奥の細道(松尾芭蕉)
 

 【題意】

 『奥の細道』(松尾芭蕉)平泉の段より抜粋したもの。

 元禄4年(1689)3月27日(太陽暦5月16日)、松尾芭蕉は門人河合曾良を伴い、

 江戸深川の草庵を旅発つ。芭蕉46歳。

 「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」

 まず舟で千住(現東京都足立区千住)に降り立ち、そこで見送りの人々と別れた。

 「行春や鳥啼き魚の目は泪」

 これより奥州路に歩みを進めることとなる。

 芭蕉と曾良が平泉に入ったのは出立よりおよそ一月半後の事であった。

 【詩意】

 藤原三代の栄華もまるで一睡の夢の様である

 あの源義経が選りすぐった忠臣達とこの高館に籠り

 奮戦した功名も一時のこととして過ぎ去った あとは茫々たる草むらである

 「国破れて山河あり・・・」と杜甫の詩を思い起こし

 旅の笠を敷き 腰を下ろしたまま 時の移るのも忘れ

 涙を流した

 「夏草や兵どもが夢の跡」

 【語釈】

 三代=奥州藤原氏の清衡、基衡、秀衡。 

 義臣=武蔵坊弁慶、十郎権頭兼房たち。

 此の城にこもり=源義経主従は藤原秀衡の庇護の下にあったが秀衡死後、その子泰衡の

 軍勢に攻められ奮戦の末、衣川の館(たて)で自刃した。

 義経の自刃は1189年のことで、芭蕉、曾良が平泉を訪れるちょうど500年前にあたる。

 「国破れて・・・」=杜甫『春望』の詩句。『春望』では、「城春にして草木深し」

 松尾芭蕉(まつおばしょう)  
 1644〜1694年。正保元年、忍者の里として名高い伊賀国の上野(現上野市)で生まれた。
 幼名は金作。その前半生の詳細はほとんど明らかになっていない。
 幼少時から武家奉公に出て、十代の終わり頃には藤堂藩五千石の重臣・藤堂新七郎義精
 (よしきよ)の長男、主計良忠(かずえよしただ)に子小姓として仕えた。
 良忠は北村季吟に師事するほどの俳諧好きであった。芭蕉(当時俳号は宗房)も共に俳諧を
 楽しんだと推測されるが、23歳の時、主君良忠夭折により、致仕することとなる。
 29歳で江戸へ下向、新進の俳諧師としていち早く頭角を現し、活躍。32歳の5月、俳号を
 宗房から桃青に改め、34、5歳頃には俳諧宗匠となり、門人も次第に増えていった。
 37歳の冬、華やかな江戸日本橋小田原町の住居を引き払い、郊外の深川の草庵に移り、
 俳諧宗匠を退いた。後に門人李下から送られた芭蕉の株がよく繁ったので、草庵を芭蕉庵と
 呼ぶようになった。深川隠棲後は、当時流行の滑稽で言葉の遊戯的な俳諧から閑寂枯淡な
 俳諧へと俳風が転換。更に数多くの旅等も経て、芭蕉は俳諧を独自の文学美へ高めていく。
 一連の大きな変化の原因について様々な説が挙げられているが詳細は不明である。
 1684〜1685年「野ざらし紀行」。1687年「鹿島詣」。1687〜1688年「笈の小文」の旅。
 1688年「更科紀行」。そして、1689年「奥の細道」の旅へ出る。
 芭蕉は奥の細道の旅中、不易流行論の着想を得たという。
 江戸に戻って以後は「軽み」と称した新しさを追及していくが、元禄7年(1694)盆会の為に
 帰郷後、9月に大坂で発病。当初は病気を押して俳諧の会をつとめるも病状が次第に悪化。
 10月8日、病床にて門弟各務支考に病中吟「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を示す。

 12日、夕刻死去。51歳。14日、遺言により近江国膳所義仲寺にて葬儀が営まれた。

 真夜中の埋葬になったが、駆けつけた門人、知人等により盛葬であったという。
 芭蕉の墓は木曽義仲の墓の隣に建てられた。
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山亭夏日(高駢)
 

