夕螺の読書ページへようこそっ!!
  2004年8月から2005年2月までに読んだ本です。

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こちらに収められた作品は、以下の本たちです。

「すみれの花の砂糖づけ」               江國香織
「偶然の祝福」                      小川洋子
「みどりの月」                       角田光代
「愛逢い月」                        篠田節子
「イサクのジョーク」                    銀色夏生
「群青の夜の羽毛布」                  山本文緒
「センセイの鞄」                      川上弘美
「ひそやかな結晶」                    小川洋子
「団欒」                           乃南アサ
「そして私は一人になった」               山本文緒
「黄色い卵はだれのもの」                丘紫真離
「エコノミカル・パレス」                  角田光代
「TUGUMI」                       よしもとばなな
「泣く大人」                         江國香織
「女たちのジハード」                   篠田節子
「オカルト」                         田口ランディ
「保育園に絵を描いた」                 銀色夏生
「肩ごしの恋人」                      唯川恵
「私の漱石と龍之介」                   内田百
「いとしい」                         川上弘美
「冥途」                           内田百
「つれづれノートL(庭を森のようにしたい)」     銀色夏生
                        (再読)
「柔らかな頬(上・下)」                  桐野夏生
「天使の梯子」                       村上由佳
「ゆっくりとさよならをとなえる」             川上弘美
「落花する夕方」                     江國香織









すみれの花の砂糖づけ
                          新潮文庫
             江國 香織  著
どこかすれ違った夫との冷たい関係と不倫の詩集。。。。一読するとこのような詩集です。
一緒に花火をするが夫はすぐに部屋に帰ってしまう。花火はいつも残ってしまうと。しかし、なぜか夏になると花火を買ってしまう。ある詩ではこのような夫との生活が6年続いているとかかれています。こんな生活の中で、バスタブに浸かっていると、ふと、あの人を思い出し、方角からすると斜め左方向にはあなたの住む家があるのだと思ってしまう。激しい性が描かれています。会うと家にいつも早めに帰る彼。リップクリームになって彼の妻のキスから彼を守りたいと。激しい彼の妻への嫉妬というものも描かれています。
しかし、この詩集が夫との不仲そして不倫、激しい性を描いているだけのものであるのかというとそうではありません。
詩集には、江國さんが子供の頃の記憶や両親とその家族を描いています。激しい性の衝動の中にあり不倫をしている自分の対比したときのある意味での純粋さのある妹。母親ではあるが、同じ「女」を意識させ、「女」として勝てないと思わされる母親。のろまな自分を見て眉間にしわを寄せるような厳しさのある父親。家族の生活は裕福であり、子供の江國さんにも幸せを十分に感じさせる家庭である。しかしどこかその中で家庭そのものに疎外感というようなものを感じる江國さんがある。
詩集に書かれた家族や家庭というものは普通なものであったのだろうが、江國さん自身の幼い頃からの成熟した目というのか、「解説」の言葉を借りれば「さわやかなニヒリスト」という目から見た江國さん自身の感受性が強く表現されている。
江國さんは「だれのものでもなかったわたし」と書く。
詩集に描かれた両親、これは幼い少女の江國さんの目を通した姿である。早熟さを感じる。その早熟さに江國さん自身は両親に対しても普通の子供のように甘えたりわがままを言ったりすることもなく、両親の巣の中にいつつも「わたしは両親のものではない」と思っていたのではないか。短編「「綿菓子」に出てくる少女が「わたしは結婚はしないで恋に生きる」というようなことをこと言いますが、このようなそう熟した人生観を感じます。
江國さんは、すみれの花の砂糖づけを食べるたびに少女に戻ると言う。その少女は、「だれのものでもなかったわたし」である。
詩集には、激しい性を描くと同時に胸が膨らみ始めた頃の江國さんも表現されたり、大人ではあるが少女であるというような江國さんが描かれている。この江國さんの少女という一面が「だれのものでもなかったわたし」を思い出させる。「妻」と言う縛られた言葉を嫌い、不倫相手の妻との優柔不断さを嫌う。大人の「女」の江國さんと「だれのものでもなかったわたし」という少女の江國さん。この両面を見つめる中での江國さん自身の心の中にある葛藤を感じます。
この江國さんの心の中にある葛藤のようなものが描かれていることにより、この詩集がただの不倫の詩という俗なものに感じられないものがあるのだと思います。
詩集は、「すみれの花の砂糖づけ」と「言葉はいつもあたしをいさましくする」という2編に分かれています。
後半の「言葉はいつもあたしをいさましくする」では、40歳に近づいた江國さんが出ています。夫との生活は続いているようですが、不倫相手とは別れたのか?夫との生活はあるにしても江國さんは孤独を言います。「だれのものでもなかったわたし」それは束縛もされない代わりに孤独でもあります。しかし江國さんは言います。100年たてば、わたしもあなた(夫)もあの人(男)もいなくなるのだと。


                    2004年8月2日 記

                     夕螺




偶然の祝福
                          角川文庫
              小川 洋子  著
7つの短編からなる短編集です。しかし一つひとつの短編が独立したものかというとそうではなく、主人公「私」は同じ人物であり、登場人物の中にも共通した人間が出てきます。
この短編が小川さん自身の体験を書いているのかどうかはわかりませんが、「偶然の祝福」というそのままの主題に沿ったエッセイのようにも読めます。
この文庫版のあとがきは、朝日新聞の「書評」に書かれた川上弘美さんの文が載っています。本が出されると必ず買う作家として紹介されていますし、小川作品の中では(2001年当時としては)、短編としては一番好きな作品だと書いています。
どこか不思議というのか、現実離れをしているというのか、その作風にはどことなく似ているところがあると思いますし、自分に降りかかる事柄に動じることもなくひょうひょうとした主人公も似ているのではないかと思います。とは言っても、小川さんには小川さん独特の世界があることは確かです。
まだこの1冊しか読んでいませんからこの1冊に限ってみたとき、この小川さん自身の世界がどこにあるのかと考えると、キリスト教的な奇跡・祝福を感じます。
作品自体には神が出てくるわけではありませんから作品自体に宗教的なものはありません。しかしこの世の中に生きている中での「偶然」の出来事の不思議。追い詰められた「私」にその偶然が助けてくれる(祝福される)不思議さ。これをなんとなく「この世には神がいるもんだ。奇跡が私を助けてくれた」というような時々僕たちも聞いたことのあるような話しとして読後感に残ります。
「キリコさんの失敗」に、「私」の母親として厳格なキリスト教者の母親が出てきますが、これもどことなくこの作品にキリスト教を感じてしまうのかもしれません。
また、「私」に起こる出来事はけして幸福な出来事ではありません。どちらかといえば不幸でさえあります。これもまた「試練」として感じ、その試練に対しての祝福を感じます。
この中に「私」が持つひょうひょうさがあるのではないかと感じました。
しかし逆に、小川さんの中にはこのキリスト教的な世界観から逃げるようなものも感じます。それは妻子ある男との不倫を描きますし、父親のいない子供とおもわれる子が出てきます。この男と子供はいくつかの短編の中に出てきます。男との出会いもひとつの短編として表現されます。これも偶然からの出来事として。
厳格なキリスト教者としての母親の冷たさと子供としての「私」を「キリコさんの失敗」では見ることができますし、キリスト教的な世界観に囲まれつつもどこかそこから自分という個人を切り離すようなものを感じるのです。葛藤といえば葛藤だと思います。
この自分自身を見つめることの唯一のものが小説家という「私」です。最後の短編「蘇生」には、父親のいないこと犬に囲まれ、小説家として生きていくことしかできない自分を見つめる一人の女性の精神状態と衝撃的とも言えるラストがあります。
ここにこの世の中に起きる偶然から降りかかると思われるものを受け止めざるを得ないというものがあります。そして小説家という自分が、これまでの人生の時間の流れからやはり「偶然」として出来上がってきたものであることを感じます。
「偶然」は「必然」の中にある。
一つひとつが偶然のように見えるがそこには必然性がある。
「必然」は「偶然」を通して貫徹される。
必然的であるようだが、それは今までの偶然を通して必然となる。
人と人との織り成す綾である。

                     2004年8月8日 記

                          夕螺




みどりの月
                              集英社文庫
                   角田 光代  著
「みどりの月」とその続編を思わせる「かかとのしたの空」が収められています。
角田さんの作品は、読み終わるとある種の「気持ち」が心に残るのですが、作品自体はとらえどころがないというのか、淡々と流れていきます。
「みどりの月」は、恋人と同居することになった主人公の女性が、いざ同居をはじめてみたら、そこにはあれた生活と戸籍上に残る妻とその恋人が同居しているという作品です。このこと事態は普通の同棲を考える主人公にしてみればすごい出来事です。しかし作品の中ではこれといって大きな出来事があるわけではなく、すさんだ生活と4人の人間の様子が描かれ、最後にはそのすさんだ生活を捨てて逃避ともいえるたびに出ようとするところで終わるというだけです。
「かかとのしたの空」は、「みどりの月」の主人公と恋人とが夫婦という形で現れ、長いアジアの旅を続けます。ここでも放浪ともいえる旅は大きな出来事ですが、作品はやはり大きな展開も見せずに主人公の見たものが淡々と流れていきます。
このように角田さんの作品は、刺激的な出来事を強調して進められるのではなく、その意味では「読み物」としての小説ではないと思います。読み終わったあとに残る「何か」を考えさせられる作品です。
ではこの「何か」が何なのかを見たとき、まだ2冊しか読んでいないので不確かですが、「これからはあるくのだ」でも言い知れぬ「不安・孤独」を感じますしたが、今回の二つの作品にもこの「不安・孤独」を強く感じます。
「みどりのつき」では、すさんだ生活の中にどっぷりと浸かってしまい、そこには未来というものがない。マンションや電化製品などの「豊かさ」は物質面ではあるが、精神的な豊かさがない。恋人の男は理由もなく仕事をやめる。それでもなんとなく親の援助で生きてはいける。男が愛してもいない戸籍上の妻と正式に離婚できないのもこのなんとなく生活できるためには必要である。なんとなくは生きているが、その中に自分がどこに存在しているのかの確信がなく、それが「不安・孤独」となる。
主人公の女性自身もすさんだ会社(社会)を感じる。主人公自身も周りの同居者や会社などの今おかれている状態を見たときにこの「不安・孤独」を感じる。
4人は当てもないけど「不安・孤独」を内に秘めながらなんとなく生活ができる状態を捨てて海外に旅立とうとする。
「かかとのしたの空」での夫婦としての若いカップルは、やはり男がいきなり会社を辞め、旅に出る。今まで溜め込んだ電化製品などを売りさばき二人はリュックひとつになって旅に出る。なんとなく生活できる状態を捨てる。しかし、この旅自体もやはりなんとなく生活できることでしかなかった。電化製品や便利な生活があるかないかの違いだけである。はじめこそ見知らぬ国に来た興奮はあったが、やはり待ち受けていたのはすさんだ生活であり、けして海外旅行に憧れて夢見るようなものではない。「不安・孤独」は付きまとう。
二つの作品に表れる恋人・夫はすさんだ生活に引き込まれゆく人間であり、戸籍上の妻や「かかとのしたの空」で現れる謎の女は、夫を引き込む女である。主人公は、この男と別れられない中にこの男にやはり引き込まれていく。
ここでは、主人公が否定をするすさんだ生活に自分でも引き込まれていく家庭の「不安・孤独」がある。
キーワードのように両作品中に何度か「場違い」という言葉が出てくるが、主人公のこれまでの人生が思い描いたように進まなかったことが書かれ、ほんとはこうではなかった、もっと違った場所にいるはずだったという現在の自分を「場違い」な場所にいるという。そして「場違い」だと思いつつもいつの間にかそこに引き込まれていく不安が表現されているのではないか。
これは、いいかげんなすさんだ生活をしている登場人物すべてが持っているものであり、すさんだ生活にならないまでも多くの若い人たちが心の奥底に持つ「不安・孤独」ではないのか。
角田さんは、このような若者に同情的なのかもしれない。見捨てないのだろう。
解説を読むと、この両作品のあとに「エコノミカル・パレス」という作品を書き、この作品を含めて3部作のようになっていると書いている。長い旅行から帰った二人には経済というものに包囲されるという。
得体の知れない「不安・孤独」これは経済という社会的な問題からなのかを暗示する。すさんだ生活も若者個人の努力不足であるというようなものではないことに同情的なのか?
近いうちに読みたいと思う。

