのひとつの詩になっているということです。そしてそれが詩集全体の雰囲気を形作っていく。 今回の詩集は特にそういうことを感じながら読みました。 写真も常夏の海を見たかと思うと次のページには雪の風景。無造作にばらばらに入れられているような写真は、この数ページに渡ってのひとつの詩としてみると無造作ではないと感じられます。 今回の詩集は、秀作といえるのではないか? 52ページから61までをひとつの詩として読むとぞくっと来ました。 52ページの「進む部屋」は、少し抽象性のある心の動きを表し、次のページからは思う人が現れてその人は遠くにいる。いつも会って話しをするというような恋ではない。思いは強い。この強い思いはどこでつながっているのだろう?「暮らしているよね 君は今」(59頁)同じ今という瞬間に思う人はどこかで暮らしているんだ。。。「床に落ちた紙くずや折れた鉛筆の芯」(61頁)を見つめると、今という現実の中にも私は暮らしているんだ。この暮らしを愛すること、この愛する心こそが思う人の心とつながっている。 この一連の心の動きに感動します。 しかし、この今という暮らしている時間は流れていく。この時間の流れを見つめたときに、64頁の「やがて今も忘れ去られる」という表題作の言葉が出てくる詩につながっていきます。 でも、これは時間の流れの中で今が忘れ去られていくという悲しく淋しい言葉ではなく、今が過去になって未来が今になるそんな変化を見るわけです。孤独感や淋しさを残しながらも、詩集は118頁の「森からの道」にはじまる最後のページに渡って未来を見つめる今を力強く描かれます。ここにまた読者は感動するでしょう。。。強い問いかけを感じます。 読み終わったときに、次のような詩情が心に沸き起こりました。 『過去は現実としてあったもの その現実は、今というところから見ると ゆらゆらと夢のよう 未来にも現実はあるはず その現実は今というところから見ようとしても ゆらゆらと夢のよう ゆらゆらとした夢のような 過去と未来の狭間に今という現実がある それも一瞬にして揺らぐ 飲み残しのコーヒーがテーブルの上に 僕はそのコーヒーを飲み干すだろう テーブルの上にはカップだけが 僕は未来へと時間に流される 今という現実は過去となり 揺らぎはじめる やがて今も忘れ去られる しかし僕は未来の今に生きるだろう 霧の中の森の道に 振り返っても今来た道は霧の中かもしれない また前を向いてとぼとぼと歩くだろう 未来という中の今という現実へ』 夏生さんの詩は恋の詩ですが、人が生きているというのはどのようなことなのかとふと思うときにもその読者自身の心に様々な思いを沸き起こしてくれる詩ではないかと思います。ここが単なる甘い言葉に飾られたような詩ではないという夏生さんの詩の魅力だと思います。 もちろん恋の詩としての魅力が一義的ですから、若い方々にも是非読んでいただきたい作品です。そして一人の男として読んだときの心の熱さもあります。ですから女性だけに夏生さんの詩を独占させるにはもったいないです。。。男性も是非! 2006年12月8日 記 夕螺 |
ハヅキさんのこと |
講談社 |
川上 弘美 著 |
表題作「ハヅキさんのこと」を含めた1999年から2005年までに書かれた短編集です。 先に読んだ短編集「ざらざら」とほぼ同時期の作品です。「ざらざら」は雑誌クーネルに連載されたものを出版されましたが、「ハヅキさんのこと」は、他の様々な雑誌に載せた作品です。同じように「エッセイという体裁をとった小説」(あとがき)という面では共通しています。 「ざらざら」の感想でも書きましたが、この2冊は両方をお読みになることをお薦めします。 とはいえ、同じような「エッセイという体裁をとった小説」としても、「ざらざら」は、どちらかというと結婚前の恋愛の中の別れや男女関係を描いていますが、「ハヅキさんのこと」は、「後半の『階段』から『だめなものは』までの11篇」(あとがきより)は除き、どちらかといえば、結婚後の別れや夫婦関係を描くものが多いと思います。これは、同時期の長編「真鶴」につながっていきます。 『ネオンサイン』は、「今朝私は48歳になった。」という言葉からはじまります。川上さんご自身も1958年生まれですから48歳です。48歳になった「私」は、娘と暮らし、鈴木くんという恋人がいる。