今群ようこの「挑む女」を読んでいる。このなかにサユリという女性の父親の姿が出てくる。たぶん大手の会社のそうとう高い地位を持った父親らしく、サユリはそんな父親の実直な姿を見て育った。しかし定年を迎えてから、父親が演歌歌手に一生懸命で、歌謡ショーのチケットを手に入れ子供のようにうれしがったり、歌謡ショーの間も無邪気に拍手をする姿をはじめてみる。サユリからみたら、このような父親は「どこかの知らないおじさんのようだ」と。 そういうサユリも、歌謡ショーなどはつまらないと思いつつも、三度笠の芝居に涙のつぼにはまってしまう自分を発見する。 これを読んで、人間の中にはさまざまな側面があるのだということを再度思い起こしました。 先のサユリの父親は、実直で固い父親という側面もウソではない。同時に演歌歌手に子供のようにはしゃぐ父親もウソではないだろう。ジキルとハイドあるいは病気としての二重人格という特別なものは別としても、人それぞれはその中にいろいろな側面を持ちながら生きていっているという当たり前のことを考えさせられる。 この「挑む女」を読む前に唯川恵の「夜明け前に会いたい」というものすごく甘い恋愛小説を読んだ。この恋に生きる女性たちと、群ようこの「挑む女」に出てくるある意味では女性の隠れた一面を続けて読んだとき、やはり違う作家によって違う女性を描いているにしてもこれらの作品に出てくる女性たちもまたいろいろな側面を持つ一人の女性を描いているのではないかと思った。 作家によっては、恋等を通じて女性の持つ一面を美しく描く。またある作家は恋等とは無縁と思うような女性や恋の果ての現実生活など、現実はこうだと描く。 これは作家の意識において何を描くかはきまるのだろうが、作品の好き嫌いは別にして作品自体は女性のある一面を描いているのだと思う。唯川さんの描く女性も、群さんの描く女性も同じ女性の中にある一面であり、どちらにもうそはないのだろうと思う。このような意識でいろいろな作品を読むことに楽しさがある。 (右上に続く) |
また、一人の作家の中にもその作家自身のいろいろな側面を発見できる(作家からすれば、いろいろな自分の側面を出せる)作家がいる。 銀色夏生は、多くの詩集の中に恋の素晴らしい表現をし、その恋の詩の中に人生を感じさせ、読者を勇気づけたりもする。一方では日記「つれづれノート」では、思わず笑ってしまうような三枚目の銀色夏生を描く。このギャップは大きい。 詩集だけを読んだ読者は、その日記に落胆をし、日記だけを読む読者は、その詩集に戸惑う。あるいは日記の中の銀色夏生の本音に落胆をする。 しかし、このギャップ自体が銀色夏生のあらゆる側面なのであり、それを見ないと銀色夏生を理解できないのではないかと思う。 このような意味で一人の作家の中にいろいろな側面を見ることができるというのはすごいと思う。 もう一度人間の中にはいろいろな側面があるということを前提として人や社会を見なければならないと思う。もちろん自分も。 たしかにすべての人間性の中に90パーセント悪やペテンが入っている人間もいるだろう。でも、ほとんどの人間は、いろいろな側面を持ちながら生きている平凡な人間である。そんな人間を本という作品の中にさまざまな人を見ることができることはうれしい。その中で実際に生きている人間への見方も変わるのではないかと思う。 |
よしもとばなな(吉本ばななから改名したようですね)さんの日記「よしもとばななドットコム参上」を読み終えそうです。 本の感想は「読書」のページに書きたいと思うのですが、本の中で少し気がかりな文章があり、思うことがありましたのでこちらに書きたいと思います。 ばななさんは、バンドエイドで隠すことができるほどの刺青を二つしているそうです。そんなばななさんが奈良県のスーパー銭湯「虹の湯」に友達と連れ立って出かけました。どこの銭湯や立ち寄り温泉も、最近は刺青の方お断りと書いてありますが、裸になったばななさんの刺青を見て銭湯の従業員の方がみつけて入浴を断った。 ばななさんは、「刺青お断り」の張り紙を確認していましたし、ついバンドエイドで隠すのを忘れたようです。従業員の方には今から隠すからと言ったのですが聞き入れてもらえず、ついに入浴できなかった。 このような時、いつもなら名前と職業(作家でしょう)を教えて迷惑をかけないことを約束すれば入浴できていたそうですが、虹の湯はダメだった。そのことでだいぶ怒ったようで、このことを実名(虹の湯という)を出してホームページに書いていいかと従業員の方に許しを得てホームページ(この本はホームページの日記を本にしたもの)に書いた。 この部分を読み、なんだか腑に落ちなかった。虹の湯ではなくてばななさん。 張り紙を見たら、先に名前や職業を教えて隠すからと虹の湯には言うべきだったと思います。これが礼儀では?見つかってからでは遅すぎますし、虹の湯側も気分が悪いと思います。また、名前と職業を教えればという点ですが、世界的な作家よしもとばななと聞けばほとんどの銭湯はダメとはいえないでしょう。さらに銭湯の実名をホームページに書くといわれればビビってしまうでしょう。 こんな有名人だから特別というように感じるところになんかいやな気持ちがしました。 僕個人としては、「虹の湯はえらい!!」と言いたいです。 一般人ならいくら名前と職業を言ってもそれほど効果はないでしょう。虹の湯が有名な作家だと知っても、抗議内容を実名でホームページに書くと言われても差別をしないで入浴させなかったというのは勇気がいることです。僕は有名人だとか、社会的地位だとか、力があるだとかいう理由で特別扱いをするような人間が嫌いです。 刺青タトゥーの問題は難しいですね。 あと、後日、一緒に言った連れをなぜ一緒に入浴なんかしないと言って出てこなかったのかと、本当の友達だったら一緒に怒って入浴などせずに出てくるはずだと書いてあります。でもこれも違うでしょう。連れの女性たちもいやな気持ちで入浴をしたはずです。ばななさんがその女性たちを本当の友達だと思っていたのなら、迷惑をかけたと謝るはずでは? こんな感想は僕だけかな? |
自衛隊がイラクに行くようですね。 南部サマワは、非戦闘地域だから戦争をしないで復興支援を行えると。 サマワでも日本の自衛隊が来ることを歓迎しているようです。 しかし・・・・ イラクあるいはサマワの人々が日本に何を求めているかといえば、深刻な失業の改善や水道・病院などの復旧にある。小泉さんは、民間人ではできないことを自衛隊ならできるというが、自衛隊がこのサマワの人々の求めていることをおこなえるのか?結局は、アメリカ軍への物資の補給などを行うために行かざるを得ないだろう。これが小泉さんの言う「アメリカは同盟国だ」なのである。 復興支援、病院や水道など、誰が破壊したのか?サマワは、フセインにより弾圧されていたという。しかしそのフセインが病院などを破壊したのか? 復興支援というのは、イラクの民主化とともに、アメリカ軍が進行して破壊したものを復興するという人道的な支援でなければならない。そうならば、アメリカの同盟国としてイラクに行くのではなく、国連という組織(アメリカ寄りなものではなく)を通じて行われなくてはならない。 サマワは「テロ」もなく安定しているという。しかし、総理大臣がいくら復興支援だと言い訳をしても、「アメリカの同盟国」として行くと明言して自衛隊を出すのだから、その時点で戦闘地域となる。イラクの「テロ」は、サリン事件というようなものとはまったく異質なものである。ゲリラ戦という戦争である。日本は憲法に反した戦争を行いに行くのである。 一度この戦争に足を踏み込んだなら、アラブ世界を軍事力で支配をするという泥沼から抜け出せないだろう。アメリカのように。。。。 イラク復興資金は、たしか5年間に6800億ぐらいだと思ったが、その資金はどこから出るのか?福祉の充実というとすぐに財源はどこからとなるが、この復興資金の財源は何の議論にもならない。防衛費の1%枠はどうなって行くのか。すでにはじまっている福祉や年金の切捨てと大衆増税である。その資金は、復興事業として企業には廻るかもしれない。しかしそれが今の不況から国民生活には還元されないだろう。失業・賃金切り下げ、福祉・年金の削減が恒常化し、大衆増税という地獄が見えるだけである。 また、このような軍事支配による市場の確保は、それ自体が非人道的である。政治的にも孤立していくかもしれない。 イラク戦争そして復興には、大国の利害関係を露骨にした。すでにイラクの復興事業にはロシア、ドイツ、フランスなどは入れないとブッシュは言ったそうだが、このようなアラブをはさんだ利害関係の衝突は、もっと恐ろしい結末の準備である。 |
イラクのフセイン前大統領が拘束されたというニュースが飛び交っている。たしかに大ニュースだが、これもアメリカの戦闘の勝利と同じで、アメリカの軍事的なイラク領有を固めたということに過ぎない。 なんとなくこの勝利というものが大きく取り上げられ、自衛隊派遣も容易になるというようなことばかりが目立つ。 また、フセインの圧制や生物化学兵器の使用の過去を大きく取り上げて、いつの間にかアメリカの参戦の正当性がこのフセイン体制をつぶしたことにごまかさられようとしている。 問題は、イラクに大量破壊兵器や生物化学兵器があったかどうかであり、仮にあったとしても国連査察の継続の中で解決できなかったかである。最悪の場合でもきちんとした国連の決議の中での軍事行動を取れなかったかである。 フセインの過去のことをただせばたくさんの問題は有っただろう。しかし、過去の生物化学兵器使用にしてみても、そんなことはアメリカも同じようなことをしている。ベトナムの枯葉剤、アフガニスタンの劣化ウラン弾、日本としても原爆が大きな爪痕になっている。 大量破壊兵器にしても、核を持っているのは数カ国の独占となっており、核削減は進んでいない。その中で圧倒的な核の力にたより、先制攻撃も有りうるとしているのはアメリカである。 結局はなし崩し的な軍事力のイラク支配と復興という名の利権ではないか。 このようなアメリカによる正当性の薄い軍事的占領下でフセインの裁判が始まるだろう。 これでは「勝てば官軍、負ければ賊軍」的なものになってしまう。これは、圧倒的な軍事的優位と、利権(国益)のために美名を持って先に軍事行動を起こしたものがとくという一昔前の世界に戻ってしまう。 国連のアメリカへの介入が必要でる同時に日本の自衛隊派遣ももう一度考え直す必要がある。 |
