安布知神社(よさか八幡、新羅明神)

  所在地(氏子):阿智村駒場(駒場)

  祭神:○八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
       誉田別尊(八幡大神、応神天皇/ほむだわけのみこと)
       須佐之男命(新羅明神:しんらみょうじん)       

 寛文12年(1672)正月に書かれた由緒書の写しが、飯田市伊豆木の小笠原家文書に残っている。前年に駒場村上町領主宮崎太郎左衛門公重が当社を再建しており、由緒書の原本は神主林杢太夫が記したものとされる。

 この由緒書によると、仁徳天皇56年(368頃?)に思兼命を奉祀して創建されたという。それは古すぎるとしても、当社は東山道阿知駅跡と推定される関田地区を見下ろす位置にあり、おそらく飯田下伊那でも最も古い由緒を持つ神社の一つと考えられる。祭神に思兼命を祀っており、元々は延喜式内社である阿智神社の前宮だったとも言われる(鎮西清浜「下条古事考」)。

 信濃国阿智は思兼命(旧事紀、旧事紀大成経による)と表春命(旧事紀、古語拾遺による)が天降った地と言われる。高天原一の知神である思兼命を祀る神社は日本でも数少なく、阿智神社・安布知神社はその代表的神社である。

 新羅明神は滋賀県三井寺(園城寺)の鎮守神であり、朝鮮からの渡来神である。社伝によると、鎌倉時代(正元元年)に伊賀良庄地頭の小笠原氏が勧請したという。小笠原氏の遠祖は源義光であり、義光は園城寺新羅明神の前で加冠して新羅三郎と名乗ったことが知られるが、以来自家の守護神としていたのである。渡来神であるためか、明治以後は須佐之男命として祀られている。

 安布知神社の社名は比較的新しく、文化元年(1804)に神祇管領長上家(吉田家)から認可されたという。おそらく、「あふちの関」を詠んだ古歌に因んで命名されたのであろう。朱印状(10石)の社名は「新羅明神」、古い社額も「新羅大明神」、絵図では「よさか八幡」と書かれている。社伝では当初の社名を「吾道(あち)大神宮」と伝える。なぜ多くの神社で社名の変更が必要だったのか、吉田家による神社支配の実態や、当時の時代背景について興味が湧く。


 → 『阿智村誌』 p.706
 → 『安布知神社略史』(宮下 操 著)
 → 『探史の足あと』 第1章「阿智の神々」
 → 『愛郷探史録』 第3章「阿智の神々」
            第1章「アチとその地名」
 → 三井寺HPより 長野県の新羅神社

安布知神社参道

参道入口 右手は第一小学校

表紙に戻る 総合目次 足あと 1章 愛郷 3章 阿智の産土神 阿智の御祭神

芝生でゆったりとした境内

七五三で扉の開いた拝殿

拝殿から見た本殿正面(三間社流造り)