そんな「私」の平凡な1日は過ぎていく。恋人の鈴木くんという名前からして平凡である。48歳になった日の川上さんの心の中を小説として描いたものなのでしょう。 川上さんの様々な作品を読むと、夫婦間としての男女をいろいろな形で書いていますが、その中でも2つの特徴があります。 夫婦間の関係は破綻をして恋人がいる女性。何らかの理由で逃げていってしまった夫に取り残されたような女性。 どちらも高校生ぐらいの息子や娘がいる。 もちろんこの小説の設定そのものが実際の川上さんご自身の生活かといえば違いもあるのでしょうが、一人の女性として初老を感じる年齢に近づき、過ぎた時間の中で一つの家族、夫婦関係が残っており、50歳も近い女性の目で特に夫婦間の男女としての関係や一人の女としての自分を見つめる心は描かれているのだと思います。 先に読んだ「ざらざら」の『トリスを飲んで』という短編には、娘から見た両親という夫婦関係を見ることができます。「トリスを飲んでハワイに行こう」。。。むかし、ハワイというのははるかな夢のような島。。。そんな古いテレビコマーシャルを僕も覚えがあるが、この両親は50を過ぎているだろう。子から見た両親の夫婦関係は霧の中。「ハヅキさんのこと」には『ネオンサイン』『かすみ草』『森』など、この50歳前後の夫婦関係を書いている。『誤解』の初枝もそうだろう。 子には見えない両親という夫婦関係。 子というのは、両親の30歳前後の姿から覚えがある。それ以前は霧の中であり、夫婦関係も含めて一人の男、一人の女というものも霧の中で、やはりお父さん、お母さんなのである。「トリスを飲んで」にはこの娘の目を描いている。しかし「ハヅキさんのこと」という短編集には、この年老いてゆく男や女という一人の人間が見える。 これは対をなすのではないでしょうか? 川上さんのお年としてから見つめた自分という一人の女の内面を実際の生活を記すのではなくてもその題材を借りて心の中を描いているという意味においてエッセイなのかもしれません。それがあとがきにある「虚と実のあいわいにあるなんだかわからないものが知らず知らずにに現れているのが、(中略)文章を書くとはなるほどそのようなものなのだったと、いまさらながら合点しているところなのである。」という言葉になるのではないかと思います。 今の60歳代は元気である。心も体も若い。40代後半という年齢では、こういう母を持っているかもしれない。「蛇を踏む」という作品では、主人公はもう少し若いが母との葛藤を描いていると思いますが、「誤解」も同じようなものを感じます。どちらも激しい心の動きを描きます。違いは、この母親も「誤解」では語っているということです。40代後半になると自分自身の子が成長し母という面が強くなります。「蛇を踏む」では、娘から見た母への葛藤ですが、今は自分自身がその母になっているわけですから、「誤解」その他の作品において母にも語らせられるというものもでてくるのではないでしょうか。そしてその中にはその時の夫婦関係もあり一人の女もいるわけです。今の川上さんの心がその年齢において描かれるわけです。 こう見ると、短編集という形をとったエッセイなのです。 40歳代後半。。。 母もいて娘や息子もいる。母でもあり娘でもある。その意味で中途半端である。それは、母でもあり一人の女でもあるということで、その二面性に戸惑う。それよりももっと深い一人の人間というものもある。 「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」(「センセイの鞄」より) 子から見た両親は、お父さん、お母さんという切り取られた人間を見ているのであり、○男○子という生きている人間を見ているのだろうか?40歳後半はそれが見えてくる。自分というものを通してなんとなく分かってくる。その自分を見つめたとき、死はそうは近くもないがそうは遠くもないという中途半端さを感じる。人生を振り返ったりこれから先を思う。そうは短くはないがそうも長くはないこれからを。 結局雑多な時間を過ごしていくのでしょうが。。。 40歳後半の女性の心の激しさは、「真鶴」という長編となっていったのだと思います。 2006年12月22日 記 夕螺 |
真鶴 |
講談社 |
川上 弘美 著 |
