夕螺の読書ページへようこそっ!!
    2005年2月から7月までに読んだ本です。

直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。
こちらに収められた作品は、以下の本たちです。

「対岸の彼女」                     角田光代
「すみわたる夜空のような」             銀色夏生
「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」     大江健三郎
「まぶた」                        小川洋子
「幸福な遊戯」                     角田光代
「科学者が見つけた人を惹きつける文章方程式」  鎌田 浩毅
「古道具 中野商店」                 川上弘美
「雨と夢のあとに」                   柳美里
「ノラや」                         内田百
「錆びる心」                       桐野夏生
「いくつもの週末」                   江國香織
「風紋(上・下)」                     乃南アサ
「つれづれノートM(川のむこう)」          銀色夏生
「パレード」                       川上弘美
「白いへび眠る島」                   三浦しをん
「この本が、世界に存在することに」        角田光代



 





対岸の彼女
                         文藝春秋社
                 角田 光代  著
小夜子は結婚後仕事を辞めて専業主婦となり、3歳の女の子あかりを育てている。あかりを見ていると、友達を作るのが下手だ。そんなあかりの姿は自分の姿でもあり、小夜子あかり親子は公園デビューに失敗した。あかりも保育園にでも入れば友だちもできるだろう。。。小夜子は軽い気持ちで働きに出ることにした。
求人折込で見つけたのは小さな旅行会社だった。いろいろなところで面接を受けたが、すべて不採用になり、ここもだめかと思いつつも面接に行く。旅行会社の社長は、小夜子と同じ年の葵。それも同じ大学を卒業していた。そんなことで採用となる。
葵は、大学を出てすぐに学生気分も消えないような小さな旅行会社を作り、未婚のまま今に至っていた。キャリアウーマン・起業家としてちょっとした講演にも出かける。
このように小夜子と葵は、その生活環境としてはまったく違った生き方をしてきたが、そんな違いがあるにしてもだんだんと近づいていく。
この作品は、小夜子の生活と新しく始めた仕事とのかかわりそして葵という一人の女性とかかわりがとつとつ語られていくと同時に、葵の高校生時代の友達ななことの関係が葵の言葉によって語られていく。この小夜子の言葉に現れる心の中と、葵の言葉に現れる心の中、これが交互に何の関係もないように平行して語られていくのである。小夜子は葵との関係が深まるに従い葵の過去を知り、二人がとつとつと語る現在の小夜子の心と過去を背負った葵の心が最後に結びついていくのである。
小夜子は、自分の娘が友だちに溶け込めないことに不安を持つが、それは自分自身の姿でもあり、公園デビューの失敗も小夜子自身の問題だった。子供を保育園に預け働いている小夜子が、専業主婦の集まるお茶に行くが、その中で話されるのは他の人の悪口であり、保育園の子供。。。。という偏見でもあった。途中で抜けた小夜子は思う。自分ガザをはずしたらその後は自分のうわさだろうと。たしかに人の輪の中に入っていけない自分があるが、その人の輪も人と人との関係の希薄さのあるものである。義母の小さい子を保育園に預けるのはかわいそうという見方。
小夜子の仕事は、旅行会社でもあるにかかわらず、新規事業としての留守宅の清掃であったが、夫の「掃除おばさん」という言葉、軽んじられる言葉。ここにもお互いの気持ちが通じ合わない人間関係の希薄さがある。
小夜子自身が溶け込めないという自己嫌悪的なものと、現実の生活の中にあるさまざまな人間関係の希薄さ。ここの対立が見える。
葵は、いじめにあい高校は母親の実家のほうにして家族で引っ越した。高校ではいじめにあわなかったが、その中にはグループができ、その中でのいじめを目にする。そのいじめられるというものはひょんな小さな出来事からはじまり、いつ自分がいじめの対象になるのかわからない状態である。仲良しグループだったものがその中においていじめがはじまる。ここに人間関係の希薄さがある。
葵にはななこという一人の友達ができる。ななこは一人ぽつんと学校で過ごす。友だち関係を「あんなの一番大切なものではない」というようなこと(引用箇所が見つからない)をいう。ななこは、家庭の中でもその環境から一人である。希薄な人間関係。その中でその輪に溶け込めないことの対立。
葵は小夜子に言う。「私たちの世代って、一人ぼっち恐怖症だと思わない?」
いじめにあったり、社会一般の常識の中でつまはじきにあったり、このような人間関係の希薄さの中においても一人でいる不安はある。不安はあるがその輪には溶け込めない。何か本物を見つけようとするがそれがどのようなものかはわからない。逃げてしまっても何の解決にもならないし、何か新しい世界があるわけではない。
人は皆「一人ぼっち恐怖症」なのである。
いじめをしたり偏見で人を見ること。これも一人ぼっち恐怖症の現れである。グループという集団心理の中で生まれる恐怖からの逃げであり、自己満足なのである。
小夜子のぶつかりは大人社会のものである。葵の思い出は思春期のものである。ここに大人も子供も何に違いがあるのか。小夜子は思う「私たちは何のために歳を重ねるのだろう」。大人になっても人の心や行動には大差はないのである。
川を挟んでこちらには自分がいると小夜子は思い描く。川の対岸には葵とななことがいる。今の大人としての小夜子に対して思春期の葵とななこが。。。。対岸の彼女たちに小夜子は駆け寄っていく。葵と二人っきりで再建しようとする会社に葵という一人の女性の中に、葵という女性は一人の女性としての小夜子の中に、何か本物を求めたのかもしれない。人間関係の希薄さの中に生きなければならないが、その中にはきっと本物もあるのかもしれない。もちろんそれがいつか終わりがあるにしても。これが歳を重ねていくというものだろう。

                      2005年2月22日 記

                          夕螺




すみわたる夜空のような
                         角川文庫
            銀色 夏生  著
角川の「内容」紹介には、「片思いをしているすべての人に捧げます。」と、ありますように恋の詩集です。
「すみわたる夜空のような孤独を」。。。。(最後のページより引用)
心の中にわき出でる思いは、泡のように消えていくだろう。きっと消えていくだろう。しかし。。。。心というのはそのような簡単なものではない。消えてしまえと思っても沸き出でるもの。自分では制御できないのが心。
片思いもそうでしょうが、夏生さんの中では二度の離婚があり、その思い出と思い出としてしか残らない熱い思いが詩となって現れているような気がします。きっと苦い思い出も多かったのでしょうが、それが思い出となった今とすれば、楽しく素敵な恋として残っているのでしょう。
このような素敵な恋が終わってしまい残っているのは抜け殻のような自分。
今までの恋、今も思う恋。でもその恋は過ぎ去った恋。過ぎ去ってしまった恋だから心も体も抜け殻のようなのかな。ここに孤独があるのではないでしょうか。
そして今を思う詩があります。
今ある自分とこれから。しかしこれからを思うとはっきりとは見えない。
過去の恋の中にある孤独。これだけが孤独なのではなく、先のはっきりしたものが見えない中で、自分で生きていくという孤独。夏生さんの孤独はここにあるのではないかと思います。
「見上げると
 夜の広さ
 しんしんと降りそそぐ
 夜の深さ」
        (背表紙より引用)
夜の匂いに包まれて広い夜空に吸い込まれるような、深い孤独。しかしその夜空は、すみわたり、深い孤独も心までも澄みわたるような孤独かもしれない。
孤独というのは、裏を返せば自由ということである。
「まわりの広さに気づいたときに感じるなんともいえない自由」
                               (本の帯より引用)
夏生さんは孤独を感じる以上に自由を見ているのでしょう。この自由を見たときに今ある孤独は、「すみわたる夜空のような孤独」というように読者の心をも澄みわたらせるような素敵な言葉になるのでしょう。
孤独というのは、どれだけ深く人を愛したか、大切にしたかにその深さが比例します。愛情が深かったからこそその愛が壊れたときには大きな孤独となる。純粋さがあるのでしょう。
この純粋さと孤独を自由に置き換える心の強さ。
これが夏生さんの詩のよさなのではないか。。。。。

                  2005年3月1日 記

                        夕螺






われらの狂気を生き延びる道を教えよ
                         新潮文庫
             大江 健三郎  著
この作品は、1967年から69年の2月にかけて書かれた短編を集め、69年4月に出版された。
読み始めると、外国の左翼的詩人の詩をもとに書かれた短編もあり、核の脅威や朝鮮戦争・ベトナム戦争に触れられたところもあり、「善」や「自由」という主題もあるのかと思わせるものもある。このようなものを見ると左翼的な短編集かと思うところがある。
50年代だったか朝鮮戦争があり、60年代にはベトナム戦争が始まっていたのだろうが、冷戦の中での核戦争の脅威があったのだろう。国内的にも安保・三池闘争という動乱の年代である。
このような時代背景とともに、大江さん自身の子供の頃から60年代にかけての経験がどのくらい入っているのか、この個人と時代背景の葛藤というようなものが感じられる作品なのかもしれない。
大江さんの作品は、難しいといわれていますが、たしかに同じ時代を生きた人にも難しいのですから、今の年代に生きる者にとってはなおさら難しいと思う。
ですから、読み終わった後の感想としては、文学的な作品自体としての感想となる。大江さんは、僕にとっては親の世代である。作品中に太った男が早死にした父親の伝記を想像のままに描くというものがあったが、まさに今の世代の僕らとしたら、大江さんの若い頃の時代は、専門的な知識がない者には、想像的な世界とならざるを得ないからである。
もちろん文学作品は時代背景なしには生まれない。純然たる恋愛小説でもその時代背景からの恋愛関係が生まれるはずである。文豪といわれるような作家もその時代に生きその時代の影響を受けているのである。しかし、その作品を読むにはその時代背景を知り尽くして読んでいるわけではない。ある時代背景を仮定としながらも作家の人としての心の中を感じるのである。
大江さんのこの作品から感じ受けるものは、インテリ層の苦悩というものかもしれない。
アメリカは、民主主義と経済力とを持つ。キリスト教的な懺悔もするだろう。しかしその一方では、その経済力と民主主義を武器とした戦争も正当化する。核戦争の危険性もある。このような圧倒的な魅力と力を持つアメリカと批判すべきアメリカを前にしたとき、インテリ層は苦悩するのではないか。
批判しつつも近づかざるを得ない。星条旗の表の柄とそれを裏返した星条旗の柄。
自由と抑圧は表裏するものである。
自由とは抑圧がある中にはじめて意識されるものである。抑圧を抑圧と感じないうちは自由という概念は生じないのである。いくら自由を叫び続けてもむなしい叫びに終わることがある。ここにもインテリ層の苦悩があるだろう。
善を呼びかけるのも同じである。善も悪の裏にある。善を強調するにも悪を妄想的に作り出してはならない。
インテリ層から見たとき、一般庶民は扇動する対象と見えるのかもしれない。自由や善を意識しない粗野な一般庶民。
しかしインテリ層の小市民性の社会の暗部を必要とされる暗部の中にうごめくのは一般庶民である。この一般庶民の役割を見たときにまたインテリ層は苦悩するのだろう。
体を汚し傷つけながらも社会の中に生きているのである。
一般庶民の愚鈍さ、愚鈍ながらも働く一般庶民。これに向き合うインテリ層。
インテリ層の理想とするものに近づくには。。。。
60年代は、動乱の年代であるが、高度成長のはじまりでもある。戦前の社会と終戦後、そして復興が進んで高度成長に向う日本。大きく変わる意識の違い。父がおり、自分がおり、息子がいる。父には父の時代があり、苦悩をし、息子はどこに行くのか。激変の時代を生き、そして見た自分がここにいる。それぞれの時代に生きた人々は、その違いがあるのである。
ここに大江さんの世代の苦悩があるのか?

