夕螺の読書ページへようこそっ!! 2004年2月から7月までに読んだ本です。 直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。 こちらに収められた作品は、以下の本たちです。 「病む月」 唯川恵 「あなたには帰る家がある」 山本文緒 「神様」 川上弘美 「きれいな色とことば」 おーなり由子 「エンジェル エンジェル エンジェル」 梨木香歩 「日々の考え」 よしもとばなな 「昔の恋人」 藤堂志津子 「天使の卵」 村山由佳 「おめでとう」 川上弘美 「つめたいよるに」 江國香織 「命・魂・生・声(命4部作)」 柳美里 「あるようなないような」 川上弘美 「物語が、始まる」 川上弘美 「つれづれノートL(庭を森のようにしたい)」 銀色夏生 「バカの壁」 養老 孟司 「窓をあければ」 藤堂志津子 「沙羅は和子を呼ぶ」 加納朋子 「青のフェルマータ」 村上由佳 「落花流水」 山本文緒 |
病む月 |
集英社文庫 |
唯川 恵 著 |
10人の女性が登場する短編集です。 昔から幽霊といえば、女性・・・ 武者など男の幽霊もありますが、情がらみの幽霊といえば女性です。幽霊がどうのということではありませんが、なぜ昔から幽霊といえば女性なのか、やはり昔から女性の情というものには特別なものがあったのだろうと想像します。 第1篇の「いやな女」からすさまじい女性の胸の内が表現されていきます。10篇すべてが、男女間のドロドロしたものからの女性の激しい胸の内ではなく、友達同士、母娘、嫁姑などの女性同士の激しい情や心の中を表現しています。また、子の病や死を通した母性としての激しい心。 解説にこの短編集は、男の作家が束になっても書けないもだと書いてありましたが、まさにそのとおりだと思います。 世の中に女性は生きている。この作品はどこで間違ってしまったのかけして幸福な女性ではありません。この女性たちに来る結末は悲惨です。悲惨な結末とまでは行かないまでも、100%幸せな女性はいないでしょう。そこそこに幸せに生活している女性でも、どこか心の片隅に持っている情を現しているのではないかと思います。自分では気づかない心の内側にある状が沸き起こり、やはりそれを無意識の中に感じている。そんな心のうちの情を改めて知ることになる作品なのではないかと思います。 もちろんこの作品は、唯川さんらしく男との恋愛もあり、金で女を囲う男や、ヒモのような男も出てきます。そして性も現されています。しかし、この作品では男はどこか通り過ぎていくといったようにしか表現をされていません。主題はやはりこんな通り過ぎて行ったような男を通しての時間の流れの中に起こる女性の内なる心です。 トップページの「ちんまりと」にも書きましたが、この作品に登場する女性たちは、ほとんどが30歳後半から40歳代と思われ、その女性たちが、これまでの時間が過ぎ去り、ふと今の自分を振り返り、この後の人生をどうするのかがわからないままにその情に支配されていく様子が描かれていrます。 唯川さんの「あとがき」には次のように書かれています。 「今年の春、実家の近くに花見に出かけたとき、咲き乱れる 桜を眺めながら、ふと、私はあと何回これを見ることがで きるのだろう、という感覚に見舞われました。」 これまでの人生をふと立ち止まって振り返り、そしてこれからどの道を歩けばいいのか、まるで霧の中にある道の先がどんな結末を迎えるのかが見えない。その中にいる女性たち。これがこの作品の主題だと思います。 この「これから」を見たときに、唯川さんが思うキーワードは「愛おしい」(あとがき)です。 作品は、すさまじい女性の情を描きながらすすみますが、短編の流れはだんだんと落ち着きを持っていきます。最後の「夏の少女」で、唯川さんの「愛おしい」が表現されていると思います。 死にゆく自分。。。。。 これも悲劇です。しかしこの悲劇の中に、もう一度自分の人生を愛おしいく見えてくる。死は必ず来る。これが近づくほどに愛おしさは募るのでしょう。 作品中の女性たちと同じ世代、あるいは今若いさなかに生きる女性、すべての女性に今を考えさせ、「これから」を思い起こさせるでしょう。夫や恋人、子供たち、あるいは人ではなくても、愛おしいという欠片でもいいから持てるなら、自分をも愛おしく「これから」を生きられるのではないでしょうか。 素晴らしい作品でした。 2004年2月27日 記 夕螺 |
あなたには帰る家がある |
集英社文庫 |
山本 文緒 著 |
人は、今ある自分が幸福なのかと思った瞬間に自分の幸せを手放す。 人は、今の自分には他の生き方があると思った瞬間に自分の生き方を見失う。 もっと幸せがあるはず、もっと違った生き方があるはずと思うこと、これはいつも漠然としている。意外と、何が幸せで、何がしたいのかが見えていない。 この作品の主題はこんなところにあるのではないか。 この作品は、佐藤秀明・真弓と、茄子田太郎・綾子の二家族の物語である。 秀明は女にもてるタイプの男であり、太郎はまったく女にもてないタイプ。真由美は子育てや家事に幸せを感じられないタイプで、綾子は家庭の中に幸せを感じるタイプ。 このようなさまざまな生活観を持つ四人が、それぞれに自分自身の幸せがどこにあるのかを描き、その幸せに一歩踏み込んでいく様子を描く。 秀明は、家庭的でない真弓に不満を持ち家庭的な綾子に恋をする。太郎は、自分は愛情を込めて家族に接しているからとそこに喜びを持つ。真由美は仕事ばかりで優しさのなくなった夫に不満をもち仕事に生きがいを見つける。綾子は少女のようなままの乙女心で秀明に恋をし王子様を求める。 しかし、この四人の幸せや生きがいはもろくも崩れ去り、最後の修羅場に進む。 この最後の修羅場は、読んでいると悲しみとともに笑いを誘われる。山本文緒さんに「人それぞれは修羅場に生き、そんな修羅場でさえ喜劇なのよ」と微笑まれているような気にもなる。 思い描がいていた幸せに完全な幸せなど存在しないということだろう。 また、この作品のもうひとつの主題は、理想的な男や女も存在しないということだろう。 結婚生活の幸せは、男女間が一緒に生きるということであるが、完全な幸せなど存在いないのと同じように、完全に理想とする男や女もいないということである。 真弓は男から見ればいやな女と見える。太郎は、女遊びをする助平な中年男である。それに対して、綾子は健気な妻として男が好む女、秀明は、スマートで女に好まれる。このようにこの作品の前半では見えるが、やはり最後の修羅場に向かってその見方も裏切られていく。 結局は、やはり思い描く幸せと実際の幸せは一致しないということだろう。 もちろん、今の生活に我慢をして生きるしかないのだというような消極的なことを言うつもりはない。もっと幸せが、もっと違う生き方がと、一歩出たとき、そこにあるのは日常からそうは遠くない世界ではないのかということである。 金がないよりあったほうが幸せであることに間違いはない。出世をしたり金持ちになることへの幸せ感はある。しかし、もしそのために家庭をもてないとしたらその金という幸せはやはり幸せではなくなる。多くの人が思い描く幸せの条件を全て兼ね備えて持っている人などいないのではないか? そうならば、そこには必ず誰でもがもっと違う幸せや生き方を思い描き、そこに今ある幸せを忘れることになってしまう。 幸せの条件、それはさまざまであるが、その幸せを思い描く人全てが持つものそれは、平凡な日常である。 それぞれの人の条件は違うが、この平凡な日常に喜びや幸せを感じ取れなければ、好条件にいる人も幸福感はもてないだろう。 銀色夏生さんの言葉に次のようなものがある。 「自由さは時には心細いものなので、信じられるなにかを持つ人はたいへん力づよいです。その信じられる何かが、「かわいらしいものをちらっと見てしまったときのよろこび」や「おもしろいことをふいに思いついたりすることのしあわせ」のように、いつでもどこでも存在するものだったりするなら、あなたは大丈夫です。 (角川文庫「このワガママな僕たちを」背表紙より) この言葉の中に平凡な日常があるのではないかと思います。 秀明はつぶやく、「もう帰ろう。自分には帰る家があるのだから」と。 ここに不満を持ちながらも平凡な家庭があるのだ、生活がありそこに帰ろうというものが見える。 そして山本文緒さんは、この作品の題である「あなたには帰る家がある」と読者に言う。 金があるだけでは幸せとは限らないが、金があることは幸せの条件である。 仕事も家事も男女平等は理想かもしれないが、この平等は幸せの条件でもある。 これらは、個人(家庭や夫婦間)の条件ではあるが、同時に根本的には社会的条件である。 このことは忘れてはならない。 2004年3月8日 記 夕螺 |
神様 |
中公文庫 |
川上 弘美 著 |
「神様」をはじめ、九つの短編からなる短編集です。 「神様」は、「くまにさそわれて散歩に出る」という言葉からはじまり、最後の短編「草上の昼食」は、そのくまからのお別れの手紙に返事を書くところで終わります。 神様とは、熊の世界の神様。熊の神様にお祈りをすると同時に人の神様にもお祈りをしてこの短編集は終わります。 このように、さまざまな不思議なお話の短編集ですが、すべての作品が独立をしているかといえばそうではないのかもしれません。主人公の女性華子は、全編に共通します。 最後に華子は熊の神様に華子は何をお祈りしたのか。 はじめの短編「神様」では、熊は「くまの神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」と言う。華子は「くまの神様とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった」と。 最後に華子は、なぜくまの神様にお祈りしたのか?ここがこの作品の主題ではないでしょうか? 「夏休み」は、夏の不思議な体験と夏が終わる寂しさを現しています。とても心にしみるお話です。「花野」は、死んだ素敵な叔父と対面し、世間話のようなお話をする。叔父は実態のあるものには触れられないはずなのに、最後に大好物のソラマメをつまみ食べることができ感謝をする。暖かい気持ちになれます。 その他の作品も、心を暖かくさせるものがあります。 くまの誠実さに暖かいものがあります。 くまの神様が与えてくれた「お恵み」とは、こんな人の心を暖かくしてくれるような不思議な世界なのかもしれません。しかし、それは現実の世界のある面でもあるのかもしれません。 華子は、最後に、これをくまの神様にお祈りをして感謝したのかもしれません。 素晴らしい作品でした。 解説には、「これは夢だ」とあります。また、夢であることからと言ってフロイト的な夢分析(性を中心とした)をしてこの作品を分析してはならないと書いています。 僕は、この作品は夢ではないと思います。 夢の世界のようではありますが、川上さんの内面を表した作品でしょう。内面に沸き起こるものを自動筆記のように思うままに描いていく、これが川上さんの作品です。でも、内面を見つめてそれを計算高く不思議な世界に現したというような打算は川上さんにはないと思います。自然になるがままに描いたということが伝わります。 2004年3月15日 記 夕螺 <加筆訂正>2005年9月16日 上の感想で、主人公「わたし」を華子としましたが、華子は、「わたし」の叔父の娘で、「わたし」の従姉です。 主人公「わたし」は、一人のある女性としておきます。 |