先に読んだ「ハヅキさんのこと」の感想に、次のように書いた。 『「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」(「センセイの鞄」より) 子から見た両親は、お父さん、お母さんという切り取られた人間を見ているのであり、○男○子という生きている人間を見ているのだろうか?40歳後半はそれが見えてくる。自分というものを通してなんとなく分かってくる。その自分を見つめたとき、死はそうは近くもないがそうは遠くもないという中途半端さを感じる。人生を振り返ったりこれから先を思う。そうは短くはないがそうも長くはないこれからを。 結局雑多な時間を過ごしていくのでしょうが。。。 40歳後半の女性の心の激しさは、「真鶴」という長編となっていったのだと思います。』 主人公の「京」は、40歳半ば。 70になる母親と高校生の娘「百」と3人で暮らす。夫「礼」は、百が幼いころに失踪をして行方不明。青茲という50代後半?の恋人がいる。 母・・・京・・・百。母娘3代で暮らすが、はじめに「三人の女の肉体」(25頁)という衝撃的な言葉が出てくる。京は、娘であり同時に母親でもある。母そして娘というものから離れれば、それぞれが女である。世代は違うが、女が3人住む家なのである。 百は少女から女になっていく。その母親は京という女である。 京の母親という部分と女という部分には、男への接し方にも微妙さが出る。失踪した夫である礼に対する京と、恋人である青滋に対する京には違いがある。夫礼に対しては、母親としての自分が出るのかもしれない。それは妻・嫁という微妙な女の位置ともいえるかもしれない。青滋は、男だけであり、女としてだけの関係を持てる。 「ハヅキさんのこと」36頁『ネオンサイン』には48歳の「私」に次のように語らせる。 『年とったもんねえ、とか、女としておしまいよねえ、とか。それでは余裕に満ちて成熟した女としての人生を謳歌しているのかといえば、これもちょっと違う。 中途半端。 それが今の私の感じにいちばん近い言葉である。』 ここでは平凡さの中にさらっと心のうちを吐露しているが、この『中途半端』さの中にある心の葛藤は強いだろうし、それをさらけ出したのが「真鶴」ではないかと思う。 京は、娘百のような若い肉体はすでにない。同時に皺の寄った肌を見せる母親の肉体でもない。精神的には、娘でもあり母でもあり、一方では女でもある。夫が失踪しているとしても妻・嫁という意識もあるだろう。毎日は母娘三代の生活の中に平凡に過ぎていく。この京の心の中はどうなんだろ?心の動きは激しさを増す。ここに「中途半端」さの一つの表現があると思う。 母親と一人の女としての深い狭間。。。妻・嫁と一人の女としての深い狭間。。。 腹を痛めた子という言葉があるが、女性は、妊娠に気づきつわりがはじまったときからその体に変化が出、出産という中に母親という意識は決定的である。ところが男は、父親という意識はあってもそれは体として感じるのではなく、子の成長過程の中に意識は高まる。この意味において父親と一人の男の狭間は女性に比べれば深くない。 84ページの2行目からの二人の言葉。。。 妻から見た夫の中にある父性と、夫から見た妻の中に母性は、そうとうづれているのかもしれない。父親母親になった夫婦関係。男女の関係。。。。 ここに男と女の違いの決定的な違いの一つがあるのかもしれない。 この男女間のお互いに完全に理解し得ない奥底にあるもの。男が愛する女が母親になった瞬間に感じる不思議な変化に戸惑うと同時に、女にとっても男は謎なのである。 この男へ対しての謎の部分と、一人の40歳後半を迎えた複雑な立場にある一人の女の葛藤が幻想的な世界として描かれていく。 京の後ろには、「ついてくるもの」が出てくる。同時に礼の残したメモには「真鶴」という文字。 作品は、この不思議な世界に入り込みながら京の心の葛藤を描く。 今日は真鶴に引き込まれるように何度も行くが、その中で「ついてくるもの」の姿はだんだんと一人の女の姿として明らかに見えてくる。京の中にある女という部分が現れたのだろう。不思議な世界にいざなわれる中に自分の心の中にある自分と話しをする。壮絶である。「蛇を踏む」では、母親と娘である自分との葛藤を壮絶に描くが、ここでは母親である自分の心が壮絶に描かれる。 作品は、平行して京と礼との夫婦関係の流れを描き、京にとっての夫としての礼と男としての礼を思い出すように描く。