                   2005年3月21日 記


                           夕螺





ま ぶ た
                         新潮文庫
                小川 洋子  著
小川さんの作品を読むといつも思うことがある。
それは没落しつつある上流華族であり、その上流家族の生活を残しつつも崩れていくような家族である。
その没落していくものをそのままに受け止めるお嬢さんである。何事をも受身となってその中に流れていく。それは恋愛もそうであり、自身の身をも傷つけられながらもあるときは監禁されても男のなすがままになる。不幸な時には性格異常ともいえるような男のなすがままに身をゆだねる。
これは人も持つ運命を受け入れるということなのか?
悲惨であっても、どことなくキリスト教的な神からの試練のようにその運命を受け止めるように感じる。だからその悲惨さの中に、つぶれることはない。どこか心の温かさををもって受け入れるのである。
小川さんの作品は怖い。怖いがどこか読者の心の中に暖かさを残す。
この温かさも神からの試練というような、滅びてもそこに幸せがあるというようなそんな温かみなのではないかと思う。
しかし、このように感じるからといって宗教的な雰囲気のある作品ではない。
もしかしたらマゾヒズムも潜んでいるのか?
性的なマゾヒズムまでもいかないにしろ、人というのは自己の苦しみを愛する者のために甘受することは多々ある。苦しみ自体が喜びになることがある。深い愛というのはそのようなものかもしれない。小川さんの作品の持つ温かみは、このような愛情の中にあるのか?
人への愛情に対する自己犠牲としての苦しみの極めとして死がある。滅び行く自分の極めとして死がある。
人のために死んでいくとか、愛する者との心中とかそのような劇的な死は特別なものだろうが、しかし人は命の灯火が残る間、さまざまな愛する者のために、時には社会というものに強制的にこの灯火の蝋燭を少しづつ削りながら生きているのではないか?そして燃え尽きて滅ぶのである。
「まぶた」は、このような死を描く。
人が死ぬとき、走馬灯のように自分が生きた一生を思い描くという。それは、まるでまぶたに映し出された映像のように見えるのかもしれない。人はそのまぶたに何を最後に見るのだろうか?自分が滅ぶという中に何を見るのだろうか?
「まぶた」は、表題作の「まぶた」を含め8つの短編からなります。
「飛行機で眠るのは難しい」では、日本と外国とに住む男女の文通による恋が描かれ、お互いに嘘の生活を書き連ねながらの文通だったが、死を迎えたとき、その嘘ではあっても素敵な恋ができたことに幸せを描く。
「中国野菜の育て方」は、よたよたした老婆が残していった中国野菜の鉢植えを育てるが、その中国野菜の神秘的な光に一人の女性の命の輝きが残される。
「お料理教室」は、一人の女性が家中を台所にして生徒もいない料理教室をする。台所だけの家、台所で寝起きをする女性。たぶん愛する家族のためにおいしい料理だけを作り続ける女性だったのだろう。排水路を掃除したら、その女性の作った料理がヘドロのように湧き出てくる。
「詩人の卵巣」「リンデンバウム通りの双子」にも社会的に認められるような大きな仕事はしなかったが、その幸せな老いや死を見ることができる。
ひっそりと生きてきた人々の死。その死にも命の灯火の痕跡は残っているのである。
「バックストローク」は、水泳を得意とした弟の片腕が朽ち果てる物語である。ドイツのナチによる収容所の様子と交互に語られる。弟は突然片腕を上げたままになりおろすことがなくなった。どこかドイツ軍の敬礼?に似たものを感じる。片腕を上げる、これは強制なのかもしれない。弟は母親の異常な愛情が強制となって片腕を上げた。収容所に入れられた人々は死によって、弟は片腕が腐り落ちてしまうことにより、その悲しい救いを得る。
「まぶた」は、15歳の少女と中年男の恋ともいえないが性的な関係をも持ってしまう関係を描く。それを常に見ているのは、まぶたを病気のためにとされるが、まぶたをなくしたハムスターである。男は友人に頼んだ為替の金を待ち続ける。しかし裏切られたのかその為替は届かない。最後は15歳の少女をたぶらかしていたとして逮捕される。二人に中を知っているのはハムスターだけである。真実を見つめる目。もしかしたら人はその目をまぶたで隠しているのかもしれない。真実を人は見ないにしても命の灯火を燃やす人に、その灯火に社会にとってはどうにでもよいようなことでもその人だけの真実があるのである。ハムスターのまぶたを切り取ったのは病気のためではなく、男が真実の自分を見つめて欲しいという気持ちで切り取ったのかもしれない。
「匂いの収集」は、愛する女につめを切ってもらったりする中に幸せを感じている。しかしその女は、その爪の香をも収集する。香を保存する古いビンには、昔の恋人の指などが切断されていた。いとおしく指までも切断する女と、たぶんこれから爪だけではなくて指までも切断されながらも幸せを感じ続ける男。その中にいとしさを感じていくのだろう。
家族や友人には悲しまれながらも、社会という広い無数の目には無視されそうな小さな命の灯火の終末。こんな小さな命の輝きを見つめることとその灯火の美しさを誰かが見つめなくてはいけない。それを忘れてはいけない。そしてその小さな命が尽きるときの美しさを描いた作品であり、多くの小さな命は人への何らかの愛情によってすり減らされた命なのだと感じる作品でした。