きれいな色とことば |
新潮文庫 |
おーなり 由子 著 |
暖かさを感じて思わず上着のボタンをはずしたとき、春の風が体を包む。そんな季節を感じるとき、いつも見慣れた風景も新鮮に感じられます。 それぞれの季節に光かがやくような風景を見ますね。心ははずみます。 もしいつもの風景が光かがやくように見えたなら・・・・そんなときにこの作品を読めたら楽しいだろうなぁとおもいます。 いつもの風景にもさまざまな色がある。季節はさまざまな色を作り出す。あるときは青だったり赤だったり、黄色だったり・・・・・ そして心の中にもたくさんの色がある。 悲しいとき、楽しいとき、恋をしているとき、ときめいているとき。。。。 そのときのあなたたちの心の中は何色?と、問いかけられているような気持ちになります。 でも、心の中の色は、言葉としてうまく伝えられないものがあります。 おーなりさんは、そのことを何度か書き、なぜ伝えられないのだろう、なぜ言葉として出てこないのだろう、もし伝えられたらこんなうれしいことはないと書いています。 言葉では伝えられない心の中の色。言葉では伝えられないけどなぜか伝わることがある。心と心のつながり。そんなこともありますね。 この作品は、きれいな色がいっぱい。おーなりさんの心の色がなんとなくわかるようなそんな作品です。 言葉をうまく駆使して読者の説明をするような文章ではなく、一つ一つの短い言葉に心の色を見せてくれます。だから読んで納得というのではなくておーなりさんの短い言葉を感じ取って、そこにおーなりさんの心の色を見ることができます。 言葉・文章って、こういうものなんですね。 本にはいろいろなジャンルがありますが、言葉や文章で伝えるのではなく、言葉や文章を通じて作者の心の中を読者の心の中へなんとなく伝えるというのが素敵な本なのかもしれません。 もうすぐ春分。春の色を感じたら、そんなときこの作品を読んで見てください。きっといつもの風景が輝いて見えますよ。。。。 2004年3月17日 記 夕螺 |
エンジェル エンジェル エンジェル |
新潮社文庫 |
梨木 香歩 著 |
コウコがコンセントを入れると、熱帯魚の水槽のモーター音が「ブーン、ブーン」と鳴りはじめた。さわこは、講堂の天井扇の「ブーンー」という音を聞いた。 この「ブーン」という音は、ボケはじめていたさわこの記憶を呼び覚ます。コウコにとってもこの音のする水槽はある意味を持つ。音は重なり合っていく。 コウコは、学校の先生の偽善を偽善だと訴えられずにそんな自分をやはり偽善だと苦しむ。佐和子は、自分の邪な願いが現実になってしまったことに苦しんでいた。孫と祖母は苦しんでいる。 この作品は、「ブーン」という音に誘発されたさわこの記憶と、その記憶など知るよしもなくさわこの言葉に答えるコウコを相互に織り交ぜながら進む。さわこもコウコの苦しみは知るよしもない。 そんな二人の会話は不思議なものである。 梨木さんらしく絶妙な構成として進んでいく。内容に触れるとこの絶妙さおも伝えることになるので、後から読む方のためには触れない方がいいと思う。 感想としては、なぜこの作品のタイトルがただの「エンジェル」ではなく、「エンジェル エンジェル エンジェル」なのかということである。 コウコとさわこの自己嫌悪は、二人が直接手をくだした悪ではない。誰もが心の中に沸き起こるような邪なものだったり弱さだったりするものである。人は完全な善や強さを求める。しかし心にはどうしようもない邪なものや弱さがある。この葛藤がコウコとさわこの苦しみであり、自己嫌悪である。 エンジェルすなわち天使は完全な善であるはずである。しかし悪魔と戦う。この中に完全な善はなくなる。ある意味では自己矛盾である。 神は万物を創造した。しかし出来上がったものは矛盾したものあるということ。 水槽の中のある1匹のエンジェルフィッシュは、他の魚をすべて殺して食べてしまう。この悪魔のように見えたエンジェルフィッシュも死ぬ。コウコとさわこは庭に埋めようとする。さわこは怒りのままにそのエンジェルフィッシュを石でたたく。しかしその後「私が悪かったねえ」とつぶやく。そして続けて言う。「神様もそうつぶやくことが終わりだろうか」 完全な善である天使も完璧ではない。ましてや人は善と悪の葛藤の中にいる。こんな人間を作ってしまった神は「私が悪かったねえ」とつぶやくのか・・・・・ ここに自己嫌悪を持つ二人は救われる。 しかし、これだけなら作品名は「エンジェル エンジェル」である。 完全な善を求める人間と、邪な心を持たざるを得ない人間。完全な善である天子と、悪魔と戦うある意味では完全な善から逸脱した天使。これは「エンジェル エンジェル」である。 ではどのように「エンジェル エンジェル エンジェル」というタイトルが仕上げられるか? それは自己嫌悪である。葛藤する心である。矛盾を矛盾としながらもその矛盾からいかに新たな自分を作るのかということである。これが最後のエンジェルであり、「エンジェル エンジェル エンジェル」は仕上げられる。 フセインを悪魔と規定をし、われわれは平和(善)を求めると天子のような心を示す。しかし悪魔とは戦わなければならない。悪魔というフセインを天上から投げ捨てる。これが神の御意思だ。しかし懺悔はしなくてはならない。神よ救いを・・・・ これでは永遠に人間の矛盾からは脱しきれない。ヘーゲルの言う矛盾を通した発展による神の意思への近づきはありえない。なぜテロという悪魔が根付くのか?この解決がなければ、地球上の富と貧富の矛盾が解決しなければならない。人間が一段高まるにはここに重きを置かなければならないはずだ。 人の心の中にある自己嫌悪や矛盾、これに気付くこと自体が神の御心に近づくことである。ここに人の発展はあり、完全なるエンジェルに近づくことである。 祖母さわこは亡くなる。水槽の台からさわこの家のお手伝いさんであった人が作った天使像が出てくる。その天子の羽はまるで鷲が羽を広げたようなものであった。しかし痕跡として天子の柔らかい羽を作ろうとしていた。 2004年3月19日 記 夕螺 |
日々の考え |
(株)リトル・モア |
よしもとばなな 著 |
よしもとばななさんの公式ホームページで日記が公表され、この日記は文庫本「yosimotobanana.com」として3冊発売になっています。 この「日々の考え」は、上記の日記とほぼ平行しながら雑誌でしょうか?「リトル・モア」にエッセイとして連載されたものと、インタビューを出版したものです。 本の帯には、「赤裸々な裏日記」と書かれてありますが、ホームページでは公開できない?下ネタや家族のこと、友人や身の回りに起きたことなどを自由に書いています。また、インタビューでは選集(4冊)の題であるライフ・オカルト・ラブ・デスに沿って作品や生き方について触れています。日記「yosimotobanana.com」を好きな方は必見の本です。 よしもとばななさんは、潔癖なところがあるのではないかと思います。その潔癖さは、自分の世界にそして人やいろいろな事柄の中に本質的なものを見つけることにあるように見えます。 作品を作るにしても取材や経験を重んじます。この経験という点では、オカルトも重要な要素であり、金儲けを表に出すようなものは否定をして自分という人間を完成させるような目的のものを重んじているようです。仏教で言えば、大乗仏教ではなくて小乗仏教という自分自身で修行をして自分を完成させるようなものです。日本の仏教は合わないが、「アムリタ」はチベット仏教だといいます。たしかチベットのほうは小乗では? このような意味で、読者が描いているばななさん像とは違うもっと奥深くなばななさんの信念からの潔癖さを感じます。 友人関係においても、その人の中にある本物を見ているような気がします。どこか変わり者のような印象を受ける方々が出てきますし、行動にもどこか楽しい方が出てきます。しかしその中にどこか悲しみを背負ったような・・・・これは、「日々の考え」のエッセイにある面白楽しくそしてその中にも鋭い見方をするばななさん自身の行き方でもあります。そしてどこか物悲しいような・・・・ ここにばななさんが好む人間像があるのではないかと思いますし、読んでいると自分の好む人には最大限の誉め言葉を送るというような僕から見ればどこか「身内意識」が強すぎると受け止められるのですが、ばななさんは、本物の人間を自分の主観において潔癖なのかもしれません。 潔癖だからこそ、人のいやなところも目に入ります。人を批判している文章も多くあります。これは他の作家への見方や作品の見方にも現れているようです。 自分をしっかり持とうとすれば、ぶつかりも多くなります。ご自身の作品の傾向が変わったときに、読者が離れたというようなインタビューの中身がありましたが、逆にばななさんに近づく読者もいるでしょうから、作家として自分を大切にすることは長い目で見ると幅広い作家となっていくのではないかと思います。 こんなばななさんは素敵だと思います。 あとはばななさんのオカルト傾向や生き方、潔癖さの中身に好き嫌いが出るということだと思います。僕自身はオカルトにはあまり興味はないのですが、オカルト傾向は、作品のひとつのジャンルと考え(推理小説・ファンタジーなどと同じように)、ジャンルを超えて人間(女性)をどのように表現するのか、そこにばななさんが何を言いたいのかをこれからも楽しみに読みたいと思います。 2004年3月26日 記 夕螺 |
昔の恋人 |
集英社文庫 |
藤堂 志津子 著 |