ここにも京から見た礼という一人の夫・父親と一人の男としての二面性が出る。その礼も真鶴での不思議な世界に現れてくる。 真鶴での不思議な世界は、京自身の心の葛藤の世界であると同時に、その心の葛藤から導かれる生死の境目の世界かもしれない。それだけ、京の心は追い詰められていたのかもしれない。それだけ壮絶な世界だったのである。 「真鶴には、いったい何があったの」 今日は百に聞かれる。 百も「ついてくるもの」としての父親礼に会っている。作品中には表れていないが、それは当然百の失踪した父親への激しい心の葛藤があったものとみるべきだろう。京の母親にも。 京はつぶやく。 「からっぽになっちゃった」 青滋との関係も終わる。 青滋は、今はもういない礼に京がまだ礼のことを考えていると別れていく。しかし青滋は、妻子からは離れられない。礼の失踪。。。。 逃げる男、離れていく男。 これは未だに今日にとっては謎を残すのだろうが、真鶴での不思議な世界から逃れた京の心はからっぽになったのである。 京自身が母親であると同時に女の部分を感じていたと同じく、男である礼にも青滋にも父親の部分と男の部分が同じようにあったのだと理解する中に京の心は男への葛藤から解き放たれたのではないか。 先に『センセイの鞄』から引用した言葉 「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」 その中の「干潟ー夢」では幻想的な世界が広がり、センセイはこの世界を好み時々来るといいます。そして境の世界だといいます。現実の生きている世界と死の世界や無機質な世界の境かもしれない。そこでは、ツキコさんとセンセイは永遠に湧き出るカップ酒を飲み永遠の命があるのかもしれない。しかしツキコさんは、現実の世界に帰りたいという。 京も現実の世界に帰ってきた。 そこにあるのは、雑多な時間があるだけだが、京の心は満ち足りたものとなる。 人は、「何もないところから来て、何もないところへ帰っていく」(266ページ)京の人生のこれからは、そうは永くもなくそうは短くもない。ただ京は百の肩を抱きしめる。 2007年1月16日 記 夕螺 |
無辺世界 (新潮文庫版) |
新潮文庫 |
銀色 夏生 著 |
1986年、河出書房新社から初版が発売になってから20年ぶりの文庫化です。 銀色夏生さんの詩人(作家)としても20周年です。 2006年はたくさんの本が出版されましたが、同時に日記エッセイ「つれづれノート」シリーズも終わり、20年を迎えたことに対しての夏生さんのお考えのようなことも感じます。「おしゃべり本」は、「つれづれノート」にも登場する方々も多く、「つれづれノート」の集大成のような、同時にこれからの夏生さんの生き方も出ているわけで、一つの区切りの年だったのでしょうね。。。(と、僕は感じました)。 その締めくくりが「無辺世界」の文庫化だったのかもしれません。 20年前の「無辺世界」と文庫版には少し違いがあります。 文庫化するにあたっては、はじめのページに「まえがき」のような短い言葉が添えられ、書き下ろしの作品が追加されたり編集者がインタビューしたという感じのQ&Aでの近況とこれからが語られています。そして途中のページに、「すきなもの」という文が挿入されています。 「まえがき」の部分は、河出書房新社版では本文にはなく、帯に書かれていたものです。(夏生さんの本は、表紙から裏表紙や帯にいたるまで手作りで作った本という印象が強いです。角川文庫の本では、「銀色夏生の本」というチラシが入っているのですが、このチラシでさえご自身のイラストや写真が使われています。すべての部分一つひとつが夏生さんの表現が出ています。) その他、河出書房新社版と違いとしては、63ページのイラストは、逆さの男が立つ丸い地面は河出書房新社版にはありません。40ページのイラストは、新社版では、「仲良しになりたい」のイラストです。そして一番大きな違いは、104ページの「すきなもの」という新たな文章が入り、その代り、イラストが一つになってしまったことです。河出書房新社版では、このページにあたるところに、104ページのイラストのほかにもたくさんのイラストがあります。 「すきなもの」が入ったのはどうしてだろ? このような初版本との違いや「好きなもの」が途中に挿入されたことなどを考えながら、あらためて楽しく読みました。 