「あの空は夏の中」62頁(愛のよろこび) この「愛のよろこび」という詩に出てくる言葉ですが、この詩とこの言葉は夏生さんを理解することでは重要だと思います。 「何か、その一点において他の誰でもない、ただ自分だけが唯一無二の存在であること。」しかしこの一点が生まれることは稀で、「私が、この世に点在するもの、ということは、そのことなのです」とあります。 この「一点」というのはさまざまなものであり、二人だけがわかる苦しみや秘密、自分だけに見せてくれる弱さなど、目に見えるものはもちろん、それ以上にこのようなことを通じての心と心のつながり、これが夏生さんの恋に対する考え方であると思います。 詩集「無辺世界」の68ページに「たそがれ国とさよなら国」という文章があります。その次ページには、たそがれ国・さよなら国・現実世界のその関係をイラストとして表したものがあります。たそがれ国は、現実世界をはみ出しそこに点在しています。「たそがれ国」という詩集もありますが、そこには心の世界を暗示させるものがあり、光の国というようなものすごく観念的な世界もあります。具体的に何を現しているのかとなるとわかりませんが、やはりその何か素晴らしいものが点在しているのでしょう。 もっと想像を広げるなら、「流星の人」の中にある「流星の人よ」と呼びかけるあるもの、あるいは「夕方らせん」の中に出てくる夕方に住む人。これらにも何か通づるものがあります。この世に点在するものの擬人化のように 「私の好きなある世界。この世の中にあるけれど、目には見えない世界。世界と呼ぶのは大げさすぎる。ある気持ちといえばいいのか。」 (新潮文庫「夕方らせん」あとがき) どの本だったか忘れてしまい、正確な言葉は引用できないのですが、私の作品は、あるひとつのこと(方向)を書いているこれを忘れないで読み続けてほしいというような言葉があったと思います。夏生さんの作品は、「私の好きな世界」「ある気持ち」を柱に書き続けているのかと思います。「つれづれノート」は、雑多に見える生活がありますが、やはり「自由」などある一点において貫かれたものがあります。 夏生さんを理解することはできないのかもしれません。夏生さんを感じ取るしかないのか。この心で感じ取ること、これが夏生さんと読者のある一点のつながりなのかもしれません。 |
この前、藤堂志津子さんの「ソング・オブ・サンデー」を読み終わったのですが、主人公が42歳の女性で、同じ40歳代の男との恋愛?の話(詳しい感想はこちら)で、ラストシーンは、今までの過去を心の中で振り切り、新たな出発を思わせる内容でした。今読んでいる本は、唯川計算の「刹那に似てせつなく」なのですが、この主人公も42歳だったかの女性であり、解説を読むと、唯川さん自身も42歳という同じ年齢でこれを書き、今までの甘い恋愛小説からホラーやサスペンスの要素を取り入れていった転換期の作品らしいです。 そういえば、前々から銀色夏生さんの詩集のことや「つれづれノート」に出てくる夏生さんを見て「今、転換期なのかな?」と思っていたところです。恋の詩集は、「バイバイまたね」で終わり、この題名に何か寂しさを感じていましたし、「つれづれノート」では、イラストのタッチが変わったのか、中身も少し変わったのかと思っていました。 こんなことを思うとき、人間40歳という年齢に何か節目があるのかと考えてしまうこのごろです。 自分のことを思い出しても、家を購入したのが40歳でしたし、子供も学校に行きだし、ただ遊んでやっていればいいというものでもなくなりました。両親の老いを強く感じましたし、厄年ということばかりではありませんが、やはり肉体的にも無理は利かなくなっていました。 思うに、40歳までは、生活や仕事その他もろもろのものに対してひたすら走り続けていた年頃で、40歳になり、生活面でも仕事でもそして精神面においても定住する場ができたということかと思います。言い方を帰れば、今までひたすら走り続けてきて、40才になって「こんな、こんだけの、大人が出来上がりました」という区切りではないかと思います。 作家の皆さんにとっては、作品というものを通しての区切りになるのかと思います。 走り続けた足跡を振り返り、先を見ると老いや死というゴールを見つめます。 もちろん40歳は若いですしこれからです。老いや死を見つめると同時にこれからを考えます。しかしこの「これから」は、40歳前にやってきたことの繰り返しではないはずです。40歳は人生の折り返し点で、少し立ち止まって今までの走り方を考え、この先に走り方を考えるということです。 40年間で蓄えてきたものをどう生かすかという折り返してからの人生です。作家は、作品を通してこれを行うのかと思います。 そのような意味では、今まで現代の女性作家を中心にこの半年間読んできましたが、おもしろさは、この40歳を境にする作家だからおもしろいのかもしれません。30歳代までの作家、たとえば今まで読んだ中では柳さんやばななさん、この作品から受ける感じは、今まさに走り続けているというエネルギーなのかもしれません。そう思うとこれからどう変わっていくのかを見るのも楽しみです。 |
こういう話をよく聞く。 「どこかで一度見た風景だ」と。 僕も時々出かけたりするが、そのとき、何気ない風景を見て「この風景はどこかで見た風景だなぁ」と。しかしいくら考えてもこの風景を見るのははじめてのはずである。 テレビ番組で、このような経験は寝ているあいだに魂だけが肉体を離れて浮遊をし、その風景をみたことがあるのだとやっていた。しかしそのような神秘的なものではないだろう。ではなぜこのような錯覚に陥るのか? この見た風景は、わだちのある舗装もされていない細い道であったりする。ほんとに何気ない風景ではある。この風景は頭の中にまるで写真のように焼きつく。これは、たぶん歩いているときの心持が忘れられないようなものであり、心の奥底にこの心持が焼きつき、同時に映像としてはそのときに見ていた風景が関連づいて焼きつくのだと思う。 頭の奥深くに、子供の頃の原体験のように強烈に焼きつく。そしてふと我に返って目の前にある風景が子供の頃の原体験を思い出すと同じようにその風景が「いつか見た風景」だと錯覚をさせるのではないかと思う。 頭の中の奥深く、人間の生命をつかさどるような大切な働きをする脳のある場所に貼り付けられたのだと思う。子供の頃の原体験がすべてそこにあるように。 銀色夏生さんの作品に「流星の人」と言うものがある。 角川文庫の表紙には、木々が写るひとつの風景写真がある。何気ない風景である。夏生さんは、この風景を見たときに「流星の人」という言葉が急に頭の中に表れたと書いている。なんとなくその感じがわかる。たぶん、何の変哲もない風景だったろうが、その風景画やきつくと同時に夏生さんの心の奥底にあるものが浮かび上がってきて、その感覚・心持から「流星の人」という言葉が出たのだろう。 その感覚・心持が素直に出て、あの素晴らしい「流星の人」という詩的な文章集が生まれたのだと思う。作家が作家であるという特殊な人間は、心の奥底にある感覚・心持を自動筆記のように書き表せる能力があるかないかにある。 売れるものを量産することを目的に書いている作家と、心、脳の中から沸き起こる感覚や心持を表現せざるを得ないで書いている作家の違いがあると思う。 僕は作品を読んでいると、先に書いた「この景色はどこかでみたことがある」という錯覚と同じような錯覚を起こすことがある。 最近の作品では、銀色夏生さんの「夕方らせん」の中の短編「池に落ちる月」を読んだとき、シルクハットをかぶり池に浮かぶ無数の月の上を小躍りしながら歩く男の風景をどこかで読んだことがあるという錯覚を覚えた。そのようなことはないはずなのに。また、北村薫さんの「ターン」を読んだとき、同じように主人公の女が一人っきりになった世界で自分の家の庭に水をまく風景に同じ錯覚を受けた。 不思議なことに、このような錯覚を受けた作品・作家は僕の心をひきつける作品や作家となった。作家がその作品を書いているときの心持が僕の心に焼きつくのかと思います。僕にとっては、このような作品・作家が沸き起こる感覚・心持を描かざるを得ないで書いているような作家ではないかと思います。これも錯覚でしょうか? 今読んでいる川上弘美さんの短編「蛇を踏む」のラストシーン、女が蛇に絡まれながら洪水のような流れに流されて行き、それを数珠屋の主人がタバコをふかしながら気楽に見ているという風景に同じ錯覚を感じました。僕にとっては川上さんも「心の中にある感覚・心持を表さざるを得ない」作家と受け止められたのだろうか? 僕には作家のような才能はない。ちんまりとHPに沸き起こるものを書いていきたい。 |
夢を見た。 向こう側が霞んで見えないような広い交差点に立っていた。 こんな広い交差点、歩いて渡れるのかと心配をしながら赤信号を見つめていると、ものすごくたくさんの車が交通ルールも無いままに乱雑に走っていた。広い交差点は車でごちゃごちゃだ。なおさら不安になりながらも赤信号を見つめた。 赤信号がやっと青になった。 すると、あのトラックなどについている「左に曲がります。ご注意ください」という電子音声の声が聞こえた。僕が渡ろうとすると、「左に曲がります」と僕の横断を邪魔する。僕はあせった。すると広い交差点の中を乱雑に走る車すべてが「左に曲がります」と鳴り響かせていた。僕は手を上げて渡るからとまってくれと叫んだが、「左に曲がります」という電子音声にかき消された。 僕はあせった。幸い信号はまだ青だが僕はなおさらあせった。 僕は思った。「もしかしたらこの交差点は車でしか渡れないのか」と。するといつの間にか僕は自分のおんぼろ車に乗っていた。そして必死になってウインカーを倒していた。僕の車も「左に曲がります」と鳴り響かせていた。でもそのとき、前の車は「左に曲がりまっせ」とか何とか関西弁で鳴っている。横の車は「ひだりどすぇ〜」なんて。京都弁か? 僕の車は相変わらず「左に曲がります」と標準語だ。他の車はどんどんすすんでいく。いろいろな車から鳴り響く電子音声は、驚いたことに全て方言になっていた。東京の隣の埼玉県の車までも「はぁ〜、左に曲がるっぺ」などと鳴っている。 僕はあせった。 しかしその後、俺だって江戸っ子だ、負けてたまるかと思った。車の中の色々なスイッチをいじくりまわしたが、やはり「左に曲がります」とのんきである。仕方なく僕は窓から左手を出して「カチ、カチ・・・・」と言いながら腕を上下をさせていた。ここで大きな声で江戸弁で左に曲がりますと言えばみんな驚いて渡らせてくれると思っていたのだ。「よし、じゃぁしゃべるぞ!!」「カチ、カチ・・・・」とまず言ったが、その後の言葉が出てこない。。。。。あせった。 あせって、あせって、あせって・・・・・ そしたら思い出した。東京生まれ東京育ちのくせに、僕は江戸弁を学校で習わなかったなぁと。。。。「カチ、カチ・・・・・」「カチ、カチ・・・・」むなしく言い続けた。 (この文は、川上弘美さんのファンサイトに書いたものです。こちらにも同じものを入れました。) http://434.teacup.com/kv9niskw/bbs |