裏表紙の解説に、「著者自身の体験を色濃く反映した傑作」とあります。 この作品は、表題作の「昔の恋人」その他4つの短編からなるものです。それぞれの短編は独立した作品ですが、30歳代、40歳代の女性がそれぞれに昔の恋人に再会する作品であり、見方によっては、一人の女性のそれぞれの年齢に応じての恋の思い出を描いているのかもしれません。また、恋だけではなくて結婚生活における家族関係も描かれています。この作品は、1999年に発表されたものであり、藤堂さんが50歳を迎えるあたりの作品であり、全短編を含めて藤堂さん自身のこれまでの人生を振り返った作品なのかもしれません。 もちろん一つ一つの作品は、家族構成にも微妙な違いがありますし、昔の恋人との再会の仕方にも違いがあります。この意味では、それぞれの短編に描かれているストーリーそのものが藤堂さん自身の実体験というわけではないと思います。ストーリーや家族構成の微妙な違い、恋人との再会の仕方、これらの違いをふまえてこの短編集を読んだとき、そこに共通する何かを読み取ること、または一人の女性のそれぞれの年齢における恋や再会後の生き方などの中に藤堂さんの現したかったや藤堂さん自身の経験に触れられる何かがあるのかもしれません。ですから、一つ一つの短編のストーリー自体をそのままに藤堂さんに結び付けてはならないのかと思います。 短編「昔の恋人」は、毎日を忙しく仕事をこなす30代後半の織美が主人公として登場します。そして20代のころの恋人に再会をする。織美の20代の恋がよみがえる。上司の嫌がらせで会社を辞め、その頃付き合っていた好きでもないとの性的な関係とその男の友人である男との関係。若さにまかせた酒と男の生活。昔の恋人との再会を挟んで、このような20歳代の経験を思い起こす仕事に生きる30歳代の織美。20歳代の自分を振り返るとともに、今ではそのような生き方は出来ない今の自分の時間的な変化を感じ、この時間的な変化は、同時に昔の恋人の中にある謎の部分になぜか惹かれた自分が、今再会をして男の謎を知ることにもある。 織美は、昔の恋人との関係や無茶な生活の思い出に区切りをつけて仕事に生きる自分を柔軟に肯定できるようになる。 短編「浮世」は、仕事に生きる、というよりも女一人で生きていく30歳代の宇多子が登場する。宇多子は、継母との不幸な生活はあったものの、その不幸を自分なりに心の中で切り替えて「自分はついている女」と思い込むように生きる。兄夫婦のような質素な平凡な生活に反発をし、愛人として多額の金を得ることも「つき」と思い込む。そこにまた「つき」がやってくる。年下の昔遊び相手だった歯科医師を約束されたお子からのプロポーズ。宇多子は愛は感じないが安定された生活に有頂天になる。 こんな宇多子という女をつくった原体験は、継母の「おまえは醜い」という言葉によってである。しかし現実は宇多子には男をひきつける美貌が合った。これが「自分にはつきがある」という生き方になる。しかしその「つき」は揺らいでくる。年老いた継母の姿に「私にはつきがある」と見返すと同時に、年老いた姿はいつか自分の姿であると思う。 有頂天になるような美貌。その中でのこれからの時間の流れは、女性にとって特有な不安があるのかもしれません。また、金になる美貌も、やはり心や体の中にはすべてを捨てきれないものがうかがえます。 短編「貴石」は、夫と死別した40歳代の菜未子が登場します。アメリカに留学をした息子、実は薬物中毒で逃げるようにアメリカへ行っています。そこにやはり死別した婚約者の弟と再会をする。婚約者の弟とはいえお互いに特別な感情を持っていた。菜未子は、40歳代を迎えその美貌の衰えに不安を持つ。この中に女性にとっての時間の流れの中の変化がある。菜未子は、同時にこの男の友人であった男と愛人関係にある。しかし、男も菜未子の料理を楽しみにしているだけであり、菜未子自身も30歳代のような肉体関係を欲しなくなっている。ここにも時間の流れがある。この三角関係は崩れていく。菜未子に残ったものは、どうしようもないかもしれない息子への母性であった。ここに女性としての時間の流れを感じる。 貴石、これは宝石の原石である。磨けば光る。息子は貴石か?不安はありながらも菜未子に残ったのは母性。たった一つの生きてきた証。 短編「魔法」は、40歳代後半を迎えた主婦の睦葉が登場する。女癖の悪い男と再会をする。睦葉は高校生の娘と自然な話ができるような40歳代後半としては女性としての魅力を残した女性。そして良き夫。そんな睦葉は、男との再会で高い下着セットをローンで買う。そんな自分を恥ずかしいと思うと同時にまだ残る女の魅力を感じる。 男とは若い頃にその女癖に泣かされ恨みを持つ。しかしそれがまた惹きつけられるものであった。魔法にかかったように睦葉は男に近づく。しかし同時に自分自身が若い頃にこんな女癖の悪い男に恋をしてしまった経験を娘にダブらせる。娘が同じような恋をしてしまったら・・・ここに睦葉の母性が出る。 ローンで買った下着セットを付け睦葉は男と会う。睦葉はこれっきりにしようと男と別れる。ここにある睦葉の心の中は母性でる。睦葉は、娘が自分と同じ失敗をしないと確信する。良き夫の血を引いているから。しかしその血は辛らつで冷笑的で現実的だから。幸せな家庭に戻るという意味は? 母性とは何かを感じます。 このようにこの作品は独立をした短編からなっていますが、それぞれの短編にテーマがあると同時に関連性があるというのか、それは一人の女性の半生をも描いています。それも、女性としても華やかな時代の半生です。これがこの作品の主題のひとつではないかと思います。 もうひとつは、登場する昔の恋人であった男と一人の女の関係です。 そこにあるのは、どことなく掴み所のない男と、その男に振り回されながら魅力に取り付かれていく女です。 男は謎を隠す男であったり、精神的に幼い年下であったり、女癖が悪かったりしますが、そこにあるのは女性が魅力を感じながらももうひとつ飛び込んでいけない男です。 同時に、つかみ所のない男に恋をしてしまう、魅力を感じてしまい平凡さに満足できない女性です。このような男女が離れ離れに過ごしていく時間。お互いに夫・妻となり、そして父親・母親となり、いつしか父性や母性に生きている。この時間の流れをしみじみと愛しく感じられる作品なのかもしれません。 また、80年代に生きた三高(背が高い・高学歴・高収入)を恋愛関係として求めた女性たちの時間の流れでもあるのではないでしょうか。もちろんすべての女性がこのような三高を求めたはずはありませんが、平凡な恋をして平凡な結婚をした女性でも同じ時間が流れているのであって、その点では必ずその時間の流れはあります。その時間の流れがどういう道筋を通ったかの違いはあるにしても、この作品に描かれる女性の半生は共通するところが必ずあると思います。 2004年4月2日 記 夕螺 |
天使の卵 |
集英社文庫 |
村山 由佳 著 |
主人公の歩太は、19歳の浪人生。 桜の季節になろうとしたころ、電車の中で春のようなさわやかな春妃に一目ぼれをする。春妃は偶然にも歩太の父親が入院をしている病院の医師であった。歩太の一途な恋がはじまる。春妃は歩太より8歳も年上の女性であったが、電車の中での出会いは込み合った社内で壊れそうにも見える春妃を歩太が守ろうとするような出会いで、これが二人の仲を暗示する。歩太の父親の死を自分の責任と考えた春妃を歩太は支え(守)る。春妃はそんな歩太の一途な思いに応えていく。 歩太の一途な思いは、自分が浪人生という経済的な基盤がない中でのものであり、歩太自身もここに自分自身が大人になろうとしてはいるがまだ経済的な面では自立していない自分を見る。19歳という大人であると同時に子供である青年をうまく表現をしています。 一方の春妃は、こんな8歳も年下である19歳の青年の一途な思いに戸惑う。しかし昔の夫の自殺という面では精神的には今にも壊れそうな状態でもあり、恋をする気持ちはもうない。しかし19歳の青年の純粋で一途な気持ちは春妃の心の支えでもあるようになる。 年上の女性に恋憧れるという一面ではよくある話の小説だが、その一途さに応えていく一人の女性をうまく表現する中に単なる純愛小説ではない。やはり恋愛小説である。 この恋は悲劇で終わる。春妃の突然の死。 歩太は絶望する。 春妃の両親は歩多を非難する。二人で暮らした部屋を、思い出のたくさんある部屋を出て行かなくてはならない。歩太は春妃を死なせてしまったことでは守れなかった。そして思い出の場所の部屋も経済的な自立のない歩太は守れない。ここにやはり大人であると同時に子供だというものが現れると思う。 春妃の死が医療ミスであったことに歩太は救われるが、最後に交わした喧嘩のような言葉に後悔をする。 しかしこんな絶望の中にいる歩太だが、思い出の部屋にあった歩太自身がj書いた春妃のデッサン帳をめくる。絶望の中では開けなかったデッサン帳。これを開いた時に歩太にとっての春妃は思い出となる。19歳の歩太は生きていかなければならないと思う。 歩太は、父親の死のときも涙を流さずに春妃のことを考えた。春妃の死はすぐに思い出となった。これを責めてはいけないだろう。 歩太のような年頃の子を持つ僕としては、父親の死などは忘れ恋する女性を大切にしてもらいたいという親の心がある。19歳の青年というのは、このように大人にとっても親にとっても大人でありやはり子供である。同じように8歳も年上の女性から見たら、自身の死は無念だろうが歩太を愛おしく思うだろう。この愛しい気持ちから早く歩太の立ち直りを願い死んだだろう。 春妃の死という悲劇に終わるが、ある程度年をとったものがこれを読んだときには、たんなる悲劇ではなくて青年の未来に向うエネルギーを頼もしく思う。歩太が父親のように自殺を選ばないで生きていこうと立ち直ることに安堵感が出てくるのである。悲しいが歩太の未来を願う中に救われる。 2004年4月13日 記 夕螺 |
おめでとう |
新潮文庫 |
川上 弘美 著 |