                     2004年8月20日 記

                       夕螺



愛逢い月
                         集英社文庫
              篠田 節子  著
サスペンス・ホラーともいえる不思議なお話の短編集です。
篠田さんの作品ははじめて読みましたので、この作品以外がどのような作風なのかわかりません。「あとがき」には、幻想小説、恐怖小説に属するが、このジャンルに恋愛というのは「すこぶるふさわしいテーマでもある」と書いています。男女の甘い恋愛の裏側、というよりもその恋愛がこじれた形となると恐怖小説になり幻想的なものにもなる。これは実際の社会の中でも恋愛がらみの事件がたくさんありますし、人はそれを「バカなことを。。。。」と見ることが多いのですが、一歩間違えれば恋愛は人の精神を狂わせます。恋は盲目といいますが、純粋さの裏に潜む怪しい心が。
この短編集は、このような誰でもが間違えればおかしそうなそんな人間の持つ怖さをサスペンス風に書き表したものだと思います。まったくの架空の(現実離れをした)物語と感じられない中にこの短編集の怖さ・不思議さを引き立てているのではないかと思います。
「柔らかい手」は、妻を顧みないで仕事一筋の男が寝たきりになり妻の介護を受けるのですが、妻はこれでこの人は私だけのものになると、男を監禁状態のようにします。これは愛するという気持ちのもうひとつの怖い部分です。愛するがゆえに、男を自分のものに100%独占したいがゆえに異常な行動に女を駆り立てる。純粋に愛するがゆえに男を傷つけてしまう。この女性の異常心理をうまく表現した作品だと思います。
「38階の黄泉の国」は、夫以外の一度愛し合ったすでに死んでしまっている男の思いを残したまま死んだ女の物語です。思いだけがこの世に残り、昔愛した男と黄泉の世界で再会する。これ自体は美しい物語として書かれていますが、死後の永遠ともいえる二人の世界。。。。これはまた地獄となります。
恋愛や性から離れたところに成仏を感じさせます。
女性の激しい恋愛感情。これが思いとなってこの世に残る・・・・怖いです。
「あとがき」に、最後の短編「内助」は読者が現実の世界に戻ってもらうために長調にしたと書かれています。
「38階の黄泉の国」のラストで、二人は仕事(弁護士としての男の仕事を手伝う)をします。幽霊の二人にとってはまったくの無駄なものであるその仕事が終わったとき、二人は成仏できるのではというように表現されていますが、「内助」も男につくすことから離れたところに主人公の未来としての「生きる」が見えます。
恋愛という魔物に引き込まれて異常な心理状態にのめりこむ女性たちが描かれ、悲惨な結果になりますが、そこからどのように抜け出すのか。これもこの短編集の主題だと思います。
このように短編集は不思議で怖い物語集ですが、短編という書き方にもよると思うのですが、この不思議さや怖さを表現するものが文章としては足りない部分を感じ、どことなくストーリーを読ませるという印象が僕には残りました。しかし全体を読み通すと著者の書きたいものが伝わります。一つひとつの短編が時間を置いてばらばらにかかれそれを短編集としてまとめたものではないようです。この点がひとつのテーマを短編集として表現したのだということが伝わります。
「女たちのジハード」など長編を読みたい。

                  
                    2004年8月29日記

                        夕螺




イサクのジョーク
                         角川文庫
                    銀色 夏生  著
久しぶりの夏生さんの物語です。
クールなイサク。でもどこかホンワカした暖かさのある青年。少しツッパリ系のパスカル。お人よしのような優しいタカ。そこに高校では1,2を争う美人のユリ子が入り、高校卒業を間近にした4人のそれぞれの恋や日常、そして4人の5年後、そのまた5年後が描かれています。
「オレたちは知っている
 どんなにかたよりなく
 いきあたりばったりで
 その場限りであっても
 愛や恋や仲間たちと
 共にすごすよろこび」
       (背表紙から引用)
4人はなんとなく頼りない生活を送ります。高校を卒業した4人はそれぞれの道を歩きます。
イサクは恋をする。かわいらしい「ズキンをかぶったウーパールーパーのような女の子「いちこ(イチゴ)」、アパートの隣の部屋の秋津さん。
しかし最後にイサクの周りに残ったのは4人。どこかふらふらしていそうだが4人には変な友情を感じます。
この4人の友情は、夏生さんの詩の中にも出てきますし、「つれづれノート」の中にも「やよいちゃん」「エンドウ君」と離婚した夏生さんのちんまりした友情が出てきます。
ユリ子は、イサクに恋をしている。でもそれは友情との狭間であり、夏生さんの詩に見ることのできる。一歩前に出てしまったら友達という関係がなくなる。友情から一歩飛び出すことは大変だとありますが、この作品にも同じものが見えます。
友情や恋が複雑に絡まりながらも素敵な仲間たち。。。。うらやましいです。今の若い人たちはこんな素敵な関係をうまく作っているのかもしれませんね。
ユリ子のイサクへの思い。しかしイサクの中にあるのはユリ子への友情。ユリ子の電話でイサクは恋を考える。本物の恋ってなんだろうって。結末を読むと友情が恋に発展することが難しいけど、なんとなくだらだらとした友情でも仲間といういう男女関係の中でのものが一番だというような気がします。恋は恋にとどまらないで何かに変化をするとも書かれていますが、夫婦というものがそうであり、子供など家族というものをお互いに守っていくというそんな中間としての愛情に変化をします。イサクは子供を風呂に入れながら「わりと仲良くやっている」といいます。
仲間とともにすごすよろこび。。。。。
はじめの恋は大恋愛もあるでしょうが、案外その恋の発展はだらだらと育まれていくものではないかということを感じます。このだらだら感がこの作品のおもしろさです。文章の中に現れるジョーク、思わず笑ってしまうような会話、笑えるイラスト。。。。このようなものが一体となって夏生さんの世界が繰り広げられます。

                     2004年9月1日 記

                          夕螺

「『イサクのジョーク』発刊。これは、ずーっと以前、10年以上前に、『ロックンロール・ニューズメーカー』という雑誌に連載したもので、それを読み返していたら、下手なんだけど、なんか好きなんだなと思い、捨てきれずに、書き足してまとめた一冊。」
     (『つれづれノートM』川の向こう 168ページより引用)
1994年以上前に連載された作品ということになります。僕の感想としては、「みたくんと私」「ひょうたんから空」の続編のような感じとして読んだのですが、間違いでした。
「書き足して」という部分がどこなのかははっきりわかりませんが、たぶん、最後のほうの「5年後」というところから後か、少なくとも「10年後」という部分かと思います。

                    2005年10月31日 追記







群青の夜の羽毛布
                             幻灯舎文庫
             山本 文緒  著
さとるは、妹みつるとしつけの厳しい母親との3人暮らしか。父親はいないが幸せに暮らす母娘がいる。
しかしこの作品の冒頭には、カウンセリングを受けて話をしている男がいる。
家事を行うさとるは鉄男という恋人と出会い、家族にも紹介をすることになる。鉄男は家族に温かく迎えられる。ここにも幸せそうな母娘の姿がある。
しかしはじめの章の終わりには、紹介した鉄男をか、門限に遅れなかったことに帰ってから母親や妹に「合格?」と明るく聞くがその返事は冷たく無い。
カウンセリングを受ける謎の男、幸せそうな中にある冷たさ。読者は「あれ?」と思う。
この作品は、サスペンス調に書かれていますのであらすじなどは控えたほうがいいと思いますが、読み続けるうちに読者の「あれ?」というものが明らかになっていく。
父親がやっとの思いで購入した「家族の幸せ」の象徴とも言える家は、バスの弁も無いあえぎながら坂道を登った高台にある。さとるは、重い買い物袋を持って息を切らせながら登っていく。恋人鉄男はこの坂にたじろぎ車でないとさとるの家に訪問できない。きついこの坂道の風景は何度となく現れ、「家族の幸せ」という家に帰る人々はあえぎながら帰っていく。この風景こそがまたこの作品を象徴しているのではないか。
次第にこのあえぎの声が大きく聞こえてくる。「家族の幸せ」を守ることにそれぞれの人々はあえいでいる。本来は家族の安らぎの場である家は、あえぎながら上らなければならない所にあり、それと同じようにそれぞれの人々は、本来安らぎのあるはずの家族を守るためにあえいでいる。
それでもこの家族には幸せなときがあった。父親が運転をする車で家族で行った海。そして何よりも父親が課長に昇進をしてやっと買い求めた家。しかしどこでどう間違ってしまったのか。この幸せはもろくも崩れる。家族はお互いに依存しながら生きているが、そのことは当たり前のことである。この依存し合うことはひとつの家族への期待でもある。母親は父親への家を持つことへに依存・期待があり、頭のよい娘のへの期待がある。そしてしっかりとした職業に就くことにより「結婚をしなくてもよい女」という自分にできなかったことを娘にある意味では依存する。母親がこの自身の依存・期待を裏切られる中にヒステリックになり、家庭の中での冷たさが表れているように読める。
父親は、片道2時間の通勤の末にあえぎながら坂道を登って帰宅をする。そこには妻の優しさを求めただろう。それが男の妻への依存・期待である。悟ると恋人鉄男のせいの描写が描かれているが、この鉄男は、ある意味では若き日の父親の象徴かもしれない。鉄男は母親とも一晩を過ごしてしまうが、なぜあのようになったかがわからない。ここに男の甘えたいというようなものが見られ、父親の妻への依存・期待が見える。何も性だけではないが、安らぎをを求める。
娘は、「好きなお父さん」に依存・期待をし、優しい母親に依存・期待する。カウンセリングを受ける謎の男は言う。「でも、もっと底なしの井戸みたいな感じです。喪失感?ああ、それに近いかな」
これらのそれぞれの家族が依存・期待を裏切られていく。もちろん誰が悪いという問題ではなく歯車が狂っていくのである。この中でそれどれが疲れきっていく。
この家族は、最後に修羅場を迎える。
修羅場という最後の大きな波が引いたときに何か温かさを感じる。
この暖かさは、
「帰ろう。
 けれど、どこへ。
 どこへ帰ろうか。
 家に。家族の待つ、自分の家に。」
というさとるの言葉にある。
この言葉は、最後の修羅場を迎える前のさとるの言葉であるが、僕の読後感として残る言葉はこの言葉でした。
しかしこの帰る家に幸福が必ずあるとは読めない。未来への新たな不安を抱えたままでの一瞬の静けさかもしれない。

