<御詠歌>
幾千歳ふれる御堂に苔むして
心も澄める小野川の水
中平は美濃方面から
網掛峠を下った最初の集落で、古代東山道の道筋とされている。付近の
大垣外遺跡周辺からは500点近い石製模造品が出土している。また、戦国末期から江戸時代には
小野川の関が置かれたといわれる。
(参考) → 『探史の足あと』
p. 44 大垣外の古代道路跡
p. 45 大垣外遺跡出土の石製模造品
無量寺の創建時期は明らかでない。伝承によると、
中平の諏訪明神社の200m程上に古寺があったが、火災に遇って小野川の関所下に移転したという。天保8年(1837)の絵図には、関所や
八王子社(現伏谷社)と共に描かれている。
(参考) → 『探史の足あと』
p.168 古絵図で見る小野川関所付近
享保16年(1731)に小野川村の観音氏子31人から長岳寺法印に当てた、
観音堂再建に関する文書が残る。当時の無量寺は観音堂と呼ばれていたのかもしれない。
安永〜天明年間(1780頃)に、
長栄という住僧がいて中興したといわれ、数基の墓石も残るが、無住の時が多く檀家はない。
本尊は
十一面観世音菩薩で、長岳寺末寺となっている。春の彼岸に
大般若経会を行っていたが、昭和24年を最後に行われなくなった。
現在、仏像等は中平の公会堂に移されており、古い敷地には住僧の墓石や石仏、名号石が残されている。
(撮影 2004.1.3)
(参考)
→ 『阿智村誌』下巻 p.782
→ 『探史の足あと』 第3章
p.63 無量寺のたたき鉦
p.64 無量寺の古仏頭
→ 同書第5章
p.105 かわいい馬頭観音像