「蛇を踏む」は、「蛇を踏む」「消える」惜夜記」の3つの短編からなる。
「蛇を踏む」
主人公の女サナダは蛇を踏む。踏まれた蛇は50歳ほどの女となり、サナダの家に住み込む。蛇は「わたしはあなたの母」だという。
ここだけを見ると、一人の女性が母という自分をある意味では束縛をする関係からはなれて精神面で自立する葛藤を描いているように見える。これもこの作品のひとつの主題だろう。
しかし、この作品を読んで受ける印象としては、孤独に座り、あらゆる邪念に耐える釈迦の姿を思い起こしてしまう。サナダが、勤める数珠屋の店主の妻は「蛇の世界は暖かい」「あの時蛇の世界に行けばよかった」とサナダに話しをする。蛇であり母である女も蛇の世界へいらっしゃいと誘う。「蛇の世界」、これがどのようなものかははっきりしない。しかしサナダは蛇の世界を受け入れたなら落ち着くのではないかと思いつつこれを否定をし葛藤する。この葛藤はすさまじく、ラストシーンでは、蛇の姿の母親だという女と絡み合いながら、首を絞めあいながらまるで洪水のような流れに流されていく。
「蛇の世界」がどのようなものであるかは、川上さん自身そして読者一人一人違うだろう。この違いはあるものの時間の流れ(成長)の中で外界からの誘いに対する葛藤、これが主題だろう。
同時に、蛇はサナダ自身だろう。釈迦が邪念という自分自身と戦うものと同じように、サナダは血を引く母を内面に持ち、時間の流れの中にそれを強く感じる。冒頭の言葉「蛇を踏んでしまってから蛇に気がついた」とあるように、自分自身では意識しない中に、サナダ自身これをどうすることもできない中に、そこに自分自身というものとの葛藤が生まれる。
数珠屋の得意先の寺の住職は言う「蛇はいい。夜のことも」と。数珠屋の主人は蛇の妻を得て影が薄くなるほどのんきである。ここに男は蛇の世界とは離れたところにいる。このことから「蛇の世界」とは、女性にだけ感じられる外界と心という内面の葛藤であることを感じられる。
「消える」
この作品は、家制度の中での女性を暗示する。
次々に家族が消えていく家、次々に家族がしぼんでしまう家。これはある意味では象徴である。
家族は社会制度の中で5人と決められている家族、テンさんという何か力を持つ人によって決められる婚姻関係。祭りという社会からの束縛。それぞれの家庭の中にある先祖というものに束縛された形のない「こういう決まりだから」というただの声のようなもの。
嫁をもらおうとする長男は消える。すぐに長男の存在は忘れられる。嫁は次男がもらう。こうして家族(家)は続く。ここに本来は母系であることの暗示がある。しかし嫁自身は、嫁ぎ先の家の中でしぼんでいく。男は社会(祭り)の中で傷つく。
このようなことが一見幸せそうな雰囲気が保たれながら家は続き、社会も続いている。時間の中では、これらを構成する人々は時間の経過とともに消えていく忘れられていく。
このむなしさを感じます。
「惜夜記」
宇宙は無限に広がる。しかしそれを構成するのは無限に微細な粒子。その中に生命はある。
この作品から受けるものは、この生命力のすさまじさと、生命の必然としての死である。
ひとつの生命は、宇宙の時間からすれば刹那的でほんの微細な時間の流れである。この宇宙の時間から見ればその微細な時間の流れはあったのかなかったのかわからなくなる。しかしその微細な時間の流れに生きる生命自体は、さまざまに生きていたことに変わりはない。
生命は、世代として(種としてではない)は再生される。土に返った肉体は、仮想をされ煙となった肉体は空間に広がり新たな生命に宿る。この意味では永遠かもしれない。この永遠さを見たときに、自身をひとつの過去の生命を受け継いだ生命体と見るなら、生命という胎蔵界曼荼羅の中に平安を覚える。
少女は老化をし眠りにつく、そこに森羅万象の命を宿す。まるで地球のように。小宇宙が外宇宙に比べれば、小さなものかもしれない。その小さな中のもっと小さな地球。地球は、活力ある宇宙のエネルギーをある程度発散をした老化したものかもしれない。その中に生まれる命。ここにも輪廻を感じる。
エネルギー保存の法則。
川上さんの作品は、不思議な世界である。上に書いた僕の感じ方が正しいとは思わない。でも、このような感じ方をさせる作品に普遍性があるのではないか。読むもの一人一人にある感じ方をさせる。
川上さんの作品は、小説と呼ぶにはふさわしくないかもしれない。小説として読もうとすれば違和感が出てしまう。
大人の童話とでも呼べばいいのか。童話には不思議さも不思議さと感じさせないものがあるから。3つの作品の書き出し、「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった」「このごろずいぶんよく消える」「背中が痒いと思ったら、夜が少しかり食いこんでいるのであった」という言葉は、童話(昔ばなし)の「昔々、動物や草木がまだおしゃべりができたほど遠い昔」というような、摩訶不思議な世界にいざなう言葉と同じ意味があるのではないかと思う。
3つの作品は、平成8年に発表されている。この同じとしに銀色夏生さんのやはり不思議な世界を描いた「夕方らせん」が発表されている。おもしろいと思う。夏生さんは、この作品を小説とは言わずに「物語」といっている。大人の童話ではいかがわしさも連想するので、僕は川上さんの作品を物語と呼びたい。
2004年2月7日 記
夕螺