夏生さんの作品に「夕方らせん」という美しく不思議な世界を描いた物語集がありますが、「無辺世界」にもたくさんの不思議な世界を見ることができます。詩も多く、素敵なイラストとともにちりばめられています。 夏生さんの作品特に詩は恋を描いたものが多いのですが、その恋の詩にも恋から離れた、というよりも恋というものを超越した人の心の普遍性といったもの感じるのですが、「無辺世界」は、この心の中といったものを強く表現した作品となっていると思います。 「無辺世界」のおはなしは、今、見ても、ふるえるほど感心します。(「黄昏国」「無辺世界」「サリサリ君」「月夜にひろった月」−夕螺)以上の4冊は、私のごく内面の世界をあらわしていて、私の人生の中でも、特別な空間を形づくっています。とても、ありがたい宝です。 (「つれづれノート@」160ページ) この言葉にあるように、夏生さんの心の中が「特別な空間」という作品として現れているのではないでしょうか。 では、その心はどのように描かれているのかとなると、夏生さんご自身、文庫版の中の「17の質問」で答えています。 「子どもでも大人でもない、独特な存在感」 「生命と宇宙の神秘」 「静寂と悲しみ」 また、夏生さんの特徴としては、「男でもなく女でもない両性的」なものが加わると思います。 114ページに「銀河の貝とり」という作品があります。空がなく常に星星が輝く兄弟の住む星。兄弟は青い空のある地球を空想する。兄弟の両親は街ごと彗星に吸い取られてしまった。その彗星がまた来る日はいつ?このような物語ですが、この中に「静寂と悲しみ」があり、透き通った宇宙の空間の中に夏生さんの透き通った心の表現を読むことができます。静寂さは、どこか孤独というのか自分の中に閉じ困るような心と見ることができ、その中に悲しみもあるわけですが、ただ単に孤独や悲しみの中にいるだけではなくて、その中の温かみも感じられるのです。その温かみが透き通った心の空間を作り出します。孤独・静寂や悲しみの中に温かみを持つ。夏生さん独特な表現です。このようなものは、56ページの「階段の途中の穴ぼこ」などに見ることができます。 この孤独と悲しみの中にいる心の静寂の温かみは、同じ心を持つ人々との心の通じあいに求められています。 「私にとってもっとも大切なことは、あの、同じ悲しみでありよろこびを、みとめあえる人々の存在を確信することである。」 (「まえがき」より) 152ページ「竹林のナピスコ」では、同じ心を持つ人々が6人いて、そこにナピスコが招かれます。そこに同じ心を持つものとして7人(七賢人的に)がそろいます。これは、2006年発売になった「ものを作るということ」という最後のページには夏生さんのイラストがあるのですが、そこに「竹林の七賢○」(最後の1文字は判読できません。たぶん「国」または「図」と誤って書いて消したもので、「人」だと思います)という言葉があり、これは「竹林のナピスコ」のお話にあるものと同じものを感じます。今の夏生さんも追い求めているものだと思います。その中での心の安定や喜び。これが読む者に温かみも与えるのではないでしょうか? 106ページの「この胸のバッジ」も「夏生さんにもらったバッジ」として同じような思いが伝わってきます。 やはり「17の質問」の中に、「無辺世界」を書いた頃は、「静寂と悲しみ」で、今は「明晰と自由」だと答えていますが、この「自由」も自由でいようとすれば孤独と悲しみにつながるわけですが、同じ思いの人々が集まりお互いに干渉しあわない中に心の安定と暖かさもが並存する自由が得られるわけです。明晰さもお互いの自由を認め合うなら考え方の違いも認め合えるという明解な中に心の透明感が出ます。心の通じ合いや自由という面で見たとき、104ページになぜ「すきなもの」という作品をイラストに変えて書き足したのかがなんとなくわかります。 以上見てきたことは、日記エッセイ「つれづれノート」シリーズやその他の作品にもたびたび見えるものです。夏生さんが作家生活の中で追い求めているテーマであり、一貫した姿勢でもあります。その意味において作家生活20年の原点を見つめて締めくくりとしてこの作品の文庫化を決めた理由も納得できるのではないでしょうか? はじめの作品「丘の上の光」(15ページ)は、このような夏生さんの心の世界にいざなう作品として読めますし、最後の有名な「超えられないなら、くぐっておいで」という短い一言にその誘いは完結されます。