 【題意】

 盛夏、山荘での清涼の風情を詠った。

 【詩意】

 樹木のつくる影は濃く、夏の日は長い

 高殿の姿が池に逆さまに映っている

 微かな風が吹き水晶のすだれが動いて

 棚に咲く薔薇が庭中に芳しく香る

 【鑑賞】

 夏を扱ったものがさほど多くない唐詩の中にあって、夏の詩の佳作として有名。

 既に第一句で読む者は夏の暑さの中に引き込まれる。

 夏のけだるい雰囲気は誰もが経験あり、感覚的にもとらえ易いのではないだろうか。

 転句での有るか無いかのような動きが全編に漂う静寂の効果的なアクセントになっている。

 高   駢(こうべん)  

 生年不詳〜887年。晩唐の官僚、詩人。字は千里。幽州(現在の河北省)の人。

 武芸に秀で、また文学にも熱心で文士と盛んな交流があった。

 各地の節度使を歴任。黄巣の乱を討伐し、その武力を国中に知らしめた。

 後に高駢の天下をうかがう気配を見てとった朝廷により渤海郡王への任命と引き換えに

 兵権を剥奪された。晩年は失意の中で神仙思想に傾き奇行が多かったという。

 光啓3年、部下の畢師鐸に殺された。

 ※節度使=中国の唐、五代に設置された軍団の長官。

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海南行(細川頼之)
 

 【題意】

 頼之が、剃髪して名を常久と改め、讃岐へ帰る時の詩。

 【詩意】

 人生五十を過ぎたが此れといった功績が無い事を恥ずかしく思う

 春は過ぎ去り、花木の装いも既に夏半ばである

 部屋の中を青蝿が飛び回り、いくら追ってもきりが無い

 それなら部屋を出て、長椅子を探し清涼な風吹く、静かな場所で横になろう

 【語釈】

 海南=讃岐。   禅榻=禅家用の椅子、座禅に用いる。

 【鑑賞】

 本来の心境を暗喩によって表現している。

 第二句は自分の人生を象徴しているともいわれる。

 第三句は小人達が将軍や自分の周りに満ちて権勢を競っている様。

 結句は息苦しい処を逃れて、出家し余生を送ろうという悠揚とした心持ち。

 第一句も自分の功績を認めない中央に対する皮肉の意が込められているのであろう。

 細川頼之(ほそかわよりゆき)  

 1329〜1392年。室町時代の武将。三河の生れ。足利尊氏、義詮、義満三代に仕えた。

 室町幕府足利氏の武将中、第一等の人物と云われる。

 義詮の遺命によって三代将軍・義満を補佐し、諸改革を打ち出した。

 しかし他の武将や将軍の取り巻きとの衝突により成しえず、讒言によって義満にも疎んじら

 れるに至り、51歳の時、職を辞し剃髪して名を常久と改め讃岐へ隠居した。

 後に長年にわたる功績を思った義満に再び召還され国政に復帰する。

 禅を修め詩を好み、杜甫を愛読したと伝えられる。現在の熊本細川氏の本家筋にあたる。

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夏晝偶作(柳宗元)
 

 【題意】

 蒸し暑い夏の盛りに、たまたま詠んだ。柳州に赴任していた時の作。

 【詩意】

 柳州の蒸し暑さときたら、酒に酔ったようだ

 北向の窓を開け放ち、机に寄りかかって眠る

 昼頃、独り目覚めると辺りは静まりかえっている

 童が茶葉を臼でつく音だけが竹林の向こうから聞こえてくる

 【語釈】

 南州=柳州。   溽暑=蒸し暑いこと。

 柳 宗 元(りゅうそうげん)  

 ※作者については解説の栞・冬来たるで紹介しています。

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新緑(武田信玄)
 

 【題意】

 初夏、新緑の清々しい風趣を詠った。

 【詩意】

 春は去り 夏が来た 若葉の光る木々に

 その濃い木陰に 私はずっと佇んでいる

 常日頃から物静かな世界に没頭する事を好む

 それゆえ 賑やかな鶯より ひっそりと鳴くホトトギスに私は聞き入る

 【鑑賞】

 信玄公も若い頃は詩賦に耽り、政務を忘れたという逸話がある。

 この詩のように新緑の木陰に休息し、詩作を練ったのだろうか。

 武田信玄(たけだしんげん)  