ある日、死ななければならない用事を思い出した。 さて、急がないととそればかりを考えながらふらふらと歩いていたら、ドスンと前を歩く侍にぶつかってしまった。その侍は、よたよたとつんのめりこしにつけていた刀を落とした。 「しまった!」と思ったがそのときはもう遅かった。侍は刀を抜いて切りかかってきた。でも、そのときに思った「そうだ、私は死ぬ用事があったんだ」と。私は逆らわないで後ろ向きに座り観念した。 しかしどうしたことだろう。その侍はまったくのへっぽこ侍で、ちょうど私が肩から下げていた釜を思いっきり切ってしまったらしい。刀が折れてその切っ先が侍の胸に刺さった。 侍は息絶え絶えに言った。「お前を呪い殺してやるっ!!」侍はそのまま息絶えた。 呪い・・・・呪い・・・・ そうかぁ、呪いでも何でも死ねれば死ぬ用事を済まされると思った。しかしなんということか。あの侍はへっぽこ侍であったが呪いまでもが間が抜けている。なんと私はそのときから300年も生き続けてしまった。これが呪いといえば呪いなのだろう。私は永遠に死ぬ用事を果たせなくなってしまったのだから。 私はその後、長い長い江戸時代そして明治・大正・昭和・平成と生きてきた。もちろんその時代ごとにも死ぬ用事を思い出しては死を試みた。戊辰戦争にも大砲の前に立った。丘蒸気ができたら線路に寝てみた。大正はデモクラシーに酔いしれてしまったが、昭和にも死に切れなかった。車の前に出たら、なんとその車が私にぶつかる前に横から来たトラックが先にその車に当たってしまった。「電車がきます」とアナウンスがあったので線路に寝てみたら、なんと電車は赤信号でホーム手前にゆっくりと止まった。 これが呪いかぁ。。。。 しかしつい今さっき、私は思いを遂げたのだ。 体には何の病気もなかったが、医者に行き腹が痛いと言ったら、いろいろな病院を紹介され、そのたびに医者の医者の難しそうな顔色を見、そしてひょんなことから腹を切ることになった。腹を切る医者はいった「最新技術でやってみましょう」と。なんでも傷が残らないで楽な手術らしい。しかしその医者は、最新技術を使うのは今回が初めてだという。まあ、いいやと思って手術台に乗った。 手術がはじまった。 しばらくしたら、水を出している水道からホースが抜けて水が飛び出すような「ブシュッ」というような音がして、同時に女の「キャァ」という声も聞こえた。部屋中が大騒ぎになっている様子だ。どうも私の腹の中の一番太い動脈が切れたらしい。 私は薄れゆく意識の中で目を開け薄ら笑いをしながら先生に「ありがとう」と言った。先生は「ギャァ」と叫びながら逃げていった。 私はさらに薄れゆく意識の中で「これで死ぬ用事を済ませることができる」と安心した。 しかしその後はっとした。 300年も生きているあいだに肝心な死ぬ用事がどんなものかを忘れてしまっていたのだ。「しまった!」と思ったときには遅かった。私は死んだのだ。 しかし。。。。 まてよ? こうして今この300年を振り返っている私は何なのだろう?真っ暗で音すらしないこの思いだけが浮いているような私は何なのだろう。 肉体はさっき死んだ。 しかし私の思いだけが生きている。 わたしは。。。。 死ねない。 |
以下の文章は、リンクさせていただいているロダンさんの「ロビンソンの小屋」の掲示板で、ロダンさんとお話をさせていただいた時に書いたものです。 以前から夏生さんの作品から夕方という言葉に引かれていたのですが、ロダンさんとのお話からあらためて夕方について考えたのでこちらに転載させていただきました。こちらに載せたのは僕の書いたものだけですので、前後のつながらない文章になっています。よろしければロダンさんの書かれたものと相互に読んでいただければと思います。上記のロダンさんのHP内「ポラーノ広場」→「語りの広場」です。 夕方らせんに住むわたし。夕方の空気がらせん状に交差するあいだだけあなたに会える。 憂愁と郷愁の終わらないらせん状。 一日の終わりのほんのひととき。わたしの舞台はあがって、あなたの世界が鮮明に見通せる。あなたは路地の裏からでてくる。あるいは坂の途中から。 (中略) あなたは気配は感じるけど、わたしの姿はわからない。でも、あなたはその気配がすきでしょう? 夕方に住むわたしは、夕暮れとともにひきはなされ、またしばらくはあなたの世界にさようなら。明日まで。明日まで。 銀色夏生「夕方らせん」 「宵待歩行」 霧にぬれて ところどころの電灯で 足元をたしかめて 宵待草のともる野を行く 月の光を集めたような黄色だ 囁くようにさいている (後略) やはり夏生さんの詩です。 ロダンさんが引用された漢詩の詩人は、何で心が晴れないのだろう。夏生さんは恋です。どんな心であるかは関係なしに、心を見つめながらもどうすることも出来ないその心。夕暮れの哀愁と憂愁の中にむやみやたらに歩いて行く。その果てにはきれいな景色があった。また心を見つめなおす。。。。 「宵待歩行」というのは詩集(角川文庫)のタイトルにもなっていますが、このタイトルとそして詩を読んだときに体中がぞくっとしました。なんてきれいな言葉なんだろう。。。。。と。 僕も夕暮れから宵にかけての思い出が強いのです。 小学生のころからこの夕暮れの雰囲気(夕方に住む人々の気配)が好きで、今もそのときの心の有様を覚えています。その後も何回も同じ気持ちを味わいました。 ですから、夕方・夕暮れ・宵の詩等が多いというのは、僕もロダンさんのお書きになったものとまったく同じ気持ちです。 中学生のとき、サッカー部の有志5人ほどで自主練をしようと河川敷でボールを蹴っていました。つかれきってみんなごろっと土の上に寝ころび話をしていたら、みんな土の温かさに抱かれ雑草の香りに包まれいつの間にか寝てしまいました。気づいたらもう夕暮れで、なんだか夕暮れまで寝てしまったおかしみで笑いながらダッシュで家に帰りました。 ロダンさんの紹介されている漢詩でこんな昔のことを思い出しました。 夕暮れの怖さもありますし、家に帰ればもう飯だという安心感も。 ところで、 夕方五時は恐ろしい 「気狂いピエロ」ゴダール という「気狂いピエロ」という言葉の意味を教えていただけませんか。 実は銀色夏生さんの詩集「わかりやすい恋」の中に、電話を何回もかけようとしたがかけられない。「気狂いピエロ」を一緒に見に行こうよという一言がいえない。というようなしがあります。 ネットで調べたら、映画のタイトルにありましたので、映画を見に行こうよという意味にとらえてしまったのです。 なんか夕暮れを現すような言葉のようですね。 夕暮れは、郷愁というのか、人を家路に急がせるような気持ちにさせます。 武田鉄也さんの歌詞、すごくわかります。少年のころの思い出はどこか郷愁を感じます。 あるとき、山の中の温泉に家族で行ったのですが、夕食が運ばれてくるまで窓辺のいすに腰をかけてタバコを加えながら夕暮れの山々を見ていました。だんだんとくれていく風景に見とれていると、いつの間にか食事が並べられていたらしく、子供たちに「お父さんご飯だよ」と呼ばれました。「うん」と言いながら部屋の中を見たら料理や家族がすごく暖かい光に包まれたように感じました。また窓の外を見たらすっかり夕闇でした。夕方らせんに住む人はもういなかった。。。。何お変わり栄えのない旅館の夕食や家族ですが、夕方と言うひとつの時間が暖かい光を僕の中に導いたのではないかと思います。 こんなことからも夕暮れには人の心を不思議な状態にしますね。夕暮れの寂しい世界から帰るべき家族のもとへ。これも郷愁です。 この郷愁という意味では、生から死もひとつの帰るべきところへ急ぐと言うことにもつながるのではないかと思います。死が帰るべきところ、行き着くところと見たとき、死に人は郷愁をおぼえるのではないかと思います。 「気狂いピエロ」の「夕方5時は恐ろしい」という言葉も、人の心を夕暮れが狂わせるという意味では恐ろしいのですが、恋人を殺して自分も死ぬということは、ある意味では死への郷愁というのか、最後に行くつく場所へ行く安堵感が出ているのではないかと思います。 この前、江國さんの「つめたいよるに」(新潮文庫版)を読み終わりましたが、その「解説」に「マジック・アワー」という言葉が紹介されています。映画カメラマンの専門用語だそうですが、太陽が沈みその瞬間に空が美しく光かがやく瞬間の時間で、信じられないような美しい映像が得られるそうです。「気狂いピエロ」のラストシーンもこのような美しい瞬間の映像ではと想像してしまいました。 「見つけたよ。何を?永遠というもの。 太陽が溶け込んだ海のことだ」 というランボー(若い頃にランボーを読んだことがあります)の詩、やはり帰るべきところと言う詩を感じ、そこは永遠だという郷愁を感じます。 この「マジック・アワー」の解説の言葉は、江國さんの短編「デゥーク」に寄せられたものですが、デゥークのラストは、死んだ愛犬デゥークが一日だけ青年になって飼い主の女性と過ごし、夕暮れにデゥークは帰っていくというものです。 このように見たとき、夕暮れに現れる郷愁は詩を感じさせるものがあるのかもしれません。そこに人は恐怖を覚えますが、一方では安堵感を感じる。この複雑な心の中にある矛盾がそのままに感情として出てくるのが夕方ではないのかと思いました。 「懼れる」は、怖いものを見て恐れるではないし、死という場合にも、漠然として死を恐れるという意味においてではなく、死というものが必ず訪れるものであり、それを自分としてはどうすることも出来ないものと意識した場合の「懼れ」なのかもしれません。それは死が必ず訪れるという自然の摂理として意識することでの懼れです。死という怖さに心が右往左往して心の定まらないような恐れではありません。心静かに死を見つめる中での覚悟した死の恐れです。 人は自然の摂理としての死をその象徴として夕暮れに見るのではないかと思います。夕陽を見つめたり、夕暮れの暗さに身を包まれたとき、今日という日の終わりを感じて今日を思い起こします。心に明かりを灯してくれる暖かさのもとへ帰ろうとしますし、この温かみをもてないときは憬れます。あるいは明日という日に思いを馳せます。同じように死というものを心静かに見つめたとき、必ずこれまでの人生を思い起こし、どうしても避けられない死ならばそこに暖かさを求め、死に明日はないが、動物的な種の保存や何かしら形のあるものを残したいと思うのではないかと思います。または生きている間の明日を大切にしようと思うのだと思います。 このように「夕方らせんに住む人の気配」を感じて夕陽を眺めたり夕暮れの暗さを感じたときの心の状態と、心静かに死と向き合ったときの心の状態にはかなり似たようなものがあるのではないかと思います。 必ず訪れる死があるから生命の美しさ輝きがあるという認識は、心静かに死に向き合うからこそ生まれるものだと思います。必ず死があるから今の生命が愛おしいのです。愛おしいからこそ今ある生命を美しく感じられる。ロダンさんのお書きになっていることは僕もわかります。 自殺という意味での死への憬れや温かみを求めるという意味ではなく、必ず来るという死。この死というものに向き合って今の生命をどのように位置づけるかと同時に、死は、その位置づけられた生命とは断絶をされるということです。文学は、必ず来る死を通して今ある命をどのようにとらえるかを表現しますが、同時に死そのものをどのようにとらえるかにも表現があります。遺伝子を子孫に残すこと、形あるものを残すこと。文章という形で心を残すこと。。。。その中で僕という人間の無限な時間の流れの中でのほんの一瞬の役割が終わり、「意識」は無から生まれ無に帰っていくということ。これがまた死を考えることでもあるのです。 文学的には、これを暖かいものとして描いているものがあります。作家の多くが死を扱うことの必然を見ます。 |
