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 神坂神社(住吉社)

  所在地(氏子):阿智村智里(園原、本谷)

  祭神:住吉明神 ( 表筒男命(うわつつをのみこと)、中筒男命(なかつつをのみこと)
              底筒男命(そこつつをのみこと) )

  合祀:須佐之男命(牛頭天王) ・・・中御山神社(本谷)より
      天津日子根命・・・・・・・・・・・・八王子社(本谷)より
神坂神社 境内

 東山道神坂峠の麓に、園原の里がある。なぜかここに、航海の神「住吉明神」が祀られている。住吉社の由緒は不明だが、宮下操先生は、信濃の2大古族のうち「安曇族」の守護神が住吉明神であることとの関連を指摘している。
 木曽路や大平街道が盛んになると神坂峠は廃れ、園原も無人の里になった。園原から伍和寺尾に移り住んだという一族が園原姓を名乗っているが、その氏神も住吉明神である。口伝によると、炭焼吉次を祖先とし、代々伏屋の長者と呼ばれたという。

 江戸時代(享保年間か)になり、小野川村の人々が網掛峠を越えて園原・本谷の開拓に入り、定住した。野熊山(恵那山)一帯は幕府の御林山であり、榑木成りの6村(上中関、向関、備中原、大鹿倉、昼神、小野川)の入会山であったため、他の5村が抗議したが、阿島の役所の裁定で、元文5年(1740)に23戸の定住権が認められた(実際には30戸以上入植した)。当時も住吉社はあったが、現在のように整備されたのは明治以降である。

 現在の本殿は明治22年の再建で、宮大工の坂田亀吉(通称「木曽亀」)による彫刻(写真中)が見事である。
 境内には<写真上>のように、「園原碑(角田忠行撰文、富岡鐵斎筆/右中)」、「万葉集防人歌碑」、「日本武尊駐蹕之旧蹟碑」(いずれも明治35年建立)のほか、日本武尊腰掛石(右下)や樹齢二千年ともいう日本杉(拝殿右)、栃の老木(拝殿左)がある。

 付近に「杉の木平遺跡」の炭層や、炭焼長者の伝承があるが、その炭は何に使われたのだろうか? 恵那山からは石灰岩やアンチモニー鉱石を明治以降採掘したが、古代にも銅などの金属を試掘したのではないか? という人もいる。「炭良し」の神?
  (2003.10月)

 神坂神社にも御柱があると聞きました。確かに<写真上>を見ると、拝殿の下の段に2本写っています。もう一度見に行きました。
 すると、左側の1本は古いままで、右側の1本だけ新調されていました。
 昨年の秋祭りの頃、鳥居前の石段や邪魔な杉の木を整備したそうで、すっきりとした境内になっていました。社殿周辺が危険なため、玉垣の建設も計画されているそうです。

 ところで、神坂神社の祭神に「お諏訪様」があったとは文献に見えませんが、いつから合祀されているのでしょうか。
 (2004.5.23)

 →『伊那郷土史学論考』(宮下操)より
    史学上より見たる神坂神社
 →『愛郷』p.360 「園原末代鑑」
 →『愛郷』p.463 「村の石碑調査」
            13橘内先祖之碑
 →『愛郷』p.496 「園原碑の秘話」
 →「炭焼長者伝説」全国調査の概要
                  (羽場睦美) 

神坂神社境内:昼神温泉の観光客で賑わう
木曽亀の彫刻

本殿の彫刻:明治22年、木曽亀の作品

神坂峠 登り口

東山道跡:境内奥から神坂峠へ続く。
右手の詩碑は黒坂周平先生筆の
「渉信濃坂」。

新しい御柱
新しい御柱と拝殿、日本杉