神社に関する解説を読む時、言葉や時代がよく分からないことが多いので、調べてみました。
間違いがありましたら、ご指摘下さい。 (→は参考文献等)
〜奈良時代以前〜
☆阿智(知)祝部(あちのはふりべ)
祝部は祭事を司る人。先代旧事本紀の中で天思兼命(あめのおもいかねのみこと)、表春命
(うわはるのみこと)が、阿智祝部らの祖先として信濃の国に降臨したことが記載されている。
古事記では天照大神の鏡と思兼命は共に伊勢の皇大神宮に祀られたように読めるが、思兼命
が伊勢でなく阿智へなぜ祀られたのかは謎である。
→『愛郷探史録p.94』阿智の開拓祖神について
☆阿知使主(あちのおみ)
百済系の渡来人である漢(あや)氏の先駆者を阿知使主(あちのおみ)と呼ぶ。
飛鳥の檜隅(ひのくま)にある於美阿志(おみあし)神社は阿知使主を祀る。
→日本古代史と朝鮮(金達寿/講談社学術文庫)
☆阿智族
信濃の開拓に当たった古族として、諏訪族、安曇族、阿智族の3族を挙げる説があるが、
阿智の地名が阿知使主の一族と関係あるのかどうかは分からない。
市村咸人先生は、思兼命はニニギノミコトに伴って来て阿智祝部らの祖先になったのだから、
阿知使主の渡来以前から阿智の地名があったはずで、元々の阿智の語源は分からないという立場
をとられている(下伊那史4巻)が、これは執筆当時に神話を無視できなかったためと思われる。
『愛郷探史録』では、「アチ」は単なる符丁で特に意味はないという立場を取っている。
→『愛郷探史録p.14』アチとアフチの語源について
☆古墳群
長野県には古代の古墳が多いが、南信地方では天竜川沿いの地域に大型古墳が見られる。
阿智村には小型の円墳が関田・中関地域に点在していた。奈良時代以降は古墳の建造が禁止され
たことから、古墳は大和朝廷の支配が強まる以前の地方勢力を反映している。
すると、大型古墳のある竜丘や座光寺周辺に南信地区開拓の根拠地があったと考えるのが自然
だろう。それは一体どのような部族だったのだろうか?
〜平安時代〜
☆延喜式神名帳
「阿智神社」が「大山田神社」(下條)と並んで記載される。
阿智神社の祭神は、思兼命と表春命。県内では48座が記載されるが上下伊那では2社のみで、
開拓の遅れを暗示するように思う。
延喜式は、制度・朝廷の儀式・政治・産業・交通などが記録された10世紀の書物で、「式」とし
ては唯一完全に現存している。尚、東山道「阿知駅」も延喜式に記載されている。
☆古語拾遺
大同2年(807)斎部広成撰。中臣氏と斎部氏(忌部氏)が携わってきた祭祀が、次第に中臣氏に集中する中、斎部氏の復権を願って平城天皇に撰上した書。国史と氏族伝承に基づいており、記紀にない記載を含む。天平年間に神名帳を作成したが中臣氏が独断で社を取捨している事への批判、ことに熱田神宮の地位向上の必要を始めとして、12の問題点を上げている。思兼神が「天の岩屋戸こもり」で活躍したことや、阿知使主の渡来にも触れているが、阿智神社との関連には触れていない。斎部氏の祖神が天太玉命や天日鷲命であることから、栗矢の結城大明神の由来と関連して清浜遺稿に引用されている。
☆先代旧事本紀
聖徳太子撰と序文にある十巻本で、平安時代より存在が知られる。室町後期の吉田兼倶(吉田神道の祖)も、記紀と合わせて「三部の本書」と見ているように、近世初頭(江戸初期?)まで記紀より古い史書・神書として扱われた。
実際の成立は平安初期(九世紀頃)と見られ、物部氏を中心として没落した諸氏に関する伝承や、記紀にない神話を含む。(信濃国の阿智の祝部らの祖先として思兼命と表春命を挙げている。)
異本である『大成経』の弾圧事件(1681)以来、偽書の扱いを受けることが多いようだが、記紀と並べて扱うべきではないだろうか。(さんま)
→『先代旧事本紀』と『大成経』(原田 実 Cyber Space)
☆本地垂迹説
日本の神は仏が化身して現れたものだという説。平安初期に現れ、中期以降は個々の神々の本地仏が定められていった。
☆神仏習合
神を仏の化身として一緒に祀ること。神社の中に神宮寺と呼ばれる寺があったり、寺院に付属して守護のための神社があったりした。明治維新で国家神道に移行するまで、民間信仰では神と仏を区別していなかった。ただ、生に関する部分は「神道」、死に関する部分は「仏教」というように、互いに補い合いながら発展してきた。
→『中世の神と仏』(末木文美士/山川出版社)
〜鎌倉,室町,戦国時代〜(郷土史の空白期)
☆山王権現・山王神道
比叡山の守護神である日吉(ひよし/ひえ)大社の意義を天台で説明する理論を山王神道と呼ぶ。釈迦の慈悲に基づいて、諸仏が神々に姿を変えて日本を守るという本地垂迹説。鎌倉時代末〜南北朝期に成立。