公園の横を歩いた 今にも雨を降らしそうな、暗く重い空気 公園の木々は深い緑色に染まっている 華やかだった桜の木の葉も濃い緑に包まれている 桜の木の下にには名も知らない雑草。無数の葉を茂らせている はっとして立ち止まった僕を吸い込む 僕は緑色に染まりながらまるで深い森に迷い込んだよう 吸い込まれる、吸い込まれる・・・・ 緑色に吸い込まれる 吸い込まれてみると 一枚一枚の葉っぱには、僕の心の一部一部が乗っていた・・・・ 赤・白・緑・・・・・ この点一つひとつが僕なんだ・・・ |
以下、感想を詩のように書けたらと思い書いています。 「 」内は本文からの引用部分です。また、ところどころに夏生さんの言葉を借りて書いています。巻末の詩まで少しづつ追加していきます。 (1)文庫版「あとがき」 「心のことをどうしよう。」 一人ひとり違う人々。自然。すべては自分の外で移りゆく。 自分の心。しかしこれも自分にとっては移りゆくもの。 外の世界も自分の心も変わり続ける。 ここには静かに定まる場所はない。 外の世界と自分の心は、くっついたり離れたり。 螺旋状のように絡み合いながら常に変化する。 しかしこの常に変化する螺旋の中にも、ひとつたしかなことがある。 「目に見えない世界」「ある気持ちといえばいいのか」 夕方に住む「わたし」の気配。 この気配を感じ取るとき、世界は目に見えない世界として現れる。 心の世界は不思議である。 この不思議な心で感じ取る世界も不思議さに満ち溢れる。 人は、体からもさまざまなしがらみから離れて、ひとつの思いとなる。 この思いだけが人にとってたった一つのたしかなものである。 森の中の一枚一枚の葉。 このたしかな一枚の葉を見つめるように 心の中のたしかな一枚の葉を見つめたい。 これを形に表せたら、どんなにいいだろう。 (2)巻頭の詩 心の中の細い道を歩いていた 暗い細い道 引き返せないのがこの心の道 引き返せないなら先に進むしかない しかし細い道は枝のように分かれている 足元を照らすほのかな明かりは 木々の葉っぱの間からからこぼれる氷のように冷たい光 あなたはどの道を通ろうとしているの きっとあなたは決めているはず 僕はどの道を選べばいいの 「いつも最後に困ったのは僕だった」 (3)小夜鳥姉妹 子供の頃に万華鏡をもらった 大好きなおじいちゃんから 世界は不思議なものに写った いつの間にか心の中にも万華鏡を持ってしまった この世には不思議できれいなものがたくさんある 心の万華鏡でのぞくときだけ見えるもの そんな心を持つわたしは 不思議な人になってしまった どこか不思議な魅力を知らず知らずのうちに どこか不思議なものがバカに見られたり でも、こんな私は万華鏡をのぞく人だけがわかってくれる 普通の幸せもいいでしょう でも、わたしは万華鏡を持っている 持ってしまったのだから仕方がない 周りの人から離れて庭に出てみたら 何百、何千の葉っぱが万華鏡の中の風景のように広がっていた (4)蛍山小国 僕も子供の頃 毎年おばあちゃんの家に行った 蛍の飛び交う山里の家 川の流れる音が響く家 ある日の夕方 家の中から漂う囲炉裏の匂いを嗅ぎながら 薄暗くなる景色を眺めていた 青い山々がだんだんと紺色になり 蛙の鳴き声が響く中に蛍が飛んだ 蛍はまるで僕を誘うように 消えては光り、光っては消える いつの間にか「昇った月の光」が 僕を「周りと切り離してしまった」 おばあちゃんがご飯だよと呼ぶまで でもこの切り取られた僕という感覚は 40年も過ぎた僕の心の中にはっきりと残っている 切り取られたものが時々芽を出すのだ そのとき僕の心だけがどこか 遠くに連れ去られているのだと思う いつの日か体も連れ去られていくのだろうなぁ。。。。 (5)月の落ちる池 人は夜空に浮かぶ月を見つめる さまざまな思いで見つめる 月もその思いを受け止め 時には笑い、時には泣く 月は思いを受け取ってゆく だから月は人々の思いで満ちてゆく 月は一月の間人々の思いを 受け止めながら空を渡ってゆく 満ちながら登っては沈んでゆく こんな人々の思いで満ち溢れてまん丸となったとき 月は池に落ちる 真ん丸くなった人々の思いを 池に浮かばせる そしてまた月は夜空を渡ってゆく 人は、肉体から離れて 一つの思いとなったとき 池に浮かぶ幾千万の月の上を 幾百万の思いの中へ帰ってゆく 喜びのさなかに、安らぎの中へ そして一夜のうちに消えるのである (6)天使でなく 片思いの心で天使を見た この片思いは永遠の片思い いや、永遠の片思いにせざるを得ない 彼女はあいつの恋人だから あいつは親友だから 永遠の片思いと同時に誰にも話せない心 天子は恋を運んでくる 僕はその天使を見てしまった なぜこんな恋を持ってきたんだろう なんて天使だ!! 僕は人から離れてふさぎ込むしかないじゃないか 僕は天使を見た しかしその天使は天使でなく 小悪魔 小悪魔の天使は僕の日常にも現れた 永遠の片思いにしなければ そう思う心は逆に恋の心が日常にも 小悪魔の天使は僕の心を翻弄する (7)Kの報告 蝶がのんきに風の吹かれていた その向うところに未来には これが運命というものか 蝶は細い運命の糸にのんきに向かう Kは惚れられてものんきである 女は運命の糸を操る その糸はKの顔に触れた 糸を操る女の魅力という糸 魅力に見せられて糸を引き寄せたら最後である 「ホホホ・・・・あなたと結婚するの♪」 「いいのよ。あなたはこの糸に操られていればいいの♪」 女の魅力的な糸は心地よい。。。 しかしこれは愛ではないではないのか そうだろう。。。? 「いいの。私はあなたの顔に引き寄せられたの」 「心はあとで変わってくれればいいの」 糸はいつの間にかKのすべてを包んでいた (8)ピース・ツリー 僕の中にはさまざまな心がある 優しい僕 乱暴なな僕も僕自身なのだ あなたはどんな僕を愛してくれているのか 優しい僕のときも 乱暴なときの僕も僕は本音で君を愛したつもりだ 僕は心に湧き起こる形で君を愛する あなたはどんな僕を愛してくれているのか あなたは僕を受け止めてくれる 優しい僕を? それとも乱暴な僕を? あなたはその時々の僕を受け止めた 今の僕を真に受け止めてくれているの? 僕はあなたを愛している あなたも僕を愛してくれている それはたしかだ 僕たちは触れ合いながらも すれちがう心を持つ この中での愛なのだ 僕が持つ優しさと乱暴さ この僕の持ついろいろな面に あなたもあなたの持ついろいろな面で対する 優しさを求めるあなた 乱暴さを求めるあなた それが愛なのだ すれちがう心相対的な心 (9) ウエタミ 1秒1秒時は刻まれていく その1秒1秒の時間の流れの中に ただ僕は砂浜に寝転ぶ 太陽は僕の胸を腹を 太陽は僕の背を足を 焼き焦がすように照り付けた 時々打ち寄せる波にもまれて 体の火照りをさます そしてまた太陽を見上げた 太陽は1秒1秒の時に流れの中に オレンジ色となり海の中に沈もうとする 太陽もその火照りを冷ますように 僕はホテルに帰る そして1秒1秒の時の刻みは 24時間となって過ぎていった その時の流れは1週間となり 10日となりそして1年となっていくのだろう 僕は砂浜に寝転び胸を腹を そして背を足を焼き焦がすだけである 僕はもっと無邪気に遊びたいんだ あの頃の少年だったころのように 波打ち際の波にもまれて 腹のそこから笑って波に戯れていたいんだ 心は空っぽで誰にでも女の子にでも 一緒に遊ぼうよと言いたいんだ でも、1秒1秒の時間の流れは止まらなくて 心の中に恋というものまで沸き立ってしまった もうあの頃には帰れないんだ どうすることもできない心に ただ太陽に体を任せるだけ 夕陽が海をオレンジ色にする 僕は歩き出した そのとき。。。。 どこからか「ウエイト ア ミニット」 「ウエイト ア ミニット」。。。。何度も声がする 早口に「ウエタミ」と。。。 ちょっと待って!ちょっと待って! その声は僕の少年の頃の声だった 「ウエイト ア。。。ウエタミ。。。」 僕はつぶやいた。。。。 |
薄い紫色の空を後ろに鳥が立っていた 大きな人ほどの大きさのある鳥である 赤・黄色・青。。。。。 色とりどりな羽に包まれている 羽はあるが小さくて、ペンギンのように立っていた 横向きだったので顔はわからなかった それが、急に僕のほうを向いた 鳥の顔を見た この前道端に巣から落ちた生まれたばかりのハトの雛だった 無数の蟻にたかられていたあのハトの雛だった ペンギンのように立ち、インコのような大きい鳥が ギャァーギャァー鳴いて といっても声は聞こえないが鳴いていることはたしかだ 口から黄色い雷の形をした光線を二つ出した 僕はぴかっと光った光に包まれてしまった ああ・・・・ あの時ハトの雛を土に埋めてあげればよかったんだ。。。。 僕は鳥の精に怒られたんだぁ。。。。。 |
子供の頃、台風が近づいているというのに友達と外で遊んでいた。 そしたら、急にすごい雨が降り出したので家に逃げ帰った。 家に入ったら、お袋や兄弟もいるはずなのに人の気配がまったくなかった。 なんか時計の秒針の進み方が遅くて驚いた。 外はすごい風なのに家の中の空気はとまっていた。 なんか台所が騒がしい。。。。。 見に行ってみたら、10センチほどの台風小僧が流しの中を「ヒュー、ヒュー」と言いながら駆け回っていたのだ。 |
僕は車を飛ばしていた。何の障害もないまっすぐな道を飛ばしていた。 不思議なことに反対車線を走る車もない。空気は真空ともいえるような透き通った輝きがあった。 風景はその形をなくし漂うように流れていた。僕の車もやはりアスファルトを走る感覚もなく漂うように静かに走っていた。 突然遥か遠くに壁、いや、壁というようりも一枚の空間のカーテンといったほうがいいのか。。。。僕はあわててブレーキを踏んだ。 車は強いブレーキがかかりながらもその空間のカーテンに向かっていった。 あと500メートル・・・100メートルと近づいていく。あと10メートル、1メートル。 10センチ、1センチ。。。。。。 僕は気がついた。車は無限の空間と時間の中を通っているんだと。 だから僕の車は永遠にその空間の壁にぶつからないのだ。そうではないか!0になるまでには無限に小さくなっていく数があるのだから。 無限に小さな数の空間と時間の中をさまよえるのだ。 0.0000000000000000001ミクロン・あるいは秒 しかし、僕の車と僕自身が変わっていった。手を見ると小さな光の粒のようになっていた。さらにエネルギーそのものと言うような、アメーバーと言ったらよいのか歪んだ微粒子のようになった。 そして最後は。。。。。 車も僕も空間子・時間子の素粒子へと変わり、空間の壁に溶け込んでいった。そこに思いだけが残った。 これが有限か。。。。。 有限の中の無限。この限りある無限。。。。 今も僕はこの限りある無限の中に生きる。 |
