阿智の神々考
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜

1.はじめに
 江戸時代の産土神(うぶすながみ)を調べることは、先祖の生活や村落の成り立ち、文化の伝播を知ることであり、更に支配・統治の考察にもつながっていく。村誌執筆の際に控えた私論についても、制約を少し緩めて書いてみたい。

2.阿智の鎮守神(産土神)
 明治以後の村社・郷社、それに準ずる神社について、江戸時代の祭神を一覧表にしてみた。阿智地域の祭神の特徴について、以下で述べていきたい。( → 阿智の産土神 )
 なお、春日神社の「牛頭天王」と安布知神社の「新羅明神」は、明治維新の際の神仏分離で「須佐之男命」となっているが、本来同一神ではない。

3.飯伊地区では阿智のみに鎮座する神が多いことについて
<小山八幡社の日御子(ひのみこ)大明神>・・・明治以後は「天忍穂耳命」と改称したが?
<天満社(河内)の梅宮大明神>・・・安産の神
<栗矢八幡社の結城大神>・・・明治以後は「日鷲命」と改称したが?
<伏谷社の宗像三女神>・・・江戸時代の「八王子権現」が、明治以後「三女神」に?
<神坂神社の住吉三神>・・・山の中に、わだつみの神が?
<天思兼命と天表春命>・・・阿南にもあるが、阿智が主鎮座地

4.諏訪明神を鎮守神としなかったことについて
 諏訪明神とは建御名方(たけみなかた)命で、諏訪神社を本宮として全国に一万社をもつ。諏訪湖に源をもつ天竜川の流域(上下伊那)も、諏訪明神を鎮守神とする村落が多い。飯伊地区では、江戸時代の村数167に対して、建御名方命を祀る旧村社以上の神社が81社と祭神の第1位である。ことに飯田市松川以北で多く、竜東(諏訪氏末裔の知久氏地盤)では半数強、松川以南では極端に少ない。特に阿智では旧村社以上の10社中2社のみであり、いずれも江戸時代後期以降の合祀である。村社に準ずる産土神4社にも祀られていない。ただし、有志で勧請した社や、他所から遷座したと見られる合殿は、産土神とは言えないので除く。下伊那史4巻によると、諏訪族を監視するために阿智地域に天孫系の祖神が先行して祭祀されたため(市村先生説)、という。

5.八幡神の祭祀と支配関係について
 八幡神とは誉田別尊(ほむだわけのみこと)で、飯伊地区で八幡神を祀る旧村社以上の神社は60社と、諏訪明神に次いで第2位である。阿智では10社中7社と多い。祀っていない旧3村は、いずれも江戸時代を通じて天領であった(昼神のみ例外的に八幡神を祀っている)。他は旗本領か、旗本領の時期を持つ。飯伊地区全体でも、八幡神の祭祀率は終始天領だった村の方が明らかに少なくなっている。八幡神の祭祀は、領主が領内安泰を願って勧請した傾向があると言える。

6.天正7年の上諏訪造宮帳と阿智の村々
 天正6年(1578)に諏訪明神の造宮が計画され、「前宮一之御柱」を「下伊那郡伊賀良庄」で造立するよう定められた。各村に役銭の割付けがされたが、街道筋にあり比較的経済力もあった駒場には割付がない。他に桐林、立石、大瀬木、三日市場等の500石前後の中位の村にも割付けがない。下條一帯にも割付がなかったが、翌年の納付帳を見ると早田(わせだ)之郷として3貫482文の役銭を納付している。この造宮は、武田勝頼が武田勢の再興を祈願するためだったと言われるが、割付けがないのは何故だろうか。
 この割付で、北関、中関、南関の村名が見られるが、中関以外の村名は江戸時代の資料に見られない。北関を上中関、南関を向関と見ると(市村説)、3村とも諏訪明神を祀っていないのに割り付けされている。従って、信仰の有無だけでは説明できない。

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