「超えられないなら」は、なぜ「越えられない」ではないのか?「超越」なのかもしれませんね。 「少年宇宙」 空の遠くから街の明かりを見るときれい。いろいろとある街の光にも心ひかれるけど、僕らは空に浮かびゆく。そして誘われる。。。 「早くおいでと。。。。」(207ページ) でも、どこにおいでと夏生さんはいうの? 「光の丘」に輝く光には僕らはなれないけど、夏生さんは、「君を、でも僕は好きだよ。」と言ってくれました。 書き下ろしにある「こんぺい島」は、遠くの空から眺める街の灯の中にいます。 でも、光のなかは、たしかな気持ち 今の世の中に住んでいると、心が望むようには自由ではいられない。常に心の中と現実の世の中との接点に思い煩う。夏生さんは不思議な世界に逃げ込むのではない。この心と現実の接点の中に生きる。接点の中にまた自分の心をみて確認していくのだろう。 2007年2月5日 記 夕螺 |
若者はなぜ3年で辞めるのか? |
光文社新書 |
城 繁幸 著 |
副題に「年功序列が奪う日本の未来」とある。 読み終わってみると、この副題のほうがこの本の本来の主題ではないかと思う。 「本書の目的は、彼らに『閉塞感の正体』を示すことだ。 (中略) そうすれば、次にどこに向うべきか、方向だけでも見えてくるに違いない。」 と、年功序列の弊害に「閉塞感の正体」を見て、若い世代に今の現状を訴え若い人に今何をするのかの方向性を見せるのだが、読後の結論から言えば、年功序列批判に今の若者の不平を継ぎ足したような、若者がなぜ3年で辞めてしまうのかを責任転嫁しているのではないか? この本においては、副題の年功序列の弊害についてあるいは批判ははっきりしている。しかし本題であるなぜ若い人が会社を辞めていくのかについては歯切れが悪い。たしかに年功序列型の組織の中で、若い人が責任ある仕事を任せてもらえずにその中で職務給制度により賃金も低く抑えられていることをある個人の事例を紹介しながら書き進められるが、この表面に見えるものだけを捉えているばかりでは、なぜ若い人がやめていくのかの根本的なところが見えてこないのではないだろうか。 若い世代といっても様々な形で雇用されている。 大企業の正社員もいれば中小の企業に勤める若い人もいる。派遣社員やアルバイト、パートという形で雇用される若い人もいる。賃金格差は大きいだろう。雇用機会均等法があるとはいえ男女間の格差もあるだろう。同じ条件で雇用されていても勝ち組負け組みという格差があるだろう。この賃金格差は、何も若い人たちだけではなく、あらゆる世代において現れている。 一方においては、ものを作る生産現場は、精密な機械とコンピューターが結びついた産業ロボットが導入され、熟練工が必要とされなくなり、アルバイトやパートだけで間にあうようにもなって来、同時にそれは必要なときに必要な労働力を得て必要なくなればやめてもらうという形の弊害が出てきている。 このように、「閉塞感の正体」とは、人を使う側と使われる側の中での矛盾にあるのである。この矛盾は、根本的にはコストとして企業が人件費をどう抑えるかにあり、それは賃金額と労働時間を基本にする。 これを企業は競争としてエスカレートさせていく。 この中で働く側の生活は、賃金額においても労働時間においても貧しさをましていき、ここに「閉塞感」が起こる。賃金額や労働時間というものを鋏んで、片や企業はコストであり、方や働くほうにしてみれば経済的な余裕であり余暇生活の充実であり、それは生活の安定である。ここに賃金額や労働時間というものの根本がある。 この根本があるからこそ企業はその時期時期に賃金というコストをどのように振り分けるかを考える。今はどのような時期に来ているか?年金の支給年齢65歳の移行期間が終わろうとし、企業にも65歳までの雇用の責任が現れてきている。65歳定年制という声も聞こえてくる時期だが、この定年延長を今のまま行うとすればコストが重くなる。当然にして賃金額を低くして同じ仕事をさせるというのが企業論理だろう。そこで声高に唱えるのが、「年功序列の弊害」だろう。それは、高齢者が多くの賃金を受け取るから若い人の賃金が低くなるという論理となり、若い人にポストが空かないのは年寄りがいる体という論理にもなり、この論理は若い人に大きなインパクトとなる。 