「おめでとう」を含む12の作品の短編集です。 「おめでとう」は、西暦3000年の東京。東京タワーは遠くから見るとすごくきれい。でも一日かけて歩いて行って見るとそれはぼろぼろだった。人は何人かいるけれど孤独が支配する東京。東京にはたくさんの人がいたというが、でもその人たちがどんな人なのかはわからない。今いる何人かの人々とももう何日も会っていない。寒いです。寒いです。。。。。 その何人かの人々の中にあなたもいた。西暦3000年の1月1日に私たちは固く抱き合った。今日が1月1日という時間の感覚すらない。ただ寒くなった夜におめでとうというものらしいことから彼はおめでとうといった。そして私もおめでとうといった。彼はこのおめでとうという言葉を残し去っていった。 寒いです。寒いです。。。。。 でも私は言います。おめでとう・・・・・ たぶん1月1日の夜。窓から東京タワーが見えるホテルで彼と会い、硬く抱きあい、おめでとうの言葉を交わして別れたことの悲しみを書いたように思います。二人は社会から孤立をしている。それは東京にたくさんの人がいるが、二人にとっては別の世界のよう。西暦3000年の世界に二人はいる。東京タワーは窓辺から見るとすごくきれい。でも、近づいていったら世間の中に入っていったら、その東京タワーも二人にとっては無機質なもの。二人は西暦3000年の中にいる。でも彼はおめでとうの言葉を残し部屋を出て行った。 私は一人西暦3000年の寒い世界に取り残された。あなたが抱きしめてくれたあの感触と、おめでとう野言葉は、世間の中の寒さから思えば二人としてはすごく暖かなものだった。でも、今は寒いです。 こんな情景が浮かびます。 この短編集は、それぞれにいろいろな題材を持ちますが、そのそこにあるのは、世間の中で生きる寒さと、その中にあって人肌の温かさと心の温かさをもてめるものであると思います。 この暖かさ・・・慰めといってもいいのかもしれませんが、それは恋愛だけではなく、同性愛を思わせるようなものもあり、このような恋愛事態をも超えた人同士の温かみを求めているのではないかと思います。 銀色夏生さんの詩に「セブンイレブン病」というものがありますが、夜勉強をしていると急にコンビニの明かりが恋しくなり自転車を飛ばしていってしまう。そこには友達がいる・・・というような詩であったと思います。ここには若い人の人恋しさや心の温かみを求めるものが表現されています。このような若い人たちの社会の中での寒さと温かみを求める心も含め、恋人同士や夫婦の家庭、その中にはこの温かみを求めるものがあるのだと思います。 恋愛は、心の奥底に無意識なものだとしてもこの心の温かみや安定感を求めるものではないのかと感じます。 こんな思いで、短編「おめでとう」は、何回も読んでしまいました。 2004年4月16日 記 夕螺 |
つめたいよるに |
新潮文庫 |
江國 香織 著 |
「つめたいよるに」と「暖かなお皿」という二つの短編集がまとめられた本です。 どこか不思議な世界を描いたような短編集です。 生と死の境目がどこにあるのかわからなくなるような幽霊がでてくる物語や、時間のはかなさや流れを忘れてしまうような話。ボケのはじまった老人とその人生、逆にこれからの人生を瞬間のうちに体験するような話。何気ないがどこかユーモラスな日常を描いた話など。 短編集「つめたいよるに」と「暖かいお皿」はこのように独立した短編からなっていますが、対というのは変ですがどこか共通したものがあります。二つの短編愁訴してそれぞれにあさめられた短編は、どこか共通したものがあり読み終わると全体を通した何かが心に残ります。それが何なのかがうまく言葉で書けません。 しいて言えば、人が生まれて死んでいくという人生のはかなさがあります。同時にそのはかない人生のその瞬間にはさまざまな日常があり、そこに人間はたしかに生きているのだという実感を感じるということです。 「夏の少し前」の中学生洋子は、誰もいない教室に一人座る。好きな人がいる。その好きな人が呼びに来る。その男は夫となっている。校門を出るともう娘がいる。信号を渡ろうとするともう孫がいる。そこには白髪の夫も。。。。洋子の人生があっという間にすぎていく。 「鬼ばばあ」や「晴れた空の下で」では、ぼけ始めた老人が、まさに昔のことはよく覚えているといわれるように、過ぎた人生を今の自分にダブらせる。 過ぎ去った人生は短いものと感じられる。過ぎてしまえばあっという間の人生で、中学生の一瞬の人生体験も老人の失った時間もどちらもが人生のはかなさを感じさせる。 しかし時間はある人間の死であると同時に新たな人生の始まりを表す。「いつか、ずっと昔」は、れいこが過ごしたさまざまな過去の人生を思い出す。あるときは蛇に生まれ、あるときは豚に生まれる。そのときの恋人を思い出す。ここに世代を重ねていくという生の連鎖を感じる。「草之丞の話」は、昔に死んだ武士の幽霊が自分の母親と暮らし二人のあいだに自分が生まれてしまったことを知るという話であるが、これも昔からの生の連鎖が続いているととらえられなくもない。 それぞれの人生ははかない、しかしその命は時間の流れの中に連鎖して流れている。生ははかないが、また永遠でもある。 でも、その生の連鎖は、「夜の子どもたち」の中に現れる子供の知らない大人の時間を描き、「子供たちの晩餐」は、大人の知らない子供の時間を描く。性の連鎖も、その遺伝子の連鎖としては永遠だが、個の人生は、独立をしている。 「コスモスの咲く庭」の男は、子供たちも大人なになり、妻も娘と出かける中で、一人の遅い目覚めを迎える。そこでもう数十年のたったことのない台所で昼食を作るという話である。うまくできな唯一の得意料理の海鮮焼きそば。出来上がったころには妻や子供たちが返ってきて「何をしているの」と。たったこれだけの物語だが、この中に男人生を感じる。人生なんてこんな一コマひとコマが重なって時間の中を漂っていく。過ぎ去る人生ははかないが、こんな一こまの人生の断片に喜怒哀楽があり、生そのものがある。 これが、いろいろな日常を描く短編として描かれているのではないかと思う。 川上弘美さんの短編集を読んだすぐ後にこの作品を読んだため、どこか川上作品を案じさせるものを感じた。 2004年4月26日 記 夕螺 |
命四部作 第一幕 命 |
新潮文庫 |
柳 美 里 著 |
柳さんのおなかの中に命が宿る。父親は妻のいる男。ひとつの命のはじまりがひとつの恋の終わりを迎える。 ひとつの命がはじまるときに、ひとつの命の終わりが近づく。昔の恋人の東由多加の癌が発覚する。 しかし、このひとつの命のはじまりと終わりは、死にゆく悲しみとその命を引く継ぐ未来への明るさという単純なものではない。新しい命は祝福されない。父親からも。柳さんからも。 柳さん自身も自殺という言葉を何度か使う。この意味では柳さん自身の命も尽きようとする。柳さん自身の命がなくなるとき、新たな命もなくなる。 このように柳さんが描こうとしている命は、危うさを多分に含む。 東由多加は、妻とも離婚をしているので家族がない。柳さんも過程の崩壊がある状態。もちろん新たな命はまだ社会に出ていない。3人の危うい命は3人で寄り添うことで維持される。3人は孤独である。柳さんの場合は、在日の韓国人であるが日本語しか話せないし書けない。この民族という点でも孤独があるように見える。 もちろん東由多加にも友人がいる。柳さんにも助けてくれる人がいる。しかし3人が暮らす中でのそれぞれの命は、3人がそれぞれに寄り添う中にある。 この3人は家族ではない。しかし、ある意味では家族以上の寄り添いの温かみのある人間関係である。それはやはり3人の命そのものを維持していく上での切羽詰った関係の中で生まれるものだろう。 柳さんは、子供を生むことを東由多加に頼る。新たな命は、生命維持としては柳さんに頼らざるを得ないが、この世に誕生するには東由多加に頼る。東由多加は、癌と闘うのならもっと他に生活は考えられるだろうが、柳さんを精神面で支えることと、新たな命を見ることに心の支えがある。 柳さんと東由多加との関係は、恋愛関係にはない。柳さんの夫は、やはり別れた男であり、新たな命の父もその男である。東由多加は、この点で新たな命の父親にはなれない。どちらかと言えば柳さんの父親のようなそんな柳さんの頼り方があるのではないかと思う。 子供の認知を渋る男。出生前に日本人の父親から認知されなければ子供が日本の国籍をもてないことなど、読んでいると寒さを感じる。この寒さに対比するように3人の寄り添う暖かさが読者をも包むような気がする。でも、この温かみは、普通の一般家族の暖かさではない。やはり失われるかもしれない命の支えという切羽詰まった暖かさである。 しかし文体や少し大げさではないかと思うような表現に違和感を感じることもあった。この作品が、日記と言う書き方で進んだならまた違った表現になったのではと思うが、東由多加の死後間もない時期に書きはじめられたようだが、やはりひとつの作品として仕上げられ、柳さんが劇作家であるという、また東由多加も演劇人であるということからも、読んだ感じとしては演劇である。 死後間もない時期に書かれたことは、東由多加の意思でもあったと思う。東由多加の闘病を支え、新たな命を生み育てる中での柳さんの金銭的な窮乏。柳さんと新たな命を守ろうとした東由多加の心残り。この心残りをどのように二人に残せるかと言えば、書くことしか出来ない柳さんに書かせることであったろう。 2004年4月30日 記 夕螺 |
魂 |
まず、上記「命」の感想の最後に、「東由多加の死後間もない時期に書きはじめられたようだが、」と書いたが、「週間ポスト」に「命」をほぼ同時期の生活を連載していたようなことが「魂」(175ページ)に書かれていました。東由多加の死後間もない時期にあとがきを書き出版されたようで、上記の感想は修正します。 東由多加が生活の中とほぼ同時に書き進められ連載されていく「命4部作」は、柳さんが書くことしか出来ない人だということへの理解と、柳さんとともに日本の癌医療システムの現状を示す気迫で連載をしていたのかもしれません。病院名も医者の名前も公開されていますし、それが週刊誌に連載をされているという面では、それぞれの病院や医者にはすごいプレッシャーをかけていたのかと思いますし、柳さん自信もそのためには書く中身について正確さを求められたでしょうし、それが柳さん自信のプレッシャーにもなっていたのでしょうか。妊娠出産、東への世話や癌医療の最先端を調べるなどの中での執筆、辛かったことと思います。 このように見ると、「命4部作」は、文芸作品ではなくてドキュメントのような性格もある本なのかもしれません。 かといって癌との闘病が主題かといえばそうでもなく、在日の韓国人の方の現状を含めたお子さんの父親へのそして生まれたお子さんのの立場への暴露といった感じもします。たぶんこの父親の男も週刊誌を読むでしょうから、相当なプレッシャーも与えると思います。これも柳さんの「命4部作」の主題かと思います。 先の「命」の感想でも書いたと思うのですが、ガントの闘病と消えゆきそうな命、不幸の中に生れ落ちた新たな命、この二つの命が「命4部作」として描かれていると思います。 しかしこの中には命の尊さに主題はありません。もちろんかけがえのない命と守らなければならない命の尊さはありますが、「魂」の最後は、若い頃に東と同姓をしていたころの約束を思い出して東を殺す(ある意味では安楽死)ことを考え、そのあとは自分も死ぬことを考え「共に生きる時間は奪われたが、共に死ぬ時間は残されている。」と結ばれています。お子さんは誰に育ててもらうかを考える。 ここには命の尊さという主題はありません。 柳さんのエッセイ集「言葉は静かに踊る」の感想に、死を審美的に見ているという事を書きました。「命4部作」においても、命は尊いものというものより死の審美的な見方が先を行っているように感じます。死を審美的に見るところから出てくる言葉や行動自体が、先に書いた「命」の感想である芝居じみたという僕の感想になるのかもしれません。こうしてみたとき、柳さんは、不幸あるいはその中に純粋さを求めながら身を置いていき、その行き着く先にある美しい死を演じているような気がします。 このように書くと柳さんという方を批判しているような印象を与えてしまいそうですが、僕は作家の方の実生活自体にどうのこうのという感想は持ちません。一人の女性の行き方がそこにはあるとそのままに見ます。「命4部作」は、このように一人の女性の生き方としての作品として読みきりたいと思います。 2004年5月7日 夕螺 |
