古典文学的な神社名考
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜

 神社の名前は、江戸時代初期ころまで<鎮座地+祭神名>とするのが通例で、「清坂(よさか)」にある「八幡社」を「よさか八幡」、「境(さかい)」にある「春日明神」を「さかい大明神」と呼んでいたことが、「伊奈郡寺社領之帳」によって明らかである。
 阿智村の古典文学的な寺社名は創建の時からのものではなく、江戸時代後期に京都の神祇管領卜部氏の認可を受けて命名されたか、明治維新の際の命名である。
 これは、神社に残る吉田家の「宣旨」や、古記録で証明できる。( )内は旧社名。

安布知神社(よさか八幡、新羅明神)
  文化元年(1804)10月16日(社名の宣旨あり)
   〜信濃路や通ふ心はありながらさもぞ安布知の関はさびしき(夫木抄)
伏谷社(八王子社)
  文政13年(1830)正月(伏谷社の古記録に卜部氏から授与の記述あり)
   〜園原や伏屋に生ふるははきぎのありとはみえてあはぬ君かな(新古今和歌集)
阿智神社(山王権現)
  文化元年(1804)春(清浜遺稿による、文化七年の神道裁許状もあり)
   〜式内社阿智神社(延喜式神名帳)、東山道阿知駅(延喜式)
伊賀良神社(てらお山の神)
  寛政9年(1797)10月23日(神道裁許状あり、翌年新調の社標あり)
   〜伊賀良の庄(荘園時代からの地域名)
神坂神社(住吉社)
  明治5年(1872)の村絵図に初見、万延元年(1860)の「その原紀行」では「住吉社」
   〜ちはやふる神のみ坂に幣まつり斎ふ命は父母がため(万葉集)

近村の例も挙げると、
七久里神社:飯田市山本
  安永3年(1774)の神座銘板は「再興八幡大神」、社号の奉称時期不明。
   〜尽きもせず恋に涙をわかすかなこや七久里のいで湯なるらん(後拾遺集)他
○伊那神社:飯田市竹佐
  嘉永7年(1854)3月(山本村誌に記載:吉田家に於いて相済)
   〜伊那郡
○育良(いくら)神社:飯田市北方
  嘉永5年(1852)6月(南信伊那資料に記載:吉田殿に請ふて)
   〜東山道育良駅
○郊戸(ごうど)神社:上飯田
  天保12年(1841) (南信伊那資料に記載:吉田殿より)
   〜郡戸(ごうどの)庄(荘園名)、郊戸(ごうど)庄(検地帳)

 神社名の認可のためには吉田家に多額の奉納金が必要で、安布知神社では富くじのような無尽講を作って集金した記録が残っている。こうした事実は現在あまり知られていないが、阿智村には歌枕になる名所が多く、村誌編纂の際に(神社名との関連を)調査する中で明らかになった事である。

表紙に戻る 総合目次 足あと 1章 愛郷 3章 神社の歴史 阿智の産土神