                     2005年3月29日 記


                      夕螺






幸福な遊戯
                        角川文庫
                 角田 光代  著
「幸福な遊戯」「無愁天使」「銭湯」の3つの短編が収められています。
サトコは大学5年。同じ大学の院生の立人、立人の高校時代の友人で今はフリーターのハルオの三人は、一軒家を借りて共同生活を始める。家賃や食費を考えると安上がりだからである。
外国ではこのような共同生活は当たり前のようになっているようだが、日本では男女が同じ屋根に暮らす共同生活は奇妙な生活に感じられる。3人の決め事は「不純異性行為の禁止」だが、サトコとハルオは3ヶ月にして禁を破る。しかしこれは恋愛ではなかった。共通の友人である立人を挟んではいるが、サトコとハルオは初対面であり、共同生活においてはぎこちなさを感じていた。不純異性行為は、一度きりで共同生活を自然に送ることのできることにつながる程度のもであった。
恋愛でもないもの、しかし3人の心の交友も含めて共同生活が楽しく行われること、ここに不純異性行為には見えないものがある。
お互いに気を使わずに心落ち着ける場としての共同生活は、実際の家族を嫌うサトコにとっては、その居心地のよさは家族以上のものとなる。3人はそれぞれにはっきりしない未来に向っている。サトコは、留年もして将来に何を求めているのか?院生の立人も同じであり、ハルオは高校を卒業して当てもなくフリーターをしている。サトコの感じる居心地のよさは、同じように「自分探し」(角田さんの作品の紹介にはよくこの言葉が使われる)をしている3人がお互いに寄りかかりながら生活をしているというところにあり、未来に不安を感じながらも3人の同志的な心にあったのではないか。
ある日、ハルオがプロ使用のカメラを買った。
何気なく買ったカメラは、ハルオの心をつかむようになった。ハルオは写真に「自分を見つけた」のである。共同生活は瓦解する。自分を探したハルオは借家から出て行く。
立人もある女と暮らすという。それが本当なのかはわからないが、立人も共同生活から抜ける。
取り残されたサトコ。
サトコは子供の頃のサトコを思い出す。夕暮れになってみな友達は家へ帰っていく。一人残されたサトコは、一人で遊ぶもんと。。。。
帰る家族はない。「自分探し」の楽しい旅を一緒にする中間もいなくなった。みんな自分を探してしまったのだ。サトコだけがもう留年もできないだろう霧の中の未来を見つめなくてはならない。こんな寂しさが漂う作品でした。
「銭湯」は、こんなサトコのある未来である。
サトコは八重子として登場する。八重子は大学では、演劇部に入っていた。そこに集まるのは、留年を繰り返すような仲間たち。演劇という純粋な自分を表現できる場ではあるが、そこにははっきりとした未来はない。八重子はそんな仲間に入りきれない。母親からはきちんとした仕事に就けといわれる。そんな平凡な生活に埋没したような母親に反発をするが、演劇にも熱が冷めてしまったサトコは、男の下働きなようなつまらない仕事につく。
つまらない仕事をこなしつつ、母親には演劇を続けて自分を大切にしていると出さない手紙を書く。ここに八重子の心の葛藤がある。
八重子は学生時代に住んでいた部屋に住んでおり、風呂もないので銭湯に行く。この生活に自分を大切にできた(頭の中だけで春が)大学の生活と演劇への未練が見える。未練を抱きつつ銭湯に通う。
銭湯には、派手な女や息子・孫自慢のばあさんに合う。
派手な女の裏には、小さな商店のおばちゃんの顔があり、ばあ様の話は自分で作った作り話であるようだ。
会社のお局様は意地悪だが、男の下働きの中で自分の居場所を必死に守っていた。
皆八重子の今と変わりがないのである。
八重子は大学の演劇部部室をのぞきに行く。そこに見たものは、八重子にとっての自分を発見できるものではなかった。未練は消えうせる。母親に出せなかった手紙を燃やそうとする。
ここに新たな自分探しのたびが始まるのだろう。後の作品にそれは表れている。
「無愁天使」は、まったく違った作風の作品である。
母親の入院のために節約生活をさせられる「私」。しかし母親がしに莫大な保険金が入ってくる。残された「私」、妹そして父親は、その金のために変わってしまう。物欲、というよりも金を使うだけの快感。家族はばらばらになる。家には買ってはつかわない物が満ち溢れる。
そこには満足するような幸せがなかった。保険金がそこをつく頃、「私」は体を売るようになる。そこでのあぶく銭は、やはり金を使う快感に過ぎない。莫大な金のために自分を見失うのである。
そんなとき「客」としての老人と知り合う。
性的なものは求めない老人は、「私」に話をさせる。仕方なく「私」は自分の過去を話す。会うたびに話をしているうちに「私」は自分を見つめるようになる。しかしそこには何の未来も見えない。「死」の影が。。。
愁うことも忘れて昼に遊びよるに遊ぶ無愁天使。行き着く先は死。
「私」は、老人と死のうとする。しかし死に切れずに逃げる。死から逃げたのはいいが、未来は見えない。しかし「私」は、必死に未来の自分を探そうとする。
自分の生き方を純粋に考えたとき、自分を捨てない道を誰でもが選ぼうとするだろう。しかし現実は純粋さだけでは生きられないところがある。
自分らしさ、自分を捨てなければ生きにくい世の中。自分を殺す中に新たな自分探しを模索する。
この葛藤は、若い人たちにもっとも強く存在するだろう。角田さんの作品はこれをまっすぐな目で表現をする。「自分探し」は後の作品も色濃く続いていく。そして「対岸の彼女」では、主婦という女性が現れる。自分探しはいつの年代でも続くものである。角田さんは、加齢とともにまたご自身の問題としてもこの自分探しをしていくのでしょうね。

                      2005年4月7日

                          夕螺





科学者が見つけた「人を惹きつける」文章方程式
                            講談社+α新書
               鎌田 浩毅  著
人を惹きつける名文といわれるものを科学的に分析した本で、あるサイトの検索に、銀色夏生さんの文章も引用しているとあったので買いました。
銀色夏生さんつながりで読みました。
鎌田さんは、多くの『文章読本』といわれる本を読んだが、それらは「文章の流れや全体のかもし出す雰囲気が名文の鍵である」(P、219)という結論であり、「これでは、名文は文章の達人にしかわからない」(同ページ)とし、名文とはどのようなものかを科学者の目を通してかいていきます。
それには科学的な方法を用います。
科学は、「理解できない現象にぶつかったとき、要素に分けて考える。」(同ページ)として、名文というものを「文章に使われていることばを分解していった」(同ページ)。
この分解作業は、恋・青春・食などなど、11の分野の名文をそれぞれにことば一つひとつに分解し分析する。恋ならば恋の文章には独特な法則性といったものを見つけ、なぜその名文が人をひきつけられるのかを書いていく。11のあらゆる分野の名文を同様な方法で書いていきます。
昔、科学的方法論というような文章を読んだことがあるが、たしかに漠然とした全体像を研究するには部分に分け詳細に研究するらしい。そしてその部分的に研究したものを改めて全体像に適用してその全体像を把握するらしい。鎌田さんの方法もこのようなものかと思う。
ここから名文といわれる文章の一つひとつの言葉を分析してひとつの『名文とはという全体像』に対する結論を出したものとおもわれる。
「ここには作者の綿密な計算がある。/名文の技術は、作者が読者にかける催眠術といってもよい。」(P、220)と。
「名文のキーワードは"催眠"である。」(P、221)
たしかに文章というのは、読者を想定し、自分の考えや思いを伝え、納得させるものであり、それには文章の技術的なものを駆使して書かれるだろう。それがプロというものであり、読者をなんとなく納得させてしまうことは催眠に似たものかもしれない。
しかしこれを結論とするならひとつの落とし穴がある。
極論的に書けば、悪意のある文章も『人をひきつける』ために催眠をかけるような名文である。人を催眠にかける名文を書くのである。だから人をだますことができる。
このような極論は問題外にしても、『人を惹きつける』名文は、広告ビラや選挙ビラなどなどにもあるのである。催眠をかけられるような。
社会の中には、無数の文章が氾濫している。このすべてを包括した広い意味での『人を惹きつける』、その気にさせ、納得させようとする催眠技術を使った名文としてみれば、この「名文のキーワードは"催眠"である」という結論は納得がいくのである。小説・詩・エッセイなど、文学作品だけではなく、社会に氾濫する主な分野での文章を研究したほうが鎌田さんの結論は生きるのではないかと思う。
たしかに小説・詩・エッセイなどの文芸作品も、社会の中に氾濫する文章のある一部の分野を形成しているのだから、鎌田さんの結論もあたってはいる。しかし文学作品というものは、特殊な領域であり、文学作品と一口に言っても長く、広く、時には何世代にもわたって読み続けられる。この中にある名文をただ催眠技術として結論出されると、僕としてはなんとなくうすっぺらなものにとらえてしまう。
「文章の流れや全体のかもし出す雰囲気が名文の鍵である」という言葉はたしかに抽象的だが、ここを基本としながらの言葉による表現の形が名文となるのではないか?「文章の流れや全体のかもし出す雰囲気が名文の鍵である」をはじめに否定される(あるいは軽視される)と、どうしてもうすっぺらな結論を感じてしまう。
文学作品には、作者の表現したいもの、登場人物の人間表現などが基本にある。名文というのは、作品全体を通して表現されるこの基本的なものがどのような言葉や文章として書き表されているのかに、よく書き表されているものが名文となるのではないか?だから、文学作品の中から名文を取り上げるときは、まず、作者の書き表そうとした主題をはっきりさせ、その主題になるものが上手く表現されているところを取り上げなくてはならない。
これが文学作品の中の名文の第一義的なものではないか。これを単語に分割しながら上手く表現されていることを説明することは大切だと思う。
しかし、文学作品の中には、この主題とはなれて派生した枝のような名文もある。
作品中に、ある地方の風景が描写されているとする。その描写の文章が読者に旅情を沸き立たせるなら、それも名文である。この名文は、作品上では枝葉の部分である。たしかにこの枝葉の部分を、それだけを取り上げて名文として紹介することも間違いではないが、これを文学作品の名文として取り上げるには、十分な説明が必要ではないか。鎌田さんの本は、どうもこの枝葉の部分を解析しているような気になる。夏休みの宿題の読書感想文に、その町の風景がきれいに書かれていたので行ってみたくなりましたというだけの感想文ではあまり高い点数は取れないと思う。
最後の章には、鎌田さんご自身の著書「火山はすごい」から引用されている。この本は、「火山学に興味を持ってもらうために書いた」(P、209)もので、主題は、鎌田さんが伝えたいものは、火山に興味を持ってもらうことにあるのだと思う。本来ならば、「専門学的なものをわかりやすく親しみやすく知ってもらう文章方程式」的なものなのだろうが、この主題から離れて「旅の文章方程式」となってしまう。これは鎌田さんの著書の枝葉的なものではないか?引用文にある阿蘇山の専門知識は、旅のガイドブックにも書いているのでは?
156ページには、漱石の「草枕」からの引用がされ、これを「知性の文章方程式」と紹介されている。たしかに漱石の文章はどの作品にも知性があふれている。その意味では知性を表す名文かもしれない。しかし主題は、不人情ではない非人情という主観を離れた美的な目を通してながめる男が描かれているのであり、引用された文章も、この非人情的な見方がどのように表現されているかが名文なのではないか。
こうみたときに、文学作品から名文を紹介するには、その視点の難しさがあるのではないかと思う。
鎌田さんの本はおもしろいです。しかしほとんどが文章の分析だけで終わり、どの視点で分析をするのかという説明が足りないのではないか?
だから「文章の流れや全体のかもし出す雰囲気が名文の鍵である」というようなものを否定されると、戸惑いを感じてしまうのである。