                   2004年9月6日 記

                      夕螺



センセイの鞄
                         文春文庫
           川上 弘美  著
ツキコさんとセンセイの再会から別れまでの物語です。
これといって大きな出来事が起きるわけでもなく、ツキコさんとセンセイはゆっくりした時間の中で酒を飲みゆったりと話をする。
この作品は、「月と電池」から最後の「センセイの鞄」まで、季節を感じるように17のお話が続きます。そのどのお話の中でも、ツキコさんとセンセイは酒を飲み話しをする。はじめは月刊誌で1年7ヶ月の間に連載されたもののようですが、その意味では、ツキコさんとセンセイのゆったりとした時間をそれぞれの物語として独立された作品として描いたようにも感じます。しかし、物語の発展はないようなのですが、ツキコさんとセンセイの心の動きが絶妙に表現されています。この心の動きこそがこの作品の物語性といえるのかも知れません。
教師と教え子という二人が一緒に飲める楽しさ、飲み友達としてもお互いを知り始めたことによる情、寂しさの中にお互いを求める人恋しさ、嫉妬、そして愛情に気付きます。この心の動きの変化からの愛情に若いツキコさんと老いたセンセイの性が表現されます。
ツキコさんは足を怪我をして先生を必要と思う。同時に先生が風邪を引いて寝込んだ姿につき古参は先生の寂しさを思う。この中に物悲しくも人の心の温かいものを求める人恋しさを必要な人を感じます。先生たちの集まる花見でツキコさんは同級生の男に誘われる。先生は元同僚女性教師に親しげである。ここにお互いの嫉妬があります。ツキコさんは、飄々としているセンセイに対して「期待は厳禁。。。」としながらもその愛情を高めていきます。それに応えないような先生も、ツキコさんを連れて元妻の墓に行く。先生は長く墓に手を合わせる。ここに先生の気持ちは整理されて愛情をツキコさんに向けることができ、不器用に「デートしませんか」とツキコさんを誘う。
この辺の心の動きが作品全体を暖かくさせ、ゆったりした時間を読者も共有できるのではないかと思います。
ツキコさんは、花見で再会した同級生に誘われる。ツキコさんもまんざらではない。もしかしたらツキコさんはその男と幸せな結婚生活ができたかもしれない。そんな迷いがツキコさんにもあったのかもしれない。しかしその男とのキスは握手と変わりないものだった。そんなツキコさんの気持ちにぐっと来ます。愛情を確かめ合った「正式なおつきあい」(先生の言葉)は3年で終わる。愛し合っている者同士の中で、死という別れほど悲しいものはない。どんなひどい別れでも生きていればいつの日か「元気だった?」と言葉を交わすことができる可能性はある。しかし死はこの可能性は0とする。先生の遺品である先生の鞄を開けたら中は空間だけだった。。。。悲しいです。ツキコさんは心の中で先生の声を聞こうとする。悲しいです。でも、ツキコさんの心の中、そして詠み終わった読者の心の中は暖かいです。
川上さんの作品は、まだ数冊しか読んでいませんが、今まで読んだ作品と「センセイの鞄」の違いというものを感じます。
「溺レる」をはじめ、男女間の愛を描いたものがありますが、ここでは生きた人間とした男ではなく、どこか生きているのか死んでいるのかわからないもやのかかった性の対象であるというような「男」しか出てこなかったような気がいます。「センセイの鞄」でのセンセイは生きていますね。
作品全体も不思議な世界という感じがあまりしません。ツキコさんはちゃんと生きていますし、センセイも生きている。
「キノコ狩 その2」の中でツキコさんは言う。
「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」
ツキコさん自信、先生をきれいにたたんでしまっておこうという独占欲のような表現もありますし、「干潟ー夢」では幻想的な世界が広がります」センセイはこの世界を好み時々来るといいます。そして境の世界だといいます。現実の生きている世界と死の世界や無機質な世界の境かもしれない。そこでは、ツキコさんとセンセイは永遠に湧き出るカップ酒を飲み永遠の命があるのかもしれない。しかしツキコさんは、現実の世界に帰りたいという。3年の「正式なおつきあい」の時間の中に。川上さんの今までの作品は、この永遠ともいえる無機質な時間の中に人をおいたように感じる。このようなものを上のツキコさんの言葉として表現をしていると読むのは飛躍でしょうか?

                   2004年9月13日 記

                       夕螺



密やかな結晶
                         講談社文庫
               小川 洋子  著
小説家の主人公の「私」が住む島は、物が次から次へと消えていく閉鎖された島です。島の外とを結ぶフェリーもすでに消滅をしてしまいました。
物が消滅をするだけではなく、人の記憶からもその消滅した物自体が消え去ります。たとえば、ライターというものが消滅をすれば、人々の記憶からもそのライターというそのものが消え、ライターという言葉自体も消え去ります。
しかしこの島の中においては特殊な遺伝子を持つ人々があり、その人々には消滅をした物の記憶が残ります。これらの人々を捕らえていくのが秘密警察です。「私」の母親もこの特別な遺伝子を持つ人であり、消滅をしたものを隠し持ち、思い出を語るために秘密警察に捕らわれ死亡をします。
作品は、最初から最後まで、この物の消滅と、記憶の消滅。そして記憶を持つ人々が捕らわれていくことが語られていきます。SF的なサスペンスといった感じがあります。
消滅は、バラの花が消滅をすると川に花びらが流れ、海に消えて行きます。これは自然的な消滅といってよい消滅です。しかしすべてのバラが自然に消滅をするのではなく、人々の育てたバラは人々によって花びらが川に流されます。隠し持つ人には残ります。そこで秘密警察が来てバラを消滅をさせて持ち主を捕らえます。この意味ではバラの消滅は自然的でもあり人的でもあります。
今消滅と人々の記憶の消滅がなぜ起きるのかも含め、最後までそれは謎のままで終わります。その点では、この作品はSF的なサスペンスといった読み物としては読めないような気がします。
「解説」を読むと、小川さんは、この作品のあとにドイツのユダヤ人収容所を訪れたそうです。
2年ほど前に、映画「戦場のピアニスト」のシナリオ本と、主人公のスピルマンの回想録を読みましたが、この小川さんの作品の雰囲気は、たしかに「戦場のピアニスト」にも書かれた雰囲気と同じものを僕も感じました。この作品は、小川さんがある程度はユダヤ人の収容所を島という形で意識して書かれたものかもしれません。
ガス室に送られるユダヤ人とレジスタンス運動。記憶を消し去られる人々と記憶をとどめるという意味でのレジスタンス。このように読むのは飛躍かもしれませんが、どこか意識した作品ではないでしょうか?
島の中でのものの消滅が、自然的でもあり、秘密警察の人的でもあると書きましたが、この自然的なものを宗教的に見ると神の与えた試練となります。その試練を具現化するのが秘密警察。ユダヤ人への迫害が神からの試練と宗教的にとらえてはならないと思うのですが、そこまで読むのは飛躍しすぎかと思います。しかし、作品の物の消滅の自然性と人為的なものがどうもしっくりときません。
物の消滅がどのような理由からかは、作品自体が明らかにしていないので深読みはいけません。
この理由はそのままにして作品の中に残るものは、打ちひしがれた運命をそのままに受け取ろうという人々の姿です。主人公の「私」は、小説を書きます。その中での主人公は、タイプの先生である男に言葉を奪われ時計塔の中に幽閉状態になります。その主人公は、積極的に助けを求めずに男のするがままになる。これと同じように、島に住む「私」もなすがままになる。両方ともに自分の力が及ばないものに対して消えていくそんな打ちひしがれたものを感じます。
しかしなんとなく消えてしまいゆく美しささえ感じます。
秘密警察も消えて生きます。そのとき「私」は、記憶を残しているかくまっていた男に言います。帰国を残すあなたたちはもう隠し部屋から出ても大丈夫だと。なんとなく私たちは消えていきますが、残されたあなたたちはこの島をまた生まれ変わらせてくださいねと言っているようです。ガス室に消えていったユダヤ人の方々も、生き残った人々やレジスタンスの人々にそのように声をかけたかったでしょう。
打ちひしがれた人々の心の中に残る唯一の希望ではないでしょうか?
僕がこの作品から受ける感想と唯一の温かみは、このようなものでした。
このような読後感を抱かされるような作品が小川さんの作品の特徴かもしれません。

                     2004年10月3日 記

                    夕螺






団 欒
                        新潮文庫
              乃南 アサ  著
「団欒」をはじめ、5つの家族を描いた短編集です。
「家族なんだから。。。」
しかしこの「家族」という言葉に現される人の集団の不思議さ、他人から見たらどこか変なところも、あるときには怖ささえ感じるこの人の集団。これをサスペンス調に極端に描いた作品です。
死体を車で連れてくる長男、家の中では子供に戻る若い夫婦、家族なんだからと歯ブラシを共用して婿と風呂に入る姑。。。。など。
暗鬼」では、自身の家族を特別な家族として近親相姦なまでに走る家族が描かれていますが、このような家族という閉鎖された中での人間の集団の異常性が描かれていましたが、この短編集も基本的には同じです。
この意味では「普通の家族」を描いた作品とはいえないかもしれません。しかし、「ルール」では、長男の清潔感や母親の「きちんと、きちんと」という潔癖症から、家族の中にルールが増えていき、外で社会のルールに疲れきっている父親の「家に帰ったときぐらいルールはいいじゃないか」というものを無視してルールはエスカレートしていきます。この父親は悲惨です。家族という閉鎖された小さな人間集団だからこそそのルールはこの父親にとっては悲惨なものになります。
一方「ママは何でも知っている」では、外では厳格な父親が家庭に帰ると「家族なんだから。。。」と家族の人々の中にはプライベートはなくなり、婿養子にもそれを「家族の一員になったのだから」と強要していきます。
ルールでお互いを縛る家族、縛らないがプライベートまでをも共有してしまうことにより息苦しくなってしまう家族。これを作品では極端に描いていますが、案外このようなことは小さいながらもそれぞれの家庭の中にもあるのではないかと考えてしまいます。
このように作品自体は極端な家族を描きますが、その底にある家族という人間集団の不思議さを思い描くことができるのではないかと思います。
乃南アサさんの文章の力はすごいと思います。短編でもそのストリー展開に目は釘付けです。どんどん読み進んでしまいます。読み進むとその極端さに現実離れを感じますが、どこか「これもあなたの家族や家族の人々の心の中にある現実かもしれませんよ」と語りかけられる思いが残ります。
家族といってもその現実は絵に描いたような奇麗事では片付けられないものがあるのではないでしょうか?それをぐさっと突いてくるのがこの短編集なのではないでしょうか?
少なくとも他人には見せない人の一面を家族という閉鎖された中に現れることはたしかでしょう。