苦しみを抜け出した男は、一人の男を見ていた 秋の気配を感じる森の中に 昨夜は心地よい風がささやかに葉を揺らす音と、虫の声だけが響いていた 歩いていた男は胸の苦しみを感じて倒れた 走馬灯のように浮かぶ男の人生 妻と子達のこの上ないきれいな笑顔 苦しみの中に浮かぶものたち でも男は風の音と虫の声を聞く 「これでいいのだ、これでいいのだ。。。。」 風の音と虫の声が苦しみを追い越していく 「これでいいのだ、これでいいのだ。。。。」 最後の大きな苦しみが通り越していった 苦しみを抜け出した男は、自分自身という男の抜け殻を見ていたのだ 「これでいいのだ、これでいいのだ。。。。」 最後に抜け殻の男の顔を見たら・・・・やはり 「これでいいのだ」と安らかだった それを見た男はもう一度「これでいいのだ」とつぶやき光の中に消えた |
昔から好きな漱石の小説の中には、強く印象に残る女性がいる。漱石自身はそうは女性との交際が多いわけではない。ある漱石評論家は、少ない女性との関係の中でなぜあれだけ女性を描けるのかということを書いていた。 小説中の女性の顔が浮かぶようなその女性像をうまく書いている。 最近は女性作家ばかりを読んでいるので男性作家の書く女性がどうなのかはわからないが、北村薫さんの小説にはやはり顔が見える女性が描かれている。 漱石にしろ北村薫にしても、時々読んでいる僕自身がその小説中の女性を好きになる。 これは、小説中の女性に内面や性格をうまく表現しているのだと思う。 そこでだが・・・・ この一年少し女性作家の作品を読んでいるが、好きにも嫌いにもなるような印象に残る男がほとんどないのである。もちろん江國さんの「きらきらひかる」の中の睦月や、村山由佳さんの描く少年、柳さんの作品中の中に出てくる男などはあるが、ほとんどの女性作家が激しい恋愛を描く割にはそこに現れる男の顔が見えてこないのである。 容姿や、優しい・ずるい・ルーズななど、表面的に見える部分での男は出てくるが、男の心や内面があまり見えない。 顔の見えない男たちがぼうっと浮かぶのである。 このように感じるのは、僕が男の読者であるということからなのか?女性が読めば阿吽の呼吸で登場する男が見えるのか?この辺に男である僕としては自信がない。しかし男が読んでも登場人物の男の心情がわかるというような普遍性は作品しだいではあるのではないか? これからまだしばらくは女性作家を読むつもりだが、「顔の見える男が表れるか」もこれからの読み方になるかもしれない。 この点、銀色夏生さんの詩には男の顔が見える。 「僕」という主語で書かれている詩が多いということもあるが、時々男から見た女性を読むことができる。 夏生さんが中性的な性格だといえばそうなのかもしれないが、夏生さんの作風であり、男の心や微妙な部分をよく観察をしているのではないかと思う。 一人称で「私」はと、女性の心の動きだけが顔の見えない男と恋愛をしていくというある意味では女性特有の作風、これは女性読者をひきつけはするが、男の読者の一部にある「甘ったるさだけ」という偏見から抜け出せないのではないか。 男性作家の作品は多くの女性読者が当たり前のように読むが、女性作家の作品を読む男はどこか変わり者というイメージがある。何も男の作家の多くが優れている、女の作家が落ちるということではないはずである。大正期の童謡詩人金子みすずは「男社会」の犠牲で筆を置いたと記憶している。大文豪と呼ばれる作家が男が多いのもうなずける。 もちろん男も「文学だなんて・・・・」という社会的偏見と闘ったが。 30代後半から40代の女性作家がある意味では女性の恋愛観や性を衝撃的に表現した女性作家がたくさん出ていることにびっくりしていますが、もっと若い女性作家も現れていることだろう。この中から老若男女の区別なく、偏見をもたれずに読み継がれる女性作家がいるのか?それを探すのも僕の楽しみです。でも、長い年月の中にそれは人々によって見つけられるのでしょうね。結局は恋愛や性など、衝撃的に描くことだけではなく、女という「人間」、その女に切っても切れない中にいる男という「人間」をどれだけかけるかにあるのではないか? |
のんびりと穏やかな平凡な海を眺めていた。そのうちに、おや?と思ったら小さな白波が見えた。それでものんびり眺めていると、その小さな白波が幾つも見えるようになり、海の変化を感じる。 山本さんの作品は、こんな海のように読み始めると穏やかな平凡な日常からはじまる。しかし読み続けていると少しずつ白波が読者の心に感じ取られてくる。 読者はこの白波に「おやっ」と思いながら作品にひきつけられていく。次第にこの白波が何なのかがわかっていくが、そのときすでに作品は読者を津波のような波に巻き込む。人間の持つ奇麗事や醜さや弱さや何もかもが津波となって読者に襲い掛かる。山本さんの作品は、人の持ついろいろな側面を爆発させて津波のような最後の修羅場を描く。 しかし山本作品のよさは、この最後の修羅場という津波が引いてゆき砂浜に残された浄化された何かを残すところだ。読者の心の中に何かを残して読後に暖かさを残してくれるところです。 素晴らしい作家です。 |
私はホテルの一室で発作的に自らの命を落とした。発作的だから下着も付けずに死んでしまった。 僕は発作的に上司を殴りつけて会社を辞めた。仕方ないのでホテルの夜間警備をすることにした。 私はあれから思いだけがこの世に残り、いわゆる幽霊となってしまった。重ね重ね下着を着けずに死んだことを後悔している。この姿で毎夜ホテルの廊下を徘徊しなければならない。 僕は静まりかえった暗いホテルの廊下が怖い。幽霊などは信じないが孤独感が体の芯までしみこんでくる。 ハッ!廊下遠くに人影が。。。。怖い。私はこの姿で人に見られるのが怖い。徘徊せざるを得ない自分が悲しい。 ハッ!廊下遠くに白い人影が。。。。ハハハ・・・まさか幽霊でもあるまいが。しかし怖い。 だんだん近づいてくる。私は胸と下を手で隠し足早に徘徊した。 だんだん近づいてくる。わけはわからないが目をあわさない様に僕は足早に通り過ぎた。 これが私たちの出会いでしたわね。 これが僕たちの出会いだったね。 私の姿はあの男には見えないのかしら?それだったら何も恥ずかしくもない。堂々と徘徊しよう だいじょうぶ。目を合わせないように僕がすればよいのだ。何も怖くはないさ。 目が合ってしまいましたねぇ。。。。 そう、僕たちは目が合ってしまった。。。。 「ハハハ・・・・・」 「ハハハ・・・・・」 私はあなたの素敵な目が見たかった。 僕はあなたのきれいな姿に見とれてしまった。 目が合ってしまったね。 うん、目が合ってしまった。 どうしたの? 恋をしてしまった。しかし今の僕たちは恋はできないよね。 そうねぇ。。。あの時私が発作的にならなかったら。。。 でも、僕は発作的になったからこうして君に会えた。 そうね、私も発作的なったからこうしてあなたと。。。 でも恋はできない。。。。 ・・・・・・50年待つわ。50年後に恋をしましょう。 50年なんてすぐさぁ・・・50年後に恋をしよう。 |
人は夜空に浮かぶ月を見つめる さまざまな思いで見つめる 月もその思いを受け止め 時には笑い、時には泣く 月は思いを受け取ってゆく だから月は人々の思いで満ちてゆく 月は一月の間人々の思いを 受け止めながら空を渡ってゆく 満ちながら登っては沈んでゆく こんな人々の思いで満ち溢れてまん丸となったとき 月は池に落ちる 真ん丸くなった人々の思いを 池に浮かばせる それは思い出となり浮かぶ しかし僕の思いだけが 月のカケラとなって落ちた 僕の思いはカケラになってどこへ落ちるのか そう、僕の思いは 思い出となって池には浮かばない 思いはいつまでも残り落ちていく どこへ落ちるのだろう 君が拾ってくれるだろうか |
海に行った 秋の淋しい海である 風も弱い砂浜に 心地よい波の音 しばらくの間ぼけっと眺め ぼけっと波の音を聞いていた 少し大きい波が打ち寄せた サァーッと波が引いたら 砂のお城が現れた また少し大きな波が来た やはりサァッと引いたら砂の山が現れた 波の音に波にさそわれるような 子供たちの声が聞こるようだ 海がくれた夏の思い出。。。。。。 大きな波が来たらあっという間にすべて消えた。。。。 秋の海は淋しい |
わたしは野の仏 誰もふりむかなくなった野の仏 わたしは野の仏 いまでは忘れ去られた野の仏 雨が降りました 風が吹きました もう長い年月のあいだに 雪が降りました 霜が降りました もう長い年月のあいだに 老人がなでました 子供がなでました もう長い年月のあいだ すっかり顔の形もありません わたしを彫ってくれたのは名もない石工 それは素敵な笑顔に彫ってくれました 今はすっかり顔の形もありません でも・・・・・ あなたにはわかってもらえますよね わたしが今でも笑顔であなたを見ていることを わたしが生まれたのずっと昔のこと わたしは笑顔を絶やしませんでした 今はすっかり顔の形もありません でも・・・・・ あなたにはわかってもらえますよね きっとわたしの笑顔をみていてくれるはず そんなあなたなら わたしの独り言も聞こえるはずです |
夜が明けようとする街を歩いていた 商店のシャッターは閉じられ 歩道は夜の世界にけがされたままに 無残に汚れていた 静まりかえった静寂は 空気をも微動だにしない 歩き移動する僕の肉体は 微動だにしない空気の中を まるで細胞一つひとつがネオンサインのように 空気の一粒の上を移動しているようだった 僕が風なのか。。。。。 信号の赤の光だけが暖かかった 白いワンピース姿のあなたが 横断歩道の向かいにいた 何でこんな季節にワンピース。。。。? 青白い顔のあなたはふんわりと立つ あなたも風のよう ふと信号の変化を見上げたら あなたもうそこにはいなかった 僕はとぼとぼと歩きはじめた すると、100メートルほど先の電信柱に あなたは寄りかかるように立ち笑う 声は聞こえないが「あハハハ。。。。」という笑い声は 僕の頭の中にやさしく響いた 「あハハハ。。。。。」「あハハハ。。。。。」 白いワンピースの裾をかすかになびかせながら ビルの陰や看板の横に あなたはたたずむ 僕の心を翻弄するのは誰なんだ。。。。 白みはじめた空には白い月が冷たく昇っていた 「あハハハ。。。。」「あハハハ。。。。」 僕は白い月に吸い込まれた そして夜がすっかり明けたとき 僕は白い月とともに消えた。。。。 |