生いきる |
310ページに産声をあげないままに死んだ幼い女の子の戒名が4体書かれている。東由多加と柳さんとの子である。柳さんが17歳のとき。 妊娠悪阻のための堕胎のシーンが続く。母性保護である。この書かれている堕胎のシーンが初めてのときだとすれば、他の3人の赤ん坊はなぜ・・・・・ 39歳の東は言う。産むの?おろすの?俺と結婚する?おろすなら早いほうがいい。 妊娠12週。堕胎された子は法律上出産したことになり、戒名も残る。 「生」は、「命」や「魂」に比べると、どこか落ち着いた時間が静かに流れるような気がした。東の命が助からないことがはっきりし、癌との闘いが治癒ではなくて一日でも長く生きられることに移る。この死というどうすることも出来ないものを静かに受け止めなくてはならない柳さんの気持ちが文章に表れているのかもしれない。 しかし、上に書いた4体の戒名と東の言葉に愕然とした。 一人ならわかる。しかしなぜ4人も。。。。。。 二人がほしいと思った子ではなかったのだろう。 4巻にもわたる東由多加の命の叙述。この命という叙述は、命の何を訴えようとしているのだろう? 東は、死ぬ数日前に柳さんに言う。 俺が死んだらあなたも死ぬつもり?早く子供を養子縁組にしたほうがいい。あなたには育てられない。 「魂」のラストに柳さん自身も東を殺し自分も死ぬ覚悟をする。 生れ落ちた赤ん坊の命は、養子縁組で。。。。。 もう、ここには東と柳さんの美的な生せいがあるだけである。そして美的な死を演出することのほかはないような気がする。 これが二人の愛情とするならば、僕には芸術家の持つ恋愛や愛情の気持ちは理解できない。 柳さんは、まさに生きる。 しかし「魂」のラストで死ぬといいながらなぜ死ななかったのか?何も死ぬべきであったなどとはけして言わないが、なぜ生きることを選んだのか。もしかしたら、東の命も柳さんの悲惨な人生という美的な人生の中に流れていたひとつの時間でしかないのではないのか。 東の死、子供の父親の非情、経済苦など、あるいは消え逝く命、生れ落ちる命と、これでもかこれでもかと柳さんがうったえる言葉に重みを感じなくなってしまう。 「生」のラストシーンは、東の死である。 命四部作の最終章は「声」であり、東の死後に柳さんが「命」「魂」「生」で書いたものをどのようにまとめるのか、特に命というものをどうとらえてまとめるのか、そこを読みたい。 2004年5月19日 夕螺 |
声 |
「命四部作」最終編です。 「命四部作」というこの一連の作品の総称、第一幕「命」という題名、愛する人の死と同時に新たな命の誕生という舞台設定。演劇界やテレビ・映画などでこの作品の予備知識のない僕にとっては、命の尊さというものを別な意味で考えさせられました。この作品は、漠然とした命の美しさやそこから来る命への尊さを先入観としてもって絶対読んではならない作品です。 この作品の主題は、命ではなくて恋人と一口では言い表せない東由多加という男と柳美里という女の「愛」であり命の裏側としての「死」であると思います。また、この「愛」と「死」から見た命ではないかと思います。 柳さんには積極的な生命の継続としての命の尊さはなく、逆に死を前提とした今ある命を見つめることにあると思います。 たしかに柳さんは東由多加の命が消えようとすることに対して命を尊びます。しかしそれは共に生きたいという尊びさではなく、東由多加が元気なときにも二人の間には死が付きまとっています。二人の間に死が付きまとっているなら子孫を残そうという積極さもありません。東由多加の命を単純に尊ぶというよりも東由多加の死が柳さん自身の魂の死であり、残された柳さんの抜け殻としての肉体をどう死なすかにあるように、柳さんの肉体だけが東由多加から取り残される不安からくる東由多加の命の尊さではないかと思います。 柳さんは生きていく上にいりいろな周りの人たちの助けを求めます。この意味では東由多加という人間の助けは、作家柳美里にとってもかけがえのないものであります。書くことでしか生きられない柳さんにとってはかけがえのない人です。柳さんは、柳さんにとって東由多加と言う人間がどのような人であったかという質問に、恋人でもあったが「師」であったと答えています。やはり精神的な拠り所を失う不安が大きかったのではないかと思います。それだけ単なる恋人という以上の全人間的な関係の中に、柳さんの肉体だけが東由多加から取り残される不安があったのではないかと思います。 東由多加が亡くなり、葬式も済み、柳さんは日常に帰らなければならないというようなことを書きます。お子さんも帰ってきます。散歩道での美しい景色を美しいと思います。光の輪に包まれるお子さん、柳さん自身は一緒にこの光の輪には入れないと書きますが、少なくとも柳さんの肉体は命をつなぎます。また、命四部作を書き続ける意味を柳さんの魂は認識をします。そして「あの夜」なぜ目隠しが取れたのか、東由多加の命の尊さが、作品の最後になって柳さんが生きていく事を前提として描かれます。過ぎ去った時間の後の今という時間の中に東由多加の声を求めます。 この作品は、小説なのか? 小説としてみるならば「私小説」だと思います。この作品の書き方は、やはり東由多加との師弟関係、二人で作品を書き上げるためにこもった宿の思い出が柳さんの中には大きいように、東由多加の影響があると思います。「そのために役者に実人生を語らせ、その内容を戯曲に書き込んだ。」(59頁)まさに命四部作は、柳さんという役者が自身の実生活を語り作品として書き込んだものだろう。「語られた人生の中のウソを暴き、時には罵倒をしたり、」(同ページ)しながら真実を語るという柳さんの姿勢がお子さんの父親のことや医者のこととしても、もちろん東由多加という人間を真実さをもって描いたのだろう。 しかし、「私小説」としてだけでは終わらない。 この作品は、戯曲の下書きのように感じる。どこか芝居がかった構成ではないだろうか。 2004年6月11日 記 夕螺 |
あるようなないような |
中公文庫 |
川上 弘美 著 |
雑誌や新聞などに書かれたエッセイをテーマ別にまとめられたエッセイ集です。日常の暮らし・思い出・読書・パソコン通信と分けられるのか?4つの章にまとめられています。 日常の生活や友人関係においての楽しさやふと思いついたこと、不思議な話など、日常の暮らしや思い出について書かれていることをただ単に楽しく書いているだけではなく、やはりどこか川上作品の不思議な世界を連想する書き方だと思います。逆に見れば、このような生活や思い出の中の一部分のとらえ方が作品に結びつくのだと思います。 はじめに掲載されている「困ること」や「秋の空中」には、春や秋の季節の移り変わりを、不思議さのある人との言葉のやり取りや不思議な季節の声といえる言葉に現しています。季節の変わり目の美しさをそのままに言葉にしたエッセイはたくさんあるかと思いますが、川上さんのエッセイは、どこか季節の精に獲りつかれたような雰囲気が漂います。 「蛇や墓や」や「蹴ってみる」「頭蓋骨、桜」などに見るように川上さんの日常は、こんな得体の知れない精というものに獲りつかれるようなものを書き残しているのではないかと思います。しかし、川上さんは、この独特な雰囲気に入り込んだことを大げさな言葉には表現をしません。川上さんは「のほほん」という言葉を2,3回使っていますが、まさにその不思議さをぼんやりともいえるほど受け入れています。小説などの中にも不思議な体験をした女性が動揺せずにその不思議さを受け入れ獲りつかれていますが、そのような性格というのか生き方というのか、それは川上さん自身のものだと感じます。 もちろん川上さん自身が四六時中そのような世界にいるのではないと思うのですが、世の中に起きるさまざまなことに「のほほん」と対応していくようなものが川上さんの一面としてあるのではないかと思います。そのへんが僕が川上さんを好きになるところかもしれません。 「なまなかなもの」では、東京の粋な感じのするお母さんが出てきます。「母の刷り込み」が主題だと思います。ら抜き言葉という話題を通してこの「母の刷り込み」書いていますが、お母さんの影響は強いようです。なんとなく「蛇を踏む」を思い出しました。「生肉を噛む」ことから性的な連想をして、これをお母さんに話すなどいろいろと話のできる母子関係なのかな?ところで、父親やご主人の顔が見えませんね。。。。。。 2004年5月31日 記 夕螺 |
物語が、始まる |
中公文庫 |
川上 弘美 著 |
