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朝鮮からの渡来人(参考)

 以下は、金達寿氏著『日本古代史と朝鮮(講談社現代文庫)』からの要約です。明治以降の皇国史観では、「渡来人」を大和朝廷への「帰化人」として位置づけてきたが、むしろ古代史の主人公であって、日本人と朝鮮人を区別して考えるのは当時の実情と合わないのではないかと問題提起しています。他者の著作を引用してつなげた文体と、日本語として意味の通じにくい箇所が気になりますが、対抗する歴史観として興味を引きます。(文責 さんま)

☆秦氏(はたうじ)
 山城(京都府)を中心に展開した新羅系の渡来人。太秦(うずまさ)の広隆寺や伏見の稲荷大社を氏神とする。 秦(はた)は中国の秦国ではなく、朝鮮語の海(バタ)に由来すると思われる。
 平野邦雄氏の『秦氏の研究』によると、古代史上に現れる人名のうち最も多いのが秦氏だという。大宝2年(702)の豊前国(福岡県)の戸籍台帳では、全戸数の85%が秦氏とその係累で占められる他、「山城は事実上秦の国(吉備郡史)」とも言われる。

☆漢氏(あやうじ)
 大和(奈良県)の飛鳥檜隅を中心に展開した百済系の渡来人。漢(あや)は中国の漢王朝ではなく、古代南部朝鮮の加耶(かや)諸国の有力国『安耶(あや)』に由来すると見られる。加耶諸国が562年に新羅に吸収される以前に渡来し、百済系の渡来人たち、殊に同じ百済系の蘇我氏と結んで繁栄した。飛鳥の於美阿志(おみあし)神社を氏神とする。『続日本紀』によると、飛鳥を含む武市郡の人口のうち8,9割は、漢氏族と百済から率いられた17県の人夫で占められていたという。この地には飛鳥時代の朝廷(大和朝廷)があり、当時の天皇陵が集中している。

☆王仁(わに)系氏族
 河内の古市(大阪府羽曳野市)を根拠地に展開し河内王朝と密接に関係がある。『千字文』『論語』を通じて、日本に漢字をもたらしたと言われる百済系の氏族。『王仁(わに)』とは朝鮮語の『王任(ワンニム)』で王様を表すと思われる。古市の近くに河内飛鳥がある。

☆百済王氏族
 660年、百済が新羅に滅ぼされた後に、日本に渡来した。北河内(枚方市)を本拠地とし、代々陸奥・出羽の東北経営に当たった。百済寺跡、百済王神社を氏寺、氏神とする。『続日本紀』に百済王敬福の時代、陸奥で日本初の金を産出して奈良の大仏の塗金に献上した話が載っている。

☆呉人(くれひと)
 飛鳥檜隅近くの呉原(現栗原)に住んだ高句麗系の渡来人。呉(くれ)は中国の呉国ではなく、句麗(クレ)に由来すると見られる。百済は高句麗から南下した勢力が建国した同じ扶余族であり、漢氏と呉人は当初同じ歩調を取っていたようだ。
 中河内(八尾市、東大阪市)も、高句麗系の土地で、コマの地名が残っている。