もちろんそこには年金問題があり、団塊の世代が定年を迎える中での年金減額は、年金制度を支える世代においては受け止めやすい論理となる。 コスト意識すなわち利潤追求の企業論理は、今の時期としては、高齢者の賃金引下げにあるというのは間違いないだろう。そことこの本の論理展開を見ると企業と著者という両者の利害はすばらしく一致するのである。たしかに著者は企業や国への批判も書くわけだが、結論からすれば、今の国の政策や企業論理に一致するのである。 この論理から、著者が若者に訴えることは、年功序列という言葉を借りて若者と年配者の対立をあおることでしかない。70年代後半からだろうか、OA革命が始まりワープロについていけない年配者と若い人との対立もあったし、パソコンの導入は決定的となる。後には窓際族というような言葉に見られるような高齢者切捨てとなって言ったと思う。これと同じ事が年功序列の弊害という言葉として行われようとしている。 「明るい未来とは本来、人から与えられるものではなく、自分の手で築くものであるはずだ。」(231ページ)だから若い人は「アクションを起こせ」というのが結論だろうが、たしかに年功序列型賃金を崩壊させるアクションの中に若い人への賃金配分が高まるかもしれないが、その中でも勝ち組負け組みは、競争論理からして若者の中に生まれ、どこかで読んだか聞いたか忘れたが、この社会には5%のエリートと95%のエリートに従順な人がいればいいという論理に変わりなく、若い人の世代という世代全体から見れば、そうは今と変わりはないのである。重要なポストにつけるのはやはり5%かもしれないし、起業したとしてもその若い起業家が雇う同じ世代の若い人はやはりアルバイトや契約社員かもしれないのであり、また、高齢者の賃下げが起きれば自分の親の年金額も下がるわけで、世代全体から見ればそうは明るい未来ではないのである。 そもそも高齢者が賃金をもらいすぎているからあるいは高齢者がたくさんいるから、若い人の賃金が低くなるという常識は間違っている。何も高齢者が若い人の賃金をピンはねしているわけではない。先進国の中で日本の賃金の安さは昔からいわれているわけで、40歳50歳頃になってやっと人並みの賃金を受け取れるようになるというのが実情だった。それも残業なども含めて長時間労働の中で。。。やっとである。大企業の大卒バリバリの30歳前後の若い人の3倍もの賃金を得ている50歳代世代なんてそうはいない。下手をすれば、その若い人のほうが高い賃金を得ている場合がはずである。 また年功序列が社会特に若い人に対して閉塞感を感じさせているわけではない。年功序列の中でも日本の経済ははってんをし活力があった時期もある。また、年功序列型の賃金は、働く人たちの生活パターンに待ちしたものであった。独身時代はひとりで生活をするのでそうは金もかからない。20代後半ともなると結婚をして1子目が生まれる。そのときは少しは賃金が上がっている。30代後半ぐらいになると住宅ローンがはじまり、40代になれば教育費や親の問題も出てくる。50代でも高学歴を求められる時代だから教育費はさらに重くなる。やっと少しは人並みの生活ができる頃には定年である。下手をすれば退職金の一部は子の結婚資金の一部になってしまうこともあるが。もちろんここには全体的な低賃金というものはあるが、一応の生活パターンの変化に沿った賃金体系があり、消費を支えられたのである。 もちろん時代が変わったという意見もある。 でも、今の潰し合いの競争社会になってしまったというのも企業論理から来るのである。企業を守るという意識から何がおきたかといえば、リストラであり、コスト削減である。同時に法人税や高所得者への減税、株取得への税の軽減であり、中低所得者へは増税であった。累進課税は否定をされ消費税の導入。企業論理は生産コストのことばかりを考えて消費を忘れる。消費を海外の国に求めて借金をさせても自国の製品を交わそうとしたが、破産をする国も出てきた。あるいは先進国間の貿易黒字問題にもつながっていく。熾烈な潰し合いはますます激しくなり、競争は激しくなる。一方では低賃金化の増大は個人消費は鈍くなっていく。生産は、ロボットの手により早くたくさんの物が出来、人手が要らなくなった分コストは減って値下がりをしていく。