生まれ育った小さな町の駅前通に、やはりちっちゃい本屋があった。 小学5年生頃だったか、初めて本を買ったのがこの本屋さんだった。確か著者は忘れたが「十五少年漂流記」という本だと思う。それからしばらくは本も読まなかったが中学生になってからまたこの本屋へ行った。「タイムマシン」などSFものを買った。 本屋の奥にはもうおじいさん(中学生のころの僕にとってはおじいさんに見えた)おやじがむすっと座っていた。たぶん60歳近かっただろう。恐る恐る文庫本を持っておやじのところへ行くと、無愛想に受け取って紙の袋に入れてくれる。ただ口から出る言葉らしきものは「100円。。。」ぐらいだった。町には何軒か本屋はあったが、どうもこの本屋が落ち着くようでそれ以来通いはじめた。立ち読みというものも初めて経験した。店はいつもすいていたから目立ったろうがおやじは黙って見ていた。 たしか岩波文庫で「漱石の「坊ちゃん」を買ったと思う。いくらかなと思い値段を調べたが値段がない。小遣いはいくらもないので困ってしまった。やはり恐る恐るおやじのところへ行って値段を聞いてみた。そしたらおやじがにこっとして、☆ひとつは100円、★ひとつはたしか10円と教えてくれた。昔(といっても値段表示になったのは10年か15年前かな?)岩波文庫はこの星のマークで値段を表示していた。おやじのにこっとする顔と「100円。。。」以外の初めての言葉を聞いた。 それからおやじに顔を覚えてもらったのではないかと得意になった。たった一言話ができるようになったのに得意になるとはおかしいが。。。。 とりあえずは店に行くと会釈ぐらいはするようになった。 高校生のときはこの本屋の文庫で名前を知っている作家のものを読んだ。そして国語の教科書で出会った漱石の「こころ」を読み漱石の本を買った。 就職をした頃に漱石の全集が集英社と岩波から続けてでた。岩波の全集では、このおやじさんにお世話になった。 後に古代史に興味を持ったときには、いろいろと本を教えてくれた。「君、この本は読むべきだよ」と。。。。今もその本は大切にしまってある。 思い出せば「本屋のおやじ」の典型的な親父さんだったと思う。このおやじさんの本屋がなかったら本好きにはならなかったかもしれない。 その後僕は引っ越した。 おやじさんが健在ならばもう80から90歳だろう。 今は大きな書店で本を買うが、このおやじさんの思い出があるためか、町の小さな本屋さんにも好く行く。しかしあのおやじさんのような主人はもう見当たらない。 |
椅子に座り本を読みながらランチを食べていた はしたないこととは思いながらも途中でトイレに立った レストランの通路を進むと その通路に椅子に座った女がいた テーブルから1メートル30センチ5ミリ椅子を引いて座っているのである はて?テーブルにはホットコーヒーが置かれていた トイレを済ましまたランチと本に集中しようとしたが あの女が気になって仕方がない 相変わらず背筋を伸ばし、足をきちんとそろえて座っている はて?あのホットコーヒーと女はどこで接点をもてるのか 食い入るように見てしまった しかし女は微動だにしない 見るのも飽きて本に目を移そうとしたときである 手がのびた。。。。 手がコーヒーにのびて飲んだと言うことではない まさに腕が伸びたのである1メートル30センチ5ミリまで はて?どうして口元まで持ってくることやら しかし心配は要らなかった 首も1メートル30センチ5ミリ伸びてきちんとテーブルの上で飲んだのである ふと見るとテーブルの向かいには男がいた 微妙な二人の関係の空気が店内を漂い始めた |
時々思い出す風景がある。とは言っても実際に見た風景ではない。 蒸気機関車が少年を乗せて走っている。少年は少女と別れて引っ越すのである。その汽車が踏み切りに近づいたとき、ふと少年はその踏み切りに立つ少女を見つける。互いに手を振る。そしてその少女は鮮やかな色のミカンを投げた。 これは、芥川龍之介のたしか「ミカン」という小品のひとコマである。題名も薄ら覚えで、作品の中身はほとんど忘れているが、全体的にモノクロ的な印象のある作品で、そのモノクロの中に先に書いたミカンの色だけが鮮やかなのである。 なぜか時々この小説の自分で作り上げた風景を思い出すのである。 なぜなのだろう。。。。 懐かしいような郷愁がある。 そのほかにも龍之介では「トロッコ」という作品の中の風景とか。。。。 漱石の作品でもいくつかの風景を思い出すことがある。 最近の作家では、写真だが夏生さんの「流星の人」の表紙の風景。これは作品全体の雰囲気をその写真として思い出すのだろう。 あとは、川上さんの「蛇を踏む」のなかでの主人公と母という蛇とが絡み合いながら川のように流れていき、それを店屋の主人だったか、そのおやじがのんきにそれを眺めているという風景。。。。 何年多っても忘れない心の中に描いた風景。優れた作品というのは、脳味噌の奥底に残るのだろう。 05年2月8日日記より |
春一番が僕の横を通り抜けた とぼとぼと公園横の道を歩く僕の横を 一瞬強く吹く風は 僕を包み込むように通り抜けた そのとき、僕は一瞬のうちに見た 青白い知的な冷たい女の横顔を 目ははっきりと僕を見つめていた 切れ長の美しい目だった 僕ははっとして振り向いた 白いワンピースに長い黒髪をなびかせた後姿 これも一瞬のうちに見た そして風のように揺れながら消えていった 僕は立ちすくんで首をかしげた そのとき世界が変わってしまったのだろうか ふたたびとぼとぼと歩きはじめた僕だが 歩道を歩く人々が僕を通り抜けていく 僕は両手を広げて走ってみた 僕を通り抜けていく女の髪が舞った 男のネクタイが背中に回った 僕は心だけとなりそして風となった 風となり心だけとなったら そこに自由があった 風となってすべての執着していたものを 僕は振り向いて眺めた 僕は大きく飛び跳ねて青空に舞い上がってみた そして探した。。。 切れ長のきれいな目を自由という後姿を |
夜半からの雨風がやんだら 空からさっと日の光が降りそそいだ きらきらと七色の光は 桜の木にも降りそそいだ あまりにもきれいなので出窓から眺めた すると七色の光が集まって 3センチほどの桜の精があられた 蜂のような羽をパタパタと 枝の周りをゆらゆら飛んでいた おやと思いながら外に出てながめることにした 桜の精は桜のつぼみに近づくと 「えいっ!」と、スティックを振り下ろした つぼみは開かない。。。。 「開きませんなぁ。。。」思わず声をかけてしまった 桜の精はびっくりしたように振り向き 頭をポリポリと掻いて「あハハハ。。。。。」と そして大きく息を吸い込んで「えいっ!」 「だめですなぁ。。。。」という言葉が終わらないうち 桜の花がスローモーションのように 1輪咲いた 「ほう、たいしたものですなぁ。。。」 桜の精はにこっと笑い鼻の横をかいた それから新前桜の精はそそくさと 10輪ほどのつぼみを開かせ また七色の光に消えていった 「ほう。。。。」しばらく桜の木下で 心の中でパチパチ手をたたいた |
JRの事故報道が続いてます。 どうもスピードの出しすぎが原因の一部なようです。制限速度が70キロなのに100キロ以上は出していたみたいです。このままだと運転手さん個人の責任になりそうですね。 しかしなぜ1分30秒の遅れでこのような事故が起き、たくさんの方がなくならねばならないのでしょうか? 前の駅でオーバーランをしたために遅れが出たようですが、1分30秒ほどの遅れはラッシュ時には多いのではと思います。新聞によれば、1秒の遅れなども報告しなければならないような雰囲気があったようですが、速度オーバーなど無理な運転が日常あったのではと勘ぐりたくなります。 運転手さんも過去にいろいろあったようですし、それも問題になりそうです。 しかし、癌という病気を想定した場合、同じ環境で生きていても癌になる人とならない人がいる。これは一番弱い人に癌という病気が発生するのでしょう。これと同じように、普段1分1秒の遅れを問題にされていたときに、焦りから事故を起こす人は、運転手さんの中でも一番精神的にも弱い人に現れるのではないかと思います。 癌が一部の人の発病であっても、社会的な問題として改善策が行われています。そうならば、今回の事故も事故を起こした運転手さん個人の問題にしてはならないでしょう。 今回の事故もそうですが、三菱の自動車関連の不祥事など、現場の声が報道されません。何か問題があれば、社内で現場の個人責任にすれば済んでいる中での会社役員や管理者の責任。これが大きな問題となってから始めて表に出る。 現場。。。。これを忘れている社会になっています。 社会保険庁もいろいろとたたかれていますが、現場の人は、猫の目のように変わる社会保険システムに忙しく一生懸命に働いていると思います。それが一部の不祥事でみんなが悪人のようになってしまう。 「事件は現場で起きているんだ!!」どこかの刑事物ドラマで出てくるせりふじゃないけど、現場を忘れた社会・会社は長続きはしない。 |
時々行くファミリーレストランのいつもの席に座った。その席は窓を背にした席である。 何も選んで座るわけでもないのだが、いつものように歩きいつものように扉を開けて、無意識のように座ってしまう席がそこなのである。 時々思う「座る席までいつもと変わらずかぁ。。。」毎日を決められた時間の流れで動く僕の平凡さが端的に表れていると思ってしまうのである。 ただ言い訳になるかもしれないが、この席に座ると向かいの壁に大きな鏡があり、僕が背にしている世界を切り取って写しているのであるが、その風景はすきなのだ。。。。 下町にある古い木造の家が写っており、窓の手すりにきれいな鉢植えの花がたくさんある。ただこんな切り取られた風景が好きなだけであるのだが。 その家の下の歩道を歩く人々がいる。その人々も切り取られた世界に写るひとつの風景となっている。 時々思うことがある。 鏡の中の世界は、たしかに現実を写しているだけなのだろうが、こうして切り取られた世界を見つめているとそこには別な世界があり、振り向いて窓から見える現実の世界とは違っているのではないかと。 すぐに「ばかばかしい。。。」と自分で笑ってしまうのだが。。。。 その日もこのいつもの席に座って鏡を眺めていた。風景は代わり映えのないものであった。でも、ふと気付いた。古い木造住宅の窓の手すりにある花々は季節が移り変わっても同じ花なのである。いつもきれいに咲いている。 道行く人々を見た。。。。 その中に少し猫背の男が歩いていた。 僕自身だった。。。。 |
僕は小学生 夏休みを利用して毎年お母ちゃんの田舎のおばあちゃんちに遊びに来ている 「あの川の横にある木は何歳ぐらいなの?」 おばあちゃんに聞いてみた 「あの木はなぁ。。。杉といって、親の木が雷に打たれたあとに切り株から出た杉だから、お前と一緒の年かもしれんなぁ」 「そうなの。。。。まだ細いね」 その日の夕方、その杉という木下に行ってみた 私は昼過ぎに列車に乗り込んだ 何も用事があるというわけではないが、心の奥底からの郷愁に誘われた 列車は関東平野を抜けて山の中に向う 子供の頃から聞いた懐かしい駅を通り過ぎて 私の郷愁は現実の風景へと吸い込まれていく 僕は杉の木の下に座り見上げた。 「フフフ。。。君も小学生かぁ」 杉の木は心地よい風に枝を揺らしている まだ早い夕方の陽はうっすらと山の上の空を照らすだけだ おばあちゃんが切り株から芽が出たといってたけど その大きな切り株はもう痕跡ぐらいしかなかった 私は思い出している あの頃の列車は木の座席で、送ってきたおやじと向かい合って座っていたっけ 今はきれいな座席になっている。でも通勤電車と同じ長いシート あの頃の列車はもう解体されたんだろうなぁ もうすぐ長いトンネルに入るだろう 今は窓を開けて首を出してトンネルの匂いは嗅げないのか 山の上の雲がうっすらと夕日に照らし始められている 僕は想像した この木もいつかは大きな木になるんだね そのとき強い風が吹いた 杉の枝が大きく揺れた 風は一瞬のうちにやんだけど杉の木は大きく枝を揺らしたり幹をもくねくねと動かしていた 僕は立ち上がってその生きていると実感できる杉の木の動きを見つめた 見る見るうちのその杉の木は大きく太くなっていく もうテッペンは見えないほどに 私はあの杉の木を思い出している もうだいぶ大きな杉になったことだろう かわらの横の1本杉 駅を降りて薄ら覚えの道を歩き出す 山の懐かしい香りがする 杉の葉を囲炉裏で焚きつけるあの匂い 私の郷愁は現実の中に溶け込んだ あの日の頃とそうは変わらない風景の中に そしてあの杉の木が見えてきた 僕はすごく大きくなった杉の木を見上げて首をかしげた 「どうしたの?」心の中で呼びかけた 僕には理解できないのでただ立ちすくんでいた 夕陽は空をオレンジ色にするほど傾いていた そのときはっとして振り向いた 私は杉の木の下に向った 大きくなった杉のテッペンを見上げながら 杉の木のテッペンの夕陽はもうオレンジ色になっている 杉の木の枝は、あの日と同じように心地よい風に揺れていた だいぶ近づいてわたしははっとして木の下を見つめた 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「おじさんって呼んでいいのかな?」 「うん、君と呼んでいいのかな?」 「おじさん、40年なんてすぐなんだね」 「そうだなぁ。。。すぐだったよ」 「ふふふ。。。」 「ハハハハ。。。」 「ありがとう」 「こちらこそありがとう」 「なんか変だね。ありがとうなんて」 「そうだなぁ。。。ハハハ」 僕は手を差し出した 私は手を差し出した 触れようとした手と手が近づいたとき、少年は過去という時間の中に消えた。 |