               2004年10月14日 記

                         夕螺




そして私は一人になった
                      幻灯舎文庫
                   山本 文緒 著
1996年の一年間の日記です。また、この文庫版では書き下ろしで「4年後の私」として2000年4月の1ヶ月間の日記が加えられています。山本さんは日記を中学生から書き続けているようです。しかしその日記はまったくのプライベートのものでご自身しか読まない日記だそうです。ですからこの「そして私は一人になった」は、出版目的に新たにかかれたもののようです。
少女文学から一般の小説に転進した山本さんが、やっとある程度作家として認められるようになった頃の山本さんの日常が描かれています。作家の日記ですから作家としての生活も書かれていますが、離婚をして一人暮らしになった心境をはじめ、ご家族や友人の方々、出版関係者との親交を楽しく書いています。また、日常の中でのおばさんぶり(笑)ーー山本さん、ごめんなさい(笑)−−
「解説」の中に、なぜ「『そして』私は一人になった」なのだろうという自問がかかれています。「そして」というのは、時間の経過がありその時間の流れの中に山本さんが生きてきたということであり、この作品に書かれているある意味ではのほほんとした山本さんも離婚や少女文学からの転進、そして作品を生み出すに当たっての苦しみがあったはずです。のんきで豊かな生活の裏にこのような山本さんのご苦労があったのですね。
同じように自由な一人暮らしの裏にある生活面や女性としての寂しさも書かれています。いろいろな方と酒を飲みながらもその裏にある寂しさ。作家というものを外からその生活を想像すると、華やかな面ばかりを見てしまうことがありますが、私生活においても職業としてもそんなに甘いものではないですね。
でも、山本さんは、作家になりたいと思ったのは作家になってからと書いています。やはり心の中に湧き出るものを書きたい、職業的にも誰からも縛られずに時間を自由に使える、そんな作家生活を楽しんでいらっしゃいます。
9号のスカートをはくことに対しては体重を気にしながら酒を飲み、部屋の中の荷物が増えることを気にしながらも流行の洋服には目がない山本さん、自己問答をしながら楽しく生きていらっしゃいます。
「4年後の私」では、売れっ子作家になった山本さんが出てきます。執筆活動が増えています。その中でも生活のペースも変わらずに。。。。。この作品が出版されてからまた4年が過ぎました。そのまた4年後の私』を読みたいです。。。。。

                2004年10月18日 記

                        夕螺






黄色い卵は誰のもの?
                         幻灯舎
               丘紫 真離  著
「この丘紫真離さんみたいな人が、生まれながらの物語作家というんじゃないかと思います。クモがお尻から糸をスースーとだすように、これからもいろんなおはなしをかいて、みせてほしいです。」
(銀色夏生さんの帯の推薦文より)
この作品は、中学生の女の子が突然じい様鳥から「タコトリの卵」(これが黄色い卵)を預かってしまい、卵泥棒から盗まれないように、また他の人からは気付かれないように守る1週間を日記風に書いています。なんとなく絵本でも読む感覚で読めます。丘紫さん自身も中学生(執筆当時)ですので、作品の中身をとしてはやはり中学生らしい中身といえます。
主人公斉藤真離(これは丘紫さんの本名)が日記を書きながら1週間の出来事を書いているのですが、その中に天才犬や学校の先生、蛸の王様の吸盤、卵泥棒など、多くの登場人物も日記という形で心情を書いています。ですから一人称ではないので多くの登場人物の個性が現されているのではないかと思います。これが作品を奥深くしています。
登場人物の主な人物に語らせるという技巧は、今まで読んだほかの作家では、北村薫さんの「時3部作」や、江國さんの「神様のボート」などが印象的ですが、中学生の著者としては、この技法を無意識にしろ上手く使っているのではないかと思います。
また、タコトリは、黄色い卵から蛸の足が2本出ている卵ですが、この蛸の足が出ているという発想はおもしろいし、なかなか出てこない発想ではないでしょうか?このようなおもしろい発想がいくつかあります。
そして何よりも大人が読んでもそのストーリー展開に思わず読み込んでしまいます。
銀色夏生さんは、初期の本に短い冒険小説のようなものを書いていますが、それはどことなく単純(悪い意味ではない)で、このような作品を書いていた夏生さんですから、丘紫さんの作品を注目したことがうなづけます。
丘紫さんがこれから、友達が増え恋をし、もっと広い社会に出て行ったとき、どのような作品を書くのか楽しみです。作家は生まれ育った環境に強く影響されますが、社会からも強い影響を受けます。その意味では丘紫さんがどのような作品を生むかは未知数でしょう。しかし、同時に作家の条件としては独創性が必要です。この処女作で見せたおもしろい発想を大切にしてもらいたいと思います。

                 2004年10月23日記

                        夕螺





エコノミカル・パレス
                                講談社
              角田 光代  著
先の読みました「みどりの月」と、同じ文庫に収められた「かかとのしたの空」の続編といわれる作品です。
『みどりの月』では、結婚をした直後に夫が仕事を辞め、そのうえカップルの同居人までいる生活を描き、家事も何もせずにただ生きているような生活がありました。このような人々が「かかとの下の空」では、すべての家財を売り払ってアジアの国々を放浪します。
「エコノミカル・パレス」は、この人々が帰国をし、年齢も30歳半ばになります。
相変わらずのバイト生活、内縁の夫はやはり「魂を感じない」仕事をやめて失業します。失業保険を頼りにするも保険金が出るまでには3ヶ月かかる。悲惨な経済状況に陥る二人。そこにまたしてもカップルの居候が。。。。。
主人公の「私」は働きます。雑文書き、レストラン。
レストランのバイトから帰ろうとすると内縁の夫から形態に電話があり、夕食のコンビニでの買出しを頼まれます。居候が来てからはその人たちのメニューも。その上発泡酒。先の見えない生活とそれ以上にその日暮らしの生活。悪いことは重なるものでクーラーの故障からサラリーマン金融に。
内縁の夫は、大学を出たインテリ。しかしこの夫の理想とする職業はなくて頭に描いた理想を追う。バイトを探すがない。
「私」は、逃げようとすれば逃げられるが、ある意味では夫はアジアを一緒に放浪した運命共同体な様な存在で離れられないのだろう。また、「私」自身も今ある生活から抜け出す気力がない。
結局は、二人はアジアでの放浪と同じよう日本という国の中で放浪をしているのである。アジアは貧しさゆえに二人の放浪は物のない不潔な旅であった。にほんでは物があふれている中での貧困である。しかし、アジアでは二人は好きな場所に移動する自由があり、貧しい国の人々にうらやましがられた。日本に住む二人にはこの自由はない。アジアの放浪は、心にはゆとりがあったが、日本に住む二人にこの心の余裕があるのだろうか?
2人のアパートに転がり込んだカップルは、彼女の実家の仕事を手伝うようになる。昔の放浪を共にした一人が働き出す。どこか取り残される思いと裏切られたような思いを「私」と内縁の夫は持ったことだろう。アルバイト先の店主は、20代で店を持った話しをする。苦労をしながら店を持つという話は、「私」の胸にぐさっと刺さるものがあったろう。
内縁の夫は相変わらずである。「私」はスナック勤めをし始める。尻ぐらいを触られることは気にしないで客にタバコの火をつけていれば、サラ金の返済ができて貯金通帳には貯金がたまっていく。
そんな時、料理人を目指す一回りも年下の男に出会う。料理学校の入学金を貯めた金で出してやろうとするが、その応えは、オレをバカにしているのかという返事であり、金はバイトで稼ぐんだといわれる。「私」は、自分の惨めさを思い知る。
「私はちゃちな恋をした。
 私はちゃちな夢を見た。」
               (帯からの言葉)
フリーターという自由を求めた人たちのひとつの人生だろう。
しかし、感想としては保守的に「変な自由を追い求めずに現実がこうなんだから逃げずに働け」という言葉は書けない。
今は社会の仕組みからフリーターを余儀なくされている若い人たちがたくさんいる。派遣社員などという不安定な雇用形態が作られた。たしかにその中から起業をして金を稼ぐ人たちもいるだろうが、すべての人がそうできるものではない。このような社会においてフリーターという若い人たちを批判はできないだろう。
たしかにバブルの頃は生きがいのない余裕のない(過労死までさせられる、休暇も完全消化できない)会社勤めに嫌気をさしてフリーターとなった人たちもいるだろう。夢に描く自由を求めて。。。。
この気持ちはわかるが、結局は逃げてしまっていたのではないか。しかしこの逃げを見たときに、企業というものに魅力を感じない人たちが多いということだろう。
若い人たちに魅力を失わせる社会や企業は、それ自体が活力を失っていくだろう。だからこの作品の「私」と内縁の夫は、まったくの個人の問題努力のなさで片付けられるものではないのである。

               2004年10月29日 記

                         夕螺




TUGUMI
ーつぐみー
                             中公文庫
             よしもとばなな 著
「その時、つぐみが恭一をまっすぐ見て言った。
 『おまえを好きになった』 」
                (117ページより引用)
鶫、秋に日本に来て冬を越すスズメほどの小さな小鳥だそうです。冬はほとんど鳴かずに口を『つぐむ』。静かに冬を越す鳥だそうです。
水上温泉組合婦人部さんのHPを参照させていただきました)
小さい頃から病弱で、体も細いつぐみ。でも美しい少女(17才ころか)が「おまえを好きになった」とさえずるところは印象的です。
しかしこのつぐみの恋は、可憐な病弱な少女をイメージするような恋ではない。つぐみは、年中熱を出して死と隣り合わせである。つぐみは死と向き合う中に本音で生きることを身につけたような少女であり、わがままのような行動と口の悪さがあるものの心の中はまっすぐな少女である。
両親はそんなつぐみを甘やかして育てたためにわがままな子になったと見る。また、周りの人々も手を焼く。つぐみの性格を理解をする人は少ない。
語り手のつぐみの従姉妹まりあは、そんなつぐみに手を焼きながらもその性格を理解する。なかなか本音を言わないつぐみが本音を話する中に理解する。つぐみの恋人恭一もそんなつぐみの理解者である。
そしてこの作品を読む読者もつぐみの理解者となっていく。性格の悪いようなところも、その裏側にあるつぐみのかわいらしさが見えてくる。その本音の生き方が見えてくる。
例えは適切かわからないが、江戸の人情噺にでも出てくる、口は悪いが粋な江戸っ子を思い起こしてしまいます。
このようなつぐみの姿がこの作品のよさなのだと思います。
登場人物は、まりあ、つぐみ、つぐみの姉陽子、つぐみの恋人恭一は、大学生や高校生です。若いながらもしっかりと自分を見つめられる人々です。このようなしっかりと自分を見つめられる若者は、先に読んだ「哀しい予感」にも共通をし、ばななさんが何を若者に求めるかが見えるような気がします。
しかし、「TUGUMI」にも「哀しい予感」にも現れる共通したものに「『確信』というものがある。
この確信は、生きていく上での自分を現す言葉でもあるが、同時にばななさんのその後の作品に見られるような霊的な不可思議なものに基づく確信のような物であるのではないかと思う。
なんとなく「TUGUMI」のように初期の作品のほうが僕にとっては受け入れやすい(けして後の作品が嫌いというわけではない)のかと思う。
つぐみなど、登場人物の心のつながりもこの作品の特徴かと思う。暖かさを幹事利つながりであり、ここもばななさんの作品の特徴でもあるのではないかと思う
。しかし、この心のつながりが「yosimotobanana.com」という日記を読むにあたっては、身内主義というのか、心のつながりを大切にするあまり、他に一線を置くようにも受け止められかねないという印象を僕は受けてしまうのである。ばななさんのよさを感じると共に僕にはばななさんの世界には入りきれないのではという心配が浮かぶのである。
これは、あまりにもばななさんが強いということから来ているのではないかと思う。
しかしばななさんの孤独、寂しさも感じる。
あとがきに次のような言葉がある。
「そして、つぐみは私です。この性格の悪さ、そうとしか思えません。」
まぁ、性格の悪さというのは謙遜でしょうが、つぐみの持つどことなく孤独で寂しさのある、そして芯の強さはばななさんでしょう。
つぐみは、死を覚悟することによって生まれ変わったといいます。「人は喜劇を演じる。死だけが悲劇である」(漱石)ばななさんの作品には死がひとつの主題と感じるところがあります。つぐみ(ばななさん)の強さはこの辺にあるのかもしれない。