「物語が、始まる」「トカゲ」「婆」「墓を探す」の4篇を収めた短編集です。 読み終わってからまず浮かんだ言葉が「人生」でした。 女性の人生。。。。。 「物語が、始まる」は「男」。「トカゲ」は「平凡」。「婆」は「生」。「墓を探す」は「死」。女性の人生を振り返ったとき、さまざまなものがあるでしょうが、大人の女性として性と伴侶すなわち「男」は、その動物的な本能からして大きなものです。 結婚後は生活がありますが、それは「平凡さ」としての日々でもあります。この気が遠くなるように長い年月が続く日常の生活は、女性にとってどのようなものでしょうか?これを幸福と自覚できるかできないか。 もちろんこの平凡な生活の中にも自己の「生」もあるはずです。生きるということ、それは必ず訪れる死を自覚することによってその大切さがあります。毎日の平凡な日常、その中にどのように自分という人間が生きているのか、あるいはそれも男とともに暮らす中に。 生きていくことの終着には死があります。しかし女性にとって死が終着駅かといえば、そうではなく、死後のことを思えばまた自分自身の家族もある。川上さんの「墓を探す」は、女性自身の親をはじめとした祖先の墓を建てるという物語となっていますが、女性にとっては、嫁に行くという風習の重大さとともにどの墓に入るかも重大でしょう。生きている中に死を意識することは、死はただの終着駅ではないのかもしれません。 「物語が、始まる」 主人公ゆき子は、雛形を拾う。男の雛形である。人形ではなくて生きている雛形である。女性にとっては「愛する」対象としての男の雛形である。 ゆき子には「土曜日の本城さん」という恋人がいる。ゆき子は、本城との心のふれあいという面では話がかみ合わなくなっている。本城にもいろいろな面はあるにしても、ゆき子から見た本城はやはり「土曜日の」(性的な面での)男である。 ゆき子は、雛形を育てはじめ雛形の男の恋にだんだんと応えていく。何も雛形と大恋愛をするわけでもなく、日常の生活や言葉の交わりの中でゆき子も恋をする。雛形に恋をしたゆき子は山城と別れる。 なぜ雛形に恋をし山城を捨てるのか? 雛形との恋には、母性に似た(男に対する独特な母性的な)ものがあり、日常の生活を通した情のようなものが生まれる。ゆき子は加速度的に生長(老化)する雛形の「死」を見送りすぐに雛形のことは過去のことと忘れるが、「愛している」という言葉が心に残る。 性的なものという男の一面からだけではこの「愛している」という言葉は生まれない。男に対する母性にも似た感情や情から「愛している」という感情が生まれるということではないのか。 若い人と飲んでいたときに、その若い人が、もう「女」を追いかけるのも飽きたと言っていた。僕は、それは嫁さんをもらいたくなったんだよと答えた。こういう会話は案外多い。 男も女も性的な対象としての男女関係以上のものを求める時期が来るものである。男の雛形というのは、女性の心に「愛する」という感情をもたらす神や時の使いか。。。。 しかし、性的なものから離れた「愛情」といっても、何も純愛を描いているわけではない。愛の美しさを描いているわけでもない。「愛する男」といっても離れてしまったなら忘れてしまう。これが女性の「生きながらえるということ」かぁ。。。。 「トカゲ」 乃南アサさんの「暗鬼」という小説がありますが、「トカゲ」のラストシーンとよく似た雰囲気があります。「暗鬼」は、薬による独特な精神世界の中で選ばれた家族の血を残すためにと近親相姦が繰り返されます。主人公の女性は、拒否はするがその世界にマインドコントロールされたようにはまっていきます。「トカゲ」のラストシーンもまさにこれと似たもので、独特な世界を拒否しながらもはまっていきます。 その世界は、どことなく同性愛や近親相姦を思い描きますが、しかし子供たちは小さく、隣の奥さんの魅力は平凡ではないかと思います。このことから同性愛や近親相姦的なものではないのではないか? 主人公の女性がトカゲのもたらすという幸運(幸せ)を期待するが、その幸運(幸せ)は、平凡なうちにある専業主婦の子育てや奥さん同士の平凡な日常ではないかと思います。もちろん平凡な日常にこそ幸せはあります。しかしこの中には退屈というのか社会や人間関係の中での閉塞感もあります。子育てや隣近所の奥さんたちとの狭い閉塞した世界に甘い誘惑もあり、その中に拒否はしたいがどっぷりと浸かってしまう主人公の女性のジレンマを感じます。 「婆」 「ずいぶん死ぬんですね」「人間だからね」主人公と婆の会話である。 婆は蒲鉾の板のようなものに何月何日誰々が死ぬと書き付けた板をたくさん持っている。 主人公に鯵夫という恋人がいる。仲は退屈としか言いようのない関係である。主人公はその鰺夫の話をする。 婆は、主人公に台所の穴を教える。その穴は、戦争で死んだ人たちの魂が集まるところか?あるいは、その季節に死んだ人を書き付けて一人一人をあの世に送る場所なのか?そこは不思議な気分にさせられる場所であり、その雰囲気を味わった主人公は人生観が変わる。人はいつか死ぬことをあらためて知ったときに人生観を変えられるときがある。2回目に主人公が穴に入るときに恋人の鰺夫と一緒だった。二人は涙を流す。二人の平凡な関係に不満があるが、いつか死ぬことを知ったことで今ある二人をお互いに愛おしむことができる。 「トカゲ」の中でのあまりにも平凡な生活。「婆」の中でのやはり平凡な二人、しかしこの平凡な中にこそ生きている証を見つめなくてはならない。 「墓を探す」 「でもこうして墓に向かっているじゃない」 人は忘れがちだが必ず訪れる死に向かって生きている。「墓を探す」は、今を生きているということである。 この生は、命の連鎖の中にある。先祖からの遺伝子もあるし、他の生物の命を受け取りながら生命は連鎖している。その意味では命に終わりはない。魂だけが墓に入る。 この作品の中には川上さんの生死観が出ていると思います。 父や母そして幾百万の祖先が集まる墓。主人公の姉にとり付く父や母や親戚たち。その会話の中に「墓に入るのもいいもんだ」という。ここには生死の境がなくなっている。だからこうして生きていることも墓に入っていることもそうは変わりがない。 主人公とその姉は、寺田家の墓に入るのは私たちで最後だという。この意味が何なのか、嫁に行き嫁ぎ先の墓には入らないで自身の祖先がいる墓に入ること。子供がいれば生命の連鎖自体はあるが、墓に入ることだけを見ればその連鎖は終わる。何か婚姻関係という風習を感じます。 2004年7月4日 記 夕螺 |
つれづれノートL 庭を森のようにしたい |
角川文庫 |
銀色 夏生 著 |
夏生さんはひとつの転機を迎えたのだと思います。 (ホームページトップ・・・「ちんまりと」・・・「40才頃」参照してください) この転機は昨年あたりから読者にも見えていたと思います。40才頃は人生の折り返し点です。 社会的な人間関係、仕事、生活全般など人生の前半の自分が結果として現れます。結婚生活子育ても転機を迎えます。 同時にこれは、一度振り返って自分を見つめる時期でもあります。 「つれづれノート13」は、エッセイとしてこの夏生さんの転機を現しています。 2度の結婚とその失敗を振り返り、自分には入籍をするような一般的な結婚は無理だったと書いています。これは、夏生さん自身の結婚観と一般的な結婚形態との差を感じますし、日本の男一般の結婚観との違いでもあります。夏生さんは家族生活を平等な「共同生活」と書くことが多くありますが、そのような意味での「共働き」を作れなかったのだと思います。夏生さんも世間一般の妻がするような夫の世話をすることへの嫌悪感が強すぎますし、詩人という職業を持つ妻への理解も夫にはなかった。この結婚の失敗を40歳を超えた夏生さんは振り返っているのだと思います。 こんなお互いの不足していたものを書いていますが、「共働き」は、素直な気持ちで助けたり助けられたりが大切だったのではないかと思います。 子育ても転機に来ています。 娘さんの「カンチ」との中をたくさん書いていますが、今までは子供として世話をして楽しく暮らすことだけで足りていましたが、11歳という女の子はもう半分大人になっています。「親離れ・子離れ」をだいぶ夏生さんは意識しはじめています。娘さんに対して本気で怒り、怒りをぶつける。生き方を本気で伝えようとしています。一方では思春期を迎えるにあたって性の問題などを自然な形で教えています。夏生さんの様子を読むと、娘さんへのひどい言い方などに反発をするような場面もあるようですが、娘さんの成長に合わせた親子関係をものすごくよく考えているのではないかと思います。それはまた夏生さん自身のこれからも本気で考えるということです。老後を娘さんに託すような考えは微塵もないです。 同じように犬のマロンへの接し方も、「1歳過ぎると大人」という認識です。犬と人間は違いますが、犬という動物の限界内で冷静にマロンを見ているのでしょう。子供も犬も子供の頃は思いっきりかわいがったりしつけをしたり、しかし大人になっていけばまた違う接し方を模索する。「愛犬家」という方から見れば違うだろう!というものがあると思いますが、育てている間に犬という動物にとってどのような飼われ方が一番よいのかを(他人に迷惑をかけないことも含めて)夏生さんは考えていると思います。犬小屋の近くのところに屋根を付けてこれでマロンのためにもなると考えたりしていますし、無責任さと大人というものへの接し方は違います。 子供や犬を通しても夏生さんは感情丸出しでぶつかりながら本気で考えていることがわかります。失敗は誰にもありますが、大きな失敗はないのではないか。 友人対人関係、ファンの方との関係を悩みます。 夏生さんは、自分の生き方を邪魔するものは許さないというような態度ですし、ご自身の自由を妨げるような行為には怒ります。 その中で、お子さんの通う保育園の壁にEを書き始め、休憩中に暖かく先生方に「ご苦労様です」と言われ、夏生さんも家の工事の方に「ご苦労様」といおうと書いています。ここに自然な形での人と人との関係の大切さを書いています。理不尽な強要をする人間関係はこれからも否定をするでしょう。しかし日常の自然な形での人間関係は、先の夫婦関係からのこれからの恋を含め含めて自然な人間関係を追い求めていくのではないかと思います。その意味ではいくらファンとはいえ大人としての人間性を求めるでしょう。 つれづれノートLは、今までの自分の人生を振り返りながら、これらのことをいろいろな視点で悩みながら書いているのだと思います。 同時に夏生さんは内面へと向かいます。 死を考えます。40才頃は、この死が見えてくる年頃です。今までの自分を振り返りながら、この後人生の後半を死にむかってどのように生きるか。夏生さんは考えています。 まだ「これだ!」というものはないようですが、今までのようにやりたいことを実現していくだけでは満足感は長続きしないというようなことを書いています。もっと心が落ち着く何かを求めているのではないかと思います。たぶんそれは、日常や仕事でしょう。その前兆が見られます。もちろん恋も!! 夏生さんは、「家ができました」の中で、今研究中のものは庭造りと死だと書いていらっしゃいました。死を見つめながら変わりゆく夏生さん。つれづれノートも変わっていくようです。 ファンとしては夏生さんと一緒に年をとってゆきましょう。 もしかしたらファン層が変わるかもしれない転機ではないかと思います。 つれづれがどれだけ続くかは、この夏生さんの転機をどのくらい真剣に読もうとするファンがいるかどうかでしょう。そして夏生さんがどれだけ読者の心をつかむ詩を作れるかにあります。それには、今回のつれづれノートでいろいろな夏生さんの書かれたものを心の中で整理できるかだと思います。 2004年7月1日 記 夕螺 再読2005年1月17日 夏生さんは、作品中に創作意欲が出ないと書いています。 仮住まいから新築の家にやっと引っ越しますが、どうも落ち着かない様子です。 長女カンチにも愛犬マロンにも不満が募ります。落ち着きのないところからも創作意欲がわかないのか、創作意欲がわかないから落ち着かないのか。。。。