                     2005年4月11日 記

                             夕螺





古道具 中野商店
                              新潮社
               川上 弘美  著
中野商店は、古道具屋である。
骨董屋ではない。
だから数十万、数百万という高額の商品をきれいに並べてはいない。数百円か高くても数万円の商品が乱雑に所狭しと並び、仕入れは引越しで出たゴミの中のお宝的なものである。
古道具にそうは古い時代のものはない。数年前から数十年前のものであり、人の一世代ほど古いものである。そして古道具とは言え、職人が使い込んだ工具というものではなく、家庭用品や松田聖子の等身大パネルもお宝となる、そんな古道具である。
高価な骨董品は、ご隠居の手には触れるだろうが床の間に鎮座するような物である。古道具は、中野商店に持ち込まれるまでは、常に人々の手によって使われていた物であり、価値はなくても持ち主の心が触れていた物である。だから古道具には毎日を生きている人の温もりのようなものがある。
店主の中野さんは、こんな店に毛糸のショウチャン帽をかぶり座っている。歳は50歳少し前だろう。人間も50歳ともなれば立派な古道具の仲間入りである。主人公のヒトミは、30歳を過ぎこんな中野商店に勤める。社員は若いタケオと二人。そこへ50歳を過ぎた中野さんの姉マサヨさんが手伝いだか暇つぶしだかわからないままに通ってくる。ヒトミの周りの人間は、恋するタケオのほかは皆古道具となった人間ばかりである。ヒトミは古道具に囲まれ、やはり古道具となった人々を語っていく。そしてタケオとの恋を。。。
この作品は、川上さんらしく淡々と中野商店の毎日が描かれていく。古道具は、どんな人がどのようにその物を使ったかはわからないが、人の温もりのようなものが残っている。同じように中の商店の人々やそこに入ってくるさまざまな人の人生そのものはわからないが、人生の歴史というものからのなんともいえない情が漂う。中野さんは、どうも結婚をしているらしい。しかしその家族のことはまったくかかれない。姉のマサヨさんについても最小限であり、タケオは霧の中という感じで、ヒトミ自身も自分を語らない。まさに乱雑に並べられた古道具と同じように人々が並べられている。この淡々として毎日が流れるものを淡々と描いていく川上さんの筆のおもしろさがあると思う。
中野さんは骨董商のサキ子さんに恋をしている。不倫だろう。マサヨさんは、60歳を過ぎた丸山さんに恋をしている。あっけらかんとした性もある。一方では、ヒトミとタケオの若い恋と性がある。この世代の違う恋と性が絡み合っていく。
中野さんやマサヨさんという古道具は、世間ヅレをしているというのか「この世の中、こういうもんよ」的なものがあるし、サキ子さんの手記は露骨な性が書き綴られており、どことなくおやじやおばさんの猥談的なものを感じる。それに対してのヒトミの初々しい恋。30歳を過ぎてはいるが、古道具たちから見れば「女の子」の恋である。このへんの対比もおもしろいものがあります。
しかしこの世代の違う人々の恋と性とは対立したものではなく、恋と愛情とは何かを描いていく。
肉体的な性の後退とともに、反比例をする愛情を説くマサヨさん。年齢を重ねるということをどのようにとらえるかがある。「おっちんじゃう」(死んでしまう)が身近にもなっていく。もしかしたら老化というもののとらえ方は、男女間では違うかもしれない。ひょうひょうとしている男の中野さんと、姉のマサヨさんの違いも出ている。このような違いがあるにしても男も女も「おっちんじゃう」道をゆっくりと歩く。
こんな古道具の人間たちをヒトミはどう見ているのか。
30歳を過ぎたおばさんを感じ、「女の子」の恋の中にタケオへの得体の知れぬ愛情を見つけたのではないか。
ラストシーンは、今まで読んだ川上さんの作品にはないものがある。「おっちんじゃ」までの残りの時間を考えたときに、どのように変化するのかが見えるような気がした。いつまでも古道具屋のオヤジ中野さんでいて欲しいという気持ちが残るが、人の変化することは避けられないのである。
霧の中にいたタケオも変化をし、ヒトミも化粧をする。変化するのである。
変化する寂しさはあるが、変化の先にしか、というよりも時間の流れは変化自体なのであり、どうすることもできない。
この作品は、川上さんが40歳代半ばにさしかかろうとする時期のものだが、初期の作品とは違ったものがある。揺らぐ世界・人がなくなっている。
2000年から2005年の長い時間をかけて連載された作品であり、その中には2年ほど中断された時期がある。その時期に「センセイの鞄」が出版される。「センセイの鞄」の感想に、「干潟ー夢」には幻想的な川上さんの初期の作品のような章があるが、その中でツキコさんはその世界から抜け出して限りある時間の現実世界に帰ろうとすると書いたが、古道具の仲間入り間近の川上さんの変化が両作品に見られるのではないかと思う。
HPのトップの「ちんまりと」にも「40才頃」というものを少し書いたが、また、藤堂静子さんが50歳代に入ったエッセイ「窓をあければ」の感想にも書いたが、作家もその世代世代で変化をしていくものなのだろう。50歳に入ろうとしている今、川上さんが何を表現してくれるかが楽しみです。

                       2005年4月22日 記

                             夕螺








雨と夢のあとに
                             角川書店
               柳 美 里  著
小学6年生の少女雨は、昆虫写真の仕事で出かけた父朝晴を待つ。
いくら待っても帰らない父親。。。。
ある雨の夜、朝晴はびしょぬれになって帰ってくる。朝晴は、雨のために夕食を作り、久しぶりの親子での食事を食べる。
母親は出て行ってしまいいない。
死者は49日の間この世に魂が残るという。朝晴は、残した娘への思いから帰ってきた。この作品はこの49日間の物語である。
この49日間は、現実の中で過ごした二人の時間と永遠の別れである死との中間に位置する時間である。この49日という時間を雨と朝晴はどのような思いでどのように過ごしたか。そして永遠の別れをどのように受け止めたらよいのか、その孤独を描く。
雨は、少しづつ朝晴の死を気づいていくが、雨も朝晴もそのことには触れずに49日を過ごす。雨にとっては、このような姿になった朝晴でもいいから永遠にそばにいてほしいと思っただろう。しかしいつか訪れる孤独を予感する。
愛する者の死をどのように受け止めればよいのか、いや、受け止めようのない死からの孤独と悲しみをどのように受け止めればよいのか。そのむごい思いを小学6年生の少女が味あうのである。
同じ父親として朝晴の無念さがよくわかるからこそ雨という少女を思うとやるせなさを感じる。だから読み進むのが辛い作品でした。
柳さんの「あとがき」があります。
この作品は、3人の男性を思い描いて書かれたと解釈できます。癌で亡くなった東由多加さん、柳さんの読者であって自殺したらばるすさん(HN)、父親の名前として使われた村上朝晴さん。
作品中の朝張にこの三人がモデルとなったことは柳さんは否定されていますが、モデルとして朝晴という登場人物が出来上がったことではなくて、柳さんを愛した東さんや、らばるすさんという柳さんの作品をを愛した方の死をどうすることもできなかった(後悔も含め)ことへの柳さんの心が死をどう見つねたかを描いたのだと思います。
特に柳さんにとってかけがえのない男性である東さんへの思いは、東さんがなくなってからの時間の流れの中でも消えうせていません。
雨と朝晴は血のつながらないことが明らかになっていくが、雨と朝晴の年齢差が16歳であり、これは柳さんと東さんの年齢さもこのぐらいだったと思うが、作品を通して残された雨と柳さんがダブる。残された雨の孤独は柳さんの孤独でもあるのだろうと思う。その孤独が時間が過ぎ去った今でも柳さんにあるのだと思います。
この作品は物語り自体としてももちろん読むのにも辛い作品だが、東由多加やらばるすさんという実際にいた方を思い描きながら書かれたとするなら、そこになおのこと辛い思いで読みました。
ラストは、朝晴が「行こうか」という。
雨と朝晴は電車を乗り継ぎながら思い出の観覧車に乗る。そして雨はひとり残される。「行こうか」この言葉には観覧車の次に一緒に行くべきところがあるような気がする。「命4部作」にあるように柳さんも東さんと一緒に行こうと考えたように。。。。
柳さんのブログ(2005年4月)の記事は悲しいです。

                     2005年5月5日記

                         夕螺









ノ ラ や
                            中公文庫
               内田 百閨@ 著
70歳を過ぎた百閧ニ奥さんの二人の生活の中に野良猫のノラが入ってきます。飼うつもりもないままに「野良猫として飼う」と、餌をやりはじめるのですが、いつの間にか家にも入り込み、百閧煢ツ愛がりはじめます。
しかし1,2年のうちにサカリのついたノラは出て行ってしまう。
「ノラや。。。ノラや」と百閧ヘ探しますが帰ってこない。帰らないノラを思って涙は止まらずにまた「ノラや。。。ノラや」とノラを思います。
ノラが出て行ってしまってから数年たつと、ノラそっくりのクルツがやってきます。しかしこのクルツも5年ほどで病死をしてしまう。涙の止まらない百閨B。。。この作品は、こんなノラやクルツとの生活と「ノラや。。。ノラや」と捜し思う百閧フ日記や随筆です。
百閧ェ漱石の弟子であったことから思い出すのは、やはり漱石の「吾輩は猫である」であるが、「吾輩は猫である」の猫は、やはり野良猫で、クシャミ先生の「置いてやれ」の一言で住み込んでしまうのだが、名前も付けてもらえずに冷淡に扱われる。百閧熄奄゚は「野良猫のように飼う」ぐらいな冷淡に飼うつもりだったのでしょう。しかし百閧ヘクシャミ先生のように冷淡に飼う事ができなかった。
実際の漱石の飼い猫も名前がなかったように記憶するが、「吾輩は猫である」で一躍有名になり、さすがの漱石も絵に残したり、死んだときは会葬通知を出したと記憶している。しかし百閧フ場合は、ノラに寿司の出汁卵を食わしたり、ブランド銘柄か?の美味い牛乳しか飲まないノラにその牛乳をあつらえる。結局は冷淡に飼うことはできず、いなくなったら涙がぽろぽろと流しながら泣きくれる。
漱石の真似とは言わないが、猫などには冷淡にという気持ちとは裏腹にノラなしの生活は考えられないほどにノラにのめりこんでしまう。この百閧フ様子にユーモラスなものを感じるとともに、このユーモラスなところにある百閧フ温かみを感じられるのである。それはまた「吾輩は猫である」に通じるのだろう。猫との生活を描いているだけの随筆だが(この作品は、ノラにまつわる文章を集めたものであるから、百閧ニノラとの関係ばかりが目立つが実際は百閧フいろいろな生活があったはずだが)、そこに老夫婦の生活がのどかに描かれ、そんなのどかな生活の猫にまつわる悲しみは、人生の終わりを感じる老人の悲しさをも連想してしまうのである。
この人生の悲しさ。。。しかしそこにユーモアを感じさせてしまう百閧フ筆力は、百闢ニ特なものだろうと思う。川上弘美さんが、新潮文庫版「百鬼園随筆」の解説に、
「そこに寂寞があり、おかしみがあり、生と死をみはるかす目がうまれるのである」
と描いているが、まさに百閧フ作品を上手く表現していると思う。
百閧ヘいつも貧乏で借金に苦労したようである。人生の悲しいことをたくさん経験したのだろう。作品中にも、ノラの捜索願を新聞の折込に出すが、中にはひどい言葉を電話や手紙でよこした者もいたようで、老百閧フ心を傷つけたことと思う。しかしこんなことも人生であり、百閧ヘそんな人生を「おもしろみ」も感じる文章で書き、温かみを感じさせてくれる。
これが百閧スる百閧ネのだろう。。。。

