溺レる
文春文庫
川上 弘美  著
川上さんの作品ははじめて読みました。
ものすごくアクの強い作品です。そのほかの作品も同じなのでしょうか?
「溺レる」他、7つの短編からなっています。
どの短編も、愛欲、飲食、排泄と、人間の欲望がむき出しとなった作品です。もうひとつの主題、「死」もある意味では人間の欲望となりますが、作品中にも死がひとつの欲望として表れているのではないかと思います。
すべての短編に共通するのは、ある過去を背負った男が過去を捨て、捨てるというよりもその現実から逃げています。そしてその男にはっきりとした愛情がないままについてくる女です。二人は現実というものから逃げているわけですから、社会の中で孤立をしている。なんとなく寄り添うものは二人というお互いどうしである。
この狭い中に二人は「生きている」。食べるために働くという最低限の現実とのかかわりのほかには、自分たちが生きている証はその動物的な欲望だけである。短編ごとにいろいろな性が描かれている。よく食べてよく飲む。排泄・嘔吐などという恥ずかしさは、お互いの関係の中で当たり前のようになり、動物的な獰猛さも描かれる。これがまた愛欲に結び付けられる。
このような動物的な「生きている」状態の中に、ただひとつの人間的なものを持つ。それは、自らの命を自ら絶つという人間的なものだけである。
動物のように、本能的な欲望だけに生きている中にそれは人間としての死と同じ状態を見る。生きていても死んでも二人にとっては同じである。読む者も生と死の境界を感じなくなる。
「百年」という短編の書き出しは、「死んでからもうずいぶんになる」と書かれ、「無明」には、「トウタさんと連れ添ってからじき五百年にもなろう」とある。
「百年」は、心中をした女だけが死に、相手の男は生き残って平凡な生活を送り、女は意識だけがこの世に残って男の一生を見送るというものである。その二人の過去は、やはり動物的な本能だけの二人であった。女にとっては生きているのも死んで見届けているのも同じである。「無明」は、情欲の果てに永遠ともいえる命を持つことになった二人である。やはり生きているのか死んでいるのか、「百年」の女のように意識だけがこの世にさまよっているのか、本当に生があるのか判然としない。その意味で生きているのも死んでいるのも同じである。
このような生、動物的な本能は生の根本である。同時に「人間性という皮」をかぶってこそ人間の生である。このへんを強く感じました。
この「人間性の皮」については、トップページの「ちんまりと」に書いておきました。よろしければこちらも読んでみて下さい。

           2003年12月3日
                  
                         夕螺