なんかもやもやしたものが心の中にあったのでしょう。 しかし夏生さんはいろいろなことを考えます。死についてや人間関係などについて。何事にも実践がもっとうの夏生さんは、保育園にボランティアで絵をかきます。PTAでしょうか役員活動に頑張ります。中学生の丘紫さんの本の帯に推薦文を書きます。死について考えたり、人との関係を実践してみたり、そんな中に少しづつ創作意欲がわいてきたのかもしれません。人はもやもやと閉じこもっているよりは忙しく動く中で自分を取り戻すのでしょうか。 つれづれ13の終わり頃か、出版活動が盛んになります。 「家ができました」「雨は見ている川は知っている」「イサクのジョーク」そしてもうすぐ「すみわたる夜空のような」が出ます。また「庭ができました」のようなものも近いでしょう。 この辺の変化はつれづれ14で出てくると思います。 もちろん夏生さんの生き方には心の浮き沈みがありますが、基本は変わらない。 つれづれ13の最後は、昔からの友人と久しぶりに東京で再会するところで終わります。心を許せる友人との関係と居心地のよさ。この心の安らぎというものが「イサクのジョーク」と共通しています。「雨は見ている川は知っている」がある程度これまでを振り返った詩集とすれば、新しい詩集「すみわたる夜空のような」は、もっと温かみのあるというのか、人恋しいような詩集かな?と思ったりします。 2月には詩集、たぶん6月には「つれづれ14」と「庭ができました」かな?2回目の離婚の落ち込みからも脱して、創作意欲も戻った夏生さんの変化を読むことは楽しみです。 正月に入ってから「つれづれ13」を再読したのですが、これは夏生さんのパワーを感じたいからでもありました。人は誰でも生きていればいろいろあります。喜怒哀楽があります。それは僕たちと夏生さんとは大きな違いがあるのでしょうが、基本は同じです。落ち込みながらも少しでも前向きになろうとするものに心打たれます。 夏生さんを批判する人もいますが、その批判する点は、どこかあなたの中にもある心の動きなのですよ。 |
バカの壁 |
新潮新書 |
養老 孟司 著 |
「自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の『バカの壁』です。」 学校の勉強や本を読んでいるからそのことはわかっていると、しかしそのことについて本当にどこまでわかっているのかというと疑問であり、あらゆる情報を検討(考える)する中に知るということが生まれる。僕もこのように思う。 しかし養老さんは、「知識と常識は違う」と、わかりづらい論法になっていくが、僕としては、知力と考える力は違うということの理解のなさに「バカの壁」を感じる。 あらゆる情報を知ったからその事柄について知っていると勘違いをするところに怖さがあるのであり、そのあらゆる情報を考えて検討し、「自分はこう考える」という個性がない中で知識だけをあるいは情報だけを過信してしまう怖さである。 本来学校や社会の中で「個性を出せ」というのは、まさにこの考える力を育てるということなのであり、考えた中で「自分はこう思う」という個性を出すということなのである。ところが子供たちや若い人たちにはさまざまな情報があたかも不変で正しいものだという情報を大人が与えすぎてしまうのである。大人が与えた情報を基にして考えろというのだから、養老さんが書いているように、自分は他に考えていることはあるが、あなたたちがマニュアルを与えるというのならそれをこなしましょうというような、頭のよい自己防衛に長けた若い人が出来上がるのである。ここに個性は精神作用上にはないのではなく、個性はしまいこまれるのである。 無意識もそうであり、極端に書けば、テロリストは悪い、テロをなくすには一時的には殺し合い(戦争)もやむをえないと毎日報道等で聞かされれば、自分に危害を加える友人は殺してもいいというような無意識な情報の中に命の大切さを考えるという考える力は隠蔽されてしまうのである。 しかし養老さんは、意識に個性は存在しないという。個性が出るのは肉体だという。 意識は統一性を求めるものであり、ここには個性は存在しない。ここに個性を出せなどというならば精神異常の人が一番個性的だと。その反面肉体には個性が存在し、あのイチロウ選手を見ろと。なぜ意識の個性が精神異常を引き合いに出さなければならないのか、なぜ肉体の個性を天才イチロウを出さねばならないのか。なんかこういう論理は信用できない。 たしかに養老さんは意識の統一性はタイムラグがあるという。モーツァルトは、これが音楽家といわれたが時間の経過の中で統一化された。この統一化された現在から見れば、意識は統一化される。しかしモーツァルトが生きた時代はどうか?その時代にはモーツァルトは意識上の一つの個性だったのである。この個性がなかったなら、モーツァルトの意識の大きさだけ現代音楽は発展しなかったのである。ベートーベンもそうである。後の時代には請けいられて統一化されたものの中には、その個性が存在した時代はひとつのずば抜けた個性だったのであり、このような例はたくさんあるだろう。 このことが何を意味するかといえば、その時代時代には優れた意識上の個性が生まれたが、その個性をその時代の常識が受け入れようとしなかったのであり、大多数が受け入れるにはタイムラグがあるということである。 養老さんは言う。万物は流転すると。人はその意識も肉体も流転する。これは正しい。しかし「万物は流転する」という2000年も昔の言葉自体は情報として変化しないという。肉体は寝ているうちにも細胞の死と再生により流転しているのだから昨日の自分と今日の自分は違うという。たしかにそうだが、養老さんは「万物は流転する」という情報の中の万物という概念が2000年の間に流転していることを言わない。誇大な宇宙から微細な素粒子の世界まで万物という概念は変わってきているのである。流転すという言葉自体も、その流転する仕組みが2000年前とは変わってきているのである。 その変化を明らかにしたのがその時代時代における個性的な意識なのである。 しかし養老さんは言う。本来人間は変化しているのに変化していないと言い張るのは、意識がそうさせており意識が不変なものだと考えている間違いによると。そして変わらないものである情報が確かなもので意識を不変なものにすることは逆立ちをしていると。 意識はその時代時代の発展状況の中で認識しえる世界観(現実にある世界)から生まれる。だから意識が世界を作るのではないし、空想的な意識やとっぴな意識は淘汰される。この現実の世界から生まれた意識は、その世界を解釈する。そこにわからないものや矛盾したものがあればその意識はそれを解決しようとする。その意識はどうしても個性的なものにならざるを得ない。なぜなら多くの人が常識の中であぐらをかいているのだから。その意識としての個性が実証されたりする中に多くの人々の中に統一されるのである。 情報という常識自体が一番に流転するものなのである。 以上書いてきたことは「バカの壁」の前半部分である。この前半部分に論理的な誤りがあるとすれば、後半の結論部分がどうなのかが想像がつく。 ワークシェアリングはカースト制にあると。 そうではなくて、養老さんの書いている社会的な合理化は、労働時間を短縮してすべての人が増えた余暇の時間の中で全人間的な発展をするということであり、カースト制とは逆にすべての人が発展することなのである。 この中にカースト制などという反個性を生むのではなく、全人間的な発展の中によりいっそう個性を生むことなのである。 2004年7月5日 記 夕螺 |
窓をあければ |
幻灯舎文庫 |
藤堂 志津子 著 |
藤堂さんのエッセイははじめて読みました。僕の勝手な頭の中の藤堂さんのイメージには合わないきれいなイラスト入りのかわいい感じの本でした。 多くの女性作家が30代後半から40歳代に入り、その40歳という年齢が作家にも(もちろん一人の女性としても)いろいろな面が精神面にも影響を及ぼすのではないかと以前このHPの「ちんまりと」にも書きましたが、この前出版された銀色夏生さんに日記・エッセイ「つれづれノートL」を読んでもこのことを感じます。その前に出版された詩集「雨は見ている、川箸っている」にもこれまでの人生を振り返ったようなところがあります。 藤堂さんは、作品の発表時期としては他の若い作家と同じ世代だと(藤堂さんは40才頃にデビュー)だと思いますが、年齢的には10年一昔とすれば一世代上の作家で、このエッセイが書かれたのは50歳代にはいったときでした。 50歳という年齢は、また40歳という時期とは違うものがあります。 「物に対しても、他人に対しても、さらに自分の行き方にも、めっきり色気もなくなった」と書いていますが、50歳というのは、肉体的にも精神的にも気力がなくなるというのか「老い」を強く感じはじめます。 藤堂さんは、化粧にも有名メーカーのバックにも興味は(衝動買い)がなくなったと書き、人付き合いにもだんだんとはなれていくことも書いています。 また、好みのいい男にも興味がなくなり、もちろんドキッとはするのだと思いますが、肉体関係抜きの飲み友達というような若い男を思い出として語ります。 どことなく「おばさん」藤堂志津子の顔を見るような思いです。ちなみに普段は赤い車のエンジンを吹かせながらかたぎのおばさんとは見えないような格好をしていると書いています。 「若い頃はバカをしていた」的な回想と今ある自分。独身で子供もいなく犬の世話をする毎日。このへんを藤堂さんらしさを出しながらお書きになっているのだと思います。 しかし、藤堂さんはこれといった当てはないけど、一人の女性、作家としてのこれからも書いています。 作家として書くこと、これがあって良かったと。これからどのように書いていけるかはわからないが、作家の世界にあって「藤堂さんって、まだ生きていたの?」と言われるようになりたいと。藤堂さんの作品はほとんど読んでいない状態ですが、40歳でデビューということは、藤堂さんの恋愛小説は40歳の女性の恋、若い頃の思い出にある恋を描いたものだと思います。思い出にある恋。。。。。これを今50歳半ばの藤堂さんがどのように描くのか、これからの作品が楽しみですし、エッセイの中に「嫁」をもらいたいというようなことを書いていますが、すなわち家事一般を自分でこなすようなそばにいてもらえると楽しく生活ができるというようなある意味での恋ですが、肉体関係はあればそれでいいが、それ以上に精神的に落ち着ける恋、こんな藤堂さんにしか書けないような恋も読みたいと思います。 同じ幻灯舎から出ている「大人になったら淋しくなった」というエッセイも読みたいですし、最近出された小説も読んで見たいと思います。 2004年7月8日 記 夕螺 |