当初は大宮=釈迦が中心だったが、二宮を国常立尊、八王子を天照大神の八人の皇子、十禅寺を皇孫と同一視することで、伊勢とも結びついた。更に、本覚思想の流行と共に、日本の神こそ仏の根本という神仏逆転の考えが見られるようになった。同時代の両部神道、伊勢神道とも関係があるようだ。
→『中世の神と仏』(末木文美士/山川出版社)
☆吉田神道
14世紀、卜部(吉田)家から出た慈遍(吉田兼好の兄弟)は比叡山で天台教学を修め、『神風和記』などの著作を残した。仏教や儒教の必要性を認めつつ神道の根源性や優越性を主張した。
15世紀、応仁の乱前後の混乱の中で吉田兼倶が現れた。彼は、京都の吉田山に大元宮斎場所を建立(1484)し、その周囲に伊勢神宮をはじめ日本中の神社を配置して神道界の統合支配の象徴とした。実際、神祇管領長と称し、神位・神号の授与権や祠官の補任権を独占した。また、『唯一神道名法要集』で唯一神道の理論を確立した。吉田家の権利は江戸幕府からも追認され、明治維新まで全国の神社界を支配した。
→『中世の神と仏』(末木文美士/山川出版社)
〜江戸時代
☆八幡様
大分県の宇佐神宮の奥宮がある御許山への信仰を源流とし、奈良時代には八幡神と応神天皇(誉田別命)を同一視するようになった。京都の石清水八幡で源義家が元服したことから、清和源氏の氏神、後には武家の守護神となった。阿智村でも、江戸時代になって各村の領主が八幡神を勧請して一族の安泰を願ったようだ。
→『日本の宗教の事典』(学研)
→『愛郷探史録p.99』阿智の神々考
☆お諏訪様
諏訪大社は信濃国一宮であり、出雲から逃れてきたと言われる建御名方命を祀り、全国にも分社が多い。下伊那地区でも諏訪明神を祀る神社が多く、飯田市の松川以北の竜西では9割にのぼるが、松川以南の竜西地区では極端に少なく1/3である。更に、阿智村の産土神(旧村社)10社及びそれに準ずる4社で諏訪明神を主神とする神社はない。また合祀している神社も2社に過ぎず、それも江戸時代後期からである。天孫系の思兼命を祀る阿智神社(または安布知神社)の影響か、このことは注目に値する。
→『愛郷探史録p.99』阿智の神々考
☆神祇管領長
吉田兼倶以後も、江戸幕府が吉田家に全国の神社への支配を追認したため、吉田家では代々「神祇管領長」を名乗った。阿智村にも、神社名や祭神の変更に関わる神宣状が残っているが、こうした手続きへの資金工面には苦労したようだ。また、神主の代替わりを申告しなかったため、厳しく追及を受けた記録もある
→『探史のあしあとp.32』神官三人の始末書
→『愛郷探史録p.140』古典文学的な神社名考
☆旧事紀大成経
延宝7年(1679)に、江戸の戸嶋惣兵衛の店から出版された『神代皇代大成経』は『先代旧事本紀』の異本で、序文に聖徳太子と蘇我馬子の編纂とある。神儒仏一体の教えを説き、学者・神官・僧侶に広く読まれた。伊勢神宮の伊雑宮は内宮・外宮に優越するという内容を含むため、内宮・外宮の抗議があり、2年後に幕府から禁書処分になった。永野采女(神道家)、潮音(黄檗宗の僧)、伊勢神宮伊雑宮による偽書と言われるが、本居宣長、平田篤胤らが重ねて偽書であることを強調しているようにその反響は大きく、山鹿素行らのように進んで研究した学者もあった。また、各地の神社の由緒書にも影響を与えている(阿智神社にも)。
江戸時代に創作された偽書であるにしろ、謎の多い古代に対して深く洞察して挑んだ文学的作品として見るなら別の価値を認めることもできるし、案外真実に迫る推理を含んでいるのではないだろうか。(さんま)
→『先代旧事本紀』と『大成経』(原田 実 Cyber Space)
☆産土(うぶすな)神
江戸時代の旧村で民衆の信仰を集めた鎮守神。村落の成立や歴史に関わりを持つ。古い由緒を持つものもあるだろうが、江戸時代に勧請されたものが多い。
→『愛郷探史録p.99』阿智の神々考
☆復古神道
江戸時代中期以降、仏教や儒教と習合しない純粋な神道の姿を求める動きが現れ、日本古典の文献的研究が進んだ。これを国学といい、国学者が体型づけた神道を復古神道という。本居宣長は『古事記伝』で『古事記』に実証主義的な注釈を付け、平田篤胤は宗教性を深めた。幕末の王政復古運動や、明治の神仏分離に影響を与えた。
→『日本の宗教の事典』(学研)
〜明治以降
☆廃仏毀釈(神仏分離)
明治政府は神仏分離令により仏教勢力の一掃を図った。村にある石仏の類も多く破壊され、首が折れたものを見かける。安布知神社の神光寺は廃寺となり文殊菩薩(思兼命の本地仏)や十一面観世音の仏像は長岳寺に移された。また、祭神の名も新羅明神を須佐之男命などと神道一色に変更された。新羅明神は明らかに渡来系の神様で、須佐之男命とは異なっている。国家神道により、従来の民衆の信仰が破壊されたのは残念である。
☆村社、郷社
明治維新後、終戦までの社格。安布知神社は明治5年に駒場村の村社、昭和7年に郷社に昇格した。郷社は、複数の村から信仰を集める神社のこと。