木枯らしの吹く公園のベンチに座っていた いつもなら子供を連れたお母さんたちや 日向を楽しむおばあちゃんが のんびりとした時間を楽しんでいる時間なのに なぜか僕一人だけがベンチに座っていた 足元には木枯らしが吹き付けていた 一枚の枯葉が小さなつむじ風に乗っていた クルクル。。。クルクル。。。。 いつもなら一瞬にして消えてしまうつむじ風なのに いつまでも僕の足元を回っていた 気が付くと、少し大きいつむじ風 大きくてどこか優しいつむじ風 大きくて力強いつむじ風が。。。 僕の周りを回っていた 僕は楽しくなって立ち上がり 真似をして少しくるくると回ってみた クルクル。。。クルクル。。。。 僕は右足のつま先だけで回れるようになっていた 僕は楽しくて楽しくて。。。。 「こんにちは」、「こんにちは」。。。 「こんにちは」、「こんにちは」。。。 いつの間にか4人の家族と一緒に クルクルクルクル回っていた 「こんにちは。。。!」 僕も弾む声で答えた 「ハハハ・・・・こんにちは」 「こんにちは。。。。」 僕はその家族と楽しく回りながら挨拶をし続けた どのくらい時間がたったのだろう 4人の家族はいきなり高く舞い上がった 僕も必死で舞い上がった 空を1週したとき 「あなたは来てはいけないよ」と言われた そう言い残してつむじ風たちは 高い空の上に舞い上がっていく 気がつくと僕はまた。。。。 公園のベンチに座っていた すごく寂しかった。。。 空を見上げて涙が出た そのとき。。。。。 高い空の上からかわいい声が 「おじさん、もうすぐだよ」 「もうすぐ春の家族がやってくるよぉ。。。」 |
わたしは野の仏 誰もふりむかなくなった野の仏 わたしは野の仏 いまでは忘れ去られた野の仏 私の前には細い道 夏草が茂る轍の深い道 その昔。。。。 ガラガラゴトンと大八車が通りました ガラガラゴトン。。。。 先行く人の手には「南無阿弥陀仏」 高い竹ざおに垂れ下がっていました 大八車の上の棺は轍のために揺れます ガラガラゴトンと数百年の時が 深い轍をつくったのです 悲しい悲しい行列が轍を歩きました 道はゆるい坂になり 小高い丘を登ります 丘の上には小屋がありました しばらくすると白い一筋の煙が立ち昇ります 私は祈りました 煙は雲にとどいたのです 私はいつもより素敵な笑顔で見送りました 人はそれぞれの道を歩きます しかしその道には必ず轍があるのです そしてその轍は必ず1本となって 定められたところに向うのです |
僕の意識は漂う ものすごい速さで漂っているのか 静止した状態で震えているのか 意識の広がりは無限のようでもあり 素粒子のように広がりもないようにも思える 永遠の時間の流れにいたのだろうか 一瞬の中の永遠の時間にいたるのだろうか 意識だけだからあらゆる感覚はなかった 空間と時間はないに等しい ただ意識が漂うばかり 漂う意識は朦朧としている そのとき。。。。 何だか懐かしい感覚を覚えた 胸の中にある温かい感覚を 鼓動。。。 そう鼓動だ!! 一つ目の鼓動に僕の記憶はひとつ減った 心地よい羊水の中で 二つ目の鼓動、三つ目の鼓動。。。。 薄れゆく記憶 僕という自我さえ消えていく ちょうど10回目の鼓動を数えたときに 僕という記憶と意識はリセットされた 純粋無垢な真っ白な意識にリセットされた 温かい羊水の中で 心地よい鼓動を続ける 新しいページが書き加えられていく 輪廻転生 |
人には引きずっている過去がある。そして今という時間があり、未来がある。 引きずっている過去が消せたらと思うような過去だったら、そして未来が幸せに生きられるものだったら、今のあなたは消し去りたい過去を消すことを選ぶか?過去を引きずっても幸せな未来の約束を選ぶか?消し去りたい過去を消せるとすれば、今の自分は明るい気持ちで生きられる。しかし未来への約束はない。未来への幸せを求めたとすれば、しかしそこには消し去りたい過去が重く心にのしかかる。その幸せな未来も幸せな気持ちにはなれない。 主人公は、消し去りたい過去を消すことを選んだ。 消し去りたい過去を捨て今という時間のつかの間の心の安らぎを得た。しかし人というものは、時間の流れの中に必ず未来が来るはず。ふと未来の幸せを望んだ。 未来への幸せを望んだ瞬間、その幸せを手に入れることができたが主人公の心に消し去りたい過去が戻ってしまった。 主人公は、未来の幸せをはじめから望めばよかったのか?いや、結局は幸せを手に入れたが消し去りたい過去を引きずってその幸せは色あせてしまうのであり、結果は同じなのである。 それは今という現実の時間をいかに過ごすかという現実に主人公を引き戻す。 過去という時間の流れ、今という現実という時間、そして未来という来るべき時間の流れは消し去れないということである。 しかし、今という時間も幸せな状態ではない。金の世の中で心の平安はない。主人公は今という時間の中に闘うしかない。今という時間の中に闘う中でしか過去を清算できず、未来の幸せもないのである。主人公は、今という時間の中で過去と戦い未来を切り開こうとする。 過去は越後、未来は越前、今は越中。。。 これを擬人化とする。越後を八嶋智人、越前をカムカムミニキーナの座長松村武が演じる。八嶋と松村のカラミがおもしろく、コメディータッチで描かれている。主人公が過去を捨て去るときには、越前牛乳が流行り、未来の幸せを望んだときには越後牛乳が流行る。牛乳といえば母。。。。未来を切り開く子を産みミルク(母乳)で子を育てる。 そんな母性を感じさせられながら、いろいろと今という時代を思い描くような作品でした。 劇団「カムカムミニキーナ」 「越前牛乳」を観て来ました。今売り出し中の山崎樹範(ヤマシゲ)も劇団員で出ていました。 |
公園の横を通り過ぎようとした 車はもちろん、行き交う人々も 忙しそうに通り過ぎていく もう日もだいぶ西に傾いていた のんきな僕は染まった桜の葉を見ていた 黄色やオレンジ、紅に染まった葉は 風もない中に揺れもせずに染まっていた 何気なくそんな桜の葉の色につられた 公園の中のいくつかのベンチ その中の一つだけのベンチが輝くようであった そんな輝きにまたつられていった 「やぁ。。。」 輝く中に見えなかったのか 老人が言葉をかけてきた 老人とはいえ、帽子を取って挨拶をするなど 古風な老人である 挨拶をし終わると音もなく座った 「どうも。。。。」 僕は老人につられて隣に座った 老人は日向の臭いがした でも、それは夏の日向の臭いではなかった 枯葉に降りそそぐ日向の臭いだ 「きれいですなぁ。。。。」 「はぁ。。。」 「どうですかぁ。。。?」 「はぁ。。。」 「私色にして見ました」 「はぁ。。。。?」 答えながら目線を上げたら 公園全体が秋色に染まっていた 紅葉した桜の葉が輝いていた 「私の似合う色だと思いませんか!?」 「はぁ。。。。」 横を見ると老人は笑顔であった その笑顔も秋色。。。。 するとすうっと立ち上がり 「私はそろそろ。。。。」 「申し遅れましたが西日と申します」 また古風に帽子を取って挨拶をした 「はぁ。。。。」 老人の座っていたベンチは暖かかった <追記> 読んでいただいた竜男さんより素敵な一句をいただきました。 秋の陽を残す木椅子を愛しめり |
昼下がりの片側3車線もある通りを歩いていた。トラックやタクシーやら自家用車やら。。。いつものようにたくさんの車が通り抜けていく。行き交う人々も多く、ぼうっとしていると肩が触れそうになる。 でも、なぜだろう。。。 騒音は遠くにあるようであり、車や人々は、まるでスローモーションのようにゆらゆらとして見える。 僕の足も地についているのか? 僕は空間の中を漂うがごとく歩いていた。 この変な感じは、さっきまで本を読みながらコーヒーをすすっていたコーヒー専門店を出てきたからである。 僕は好きな作家の本に集中しながら大好きなマンデリンをブラックですすっていた。本とコーヒーに気をとられていたが、時々悪寒に似た寒さを感じた。目を上げて店の中を見回すと、店の片隅だけが闇のように暗く、そこに一人の男がいる影のような気配だけが漂っていた。その影の形は、下をうつむいたように。 どうもその悪寒のような寒さに気分が悪くなり店を出たのである。 今歩く街の様子や僕のただうような足の運びは、その悪寒に似た寒さのせいかと思いながら歩いて。 しばらく歩くと大きな交差点に出た。 僕はこの交差点を渡って左に行かなければならない。長い赤の信号を恨めしく見ながら立っていた。 すると、僕の横にさっきの影のような暗闇の塊が人のような形となって立っていた。 信号はまだ赤であった。 僕の悪寒に似た寒さはひどくなる。 すると突然、地の底から響いてくるような声がした。 「そろそろ渡りましょうか。。。」という男の声である。 ふと横を見ると、影のような暗闇のような人の形は、はっきりとした男の姿になっていた。かかとまである黒いマントにフードが付いていた。フードの中の顔は、闇を塗りつけたように暗かった。右手には柄の長い大きな釜。。。。 僕はその男の声に吸い込まれるように「はい」とこたえて1歩あゆみはじめた。 男は僕の腕を取ろうとした。 僕は、もう今という時間は必要ないんだと思って男に従おうとした。信号の赤の光が大きく見えた。 もう1歩、もう1歩。。。数歩あゆもうとしたとき、僕は、さっきのコーヒー専門店に読みかけの本を忘れたことを思い出した。 「ごめんなさい。本をとってきますね」 僕は、そういって急いで振り返りコーヒー専門店に行こうと戻り始めた。 そのとき。。。。 大きなトラックが僕が数歩歩き進んだ交差点の中の立っていたところをすごい勢いで走り抜けていった。 僕はあわてて振り返った。。。。 闇のような影の男は、やはり地の底から響くような声で「ワッハッハッハ。。。」と笑い、空に浮かびながら僕を見て1冊の本を僕に示した。 その本は僕が読みかけのまま忘れてきた本と同じ本であった。 闇のような影のような男はさっと消え去った。 僕は「あの本。。。」と独り言を言いながらコーヒ専門店に引き返した。 僕の本は、ソファーの上にひかるようにおかれていた。僕はその本を手に取ると同時に思い出した。あの片隅で暗闇のような影の男がうつむいたように感じたのは、じつはあの男も本を読んでいたのかもしれない。ぎらぎらするような目をして。 僕は青白い顔をしてひきつった笑顔を浮かべながら「本好きでしたかぁ。。。」とつぶやいた。 |