                2004年11月6日 記

                         夕螺





泣く大人
                        角川文庫
            江國 香織  著
女性にもてる男の条件として、生活臭のしない男というのを聞くが、江國さんのエッセイを読むと、「生活臭のしない女」を感じる。江國さんには男友達がたくさんいるようで、このエッセイ集には「男友達の部屋」というものがあるが、そこに現れる友人の方にも生活臭はない。生活臭のない男と、生活臭のない女としての江國さんとの素敵な友人関係。
もちろん男たちにも江國さんにも日常生活があるはずだが、ご飯に納豆をぶっ掛けてかき込むような日常のあわただしさはない。主食がフルーツという江國さん、そんなところからもあわただしい日常を感じません。
嫌いな男は、バーで飲んでいて時間を気にしながら途中で帰ってしまう男らしい。取り残される寂しさがあるようである。
日常のあわただしさがなく、時間を忘れた素敵な空間。そのことがこのエッセイ集を読んだときに、季節の風景があるがそこには時間の流れを感じさせないものとするのかもしれない。
そこにはたしかな空間はあるが、時間の流れのない絵画を見ているような錯覚を受ける短いエッセイです。
「男友達の部屋」は、男性史に連載されたものですが、その意味では男性に読ませるためのエッセイであり、江國さんの「こんな男がすき。。。」という文章に、男はどぎまぎしてしまうかもしれません。男は中身でしょう。。。。。か?
しかし江國さんは、男友達と恋人あるいはご主人をはっきりと区別しています。こんな男友達が素敵だというのと恋人とは違う。
詩集「すみれの花の砂糖づけ」に見る恋人との関係は、のんびりしているような江國さんが情熱的になるそんな一瞬の中にいる男です。ご主人は?。。。。う・・・ん、わからん。いろいろな事情からあるいはご主人だけは作品には表したくない存在といえるのでしょうか?
江國さんは、昼時のビジネス街にある公園に行きます。ぼうっとしていると、会社勤めの男たちやOlが弁当をその公園で食べ始める。江國さんも弁当を食べたくなり買ってきて食べ始める。江國さんは食べるのがゆっくり。。。。日常の時間に追われるサラリーマンたちは1時少し前には消えて強い、静かになった公園に江國さんだけが残る。
このエッセイが好きです。こんな江國さんをほほえましく思いますし、江國さんらしいなぁとも思い、そしてやはり好きな作家なんだなと思ってしまいました。エッセイ集の中にこんな江國さんの一瞬が描かれており、このエッセイ集のおもしろさでしょう。
江國さんのエッセイ集に「泣かない子供」というのがありますが、江國さんは、子供の頃は泣かない子供であった。今泣く大人になってうれしいというようなことを書いていますが、早熟な少女を思わせる江國さんは、泣くまもなくじっと大人たちの様子を凝視していたのでしょう。そして自分自身が大人になってしまった今、子供の頃に見た大人が何であったかがわかるようになり、その大人の中にある喜怒哀楽、そして恋や愛、すなわち心の動きに泣くことができるようになったのか?
ゆったりとした気持ちで読めるエッセイでした。

               2004年11月12日  記

                           夕螺





女たちのジハード
                       集英社文庫
             篠田 節子  著
女たちのジハード。。。。勇ましい言葉です。
ジハードは「聖戦」でしたっけ?
作品には5人の女性が登場しますが、それぞれの女性がどこに対してあるいは誰に対して聖戦を行ったのか。
作品中には、女性たちが勤める損保会社が出てきます。そこは男社会であり、企業の論理が展開されています。女性太たちは、その男社会の典型である会社に憤りを感じます。しかし女性たちの聖戦はこの男社会である会社に向けられるものではない。確かにコピー取りやお茶くみの雑用しかさせてもらえないことに不満を持つが、そこから女性たちは転職や結婚、起業を目指す。この意味において女性たちの聖戦は男社会あるいは会社に向けられているのではないのである。
それでは男そのものにかというとそうではない。
70年代前半頃の男が敵というような女性解放運動とは違う。どちらかというとバブルがはじけた状況下でのリストラにあえぐ男たち、逃げ場のない、家庭を守るためには大胆な行動を取れない男たちを哀れむような感じがする。情けない男たちを企業の中に見る。その反動でいわゆる「三高」男を求める。男に頼ろうとすると同時に男のふがいなさを見る。ここに男たちへの聖戦はない。
それなら彼女たちの聖戦はどこにあるのか?
それは、現実を見つめなおすことと彼女ら自身の自立というのか、まじめさをどう彼女たちが獲得するかという彼女たちの内面に対する彼女たち自身への聖戦だったのではないだろうか。
康子は、素朴ながらも自己中の農業兼業の脚本家の卵に幻滅をする。そこには自分というものがない。農家に嫁に行くという自分を犠牲にするものしか見えない。しかし読み進むに従い年齢からも一人で生きていく厳しさを見つめつつマンションを買う。ビジネスを発見をし、脚本化などという表だけのきらびやかさのないやはり素朴なトマト農家の男との結婚を考える。ここでは、康子自身の自立の上に立っての農業化の男との結婚である。
リサは、かっこよくて金持ちの男との結婚を目指す。しかし紀子と結婚をしてしまった男が家庭内で暴力をふるう男だったことに愕然とする。建前的な仕事として海外援助の仕事や企業PRの仕事をしているうちに医者の男と知り合う。しかしその男は野糞をするような貧困な国へ行くという。建前的な気持ちが「まぁいいか」となりその男と結婚をする。トイレもなくの糞をする国で生きるという不本意ながらの中にまじめさが出たのだろう。
紗織は、会社に見切りをつけて得意な英語で生きようとする。しかし英語で生きることの難しさという現実を知る。英語は生きていく上での幅広さを持つことのできるひとつの手段でしかないことを知る。アメリカにわたった紗織は、ヘリコプターの免許に自分が生きる道を確信する。生半可な英語力ではない、その上にたったもっと難しさのあるものである。この中での努力を自覚していく。
紀子は、家庭のことなどまるでできない自分とそのことから保守的に家庭内暴力の男に失敗を感じる。自分で生きていかなくてはならない。康子に世話受けるが、そのうちに自分で食を探し始める。また結婚をするが、以前の紀子ではないだろう。
みどりは自立するビスネスを持つ。
このように女性たちの気持ちや行動が変わって行くおもしろさがあり、このこと自体が彼女たちの聖戦だったのである。
ここに描かれている女性たちは、一般の女性たちの中でのさまざまな個性の典型を描いているのだろう。
典型的なものを水とも、世の女性たちはどこかでこの現実を見つめまじめになっていくのではないだろうか?
その意味では、すべての女性は聖戦を戦っているのである。
このまじめさを取り戻すということが聖戦だったということは、結局は廻り巡って今の男社会と会社に対して見切りをつけるという形での社会への聖戦として転化する。まじめさを取り戻した女性が今の社会を見つめることができるのである。しかし一方では、この会社に見切りをつける女性たちを会社はリストラとしても利用するだろう。社会が少しづつ変わっていく中での女性たちの聖戦は無意識的にも続かざるを得ないのである。
この作品の特徴と同じ作品が群ようこさんの「挑む女」として書かれています。こちらはもっと素朴です。あわせて読んでみるとおもしろいと思います。

                    2004年11月22日 記

                       夕螺






オカルト
                        新潮文庫
            田口 ランディ  著
不思議なお話のエッセイ集です。
冒頭の「異界の扉」にお兄さんの死が書かれています。西日がさす夏の日のような部屋を連想しますが、その部屋に衰弱死(他のところでは自殺?)をしたお兄さんが横たわり、腐敗が進み解けている。すさまじい死臭が漂う。
ランディさんは、この死臭を嗅ぎ、その様子を見たのでしょう。これ以来異界の扉が開かれた。
このお兄さんの死は、ランディさん自身の生き方をも変えたことと思います。
「オカルト」という題からして霊の話が多いのかというとそうではなく、人の心や自然の中から目に見えないある種の感覚をランディさんは「気配を感じる」。そう、感じるという言葉を使う。
ランディさんはこのようなオカルトの世界や宗教・占いなど神秘的な世界を信じてはいないと書く。信じるということは無条件にそれを受け入れるということであり、無条件に受け入れてしまうことにより、偽物の宗教などにだまされてしまう。あるいは狂信的になってしまう。
古代から人々は不思議なものに囲まれていた。現代のように科学が発達して不思議なものは減っては来ているが、ある種の「虫の知らせ」や「第六感」など、不思議な体験があることも確かである。これを感じるままに自分をその中におくことがランディさんのいき方なのだろう。この不思議な「異界の扉」の向こうにある世界をランディさんは見る。これがランディさんの生き方そのものになっているようである。
だからこの作品から受けるある種の世界は、ランディさんの内面そのままなのだろうと思う。「あとがき」には、「私が体験した私の内側の世界について書いて見ました」とある。もちろんこの内面は、観念的に霊感が宿ったというようなものではなく、お兄さんの死という衝撃的なものがあり、けして幸福ではなかったと思われる実生活から形成され、それがこの世の中で理解しがたい不思議な体験と結び付いたのだろうと思う。
ランディさんの明るさも伝わるエッセイだが、やはりその奥底にはオカルトの世界がある。
もう少し日常のエッセイや小説も読んでみたい。