                      2005年5月12日 記

                            夕螺








錆びる心
                           文春文庫
               桐野 夏生  著
表題作「錆びる心」ほか6編の短編集です。
心ほど不思議なものはない。
常に自分の意思によって手足を動かし、思考をして行動に移す。人はこれを当たり前のこととして毎日を過ごしているつもりである。たしかに概ね自分の意識は、外部に向って滞りなく行動に移しているはずである。概ねというのは、人は間違いや錯覚という意識と行動のずれを起こしながらも大体において日常はその意識によって適切な行動をしているということである。
人はこの意識と行動が一致している状態を自分の心の動きと思い込んでいる。自我としては、人格としては、この自分自身が意識している心の動きをとらえて言うのである。「自分はこういう人間だ」「これが自分の性格だ」。。。。と。
しかし心はそんなに単純なものではない。自分はこういう人間だと思っている意識する心は、すべての心の動きを表しているものではない。このことは日常の中には意識されないが、時より沸き起こるようなけっして自分ではないという心の動きに脅かされることがある。自分は考えたこともないという気持ちが現れてくることもある。心の奥底に隠れていたものが現れてくるのである。
普段この心の奥底から沸き起こってくるものは、そのふだんの自分と言う心によって否定されたり隠されたりし、ましてや行動には移さないものであるが、もしこの心の奥底のものが押さえられないままに、あるいは無意識のままに口に出たり行動に出たりしたら。。。。そこに怖さがあるだろう。「錆びる心」は、このような人の持つ心の奥底にあるものを表現し、それを抑えきれずに無意識に行動となって現れる怖さを描いている。
恋に対する妄想があり、自分自身が日常を送る現実と妄想の無意識性による現実からのずれ。記憶をともわない酒乱状態の自分自身への恐怖。自分が理想とする生活を手に入れるためにもっとも大切なものを失う「夢」というものへの憧憬の怖さ。オタク的な想像からうまれる自己顕示欲。そして自分自身が生きているあるいは生きてきた証のために人の心に傷を残すというエゴイズム。このように心の奥底から沸き起こるものを制御できずにあるいは無意識のうちに行動として現れることへの怖さと悲劇を表現している。
心の奥底にあるものはさまざまな形を持っているが、この作品に表現されているものは、殺意や暴力などというような犯罪につながるような極限的なものではなく、エゴイズムあるいは自意識の過剰というようなもので、普段何の問題も泣く生活しているうちに誰でもが陥るかの性のあるものである。だから怖いのである。大学の助教授や塾の講師、知的な女性教師、完璧な主婦。。。。社会的には尊敬されたりされる人々でもが陥っていく心のわななのである。、
恋は盲目。。。。恋をはじめあるときには心が支配される出来事は時々あるものである。このようなときに心の奥底にあるものが沸き起こるものでもある。誰でもが陥る可能性はあり、そこからの悲劇は身近なのである。
ここにこの作品に怖さを感じる。
心は自分では制御できないものであるこの怖さと不思議。。。

                     2005年5月24日 記

                            夕螺







いくつもの週末
                         集英社文庫
             江國 香織  著
ご主人との生活を描いたエッセイです。
恋人時代は、週末に会い、いつも週末だったらいいのにと思う江國さんですが、結婚後はいつも週末だったら二人は木っ端微塵だと書きます。結婚をしてしまえば会いたいという気持ちはなくなります。毎日会っているのですから。そして恋人同士の頃には見えなかったものがお互いに見えてくるものだと思います。
江國さんの「あとがき」によれば、このエッセイは結婚後2年が来ようとする時期から3年が来ようとする1年間の生活を描き、ご主人が何を書いてもいいとおっしゃったようで、江國さんが結婚という生活に慣れ初めてきた時期のご主人という「男」を見つめる目と結婚観が現れているのだと思います。
江國さんは、二人で生活することによってまったく違った目で世界を見ることができると書きますが、その二人の生活は「男」とであり、それも「自分用の男」でなければならない。同棲というものもありますが、結婚後に二人で暮らすというものには特別なものがあると思います。「男」であると同時に「夫」となる。この夫の部分の「男」を江國さんは見ているのではと思います。
サラリーマンである夫、毎晩帰宅が遅く、疲れて口数も少なく時には風呂も入らずに寝てしまう。ここには生活があり「夫」がいる。しかし週末は仕事をする夫から「男」にもドルのではないか?江國さんは、このいくつもの週末に見る男を描いているのかもしれない。
引き出しを開けたらなぜ閉めないのか、帰宅したら服を脱ぎっぱなしにすると、そのだらしなさを描き、野良猫が鳴いていればおなかがすいているんだと厳寒に駆け込みなんでもいいから餌を江國さんに用意させるような少年ぽさを描く。時には大喧嘩をして「夜遊び」に出てしまう江國さんもいれば、少し猫背で細身の男の腕にゴロニャンする江國さん。。。。
いくつもの週末はいくつもの夫という男を見る週末でもあります。
甘い生活と、時にはいつまで一緒にいるのかと深刻に書く江國さんですが、結婚後2,3年という一般的に見ても危険な時期を作家としての目で描いているのでしょう。
危うさが強い部分がありますが、経済的にも自立した一人の女性でもあり、作家という職業から自分自身の生き方や心を見つめる江國さんですから、この危機感は読者のはある意味で大きく受け止められると思います。
詩集「すみれの花の砂糖づけ」は結婚後もう少し時間が過ぎた時期の夫婦を描いていますが、その危うさももう少し深刻です。しかしその危機の中に江國さんの心の中の葛藤があるのでしょう。
夫婦というのは大なり小なりお互いに葛藤を持ちながら生活をしているものだと思います。江國さんの場合は作家という立場で生活があるわけであり、その目でその葛藤を描けます。それぞれに生活は違いがありますが、葛藤一般を妻の立場から感じ取れる作品だと思います。
出て行こうとする江國さんに
「一時の気の迷いでそんなことをしちゃいけない」と、夫。。。。
「結婚は恒久的な気の迷いだわ」と、江國さん。。。。
「そんなことはない」と言い張る夫。。。。
夫婦と言ってもいつも気持ちが一緒で同じ風景を同じように見ているわけでも感じているわけでもない。そこで江國さんは考える。
「でも、考えてみれば、ちがう風景は素敵だ。出会ったとき、人はお互いが持っているちがう風景に惹かれるのだ。」と。
ちがう人間だから喧嘩もするが、違う人間だからこそ惹かれあう。。。これが夫婦なのでしょう。