最近よく暗示にかかる。 5日と10時間前、「おいしいパン屋」というパン屋さんへ行き パンを選んでいたら、おばちゃんが寄ってきて 「あなたはコロッケパンが好きですね。。。」と言った。 それ以来、5日と10時間の間コロッケパンを食っている。 |
駅を出て歩いていたら いきなり黒い雲が現れた コンビニの前まで来ると 大粒の雨がアスファルトに斑点を付けはじめた ビニール傘を買い歩きはじめた 雨はパラパラとたくさん降り出す 僕はビニール傘を広げた パラパラ落ちる大粒の雨が 傘の柄を伝わり感じられた パラパラ。。。心地よい音 傘を持たない人たちが走り出した 子供を乗せた自転車 お母さんはガニ股で自転車をこぐ フト、白いワンピースを来た女性が。。。 僕と走りすれ違ったような気がした 気のせいだったのだろうか。。。 ゆっくり体を回して振り返っても そのワンピース姿の女性はいなかった 「雨宿りをさせてください」 僕はその声に自分の心をのぞいた 「あっハハハ。。。。」 どうも僕の心に雨宿りをしてしまったらしい パラパラ。。。心地よい雨の音 仕方ないので公園まで歩いた 木々の緑は濃かった |
霧雨の中を歩いた そしたら、霧雨ほどの雨粒が どんどん傘に積もってしまった 重い。。。。 |
歩いていたら、雷様がゴロゴロ。。。 空は真っ暗。。。。 急ぎ足で歩いていたら、 みんな僕を追い抜いて行く 大粒の雨がポツポツ みんな僕を追い抜いていく 追い抜いていく人が、みんな 「こんにちは。。。」と 何回、こんにちはとお返事したろ? 「こんにちは。。。」 みんな僕を追い抜いて行った。。。 |
地下鉄電車の座席に座って本を読んでいた |
都心のビルの間を歩いていたら |
雨の中を帰宅した |
見知らぬ町の駅に降りた |
急に暗くなって大粒の雨が降り出した |
しっとりとした秋雨 そうは濡れないだろうと持っていたが 駅前まで来る間に肩や鞄が 気持ち悪くと濡れてしまった 少し肌寒くもありコーヒーショップに入った タバコをふかしながらアメリカンコーヒー しばらくするとおばあちゃん。。。 いや年をとった女がよたよたと入ってきた もう80歳は過ぎているだろう けして裕福な服装ではない みすぼらしささえ感じた でも、髪はきれいに整え 花の髪飾りが。。。。 コーヒーをニコニコして飲む 窓の外を眺めると まだしっとりとした雨が。。。 傘がゆらゆらと動いていく 店の中に目を戻すと いつもの大きな鏡に目がとまった カウンターに座る年取った女の背中は小さい 店内の照明がぼんやりと光って写っていた その光がゆらゆらと女の背中を包んだ そしてまた一点に集まったとき 鏡の世界はバーの風景に変わった きれいに髪を整えた40女が笑っている 髪には花の髪飾りが。。。。 男たちがグラス片手に その女に話しかけている そこに一人の男が店に入ってきた 何もいわずに小さな手提げ金庫から 数千円をつかみ持ち去る それを見ていた男がタバコをくわえる 女はすかさずマッチに火をつけた 男は辛そうに笑う女は淋しく笑う マッチ箱には「幸」という文字 マッチの炎が「幸」という文字を照らす 暖かな光は男の苦い笑顔も照らした マッチの光がまたゆらゆらと 1点に集まったとき鏡の風景は消えた 一人の爺さんがその女の前に立っていた 千円札が3枚入った財布から 2枚の千円札を抜き取った 「男」。。。。「幸」。。。 女はまた淋しく笑った 僕は外のゆらゆら動く傘を見ながら タバコに火をつけて 残りのコーヒーを飲み干した |
10月にはいったある日のこと どんよりと曇った空の下 頭の中もどんよりと。。。。 いつものコーヒーショップに入った ホットコーヒーもうまいかな ぼうっとコーヒーをすすってた 隣の席にはばあ様が。。。。 ニコニコしながらホットココア 「あんちゃん、あんちゃん。。。」 僕のことを呼ぶ 江戸っ娘である 「あんちゃん、今日は何日かね?」 「はぁ。。。3日ですよ」 「9月かね?」 「・・・・・・」 「え〜と・・・・」 「10月だと思います」 思わず携帯を出して日にちを確認 どんよりした頭で また残りのホットコーヒーをすすった |
最近になり 鎮守の森に洞穴が出来たと聞いた 洞穴? どうも近所中の噂らしい しかし。。。 どうも聞くところによると 見た者はないらしい 散歩のついでに鎮守の森に入ってみた 住みごごちのよさそうな洞穴であった 「ご自由にどうぞ」 立て札があったので入ってみた やはり住みごごちはよさそう。。。 ある日思い立って住んでみることにした リュックサックに缶詰とペットボトルの水を ちょっと淋しいかと思い 1冊の本も。。。 洞窟の中に座ったら 暖かだった 膝小僧を抱いてしばらく座っていた ちょっと缶詰も食ってみた 水も飲んでみた 本は読めなかった 洞窟は暗いから。。。。 暗いなァと思っていたら 夜なのかなんだかわからなくなってしまった また膝小僧を抱いて座っていた。。。 |
夜も遅くなった公園 とぼとぼと行き過ぎようとしたら 桜の葉がすごくきれいに紅葉 公園の街灯に照らされた桜紅葉は 宝石のように光っていた 「そろそろ、宴たけなわですが。。。」 「ん?」 桜の花見酒は定番だが 桜紅葉の酒の宴? 声のするほうに公園の中に入ってみた 潜りぬけた桜の木の下は 紅葉色の光のカーテン カーテンを開くように入ってみた ゆらゆらとした人々が なにやら古式ゆかしい風呂敷に 茶色と黒だかの縞模様の風呂敷に 品々を片付けていた 「それじゃぁ。。。。」 「はい、それじゃぁ。。。」 風呂敷包みをひょいと肩に乗せ ゆらゆらした人々は四方に歩いた ゆらゆらした人々の一人が 「木枯らしですなァ。。。」 「木枯らしですよ」と そのとき、ひゅ〜っと木枯らしが吹いた 紅葉色のカーテンはさっとなくなり ゆらゆらした人々は桜の木に帰った 木枯らしがさらに強く吹いた 宝石のような桜紅葉が風に舞う 僕は包み込まれた 「また来年ですね♪桜の精さん」 「ハハハ・・・もう、よいお年をですか♪」 僕はつぶやいた |
夢とも現実とも思える世界に ゆらゆらと心は漂うような。。。。 でも、その夢は現実 その現実は夢のように遠くに。 過去は現実としてあったもの その現実は、今というところから見ると ゆらゆらと夢のよう 未来にも現実はあるはず その現実は今というところから見ようとしても ゆらゆらと夢のよう ゆらゆらとした夢のような 過去と未来の狭間に今という現実がある それも一瞬にして揺らぐ 飲み残しのコーヒーがテーブルの上に 僕はそのコーヒーを飲み干すだろう テーブルの上にはカップだけが 僕は未来へと時間に流される 今という現実は過去となり 揺らぎはじめる やがて今も忘れ去られる しかし僕は未来の今に生きるだろう 霧の中の森の道に 振り返っても今来た道は霧の中かもしれない また前を向いてとぼとぼと歩くだろう 未来という中の今という現実へ (銀色夏生「やがて今も忘れ去られる」 読後感の詩情。。。。) |
まだ空気が青い冬の公園 |
静かに陽が昇る |
もう人通りもない街 |
春だなぁ。。。。♪ |
妻の友人から電話がかかってきた。。。。。 |
さっと春の風が吹いた 一枚の葉っぱが落ちてきた これまでの思いは 一枚の葉っぱも沈むだろう 春の日差しが射しこんだ 小さな魚がさっと動いた これまでの思いは 小さな魚は水草に隠れた 水面に春の薄い雲 山桜の花びら 僕はまた思う その池は深い森の中にあった |
里はもう春 桜は散りはじめ 山は笑い 花々は咲き乱れる 高い山の中に沼があった 遅い冬にまだ 凍りついているのだろうか 春はそこまで来ているのに たぶん春になっても凍てつく沼 静かな春の訪れを 感じぬままに凍てつく沼 いつもの年ならば 春を喜び水は温む でも今年の春は凍てつくままに 片一方の愛情は 信じることで救われた でも片一方の愛は そうは長く続かないよ そのとき沼は永遠に凍ついた 愛を弄ばれた時 一方通行の愛は 永遠に心を凍てつかせる 片一方の愛は 通じないものだね このまま凍てつく心 もし水が温むなら そのままふつふつと 煮えたぎることだろう それは憎しみ それは心の崩壊 だから永遠に その沼は凍てつくほうがいいんだ 里の沼は春 凍てつく沼はそんな里の沼を見つめる それでいいんだよ 春は美しい 美しさの中に 沼は凍てつく。。。永久に |
今日という日も 明日という日も 昨日という日と 変わりないのですね 言葉の無力さ 心の無力さ |
もう立夏も過ぎた どこかに針の穴のような まだ風は春 どこかに針の穴のような どうも僕の胸には どうも僕の胸には 通り過ぎた冷たい風は |
あなたの心は今 僕の心は今 心の翼は 心はいつも あなたの翼の そう、解き放されるべきは あなたの翼から でもまったくの自由はないよね あなたは今 翼を広げたいのですね 翼を広げよう そしてあなた翼と 翼を広げたいのですね 翼を広げよう |
ある朝、起きたら頭の上に木の芽が出てきていた |
それはかいかぶりだよ それはかいかぶりだよ それはかいかぶりだよ あてもないけど |
雨の中を帰宅した |
命あるもの しかし解脱して |
現実世界から降り注ぐ粒子 |
土曜なのに電車に乗った |
海は荒れ |
心に波紋が あなたの言葉が でも不思議なんだ (Papyrus 銀色夏生「野外観察」 |
人が生まれ変わったのなら |
先を飛び案内するか赤とんぼ 高く飛び見上げる空にいわし雲 淡き恋桜もみじに色づいて いにしえの恋は遠くに過ぎ去りて 山寺の御堂の屋根も古びたり 赤とんぼ小串の浜は見えたるや 浅き秋葉の落ちぬ木々さらさらと 木の葉の音足音もなき山道に 振り向けば霞むかなたに瀬戸の海 百年の恋の心よ百鬼園 波光りあれが小串か恋の海 静けさに恋の心も仏心寺 赤とんぼ瀬戸の光に去ってゆき 心ゆれ恋の心は去っていく 悲しさに残る心を愛という 目を伏せて足下を見れば細き道 彼岸花別れ別れて愛の色 |
太陽が昇った |
命の尊さ |
路地裏に風も吹かずに春近し 人も無き路地を下れば海光る 静まりて小さき船は揺れもせず 見上げれば貴船の石段古びたり 華やかな祭りの景色思いおり 凪に似て動かぬ時はゆらゆらと 真鶴や人の心は幻か 華やかな祭りの影に心揺れ 時も無き心の景色激しけり 誘われて波打つ磯に何を見る 波に濡れ誘うも心我が心 ゆらゆらと祭りの船は燃えており 現(うつつ)世の光る水面も幻か 燃える船うつつの闇も光りけり 夢うつつ時の流れにさ迷えり 庭先に時は動いて梅一輪 磯辺にて海苔掻く音は響きおり |