                2004年11月27日 記

                         夕螺





保育園に絵をかいた
                        角川文庫
              銀色 夏生  著
二人目のご主人と離婚された夏生さんはご実家の宮崎に帰ります。
今年(2004年)6月に発売になった日記・エッセイ「つれづれノート13」には、この宮崎県のエビナ高原近くの小さな町の息子さんの通う保育園の園長先生に頼まれて壁画を書いたというところがありましたが、その壁画を多くの写真で紹介した写真集です。
「まえがき」には絵を描いたいきさつが書かれていますが、後はところどころの写真の解説を書き添えたものです。
もう少しエッセイ的なものが欲しかったですが、それは「つれづれノート」役割なのでしょう。
夏生さんは、心無いファンなど人と接することに消極的なものを書いています。またこの消極的なものは夏生さんの性格なのかもしれません。「つれづれノート」のあの明るさの裏に自分の世界に入り込む夏生さんがいます。
しかし、夏生さんの内面にも変化が現れはじめているのではないかと思われます。そのひとつがこの保育園の絵をかくことにもあったのではないかと思います。絵をかく前の下塗りを保育園の保護者の方に手伝ってもらったり、人と人とのふれあいを「つれづれノート」の文章から感じます。喫茶店を開こうとかと、夏生さんの前向きな側面が大きくなってきていると思います。
久しぶりに夏生さんの写真が載せられていますが、日焼けをした笑顔のなかに自然体の夏生さんが見えるような気がします。
絵は子供たちが集まる保育園ということもありかわいらしい絵がたくさんあります。野で遊ぶ動物たち、パレードをしているような食べ物たち、人や動物・小鳥がシャボン玉を飛ばしたり、そのシャボン玉が飛んでいきます。自然の中に囲まれたのんびりとした空間と人の矢指を温かさを感じさせてくれます。
写真集ということでの物足りなさを先に書きましたが、本だから写真集なのであり、その本の中にある世界は多くの絵や保育園を囲む自然なのです。のびのびとした夏生さん自身の気持ちが現れているのでしょう。新築した家もそうですが、保育園の絵もそれを写して本にしたものもやはり夏生さんという人間・内面を現す一つの作品なのだと強く感じます。

                  2004年11月27日 記

                       夕螺





肩ごしの恋人
                      集英社文庫
                唯川 恵  著
るり子は思う。
六本木や西麻布には足が向くが、新宿は苦手だと。なぜなら新宿は本音の街だから。自分というものをさらけ出さないとだめな街だから。
六本木などでは、女がちやほやされる。男に自分の魅力を見せ付ければ楽しい街である。しかし新宿は違う。新宿2丁目では男は振り向きもしない。ここでは男同士のゲイの街であり、女はただのひとりの人間としか見てもらえない。
るり子は、恋に結婚に生き、男は自分を幸せにすべき存在。それだけの美貌を持つ。萌は、素敵な女性ではあるが男に対して信用をもてない。結婚をはじめから望まないわけではないが、男との仲が結婚にまで進みそうになると引いてしまう。このようにお互いに性格のまったく違う二人の女だが、どこかお互いに寄り添うように生きてきた。
萌は、妻子ある男との微妙な関係の中にいる。るり子は、2度の離婚で慰謝料をふんだくりながらもまた3度目の離婚の危機にある。危なっかしい二人である。
そんな二人の中にかわいい男の子とも言うべき家出をした15歳の男が来る。別居を始めたるり子とこの高校生崇は萌の住まいに転がり込んだ。「修学旅行のように楽しい」生活がはじまり、この3人が新宿2丁目の世界に入っていき、本音の人間、女はただの一人の人間でしかないという世界に触れる。文ちゃんとリョウという二人のゲイと知り合う。
萌は、退職をして職を探す。離婚を決意したるり子も職を探すしかなくなる。同じ部屋に住む二人の女はお互いと支えながらその女の友情深めていく。
また大人の二人の女が少年を世話していると思い込んでいたが、崇はその純粋さを二人の女に見せつける。そこに少年から大人の男に変化する崇を見る。
るり子はゲイのリョウに好きだと告白をする。女を愛せないリョウという男に。。。。そしてつぶやく「好きだからそれでいい」
燃えとるり子と崇の「修学旅行のように楽しい」生活。ここに「好きだから一緒に生活をしているというものがある。萌とるり子の生活も女の友情という反感を持ちながらも好きだという自覚にある。もちろんるり子のリョウへの思いも。
人は家族関係の中に生活しているが、「好きだから」という基本を常に確認せねばならないのではないかと思う。基本は家族関係である。しかしこの作品は、この家族関係から離れた人同士の「好きだから」を純粋に表現しているのかもしれない。
燃えとるり子の新たな生活がはじまろうとしている。その生活がどのようなものかは読んでいただきたい。しかしこの二人が幸せになれるかは未知数である。
唯川さんは「あとがき」に「あっけらかんとしたもの」を書きたかったと書いているが、まさに読み終わったあとはなんともいえぬあっけらかんとした明るさのある作品である。
この文庫版での解説を江國香織さんが書いている。解説を書くにはある意味では最もふさわしいのではないか。
この「肩ごしの恋人」は、江國さんの「ホリーガーデン」でかかれた二人の女性の友人関係と、「きらきらひかる」で見せた青年の純粋さとゲイの男との関係の中から「好きだから一緒にいたい」という暖かさをひとつの作品にまとめたような気がするからである。
唯川さん、江國さんという二人の直木賞作家による表現の違いもおもしろいかもしれない。

               2004年12月2日 記

                     夕螺




私の「漱石」と「龍之介」
                         ちくま文庫
              内田 百閨@ 著
漱石の鼻毛が付着した原稿用紙は写真で見た覚えがある。この原稿用紙の持ち主が内田百閧セったとは。。。。
漱石はひとつの作品を書き上げる間に5,6寸の高さにもなる書き直し原稿を出したようですが、しかし同じ高さの札束を原稿料としてもらっていたそうです。その書き直した原稿を内田百閧ヘもらったそうで、その中に鼻毛の付いた原稿もあったようです。
内田百閧フ漱石の思い出は、こんなユーモラスなものがあり楽しく読めました。
百閧ヘ金に困って漱石の保養する温泉にまで行く。漱石は多額の金を妻から受け取れという。そのうえ一泊宿に泊めてもらい、温泉にまで浸かり、「ビールを飲んでもいいですか」と(笑)
いつ漱石先生の雷が落ちるかびくびくしている弟子たちですし、漱石は時々たしかに雷を落としたようです。しかし弟子たちへの思いやりもあり、書簡集を読むと百閧ェ金に困っているためか本の校正をやらせています。
漱石の弟子たちは、漱石の思い出を書いていますが、大阪朝日新聞に文芸欄を作り、若い作家に発表の場を与えたりし、岩波書店の初代岩波茂男が本の普及のために今で言えば文庫本を出す計画をするのですが、漱石はすぐに坊ちゃんだったかを発売させます。
日本画家の津田清楓が「漱石と十弟子」(芸艸堂・昭和53年版)という本に漱石山房木曜会の様子を書いていますが、挿絵も含めてのんびりした様子を書いていますが、百閧烽アんなのんびりとした木曜会の空気を吸っていました。こんな木曜会の空気を吸いながらも漱石の作品に影響されたものと思います。「吾輩は猫である」は小説ですが随筆といっても良い作品です。漱石は「夢十夜」「文鳥」そして生い立ちを書いた「ガラス戸の中」などの随筆を書いていますが、この随筆に影響されたのではないかと思います。
胃を壊しながら悩んだ漱石、悩んだこそ弟子には厳しいながらもおおらかな漱石。そんなおおらかな漱石になつくようにやはりおおらかな百閨Bこの思い出を筆力のある随筆として百閧ヘ綴っています。
芥川龍之介と百閧ヘ、漱石山房晩期の弟子ですが、その意味においてもその交友は深かったようです。百閧ヘ龍之介が自殺する2日前に会っています。麻薬でろれつの廻らない龍之介。百閧ヘ龍之介の苦悩を知っていたのでしょう。しかし百閧ヘ次ぎなように書きます。
龍之介の死んだ夏は猛暑であった。龍之介はこんな猛暑で癇癪を起こして死んだのだろうと。ここには龍之介の苦しみを知っているからこそユーモラスにその死を書けたのでしょう。
楽しい百閧フ随筆。。。。龍之介の苦悩を知っていてユーモラスなものがあるように、自身の苦悩があるからこそ楽しい随筆をも書けたのでしょう。
おもしろさの裏に悲しみが満ち溢れている。これが百閧フ魅力かもしれない。

                  2004年12月13日 記

                        夕螺

<追記>2005年12月12日
上の文章に
「日本画家の津田清楓が「漱石と十弟子」(芸艸堂・昭和53年版)という本に漱石山房木曜会の様子を書いていますが、挿絵も含めてのんびりした様子を書いていますが、百閧烽アんなのんびりとした木曜会の空気を吸っていました。こんな木曜会の空気を吸いながらも漱石の作品に影響されたものと思います。」
と、書きましたが、このときは百閧フもう一つの雅号「百鬼園」というものを知らなかったので、挿絵に「内田」あるいは「百閨vという人物がなく、ここには百閧ヘ描かれていないと思ったのですが、今、川上さんの「東京日記」関連で百閧思い出し、もう一度「漱石と十弟子」を開いたら、いましたいました。。。百鬼園先生がちんまりと右すみに若き頃の丸い顔をしていました。
また読み直してみようと思います。