                        2005年6月3日 記

                                夕螺








風紋(上・下)
                         双葉文庫
                乃南 アサ  著
突然思いもよらぬ強い風が吹きすさび砂丘の砂は翻弄される。
翻弄されながらもその強い風が過ぎ去った後に風紋を残す。
高浜則子は、平凡な主婦である。家事の合間に見るテレビのワイドショーには殺された女が出ていた。一生を台無しにした犯人の男もバカで、殺された女もバカかも。。。。
数時間後には、則子自身がこのワイドショーの主人公になるなんて思いもよらずにテレビから離れた。
則子は薄れ行く意識の中で、高校生の娘真裕子にたのんでおいたキャベツの千切りをちゃんと作ったかを思う。。。。。
則子の体が冷たくなったなり死後硬直が始まる頃、真裕子は、千切りキャベツを作って帰ってこない母親則子を待つ。父親稔も姉の千種も帰らない。誰も帰らない孤独の中に一夜が明ける。二日後真裕子は先生に呼ばれてタクシーに乗せられる。着いた先は警察の霊安室だった。
松永香織は、幼い子供たちを抱いて呆然と男たちの動きを見ている。男たちは、夫である秀之の身辺のものを捜索している。ある刑事がテレビをつけた。小さな子が「あっ、パパだ!」と。逮捕された夫秀之だった。
ここから真裕子を中心とした高浜家と、香織を中心とした松永家に、強風が吹きすさび始める。
「風紋」は、このようにはじまった真裕子や香織にとっては思いもよらぬ出来事によりはじまり、警察の進藤を中心にした捜査、秀之の逮捕、新聞記者の建部を中心としたマスコミの動き、公判での検事速水の苦悩、そして判決という約2年間を描いていく。そしてこれらの人々がその二年という時間の中で語っていく。
この作品の特徴は、逮捕された秀之も殺された則子も何も語らない。秀之の言葉は、取調べと公判中の答えだけである。則子は殺される前の数時間を語るだけであり、まさに死人に口無しであり、生前の回想もない。主人公は、真裕子であり、副主人公は香織であり、この二人を中心とした加害者の家族と被害者の家族が描かれる。
この二人に突然訪れた不幸とは言い切りきれないほどの現実と、家族・家庭の崩壊という絶望。その飢えに彼女たちに吹きすさぶ世間というものの強い風。彼女たちにどのような強い風が吹きつけ、2年という時間の流れの中で結審というひとつの区切りとして風が過ぎ去った後に残る風紋とはどのようなものかを描いている。
彼女たちに吹きすさぶ強い風とは何か?
世間の風当たりである。
警察が被疑者や犠牲者の家庭の中に踏み込むのは仕方がないだろう。しかし警察が生活の中に踏み込む段階での聞き込みなどは、世間に知らしめすことともなる。
しかしこの警察の動きは、事件周辺の人間にとどまるが、マスコミは、知らせる責任と知る権利を基に大きく報道をする。あるときには正義も振りかざすだろう。そして一般市民にその影響を与える。
事件に関連した人々の中には正義感というものの名の下に話をする。井戸端会議の続きのような話を。
ここにきて世間の風は吹きすさぶのである。
香織は殺人犯の妻としてさらし者になる。子供が殺人犯の子として見られることを恐れる。親兄弟も殺人犯の親戚として世間にさらされる。
被害者の家族と言っても例外ではない。
「殺されるにはその理由が。。。。?」と。
痴情からの殺人。マスコミは則子と秀之の関係の特殊性から大きく取り上げる。そこに真裕子とその家族にも世間の風は強い。
乃南さんは、「犯人以外の人は、皆被害者となる」ということを書いているが、まさにこの世間の風が強く当たることにより被害者となるのである。
世間の烏合の衆は、変に正義感を発揮してひとつの事件を見る。しかし烏合の衆さながらにすぐに忘れる。残されるのは加害者の家族と被害者の家族の心の傷である。
時と場合によっては、犯罪者となったり被害者となる可能性はある。しかし同時に烏合の衆として人を傷つけれことともなりかねないことの怖さを強く感じる作品である。乃南さんは、警察や検察、弁護士を批判しない。一人の人間と生活しながら淡々と仕事としてかたずけていく。その仕事としてを批判はできないだろう。マスコミの一部の報道のやり方に批判はあるものの記者建部を暖かく描く。ようは世間という見えない人間の集まりの怖さなのである。被疑者の家族や犠牲者の家族をも苦しませるという犯罪は、目に見えない「世間」の犯罪なのである。
則子は何も語らない。
大人になりかけた真裕子が母親の則子の下着類を捨てようとしたら避妊具が出てきた。読者が母親という立場にいるならば、これをどのように受け止めるだろう。解剖での則子は全身をくまなく調べられる。則子の夫稔はその不倫を娘たちにも公にされる。父親そして母親。。。。何もかたらない則子の気持ちは。。。。
この作品は家族をも題材とされたものだろうと思う。
真裕子とその家族、香織とその家族に吹きすさんだ風は、先にも書いたように秀之への判決によりひとつの過ぎ去りを迎える。
そのときに真裕子と香織の心にどのような風紋を残したのだろうか?
香織は、すべてを忘れるために子供をも捨てる。それが自分にとって「風化」なのである。真裕子は、「風化」をさせないという。
これは加害者の家族と被害者の家族の違いでもあるだろうが、真裕子の純粋さに心打たれる。それが二つの家族の先行きを暗示する。
同時に、未来への時間の少ない香織と未来への時間を多く残す真裕子の違いとしてその風紋は違ってくる。
しかし真裕子の「風化させない」というものも、裁判では秀之への判決は出たが、このような事件を引き起こした母の則子こととなると何も分からないのである。母親は家族をどのように思っていたのか、夫を。。。。愛人として処理をされた秀之への思いがどのようなものであったか。真裕子にとっては何も解決をされていない。
僕としては、この辺が解決されなければ、「風紋」は完結しないと思う。真裕子の「風化」もないだろう。真裕子と則子の対話は避けられないだろる。乃南さんもだからこそ「風紋」の続編である「晩鐘」を書いたのではないかと期待したい。7年後のそれぞれの家族を見たいと思うし、真裕子と建部との関係も気になる。近いうちに「晩鐘」を読みたい。

                      2005年6月13日 記

                                 夕螺







百鬼園随筆
                            新潮文庫
                内田 百閨@ 著
百閧フ作品はまだ少ししか読んでいないが、どこからどのように読んだらよいのか、とらえどころがない。どうもひとつのテーマに沿ってまとめられるような作品ではなく、出版を意識してかかれてはいないのだろう。気の向いたときに心に浮かんできたものを雑誌に書き、ある程度まとまったらどんっと本にする。金に困ったら苦しみながら何かを書いていく。。。。こんな百閧この作品の中には見える。
「百鬼園随筆」もこのようにまとめられて出版されたものらしい。文庫の著者紹介を読むと、この時期の百閧ヘ、軍や法政大学の教師を務めており、様々な作品はその片手間のようなものだったからかもしれない。しかし、昭和9年からは教師もやめて文筆活動で食べていたようだが、その作風は変わってはいないのかもしれない。
「私の漱石と龍之介」も「ノラや」も長年の間に書き溜められたものからそのテーマに沿って後にまとめられて出版されたものであり、この出版自体も、百閧フ生前の間にどのように出版されたのかも僕には分からない。作品中に「闇汁粉」の話が出てくるが、僕にとっては、読む本、読む本の中の一つひとつの作品が闇汁粉である。おかしみもあれば落ち込みもあり、金の工面もあれば恐れもある。思いでもあれば、今現在の金の工面の話もある。随筆はもちろん、小説風にまあとめたものもある。ページをめくって箸にとってみたものは得体の知れないものであり、どのような味がするのか、この闇汁粉ごとき作品にびっくりするのである。
闇汁粉作家。。。。
この作品を読んでいると、離婚したような、奥さんとの生活もある。女の子のお子さんがいるようないないような。。。私生活の部分も闇の中。
今手に入る本で「内田百陂_」のような本があれば読んでみたいです。
百閧フ随筆は、臭い文学性もなくてある出来事を淡々と書き綴っていく。ただ事実を事実として淡々と語っていくだけなら、それだけなら何のおもしろみもないのかもしれない。百閧フ随筆のおもしろみは、短い文章ではあるが読み終わったときに何かかが心にぐさりと突き刺さるような読後感にある。
ある作品では、隣の老夫婦が殺され、その養子である青年が首吊り自殺をして発見される。そして警察が来て隣近所では様々な噂話がされる。ただこの事実だけを書き綴った作品である。百閧ヘ、その家の横を通って警察官を見たり、近所の噂話を聞く。その中になんともいえない不安感が漂い、読者をもその不安の中に落としこむ。この不安という漠然としたものをいろいろ長く説明的に書いたりしない中になおさら得体の知れない不安を読者は感じるのである。この同じ題材は、「冥途」の中だったか、にひとつの作品として出てくる。そこでは百閧ェ無意識ではあるがその老夫婦を自分が殺してしまったのではないかという不安感を描く。芥川龍之介との交友関係に、精神のバランスを心配するものがあるが、この作品自体にそれを強く感じ、百閧フ妄想の中での不安を感じるのである。
随筆では、高利貸からの借金の話が出てくる。これについても「冥途」だったか、その高利貸が関東大震災で死んでしまったら。。。。という百閧フ心情が書き表されている。心の中にある殺意さえ感じてしまうようなものがある。
ここにも自分という人間の不安定さや潜む恐ろしさを読者は感じるだろう。
新潮文庫版の「解説」は、川上弘美さんが書いている。
「日常というものは実は存外迷宮めいたものであって、百閧ヘそこのところをたんたんと描写した作家だったのだ」
と。
人は常に目の前の出来事に「常識的に」対処しているようではあるが、心の奥底は、そうは常識的ではないのである。そこに迷宮はある。その心の奥底が実際には常識ともなり、行動ともなっていくときがある。奇人変人とも言われるだろうが、人は何らかの性癖を持つものであり、それは常識の範囲内と思い込んでいるのだろうが、そうは自信をもてないのではないだろうか?
「間抜けの実在に関する文献」という作品があるが、何かしら人は間抜けなことをしでかしながら生きているのである。
百閧ヘ、常識と考える心の外皮を打ち破り、心の奥底をさらけ出す。心に「世間体」という鎧をつけて常識な行動を行っていることが現実なようで、奇人変人を笑うが、「世間」という外皮を取り払った中に真の現実があるのではないか。もちろんそこには理性というフィルターも散在するのではあるが、理性と世間の常識とは別なものである。
川上さんの作品もそうだが、ずれたりぶれたりと迷宮世界が本物であることが多いのである。