沙羅は和子を呼ぶ |
集英社文庫 |
加納 朋子 著 |
ジャンルとしてはミステリーに入るそうですが、一部を除き殺人事件を刑事が追うというようなありふれたミステリーではなく、ホラーの入った不思議なお話というような感じの作品です。 北村薫さんの作品を思い起こすようなものもありますが、北村さんの時四部作が時間のマジックとすれば、この作品は空間のマジックといってもよいのではないかと思います。 表題作の短編「沙羅は和子を呼ぶ」は、過去の時間が枝分かれをした二つの空間が一つになります。ある男が結婚前に付き合っていたハーフの女性と結婚をしていたら沙羅が産まれた。しかし男は会社の上司の娘と結婚をし和子が産まれた。この「もしあの時。。。。」という時間の枝分かれによって出来上がる二つの空間が、和子の前に沙羅が現れることにより重なり合う。 沙羅は現実には存在できなかった子供である。しかし男の「もしあの時・・・」という気持ちが沙羅を現せたのだろう。男は今の結婚生活に疑問を持つ。上司の娘と結婚した息苦しさから。そのことから「もしあの時・・・」と考える。 男は二つの世界をさまよう。「もしあの時・・・」の世界にも失望する。 人生には「もしあの時・・・」と後になって考えてしまうような岐路がいくつかあるに違いない。もちろん考えても仕方のないことだが、結局は今の生活をどのように変えていくかなのであり、この作品はこれを読者に語りかけているのではないか。 1,2の作品に後味の悪いものがありますが、全体を通して心温まるものがあります。主人公も子どもや10代の若者です。この中にホンワカとした純粋なものが出るのではないかと思います。 解説を読むと、可能さんの作品の多くは、不思議な世界を表現するが結末は現実の世界で理解されることであったというような結末が多いらしく、この短編集では、幽霊あるいは次元の違う世界の不思議さをそのままに残すことに絶賛をしています。 短編集の中でも、現実に戻されるような作品がありましたが、たしかに不思議なままの結末のほうがおもしろいと思います。現実に戻されるとはいえ、なんとなく不思議さも匂わせる。可能さんファンとしてはこの作品は画期的なものなのでしょうか? 不思議な世界に結末を迎えること、これは現実味をなくしますが、ようは作品を通じて何を、どんな読後感を読者に残すかにあります。 よしもとばななさんをはじめ、作家が不思議な世界を書いています。加納さんの作品は、どことなく文章力としては落ちるのかなと思うところもありますが、ミステリーとしてのアイデアや読者の心に残すものという面では、優れているのではないかと思いました。もちろんこの短編集だけを読んだだけの感想ですが。。。。 加納さんの代表作も読んで見たいです。 2004年7月12日 記 夕螺 |
青のフェルマータ Fermata in Blue |
集英社文庫 |
村山 由佳 著 |
両親からの精神的な虐待から声をなくした里緒。 里緒は父親に連れられオーストラリアの海にやってくる。そこにイルカとのふれあいの中で心を癒し、心の傷を治すためにさまざまな子供もがやって来た。里緒は19歳。 心の傷がなかなか癒えない里緒は、そこのイルカの施設を手伝ったり、今は引退したチェロの名手JBにチェロを習ったりしている。 里緒は、JBから「青のフェルマータ」(青の永遠)という曲を贈られる。 本なので、この曲がどのような音色のチェロ曲なのかはわからないが、冒頭に書かれる里緒が裸体のままに海と戯れるそんな海と少女の美しさを想像するような曲なのだと思う。あるいは、イルカをはじめJBや施設に働く人たちから暖かく囲まれる、そんな人々の中に心が癒される野と同じように癒しの曲なのかもしれない。作品は「青のフェルマータ」という曲と、美しい海の映像を思う存分想像できるように描いている。 美しい作品です。 しかし、冒頭の裸体で海と戯れる美しさの跡に、島の男に乱暴をされかかる。このはじめに描かれる美しさと醜さあるいは恐怖、この二つのものがまたこの作品全体が何を言わんとしているかを暗示している。心が癒されると同時に心は傷つけられる。人を癒すと同時に人を傷つける。心が癒されることでそれは同時に癒されている人が癒す人を傷つける。人と人とは互いに癒されつつ傷つけあい、傷つけ合いながらも癒されている。 この作品の持つすごさは、ラストシーンで里緒がJBとの電話で「イエス」という言葉を取り戻すというハッピーエンドを描くだけではなく、癒されると同時にある傷つけ合いが同時に描かれていると言うところにある。 だからこの作品をイルカによるセラピー(人とイルカとのふれあいの美しさ)、人と人とのかかわりの美しさと言うものだけで読んではならないのではないかと思う。 村上さんは「あとがき」に、イルカのことを書きたかったと書くと同時に「私は「癒す」側のことを書きたいと思った。(中略)バカがつくほどお人よしな人間たちのことを書きたいと思った。」と書いている。 だからこの作品から受けるある種の感動は、19歳の少女が言葉を取り戻すという感動とともに、その少女を暖かく囲む、自身も傷ついている中でも少女を暖かく囲む人たちなのであり、人に飼われたイルカは、自分からはもう自由に海で暮らせなく、野生のイルカも人に慣れてしまうとどのような仕打ちを受けるか、そんなイルカにも心があるとすれば傷ついているのであり、そのイルカが人を癒すのである。 自分自身が傷つき、傷つけられながらも人を癒さずにはおけない人たち。ここに美しさが有り、感動があるのかもしれない。 自然な無意識なうちの自己犠牲。。。。 村上さんの作品は、他にはまだ「天子の卵」しか読んでいないが、この作品の主人公であるやはり19歳の少年(青年)の持つ純粋さに僕の中にある親心を感じたし、大人になったばかりの少年少女(青年)に対する大人、傷つけもする大人もいるが、まだひとり立ちのできない(経済的にも、精神的にも)青年を見守ろうとする自己犠牲的なものも大人にはある。この辺が村上作品の特徴かもしれない。 里緒は、自分が傷つけられたその傷を癒されることに感謝しながらも、周りの大人を里緒自身が傷つけているということを知る。これを苦しむ。それもまた許されていく中に里緒はたくましく成長するのではないかと思う。 こんな里緒に、周りで暖かく取り囲む人々の癒しにもなっていくのだろう。 2004年7月16日 記 夕螺 |
落花流水 |
集英社文庫 |
山本 文緒 著 |
唯川さんの「病む月」を思い起こす作品です。 主人公手毬の一生(死に至るまでではありませんが60代まで)を描いた作品です。また、手毬の母親律子、娘姫乃に至る女三代記のような作品でもあります。 日本が高度成長期に入った1967年から近未来の2027年までを10年単位に区切って手毬(律子や姫乃)の人生を描いています。 落花流水。。。。 落ちる花にも情があれば流れる水にも情はある。男に女を思う情があれば、女にも男を思う情がある。落ちる花も自然であれば、流れゆく水もまた自然である。 手毬の母親律子は、夫や娘を残し男と逃げる。そんな母親を憎む手毬も結局は同じ人生を歩む。そして姫乃も。落下流水。三代の女はその情の赴くままに、自然に流れるように生きていく。 律子は17歳で手毬を生む。その生活は悲惨であり、豊かな主婦に幸せを求めるが、その後その幸せを得ても結局はそこから逃げるように男と失踪する。手毬は、裕福な血のつながりのない父親の元で幸せに暮らし結婚をするが、愛していたのはその父親であり、その父親の死の後幼馴染のハーフの男と失踪する。姫乃は、血のつながらない戸籍上の叔父と暮らすがやはり男と失踪をする。 「情に掉させば流される」(漱石) この3人の女は、男を愛するのではない。その時々の幸せ感とその挫折そして男への情に流されていくのである。 頭の中に描く幸せ感は、きちんとした生活と安定した家庭であるが、情はそれを否定をするように流れる。日常の家庭生活に満足はするが、情に掉させばその幸せを捨てて流されていくのである。 ここでは、男はせて残される存在であり、「普通」の日常では、好き勝手な男と家庭と子供という幸せにしがみついて我慢する女という構図があるが、女がこのような外見上の幸せを捨てるときの芯の強さをこの作品には感じる。 今、熟年離婚と言うものが多くなっているようだが、他の男と逃げるというようなものではなくても、この外見上の幸せから逃げたいと言うものが奥底には強いのではないかと思う。手毬をはじめとした3人の女はそれ自然のままに実行する。この作品の主題は、このような女の幸せ間を外見的に見ると同時に、その女の心の中にある芯の部分を描き、その芯には情があるということではないかと思う。 手毬の血のつながらない弟正弘は思う「何だか男は皆女に逃げられているな」と。銀色夏生さんが、「つれづれノート」の中で、男は女を守るということは男の勘違いであり、女はもっと男の考えている以上にしたたかなのだというようなことを書いていますが、たしかに男は経済面でも女や子供、家庭を守ってあげているからそれで女の幸せがあるんだと勘違いをしているのかもしれない。もちろん女はこの男の「守る」中に身を置きそこにしばしの幸せを感じるが、いつかそれだけならば逃げ出してしまいたくなるものである。 この作品の最終章は、60歳代になった手毬が、母親や娘のことさえ忘れてしまうアルツハイマーで老人病等のベットに座る。 一生が終わるにあたって、この手毬が幸せだったと感じるのか。律子は言う。なにもかもわからなくなって手毬は幸せなのかもしれないと。。。。 この作品は、落花流すの中に生きた女性たちを幸せなのかと問うとき、その結論は出していないと思う。幸せな一生だったのかと問うこと自体を否定しているのではないか。幸せな一生であったか、あるいは今が幸せなのか。。。。。それを考えるのではなく、情がその幸せ感を越えるかどうかにある。 ここに至れば男は無力である。 男の意識、日常。。。。。 この意味ではこの作品を男が読むべきなのかもしれない。 仕事、経済的な安定はそこそこにあればいい、それよりも一緒に台所に立ってバカ話をして楽しむのが一番よいのかもしれない。藤堂さんが、エッセイの中で「嫁」をもらいたいと、50歳になってから思うと書いている。生活を楽しめるパートナーと言うことだろう。 しかし、女性も覚悟をして夫の出世の遅さに文句を言ったり、共働きぐらいの覚悟は必要だろう。男も「男の甲斐性」を捨てる覚悟が必要である。 覚悟などと書くと脅迫じみているが、結局はお互いに支えあいながら金銭的にも生活にも支えあっていこうということである。 2004年7月22日 記 夕螺 |