いとしい
                    幻灯舎文庫
             川上 弘美  著
川上さんの長編小説です。
語り手のマリエには姉のユリエがいる。
父親は早く死に、二人目の父親は春画の絵描きであった。幼いマリエとユリエはその春画を見て二人で真似をする。マリエは長く伸ばされたユリエの髪に絡まってしまう。美しくもどこか性を感じる書き出しである。
マリエとユリは成長していく。
マリエは大鳩女子高等学校の先生となる。
「ミドリ子のとりとめのなさは、大鳩女子高等学校のとりとめのなさに似ている。」ミドリ子はマリエの生徒である。
このとりとめのない人間はミドリ子だけではない。マリエユリエ姉妹もとりとめがない。作品中にはたくさんの登場人物が出てくる。母親、父親、二人目の父親、その弟子のチダと春画モデルのマキ・アキラ、ミドリ子の兄紅朗、ユリエの夫オトヒコ、ミドリ子に思いを寄せる鈴本鈴朗。すべてがとりとめのない人間である。
とりとめのない人間が集まっているのでこの作品もとりとめのないままに進む。このとりとめのない人間たちの恋・愛をとりとめもなく描いていく。母親とユリエそしてミドリ子はチダに恋をし、後にミドリ子の恋は兄の紅朗へ、そしてマリエも紅朗に恋をする。チダと鈴本鈴朗はミドリ子に恋をし、ユリエはまたオトヒコに恋をする。マキとアキラは死ぬが寝床持参の幽霊となり集画のポーズをきめる。
「とりとめのない」という言葉は、まとまらないというような意味であるらしいが、つかみどころがないとか自然のままに流れるというような意味にもこの作品からの印象として受ける。
登場人物のそれぞれの恋や愛は、通常の小説のように心ときめいたような劇的な恋や愛ではない。やはりとりとめのないままに引き合う恋や愛である。恋する気持ちや愛する気持ちにはつかみどころがなく、自然な肉体関係がある。常識的な恋や愛とは違うものがそこには描かれる。だからとりとめもないのである。
この作品の題は「いとしい」であるが、登場人物それぞれの恋や愛は、単純に恋や愛とは呼べずに、このいとしいではないのか?男女間のいとしさという心の動きがとりとめがないのである。だからこの作品は、大人の恋や愛を表現したものではなく、とりとめのないいとしさを表現したものと思われる。ここではなぜ恋をしたかなぜ愛したかは問題とならない。いとしさから引き合う心の動きが自然なままに表される。いとしさという心の動きは、心そのものであるからつかみどころがないのである。
「オトヒコ君は食べ物を食べたいから食べるのではなく、食べなければならないから食べるのでした」
実際の社会に生きる人間の恋や愛は、その人間を取り巻くさまざまな社会的な条件にかかわりながらあります。いとしいという感情は、これらの社会性のすべてを抜きにした純粋なものかもしれません。社会性に縛られないで好きにならざるを得ない、愛せざるを得ないそんな感情。
いとしいという言葉は深いものがあります。
自分が幸せになりたいとか、いい暮らしがしたいとかの打算が入らないからいとしさにとらわれたらその先はどうなるのかわかりません。心中に走ることもあるでしょう。社会的な批判を浴びることもあるような恋や愛になることもある。倫理にはずれることも。「いとしい」に登場する人物たちの恋は幸せとはいいがたい。しかしその恋に走ってしまうのはいとしさにあるのでしょう。
社会性からあるときには離れたものとしてのいとしいという感情は、心の葛藤を生みます。川上さんの不思議な世界はこの心の葛藤を具現化したものではないかと思います。いとしさを感じる対象は男女間だけではなく、人の中でも同姓にむかうこともあり、近親者に向かうこともある。森羅万象のすべてのものに向うこともある。ここにも川上さんの作品の不思議さが出るのではないでしょうか。
心の中は意識に逆らってさまざまにめまぐるしく変化をします。川上さんの作品中の変化は特徴ですが、これを心の動きとしてとらえてはどうか。。。。
「いとしい」を読んでさまざまな憶測もしてしまいます。
この意味で「いとしい」は、僕にとっては川上さんの作品の中でも重要かと思います。

                 12月20日 記

                        夕螺





冥 途
                    ちくま文庫
               内田 百閨@ 著
内田百閧フ随筆ははじめて読みました。この前読んだ「私の漱石と龍之介」も随筆ですが文体はユーモアもありのんびりしたもので、百闢ニ特なものはありませんでした。やはり百閧フ随筆のおもしろさは「冥途」のような作品にあるのでしょう。
漱石の弟子であり、「吾輩は猫である」や小品「夢十夜」に影響されているようです。また好きな川上弘美さんが百閧フ影響を受けたようですので興味を持って読みました。
ちくま文庫には、大正10年に書かれた「冥途」をはじめ、大正13年から昭和8年頃に書かれた「旅順入城式」、その他の小品として昭和12年頃に書かれた作品が収録されています。この時代は、だんだんと戦時色の強くなる時代です。
「冥途」は、3ページほどの短い作品を集めたものですが、薄気味の悪い怖い夢そのものという感じです。暗い川の土手を歩いている。高い葦が覆い茂る。その道で人に出会いさそわれるままについていくと。。。。そこで不思議な出来事に巻き込まれます。
ものすごい不安感が漂います。表題作「冥途」では、この土手の下にある飯屋で死んだ父親と思われるものに逢う。懐かしさのあるような親指。その声。子供の頃の自分を語る父親。百閧ヘ「お父様」と叫ぶが父親には聞こえない。父親は暗い土手を歩き去ってしまう。
まだ百閧ェ子供の頃に死んでしまったのか、父親への郷愁、いや、子供に帰って甘えたいというような気持ちがこのような小品として現れています。怖いような話の中にも温かみがあります。
葦の茂った川とその土手は、「解説」にもあったかと思いますが、三途の川なのでしょうか?死者が死に三途の川を渡っていくという風景ではなく、昔死んだ者に百閧ェ三途の川に迷い込んで会うというものだと思います。
「山高帽子」は、「私の漱石と龍之介」の中に現れる芥川龍之介との親交とよく似た物語です。百閧ヘ自分の精神が壊れていく怖さを書きます。その友人野口(龍之介と思われる)も精神を壊し、自殺をする。「君には自殺する勇気もない」「一生涯苦しむんだよ」というの愚痴の言葉。いつの日か自分も自殺をするのか、自殺もできずにそれ以上の苦しみの中で行き続けるのか。こんな不安が漂う作品です。
「棗の木」は、借金取りから逃げる話です。関東大震災で死んだものと思っていた借金取りが生きていた。。。。死んでくれていたら自分は楽になったのにという心。いつまでも付きまとう借金取り。この不安。
そのほかの作品でも、子殺し、大尉殺し、熊やトラに襲われそうになり逃げる話。女の死が描かれ心の不安が漂います。
先にも書いた戦争に突き進む日本という社会、その社会の中で生きるための生活、親友の死と同じ神経衰弱を患う自分。
この言いようのないさまざまな不安が百閧フ心を蝕んでいる中での作品ではないかと思います。
漱石との関係では、「私の漱石と龍之介」に現れるユーモラスなところやのんびりした文章は、「吾輩は猫である」からの影響でしょう。「冥途」は、やはり「夢十夜」でしょう。
そのほかにも、漱石の若い頃は日露戦争があった。漱石は従軍しなかった。このへんの事情はいくつかのエピソードがあるようです。そして百閧ヘ第二次世界大戦です。このような社会情勢が似ているというだけではなく、漱石はイギリス留学時に極度の神経衰弱に陥り、帰国後には養父との金銭関係や義父の失業からの貧乏が待っていた。そしてともに教師生活。
共通点を強調するわけではないが、同じような社会に生きる知識人の苦悩というものがあったのだろうと思う。芥川龍之介は、「歯車」でその異常性を書く。たしか女性問題で死ぬとなっているようだが、もっと深いところでの苦悩があったようにも思う。
一見気楽そうにのんびりと生きているものをうかがわせる文章の裏には精神をすり減らす苦悩があるのである。

                   2005年1月10日 記

                       夕螺




柔らかな頬(上・下)
                         文春文庫
             桐野 夏生  著
北海度に住む者でも地図で探さなければわからないような海辺の小さな町。その町に1件ある飲食店。カスミはそこで産まれれ育った。
海岸は一応海水浴場になっているが、手で割れるようなもろい岩がごろごろしているような黒い海であり、短い夏をぽつぽつとした人影だけが楽しむようなところ。冬は厳しく長い。
カスミは、中学生のときに古内という手広く事業をする派手な男に「高校を出たら訪ねて来い」と誘われる。都会。。。。これがカスミの心の深いところに巣くうこととなり、こんな町に一生を送ることを拒み東京に家出をあする。
しかし東京に出ても夢であったデザイナーの仕事にはありつけずに小さな零細な森脇製版に勤める。森脇と結婚をし二人の娘を持つようになるが、生活は厳しいものであった。
自分の東京暮らしを見つめたカスミは裕福な都会的な男石山(森脇の得意先)と不倫の仲となる。北海道の小さな町を捨てたカスミは、同じように東京での生活も捨てる覚悟をする。
高いところから夜の都会をながめると、ほんときれいだ。街の明かりが宝石のようにも見える。しかしひとたびその下界に降りてながめると汚いところがたくさんある。
テレビで夏の北海道を眺めれば旅心をそそられる。しかしそこでの生活は、地元の人でないとわからない辛さがあるだろう。
カスミは脱出する
ある夏、石山が買った北海道の別荘に両家族が行くことになる。石山とカスミの逢瀬のために。。。。
そこでカスミの長女有香が失踪する。
これを機にカスミと石山はもちろん両家族や別荘地の人々の日常は崩れていく。森脇家も石山家も離婚。カスミは有香を探すための心の放浪に旅たつ。
ここまで書き出しのところだけを読むとありふれたミステリーである。僕もそうだったが、このミステリーとしての事件の進展だけを追うような読み方になってしまう。狭い別荘地の中にいた人々はわずかな人数であり、犯人が誰なのか、それぞれの人間が怪しく疑心暗鬼の中に事件は何の展開もない。ますます読者は真相を知りたくて読み進んでしまうだろう。
このミステリーとしての展開と同時にカスミのエゴイズムがはっきりとしてくる。そして離婚をして北海道に行くカスミは、胃癌のために余命のない元刑事内海と出会う。
やり手の刑事だった内海も出世のためにはエゴイストであった。そんな二人はいつしか心を打ち明ける中になっていく。
この作品は、このうち海が登場する頃から単なるミステリーというものではないことが見えてくる。もちろん少女失踪事件の謎解きというミステリーせいは失わないが。
内海の中にあった出世という幸せ、霞の中にある「子供を捨ててもいい」とまで思うような石山との暮らしという幸せ。このような幸せを追い求めていく心の中にあるエゴイズム。これがこの作品の主題だろう。
しかしこのエゴイズムは内海やカスミだけにあるのではなく、周りの人々にもあるものである。いくら有能な刑事であっても警察組織からすればただの死にぞこないであり、事件の中身からすればカスミは好奇な目にさらされる。事件関係者には自己保身も働く。
ニュースで幼い子供が殺される殺人事件がたくさんあるが、たしかに同情をして家族のことを思えばいたたまれなくなる。この気持ちは本物だろうが、同時に日常の今ある自分の幸せを感じて安心をする。子供を失った当事者としてのカスミも、だんだんと有香の事件を忘れようとしていく。これが生き抜いていくということである。
はたから見れば、かすみという女性はエゴイストであり非難の的になるだろう。しかしカスミも日常を過ごして生き抜かなければならない。この日常をすごしつつ生き抜かなければならないという事実。。。。。死に逝く内海にも冷淡となるカスミ。。。。
ここに、ただ単に人間の中にあるエゴイズムを非難するだけでは片付かないものがある。
人の中にあるエゴイズムをえぐり出すような作品です。同時にそのエゴイズムは、どの人間にもあるもので、日常を過ごし、生き抜くためにはそのエゴイズムを簡単には是非だけでは片付けられないものを感じさせる作品です。
しかしこのエゴイズムは、「子供も捨ててもいい。。。」出世のためには。。。。」いうものすごいエゴイズムな言葉に結末がわかるのです。
人の中にはエゴイズムと社会性が同居をしながら心は葛藤をする。カスミの心の中にもこの葛藤がある。だから苦しむ。人は皆同じでしょう。しかしエゴイズムは強引である。
こんな人達が社会を作り、社会の内部自体も葛藤をしながら歴史を作る。たしかに社会の中でもエゴイズムは強引に現れる。しかし数千年、数百年という歴史という時間を見るときに、人はあらゆる文化を気づいて発展をしてきている。それでこそ人はただの動物と違い人となってきた。カスミは「野生動物的な女」であると内海は感じる。しかしカスミの中にも葛藤があったのである。しかしかすみはこの葛藤から抜け出すように流れて生きようとする。

