鎮座地の寺尾は、背後(南西)に下条山地が連なっている山里であり、極楽峠を越えると浪合へ抜ける道筋にある。河内村に含まれる。松崎岩夫先生の『長野県の地名 その由来』によると、寺は「平(たいら)」に通じ、尾は場所を表す接尾語で、「寺尾」は山地の中の平地に見られる地名だという。現地へ行ってみると、宅地と車道の他には平らなところが少なく、斜面には柿の木等が植わっている。
寺尾の道端にある「橘内先祖之碑(昭和15年)」によると、園原伏屋長者の末裔が、後に寺尾の里に移り住んだともいう。
この社は「おてろう様」と呼ばれ、河内村、栗矢村全域を氏子とし、駒場や親田、小松原から寄進を集めるほど社勢が盛んだった。参道は約400mで桧や杉などの並木道になっており、伊那史学会からも「伊那一」と認められている。参道沿いには「壱丁(破損)」「貳丁」「三丁」「四丁」の『丁石』が並んでいる(写真中:左下)。更に、奥宮に向かって「七丁」「八丁」の『丁石』がある(手羅尾山神社を参照)。以前には、約4km離れた「河内幸の神」や「栗矢八幡社」の北に一の鳥居があったという。
社家の原氏の文書によると、享禄年中(1528〜31)に、領主下条伊豆守(7代家氏)が勧請したという。また、駒場村上町の領主であった宮崎太郎左衛門安重の社領米寄進状(慶長6年(1601)が残っている。当時の社号は「てろうの山神」である。
伊賀良神社の社号は、寛政9年(1797)頃に神祇管領長上吉田(卜部)家から下付されたと見られ、この頃から「伊賀良神社」「手羅尾山神社」の2社併称となる。飯田以南の広い地域が「伊賀良の庄」であるので、山の神にしては立派な社名である。
境内の石灯籠や狛犬は、18世紀中頃の寄進で、特に素朴な狛犬は山犬を思わせる。
→ 『阿智村誌』 p.739
→ 『探史の足あと』
p.25 伊賀良神社の標札
p.26 おてろう様の鳥居沓石
p.27 二社併称のてろう様
→ 『愛郷探史録』
p.164 伊賀良神社(寺尾山神)の棟札
p.140 古典文学的な神社名考