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 伏谷(ふせや)社 (八王子権現、八王子社)

  所在地(氏子):阿智村智里(小野川)

  祭神:○多紀理比売(たぎりひめ)、狭依比売(さよりひめ)、多紀津比売(たぎつひめ)

  末社:網掛社<伊邪那岐命(いざなぎのみこと)>       
伏谷社入口
伏谷社境内と拝殿屋根
伏谷社拝殿正面
網掛社
 伏谷社が現在地に遷宮したのは、明治45年に県から神社合併の訓令が出て、小野川の伏谷社と、中野の八幡社、網掛峠にあった網掛社を合併してからである(智里村誌)。
 元々の伏谷社は智里東保育所の向かい側にあった。なお、保育所は改築前の小学校の跡地であるが、その土地には元々無量寺があった。明治時代に寺を廃して小学校を建築したのだが、その際には墓地も掘り起こして移転したという。

 小野川の伏谷社は、安永2年(1773)の小野川村明細書上帳には「八王子権現」と記されているが、文政13年(1830)に神祇管領長から「伏谷社」の社号を認可された。天保8年(1837)の村絵図には「八王子社」と記されており、現存する古い社額も「八王子三社(以下欠損)」である。「伏谷社」の社号は、新古今和歌集の

園原や伏屋に生ふるははきぎのありとはみえてあはぬ君かな

に由来すると見られるが、園原に由緒のある「ふせや」を小野川の神社に当てはめたので紛らわしい。

 八王子権現とは、天照大神と素盞鳴命の誓約した際に生まれたという五男三女神で、明治四年(1871)の神社取調書上帳にも明記されている。八王子社の本宮は大津市の日枝大社(山王権現)に付属した山王七社の第四社である。あるいは昼神の山王権現(阿智神社)と関連して勧請されたのではないかとも推測されるが、残念ながら神社の由緒に関する資料は現存しない。また、現在のように三女神のみ祀られるようになった事情も不明である。

 本殿は三間社流れ造りの素朴な工法である。拝殿は切妻の妻入りで住吉造りの様式だが、屋根は神明造りを模しており、堅魚木(かつおぎ)、千木(ちぎ)、小狭小舞(おさこまい)をつけている。高い石段は大正四年、石造の大鳥居は大正15年の建造である。

 網掛社は、かつて網掛峠の蛇瘤杉のそばにあった。古代東山道の道筋に当たり、祭祀用の薙鎌や灰釉陶器片も出土している。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)で、小野川耕地民の崇敬が深かったという。古くから信仰されていたと思われるが、由緒等に関する資料は現存しない。
 中野八幡社については、慶長13年(1608)の勧請を示す棟札があったという(智里村誌)。中野は駒場村上町分であった。