                          2005年6月29日 記

                             夕螺







つれづれノートM
(川のむこう)
                         角川文庫
               銀色 夏生  著
長女カンチは小学校を卒業。長男チャコは保育園を卒業。
そして家も庭もすべて出来上がり、夏生さんもひとつのものから卒業。。。
心の中の何かからも卒業。「つれづれ」も卒業。
4月17日(日)晴れ!と書かれたイラストで「つれづれノート」は終わります。
詩集「すみわたる夜空のような」は、「つれづれM」の中で、夏生さんが「おこもり」をするといって日記が中断している2月25日に出版されました。また、「すみわたる夜空のような」の前に出版された「保育園に絵をかいた」は、2004年11月25日に出版され、これは「つれづれM」の「おこもりに入る直前11月1日の日記に写真の色決めの最終段階を書いています。
夏生さんは、買い溜めた100冊ほどの本を読むために「おこもり」をすると書いていますが、このような経過を見ると、この時期に「すみわたる夜空のような」をまとめたのかもしれません。もちろん「保育園に絵をかいた」はほとんどが写真ですから、「すみわたる夜空のような」も同時進行させていて、ただ日記には書かれていないというだけかもしれません。しかし二つの作品の出版間隔を見ると「おこもり」の時期にまとめたと見るのが自然かもしれません。
もちろん、「すみわたる夜空のような」は過去の結婚生活を思い起こすようなものを感じさせる詩がありますし、その意味では「つれづれM」の中でもお二人の元夫を語るところがあり、「おこもり」にはいるだいぶ以前から考え思ったことを作品にしたということは間違いないと思います。
「つれづれM」と「すみわたる夜空のような」は二つ読んでこそ、夏生さんの心が少しはわかるのではないかと思います。
『「見上げると
 夜の広さ
 しんしんと降りそそぐ
 夜の深さ」
        (背表紙より引用)
夜の匂いに包まれて広い夜空に吸い込まれるような、深い孤独。しかしその夜空は、すみわたり、深い孤独も心までも澄みわたるような孤独かもしれない。
孤独というのは、裏を返せば自由ということである。
「まわりの広さに気づいたときに感じるなんともいえない自由」
                               (本の帯より引用)
夏生さんは孤独を感じる以上に自由を見ているのでしょう。』
と、僕は「すみわたる夜空のような」の感想を書きました。
『つれづれ14』でも、夏生さんは友だちとの別れやその距離をかき、相談できる友達は一人ともかいています。いろいろなところでの人間関係に思いをめぐらせています。もちろんお二人の素ご主人との別れも思い出しています。人間関係や婚姻関係の中での孤独は強そうです。
また世の中の動きを見つめます。夏生さんには珍しく政治的なものもあり、自然災害や犯罪、戦争や平和を考えます。この世の中の動きをさらっと少し悲観的に書いた本を紹介します。その中で生きていくことをそれも自分の生き方で生きていくことがどんなことかと考えます。ここにもある種の社会からの孤独があります。
この孤独の頂点が「おこもり」とも感じます。
この孤独の中から夏生さん自身がこれからの自分を見つめたとき、将来の子離れを意識し、出来上がった家と庭を考え、お金よりも大切なものを考え、健康と死を考え、あまり読まなかったジャンルの本を読み、考えます。
その中から、今この家に住み、家族がいて自然や田畑があり、流れていく時間の中に日常があることを確認していきます。人間関係は本物と言えるようなものは稀ではあるが、学校関係においては大切にし、人前で話しを上手くできたらと考えます。
ここに「自然体」の夏生さんを見る思いがあります。
「僕らはここでいつもお仕事
 ただ生きているっていうお仕事
 いろいろあるけど楽しいよ」
           (P、329詩「川のむこう」より一部引用)
今までの夏生さんは、心に浮かぶものを追い掛け回して生きていた部分があると思います。もちろんこれがあったからこそそれまでの銀色夏生でもありました。しかしこの心に浮かぶものを追い掛け回すことをやめて、日常に(ただ生きることに)楽しさを求めたとき、そこに自由が産まれるのではないかと思います。
自由を追求してきた夏生さん。。。。
ほんとの自由って?今それを考えている夏生さんがそこにいるのではないでしょうか?
その意味ではそれまでの銀色夏生も卒業なのかな?それはイコール「つれづれノート」の卒業に必然的につながると思うのです。

                    2005年7月4日 記

                        夕螺








パレード
                          平凡社
                川上 弘美  著
「物語を書きおえてしまった後、わたしはふと考えたりするわけです。」
「初夏のある日、ツキコさんとセンセイは、この本に書いてあるような日を過ごしたかもしれません。」
                       (以上「あとがき」より引用)
ツキコさんとセンセイの物語「センセイの鞄」は、年の離れたセンセイが死んでしまい空っぽのセンセイの鞄が一つツキコさんに残されます。センセイがいつも持ち歩いていた鞄、いろいろな物を入れていた鞄。。。。過ぎ去った時間はすべて過去となって消えてしまいます。
川上さんにとっても、「センセイの鞄」というひとつの物語がひとつの世界として思い出になってしまうのであり、その思い出としてセンセイやツキコさんを思い出すと書いています。
空っぽになった先生の鞄には思い出はいっぱい詰まっているのでしょうね。。。ツキコさんにも、そして川上さんにも。
ツキコさんとセンセイは、二人でソーメンをゆでます。
センセイは生姜をすったり、ねぎやミョウガをきざみ、茹でナスを作ったりしておいしそうな薬味を作ります。ツキコさんが茹で上がったそうめんを大雑把に器に入れようとしたら、センセイが丁寧に一口大にソーメンをつまんでまとめながら器にきれいに並べます。
満腹になったツキコさんとセンセイは昼寝。。。。
そんな「センセイの鞄」には書かれていなかったセンセイとツキコさんのある一日の時間がのどかに流れていきます。この雰囲気は「センセイの鞄」に描かれた同じ世界です。
川上さんは、「センセイの鞄」というひとつの作品を出版して、時間の流れの中にか異なり思い出となったこの作品をふと思い出し、センセイとツキコさんという二人の恋を思い出す。そしてそんな二人にこんな夏の一日もあったのだろうと空想したのでしょう。
これは、読者にも「センセイの鞄」という作品の余韻というものを与えてくれます。
しかし川上さんは、「センセイの鞄」という作品の余韻というものだけを思ったのではないでしょう。
川上さんにとってはすでに過去の時間に残された作品であり、ツキコさんにとっては死んでしまったセンセイも過去となってそこに過去の時間の中だけに残された人である。時間の流れ。。。。
残された空っぽの先生の鞄には、川上さんにとっては「センセイの鞄」という作品自体の思い出であり、ツキコさんにとってはセンセイの思い出だけなのである。そこには、時間が流れ去った後の今しか残っていないのである。
時間の流れという切なさがあります。
この時間の流れを意識したかのように、昼寝から覚めた先生は、ツキコさんの手を握って「昔の話をしてください」と言います。
ツキコさんは子供の頃を語り始めますが、この作品自体は、このツキコさんの昔の話が主として書かれます。ですからこの作品は、単に「センセイの鞄」の番外編というような作品ではなく、ツキコさんの昔話というものを題材としたひとつの独立した作品でもあります。70ページほどの挿絵の入った絵本のような本です。
しかし、独立した作品という中の主題こそが、先生の「昔の話をしてください」という言葉にある時間の流れなのだと思う。川上さんにとっての「センセイの鞄」の余韻、もしツキコさんが夏の日の一日を思い出したとしたらそのセンセイの余韻。読者にとってもセンセイが死んでしまったとういうラストシーンの余韻でもあり、その余韻を共通項としてはじめてこの「パレード」という作品のよさが理解できるのではないか。
もしこの作品を読んで、「センセイの鞄」の物語的な面での続編と期待したり、続編になぜ多くのツキコさんの思い出話だけなのか?と、そればかりを読んだとしたらこの作品は相当つまらないものとなるだろう。
ツキコさんの昔の話は、女の子同士のいじめを題材にし、ある日突然現れてツキコさんにくっついて歩く二人のというのか「天狗」が現れる、いじめられている同じクラスの女の子を見て病気になってしまう。ツキコさんはその女の子を救ってはあげられない。救ってあげたいけど自分もかわいいので何もできない。天狗は、ツキコさんの悲しいこんな気持ちによって病気になってしまうのだろう。
その女の子は、自分といると同じようにいじめられるから離れて歩いてもいいよと言う。ツキコさんは恥ずかしくなる。そんな元気な女の子を見た天狗も元気になっていく。
天狗というのは、心が大きく動いているときに現れるのかもしれない。そしてその心の動きが自分で制御できないところに現れるのだろう。女の子同士のいじめというのはひとつの題材でしょう。その題材からツキコさんの制御不能となった大きく揺れる心を書き表したのかもしれない。そして時間が過ぎていく間には大きな心の動きも過去になって天狗も消える。時間が過ぎる中に自分の心も落ち着き場所を取り戻し天狗も消えていくのかもしれない。
ツキコさんは、今では女の子の声も天狗の声も覚えていないという。
ツキコさんのお母さんにも天狗が付いていたという。いつごろまで付いていたのかと聞いたら「ひみつ」。。。
ツキコさんに天狗がいつまで付いたかはセンセイにも「ひみつ」。。。
ツキコさんにとっては、センセイと過ごす時間の中には天狗は必要なかったのかもしれない。心が揺れ動くような恋から日常の中にある幸せ感にはもう揺れ動く心はない。落ち着いた制御できる心にある。そして死んでしまったセンセイを思い出すことは、この心の動きはなお一層純化されるのだろう。
センセイは優しい声だったというのは覚えてはいるが具体的な声はもうどんなだったかは残っていないのである。
センセイは、ツキコさんに昔の話をしてというが、その中には、「私のほうが先に死んでしまいますよ。私も昔の話の中に生きるしかないのです」と言いたげです。
空っぽの鞄は、何もしゃべってはくれない。ツキコさんは、先生の優しい言葉を思い出すがその声自体は聞こえないのである。
しかしセンセイはツキコさんの心の中に多くのものを残したのです。同時に川上さんにとっても「センセイの鞄」という作品は忘れえぬ作品となったのでしょう。そんな作品だからこそ読者の心の中にも深い刻みを残すのです。
大げさな言葉の羅列ではなく、生きるの死ぬのというドラマなどはない恋。「パレード」の夏の日に一日を思い起こすような二人の恋と日常の生活。ここに心の穏やかさがあります。これを読まされたら、読者にも天狗は現れないでしょう。。。。
川上さんは、やはり「あとがき」の中で、
「作者も知らなかった。物語の背後にある世界。そんなものを思いながら、本書を作りました。」と書いている。
「センセイの鞄」を執筆した当時は、素敵な恋を描いたのかもしれない。しかしこの物語を川上さん自身が思い出として思い描いたとき、恋の物語としての二人の心の動きは当然にあるが、こうして思い出したときには、二人で酒を飲み、退屈なおデートをしたり、先生の部屋で過ごしたり、先生のなくなった奥さんの墓参りをしたり、そして「パレード」の中のように一緒見そうめんを食って昼寝をしたりという日常が背後にはあるのではないかと思う。過ぎ去った時間の中では思い出すことというものなどはこんなものである。
「センセイの鞄」の感想では、今まで読んだ作品のような不思議な世界が少なくなっていると書きましたが、ツキコさんと同じような天狗がいたというお母さんの「ひみつ」という言葉や、ゆき子さんの先生への「ひみつ」という言葉が川上さんの作風としても気になります。
川上さんの作品には、その不思議な世界に激しい心の動きが読み取れます。そのような作品に対して「センセイの鞄」の平凡さというのか日常性というのか。。。。心の激しさを感じさせないものがあります。
日常そのもののとらえ方でしょうか?作品上においても川上さんから天狗が消えたように思います。
どう解釈したらよいのか難しい作品でした。
だいぶ個人的な思い込みの多い感想となってしまい、的外れでは?という気持ちが離れません。いろいろな方の感想を時間があったら読ませていただこうとおもいまし、再読しながらもう一度考えたいです。

