1521〜1573年。戦国時代の武将、甲斐国(山梨県)の守護大名。名は晴信、信玄は法名。
21歳の時、父・信虎を隠居させ、家督を継承。直後から信濃へ侵攻を開始し、諏訪・小笠原・
村上氏等を制圧して一円を手中に収めた。敗走した武将の一部は越後の上杉謙信に救援を
求め、以後信玄と謙信は好敵手として川中島の合戦等で度々対峙する事になる。
晩年、激しい戦いを繰り返した北条氏と和睦がなると、織田信長と対立していた武将や石山
本願寺と結び、将軍・足利義昭の要請を受け入れて、遂に1572年10月、信長を討つべく
上洛の途についた。
その年の暮れには三方ヶ原の戦いで徳川家康軍と織田の応援部隊を完膚なきまでに撃破。
まさに火の如き勢いであったが、病の悪化によりやむなく領内へ引き上げることとなり、その
帰途伊那駒場にて歿した。53歳であった。もうあと数年信玄が生き長らえていたら戦国後の
勢力図は大きく違っていたかもしれないとは後世盛んに述べられるところである。
信玄は法や交通の整備、信玄堤で知られる治水事業等、領国経営にも優れた手腕を発揮
した。学問への造詣も深く、風林火山の旗を書したと云われる快川紹喜(かいせんしょうき)
等の高僧を招き禅学を修めた。
詩文や和歌の才にも秀でており、当時の武将中随一との声もある。
その詩作は17首が今日に伝わるという。
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