個人消費は衰えた中、製品はますますぎりぎりまで値下がりをしていく。大量の製品を大量に売らなければならなくなる。そうしないと今までと同じ利潤は受け取れない。「冬のボーナス一括払い」というような先の収入を見込んだ商戦が繰り広げられる。カードローンははやり、貸し金業もはやる。市場の中でたくさんの商品販売を独占するために合弁や企業買収が進む。それはまた独占的な価格を一時は作るが、新たな競争はすぐに始まる。もちろん儲けの多い産業もあるが、情報通信料を2万も3万も遣えば無い袖は振れなくなり、スーパでの売上は落ちる。 閉塞感は、市場に任せば自然に解決するという自由主義の論理である企業論理がそのままに野放し状態になるとますます増大していくのである。 そこではやるのが、美しい国とか希望に満ちた国とかいう精神論であり、清貧を尊べ!!である。 未来に対して何も約束できない中での我慢である。 それでも今の社会が維持できればいいが、今問題となっている不二家やこれまでに雪印乳業や三菱のトラックの問題など大きな企業内部に矛盾が生じている。政治家の不祥事は後を絶たない。犯罪は増加をし、その低年齢化も進む。荒廃は進んでいく。 競争は、最終的には何でもありの「あらゆる力」を使ったぶつかり合いである。 社会は閉塞していく。 企業から大切にされていない社員は、客を大切にはしない。それは企業をも大切にしないということであり、自ら見切りをつける。しかし、人に使われている間は何も解決しないのに、どこかいいところがあるはずと変な勘違いをして若者は企業を去っていく。 今の競争力を維持しなければ国際間の競争に負けるというが、日本企業が勝ったとしても日本人の生活が豊かになるという保障は何もない。競争に勝つためと頑張ってきた結果が今の社会である。 若い人が成果主義だと頑張ったところが何が保障されるだろう?世代全体として。広い視野で見ないと大変なことになる。 今の雇用形態では低賃金層が正社員の賃金引下げの作用をし、賃下げをされた高齢者の労働力は、新たに若い正社員の雇用を狭め、賃上げを阻止するだろう。 目先の年功序列型という幽霊を見ているだけではダメではないか? いまや政府や企業でも個人消費の伸び悩みを言うようになった。それが景気回復の足かせとなっていることを表明せざるを得なくなっている。 機械などの発達により労働力の量の必要が少なくなったなら、それは労働時間の短縮に結び付けなくてはならない。余暇の時間とそれなりの賃金は、消費を伸ばし社会を安定させるだろう。厚生年金の支払いそうも増え、国民年金を納める層も増えるだろう。 若い人もセレブな生活を夢見るのではなく、日常の生活の豊かさを世代全体のものとして考えなければならないだろう。 企業内のポストやそのポストにおいての賃金格差は、企業内の民主主義の問題である。あるプロジェクトチームがあった場合、それは能力のある人が先頭に立つわけだが、それを支えるには多くの人のチームワークが必要である。たしかに若い女性社員は、お茶汲みとコピーしかやらないで裏方で終わるかもしれない。若い人たちも。でも、チームプレイとしてプロジェクトが成功したなら、すべての人の努力として評価していく民主主義である。それは、ある程度の格差はあっても仕方ないが、すべての人への賃金面での配分とならなければならないという民主主義である。 企業で雇う社員の70%以上は正社員でなければならないとか、同じ仕事をするなら正社員分の賃金とかいう法的な制度も必要だろう。 野放し的な企業論理を制約していく中で閉塞感を打破しなければならないだろう。 たしかにそんな悠長なことは言っていられないというかもしれないが、今年の春闘では賃上げ要求が出され始めた。今の50歳代が若い頃は、ある意味この定昇プラスα部分に年功序列を築いた。今の若い人はこれに依拠せざるを得ないだろう。 でも、今の社会で労使対決を訴えるものではない。 企業が個人消費をどのように考えるかをそして企業内の民主主義をどのように捉えていくかに未来を見るわけである。 すでにバブル崩壊後は、企業というのは私企業を逸脱している。社会的な救済に支えられているのである。その社会的責任を今後どのように果たしていくかである。これを怠れば労使対決は避けられないだろう。 2007年1月25日 記 夕螺 |