                     2005年7月15日 記

2005年7月18日 わかりにくい感想だったので多くを書き加えました。
(今度もそうは分かりやすいとはいえないけど。。。)
僕にはこれ以上に伝えることができません。


                             夕螺








白いへび眠る島
                           角川文庫
               三浦 しをん  著
拝島は本土から遠く海にへだてられた離島である。高校生の悟史は、夏休みを利用して夜の船で拝島に帰ってきた。船酔いのする悟史は港に降りるその足は重かった。。拝島の生活は、漁業を生業として船なしでは生活は考えられないものであった。そんな島に帰った悟史の拝島への心の重さを暗示する。
港には、悟史の同級生光市が出迎えに来ていた。光市はもうタバコもすい酒も飲む。漁師中間とは打ち解けて島の生活になじんでいる。
悟史と光市とは、拝島への思いは違う。そんな二人も同級生ということもあるが、強いもので結び合っている。それはしまの古くからの風習である「待念兄弟」として結び付けられていた。島では、長男同士だけが持念兄弟として持念石と呼ばれる割ると白ヘビのような模様のある石を対として持ち続けるのであり、そのことによって時には血のつながった兄弟よりもそのつながりは大きかった。
拝島は、この持念兄弟という風習に象徴されるような古くからの風習と宗教によってその共同体は維持されてきた。持念兄弟という結びつきを結べるのは長男だけというのも、島の中の「家」を代々継ぐこと役立ち、次男以下は島を出なければならないことにより、跡継ぎ問題と人口問題を解決してきた。
この拝島の風習と宗教上のものをまとめるのが荒垣神社であり、その神職を世襲する神宮家でもあった。
悟史が帰った夏の拝島は、この荒垣神社の13年に一度の大祭であり、神宮家の長男信一の神職継承の年でもあった。人口の少ない島だが活気が出ていた。
しかし、島ではやはり古くから言い伝えのある、島民はその名を呼ぶのもはばかり「あれ」と呼ぶものが出たといううわさが広まっていた。同時に、神宮家では、次男の荒太が友人という犬丸を連れて残っており、その神職継承にもうわさが出ていた。
悟史は、子供の頃から不思議なものを見たり感じ取ったりしていた。悟史はこのような島に不安を持つ。荒太も犬丸とともにこの不気味な不安を持つ。島は不気味さを持ちつつ大祭を迎えようとしていた。
この作品は、「あれ」が島を汚そうとすることに、悟史と光市、そして荒太と犬丸が立ち向かうという物語である。
作品的には、不思議な世界とそれに立ち向かうという読み物としてはおもしろい作品である。
その中に主題は何かを見ると、島を救ったのは、4人の青年の中でも不思議なものが見え、力を持つ悟史と荒太である。悟史は島の生活から離れたいと思い、荒田は神宮家の次男で島を出なければならない立場にあった。古い風習や宗教の中での生活から逃れようとする者とその風習や宗教から島を出なければならない者が島を救うこと。これは、島の風習や宗教を素朴に信じている人間でもなく、荒垣神社の神職を継承する真一でもないというところが皮肉である。島の風習や宗教による生活を当たり前と思っていたり、長男だから家を継ぐという当たり前のことから離れたところから見たときに島の危機がよく見えるということかもしれない。
荒神様という神様が出てくるが、この神様は人を直接に助けることはできずに、人と一緒になってその力を高めているようである。ここには、人自身の力で自分自身を助けていくというものが見える。
悟史は、拝島から出て行くときに考える。
「(光市とは)どんなに離れていても、二人は緩かにつながっていて、かつ、自由だ」「契約のいらない友愛、約束のいらない拘束、僕たちの自由なんて不完全で、だけど愛おしい形をしているのだろう」
自由というのは、その世界にどっぷりとつかってしまうのではなく、少し外から眺めたほうがより自由な見方ができ、神に感謝をしつつも、その力に妄信的に頼るのではなく、神の力や知恵を借りながら人はその力によってこの社会を守るのであり、それがまた人としての自由であるのかもしれない。
これが主題なのか?

                    2005年7月23日 記

                             夕螺







この本が、世界に存在することに
                      (株)メディアファクトリー
                角田 光代  著
生まれ育った小さな町の駅前通に、やはりちっちゃい本屋があった。
小学5年生頃だったか、初めて本を買ったのがこの本屋さんだった。たしか著者は忘れたが「十五少年漂流記」という本だと思う。それからしばらくは本も読まなかったが中学生になってからまたこの本屋へ行った。「タイムマシン」などSFものを買った。
本屋の奥にはおやじさん(中学生のころの僕にとってはおじいさんに見えた)おやじがむすっと座っていた。たぶん60歳近かっただろう。恐る恐る文庫本を持っておやじのところへ行くと、無愛想に受け取って茶色くて薄い小学館などと印刷された紙の袋に入れてくれる。ただ口から出る言葉らしきものは「100円。。。」ぐらいだった。町には何軒か本屋はあったが、どうもこの本屋が落ち着くようでそれ以来通いはじめた。立ち読みというものも初めて経験した。店はいつもすいていたから目立ったろうがおやじは黙って見ていた。
たしか岩波文庫で「漱石の「坊ちゃん」を買ったと思う。いくらかなと思い値段を調べたが値段がない。小遣いはいくらもないので困ってしまった。やはり恐る恐るおやじのところへ行って値段を聞いてみた。そしたらおやじがにこっとして、☆ひとつは50円、★ひとつはたしか10円と教えてくれた。昔(といっても値段表示になったのは10年か15年前かな?)岩波文庫はこの星のマークで値段を表示していた。おやじのにこっとする顔と「100円。。。」以外の初めての言葉を聞いた。
それからおやじに顔を覚えてもらったのではないかと得意になった。たった一言話ができるようになったのに得意になるとはおかしいが。。。。
とりあえずは店に行くと会釈ぐらいはするようになった。
これが僕のほんと本屋さん(おやじ)との出会いだった。あの本屋の様子を今でも頭の中に時々思い起こすことがある。素敵な本そのものとの出合いというよりも、本がたくさんあるあの匂いの素敵さと、本屋のおやじという本を介しての出会いであり、それはまた本との出会いをまた大きくさせてくれた。
衝撃的な本との出会いは、高校2年のときの国語教科書である。
そこには夏目漱石の「こころ」が載せられていた。たしか「先生の遺言」の部分だったと思う。先生の授業などはまったく聞いていなかった。教科書から目が離れなかった。さっそく本屋のおやじのところに行き文庫を買った。
国語の試験はまったくできなかった。申し訳ないと思うが、自分の生徒が授業を通じて衝撃的な本と出合ったとなれば喜んでくださっただろう。そして「こころ」の授業の最後に、先生は「なぜ先生が明治の世に殉死したか、わかりますか?あなた方の年齢ではわからないかもしれないけど、それは宿題でしょう」と言われた。
そう宿題。。。本を読むということは、何を感じ何を考えるかが宿題なのである。それは本の読み方なのであり、何かを感じ何かを考えさせられる本が優れた作品なのである。今思えばこう書けるのだが、その頃はただうなづいて先生の言葉を聞いていた。でも、本とは何かをわかりかけた年齢ではないかと思う。
それからしばらくして引越しをしたために、あのおやじのいる小さな本屋へは行かなくなったが、今でも素敵な本たちと出合う喜びは続いている。
鼻が利くというのだろうか?素敵な本たちに出合いはじめると、本屋に行っても本が「おいでおいで」とさそってくれるようにもなる。そんな本たちをレジに持っていきカバーをかけてもらい、喫茶店に入りペラペラとめくることは至福のときである。こんな幸せをあと何年続けられるだろう。。。。
死ぬまで!!(笑)
「この本が、世界に存在することに」
僕も感謝する。
この作品は、一人の女性(ひとつの短編だけは男性)と、本との出会いやかかわりを書いた短編集である。本を主題とした物語集である。
作家デビューした一人の男が思い出す街の小さな本屋さんの匂い。。。それは僕にとっての無口なおやじのいる本屋の匂いでもある。
人はそれぞれの人生をそれぞれに生きているが、何らかの形で本とは出合っているはずである。その形に違いはあるものの、本との歴史があるはずである。その本とのかかわりは、時には人生の思い出とダブルところがあるのかもしれない。
作品では、女性が恋をしたり同棲をしたり結婚をしたりするその時々の人生のひとコマにある本が現れる。その本がその後の人生を変えたりすることもある。一人の女性としてこの作品を読むとき、女性ならば僕以上にこの作品から考えさせられるものがあるだろう。もし本好きならば、過ぎ去った人生と過ぎ去っていった本たちに郷愁を感じると思う。
角田さんは、「あとがき」に書く。
「どのようにして出会い、どのようにして蜜月をすごし、どのように風変わりな関係であったかを。いつか機会があったら、あなたの話を聞かせてください。本とあなたの、個人的な交際の話を。」
と。。。。。。
きっとこの作品を読めば語りたくなると思いますよ。
そんなわけで、感想のはじめに僕なりのものを書いた。でも、これはこれまでの僕の人生を語ったわけではない。。。。
心の中に秘めながら心だけは本にうったえながら書いたつもりです。

                  2005年7月25日 記

                         夕螺