 1521〜1573年。戦国時代の武将、甲斐国(山梨県)の守護大名。名は晴信、信玄は法名。

 21歳の時、父・信虎を隠居させ、家督を継承。直後から信濃へ侵攻を開始し、諏訪・小笠原・

 村上氏等を制圧して一円を手中に収めた。敗走した武将の一部は越後の上杉謙信に救援を

 求め、以後信玄と謙信は好敵手として川中島の合戦等で度々対峙する事になる。

 晩年、激しい戦いを繰り返した北条氏と和睦がなると、織田信長と対立していた武将や石山

 本願寺と結び、将軍・足利義昭の要請を受け入れて、遂に1572年10月、信長を討つべく

 上洛の途についた。

 その年の暮れには三方ヶ原の戦いで徳川家康軍と織田の応援部隊を完膚なきまでに撃破。

 まさに火の如き勢いであったが、病の悪化によりやむなく領内へ引き上げることとなり、その

 帰途伊那駒場にて歿した。53歳であった。もうあと数年信玄が生き長らえていたら戦国後の

 勢力図は大きく違っていたかもしれないとは後世盛んに述べられるところである。

 信玄は法や交通の整備、信玄堤で知られる治水事業等、領国経営にも優れた手腕を発揮

 した。学問への造詣も深く、風林火山の旗を書したと云われる快川紹喜(かいせんしょうき)

 等の高僧を招き禅学を修めた。

 詩文や和歌の才にも秀でており、当時の武将中随一との声もある。

 その詩作は17首が今日に伝わるという。

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熊城四時の楽しみ(夏)
 

 【題意】

 熊本城下の四季の楽しみの中で、夏を詠じたもの。

 春夏秋冬、四首連作の一首。熊城四時の楽しみ(春)  熊城四時の楽しみ(冬)

 【詩意】

 城下の蒸し熱さを避けようと思い

 小舟を操って白川を遡る

 涼やかな風が吹く川岸の大樹の下に

 既に先客の舟が何艘も集まっている

 【語釈】

 橈=舟のかい。かじ。ここでは小さな舟のこと。

 藪 孤 山(やぶこざん)  

 1735〜1802年。現在の熊本市池田町富尾に生まれた。

 14、5歳で詩文を作り、藩主重賢公に認められて学資の援助を受け江戸、京都に遊学。

 頼春水等と親交があった。帰郷後、藩校時習館の訓導となる。54歳の時、病気(中風)を

 患うが時習館に出掛けては教授を続け、64歳で没した。墓は熊本市の本妙寺にある。

 肥後藩唯一の漢詩集「楽F集」は、孤山の撰によるものである。

 朱子学を奉じたが、その門下には、徳行の優れたもの、文学に長ずるもの他、政治、経済、

 軍学、剣道、医学、僧侶等それぞれに名をなすものが多く輩出した。

 そのような事から、孤山の教育には定評があった。弟子に伊形霊雨等がある。

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偶成(西郷南洲)
 

 【題意】

 たまたま成す。

 文久2年(1862)、島津久光公の怒りをかった西郷は、沖永良部島へ遠島となり、およそ

 一年半、座敷牢での生活を余儀なくされる。そこでの心境を詠ったもの。三十代半ばの作。

 【詩意】

 雨は吹き寄せる風と共に日よけの芭蕉の葉に打ちつけ

 ほととぎすはまるで冤罪を泣訴するが如く鳴き続ける

 今宵、離騒の賦を吟じれば

 南海の孤島での愁いが一層深く胸に迫ってくる

 【語釈】

 敗紗=破れた薄布、あるいは芭蕉の葉か。

 離騒の賦=中国戦国時代・楚の屈原が讒言により江南へ流された際、詠んだ詩。

 滅亡へ向かう祖国への憂国の情や為す術の無い己が境遇の愁いや憤りを幻想的に詠った。

 南竄=南の島への流刑。

 【土持政照】

 沖永良部島の役人。吹きさらしで粗末な牢を見かね、新しく座敷牢を建てたり、体調を崩した

 西郷を自宅で療養させたりするなど、西郷の世話に尽力。後に義兄弟の杯を交わす。

 西郷南洲(さいごうなんしゅう)  

 作者略歴については、解説の栞・人の頁に詳述。

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