               2005年1月27日 記

                         夕螺





天使の梯子
                        集英社
            村山 由佳  著
「天使の卵」の続編です。
あれから10年という月日が流れ、春妃の妹夏姫と春妃の恋人歩太は、29歳になります。夏姫は教師をやめて損保会社に務めています。そこにたくましくなった歩太が。。。。歩太がどのような姿で現れるかは、この作品を読むに当たって楽しみなところですので書きません。
しかし作品は慎一という青年の一人称で語られる。
慎一はバイトをしながら通学する大学生。バイト先の店で偶然来店した夏姫に再会する。再会というのも、慎一は夏姫が教師であった頃の教え子だった。春妃と歩太が8歳違いであったと同じく夏姫と慎一も8歳違い。
二人は再会した日から急激に近づいていく。
この作品の前半は、「天子の卵」での春妃と歩太の恋と同じように流れていく。歩太が父親の精神疾患という病に悩むと同じく、慎一は自分が両親に捨てられて祖父母に預けられるような両親の離婚に悩む。そこに現れるのが8歳年上の天使のような女性である。家庭面での悩みがあったから甘えるように年上の女性に憧れるというものではなく、春妃も夏姫もどこか年下の男だとしても守ってあげなくてはならないというような可憐さを持つ。20歳代後半の女性を天使のようと言うのも変だが、女性の一面としての魅力を作品は十分に表している。
このように前半は「天子の卵」と同じように流れていくが、慎一にとっては夏姫はどこか謎を秘める女性とうつる。慎一にとっては一途な恋だが、夏姫は同じ8歳年下の慎一を歩太とダブらせ、同時にあの当時の姉春妃に自分をダブらせていたのだろう。春妃が年下の男を愛したその気持ちを知る。
慎一は、夏姫にとって大切な男の存在である歩太を知り歩太に合う。そこで歩太にとっての春妃目の存在を知る。歩太にとっては慎一は昔の自分である。歩太は、春妃への愛が本物であったことを再確認する事となる。慎一にとっては、同じように年上の女性を愛した男としても、夏姫にとってかけがえのない男としてもその大人の男のたくましさにはかなわないものを感じる。しかし慎一にとって、夏姫を愛したことへの確信を歩太の中に見る。
このように歩太、夏姫、慎一のそして死んでしまった春妃のそれぞれの愛は確かめられるのである。
しかし。。。。
春妃がたとえ医療ミスにしろ死んでしまったことに、夏姫は、恋する歩太への感情から春妃にひどい言葉を発していた。歩太は、春妃を守れなかった。このように春妃への思いがそれぞれにあり心の重荷となっていた。慎一は同じように死んだ祖母へのひどい言葉を謝罪する機会を失った。
ここに3人の心の葛藤がある。
夏姫が歩太を恋した心、歩太が春妃を愛した心。慎一の夏姫への愛の心と同時に祖母への愛。愛と同時に死んでしまったものへの自分の侵した罪。3人は語り合う。。。。。
純粋な愛する心。。。。。そして純粋な自己への罰。
ぼくは悲しい物語には涙することはないのですが、このような人の心にある純粋さに涙してしまいます。
最後の言葉は、慎一の「僕たちはそこからはじまる。」で終わります。
慎一は夏姫への愛を貫き通そうとする。しかし「そこからはじまる」のは、夏姫にとっても同じである。歩太にとっても。
春妃への思いは吹っ切れたにしても、夏姫にとっても、歩太にとっても「これからはじまる」のである。
夏姫にとっては、初めて歩太という男が存在するであろう。歩太にとっては、春妃を抜きにした一人の女性として夏姫が存在する。
この物語がこのままではすまない予感がするのである。

                  2005年2月8日 記

                         夕螺





ゆっくりとさよならをとなえる
                        新潮文庫
            川上 弘美  著
川上さんの日常のことと本について書かれたエッセイ集です。
川上さんは、「あとがき」の中で、新聞などさまざまなところで書いたエッセイをまとめた本で、そこに通底しているものは、「本のこと」と「まごまごした感じ」と書いています。
「まごまごした感じ」は、エッセイ集の前半です。
川上さんの小説は、日常の生活のなかで起きる出来事を主人公は驚きもなくうろたえることもなく受け入れるようなものがあると思います。作品の性格から、その日常が夢の世界のように不思議な形として現れるのですが、主人公は驚くこともなくうろたえることもなく自然に受け止める。受け止めて淡々と語る。
目の前に現れる人との関係においても恋愛においても、淡々と受け止める。
しかし淡々といっても、心の動きがないのかというとそうではなく、、一般的な小説のように激しい心の動きが表現されないというだけで心の動きはあるのです。
さまざまな事象を淡々と受け止める。しかし心の動きはないわけではない。この一見矛盾したしたようなものを言葉に現すとすると、「まごまごした」という言葉が最も適当なのだろうとあらためてうなったしまいました。淡々と受け止めたのはよいが、それをどのように解釈したり対処したりしたらよいのか、ここに「まごまごした感じ」が見えるのではないかと思います。
このエッセイ集の前半は、川上さん自身が日常の中のさまざまなものを淡々と受け止めながらもまごまごしながら受け止め書いているのだと思います。
川上さんが公園でビールを飲んでいると、ひとりの老人がやってくる。一緒にビールを飲みはじめ、無くなったら老人が「買ってきましょうか」と。そして川上さんの前に手を出す。金を出せということである。タバコもあげる。おもしろい話で、川上さんのまごまごした感じが現れています。
前半は、このような日常に現れたものを書き連ねていますが、もうひとつ特徴的なのが食べ物です。そして飲み屋。。。。
おいしそうな食べ物の話がたくさん出てきます。そして飲み屋で飲む。赤提灯を思わせる飲み屋は、作品の中にもたくさん出てきますが、こんな川上さんの日常に作品の種があるのかもしれません。
一番多く入った店は、一番は本屋で、二番が飲み屋、三番がスパーだと。こんな言葉の中に何気ない川上さんの日常が見え、生き方も見えるような気がします。
飲み屋の風景や先に書いた老人との逸話もそうですが、内田百閧「先生♪〜」と呼びかけるところなどは「センセイの鞄」を連想したりしてしまいます。日常のとらえ方、そのままが川上さんの摩訶不思議な夢のような作品となるのでしょう。
この点でもこのエッセイはおもしろいと思います。
後半は本の話です。
朝日新聞の日曜日には時々川上さんの書評が出ていますが、日経新聞や雑誌などに連載したものがまとめられています。こんな本の感想文が書けたらいいなぁとおもいます。
川上さんとほんとのかかわりは尋常ではない。。。。
表題作は、最後に収められています。
「冬の夜にすること」など、日常が列挙されています。なんの変わり栄えのしない日常。。。。
これを列挙したところになんともいえない心が見えるような気がします。作品中に、戦時中の内田百閧フ書いたエッセイが抜書きされていますが、そこには食べたいものが列挙されています。戦時中の食糧難の中で食べたいものを書き連ねる悲しみ。ささやかな夢。楽しみ。この内田百閧フエッセイに表題作は呼応するものかもしれません。日常の中の平凡な行い。夢。楽しみ。。。。。

                 2005年2月13日 記

                    夕螺





落花する夕方
                     角川文庫
              江國 香織  著
華子がバニーガールのような耳をつけて恋人の健吾の前に現れた。
健吾は不思議な格好の華子に引き寄せられ、心のすべてを急速に吸い取られた。
こんな健吾が一人で引越しをするという。
8年間健吾と同棲していた梨果は、こんな健吾に未練を残しながらも別れざるを得なかった。
出て行った健吾、華子への思いだけに出て行った健吾だったが、どういうわけかその恋の当人である華子が梨果の部屋の転がり込んでくる。「部屋の家賃が大変でしょ」という理由で。梨果は、出て行った健吾との唯一のつながりとなった華子を受け入れる。
梨果は、健吾との思い出と唯一の健吾とのつながりである華子との1年半という時間の生活を語っていく。
作品は、梨果がまるで日記を書くように1年半の時間の流れを断片的に語っていく。生活は、仕事と部屋で過ごす姿だけであり、同じ繰り返しの中に時間が止まっているようである。止まった時間の中での日常の中に梨果の心の変化だけが流れる。理解しがたい華子の行動と心。しかしどこかこんな華子に引かれていく梨果と、健吾への思いの薄らぎ。
キューピットは人の心に暖かい恋というものを運んでくる。華子のもつその容姿と不思議な魅力は、天使そのものと言ってもよいものがある。しかしその天使のような華子は、キューピットのように恋を運ぶのではなく、人の心の中にある恋や愛そしていとしさというものを華子自身が吸い取っていくといってもよい。
健吾の梨果への恋や愛も、健吾の友人の男も華子を巡って離婚をする。これは男だけではない。子供の心さえとらえられていく。そして梨果という女性の心も。天使ではなく、小悪魔的というのだろうか。。。。
小悪魔的という言葉が適当かどうかわからないが、すべての人間の心をひきつけていくから誰からも恨まれはしない。恨まれるどころか恨むべき人間もひきつけられていく。こんな意味での小悪魔的である。
梨果の部屋に転がり込んできた華子は、小さな鞄と歯ブラシ、糸瓜コロンそして退屈なラジオ番組を聴くだけの小さならじをだけをもって来ただけである。梨果は不思議な感覚にとらわれる。さっき転がり込んできたのに、ずっと一緒に暮らしてきたような気持ちになり、その生活がごく自然なのである。人にも物にも執着することなく自然そのままという心地よさ。この心地よさにすべての人間はひきつけられてしまうのかもしれない。
このような華子と接することにより、接する人の心からも執着心が消えうせてしまうのかもしれない。最も重要な恋や愛、いとしさというような執着心をも。このことが健吾が一人引っ越すという行動にもなったのだろう。そして1年半という時間をかけて梨果の心の中からも健吾への思いを消し去ったのかもしれない。
しかし。。。
梨果が健吾になぜ華子に引き寄せられたのかを聞くと、健吾は一言「執着」という。
華子はすべての人間の心の中にある執着を一身に受けていたのではないか。血のつながった弟からの愛という執着も。。。。
華子は執着もせずにいたが苦しんでいたのだろう。自身の執着する心がないにもかかわらずすべての人の心の中にある執着心を受けていた。こんな華子は。。。。悲しい最後です。
健吾は華子という存在がなくなったことにほっとするところもでてくる。梨果は執着心をなくす怖さ、自分の心の中から人を愛する心が消し去られることにおびえたようになる。
恋や愛、この執着するものを消し去ったときの心地よさ。しかしその反面では恋や愛という執着するものがなくなったときの怖さ。こんな矛盾をしたものが人の心の中にそのままに存在するのでしょう。
江國さんは「あとがき」に書きます。「これは、すれちがう魂の物語です。すれちがう魂の、その一瞬の物語。」と書きます。一方には執着する心が消え去り、一方には残る。このすれちがいに男女の心が現れるときがあるのでしょう。これは絶望的です。

                 2005年2月20日 記

                       夕螺