熊本漢詩紀行 三
 
菊池武時公(菊池東郊)
 

 【題意】

 忠臣、菊池武時公を賦した。

 【詩意】

 暗く怪しい空気が宮中に満ち溢れている

 日本の西方、肥後で勇躍君国の為に立ち上がった忠臣こそ菊池武時公である

 櫛田神社では、鏑矢で蛇の物の怪を倒した

 袖ヶ浦で詠った和歌は鬼神さえも涙させた

 その子武重は父の教え通り、小さな郷里を守り、頑張った

 武時公たち菊池一門は自分の身を忘れて天下の御為に尽くしたのである

 後世の人々は、勤皇の地でいつまでも一門を祀り弔う

 十八の城があったというこの辺りに来ると、菊池一族の忠義を思い、涙があふれるのだ

 【語釈】

 紫宸=天皇の宮殿。   西陲=西のほとり。ここでは九州肥後。

 【櫛田の鳴鏑】

 武時一行が櫛田神社の前まで来ると突然馬が動かなくなった。

 武時は「神といえど大義の戦を止めることはできぬ。」と言い、社殿の扉へ矢を放った。

 すると馬は呪縛が解けた様に再び進みだし、矢の傍には一匹の蛇の死骸があったという。

 【袖ヶ浦の題歌】

 鎮西探題攻めで守勢にたった武時は、覚悟を決め嫡子次郎武重を呼んで、肥後に帰るよう

 命じる。武重は館に討ち入ることを頼むが、武時は故郷へ戻り態勢を立て直し再び挙兵する

 よう後事を託した。

 その際、武時は直垂の袖を切り「故郷に今宵ばかりの命とも 知らでや人のわれを待つらん」

 という歌をしたため、母に与えよ、と命じ武重に持たせて菊池に帰した。

 「袖ヶ浦の別れ」といわれ、菊池武時親子の悲しい別れを今日に伝えている。

 楠公父子の櫻井の駅の別れの3年前の事であった。

 【菊池武時】

 1292?〜1333年、鎌倉後期の武将。

 元弘3年、隠岐を脱出した後醍醐天皇に応じて挙兵。鎮西探題・北条英時を攻めたが、

 盟約を結んでいた他の武将の協力を得られず、敗れて戦死した。

 楠木正成は「武時の忠死をもって、建武中興の第一の勲功となすべきだ。」と激賞した。

 【菊池氏】

 藤原蔵規(まさのり)の子孫。肥後国菊池郡にて菊池氏を名乗る。

 代々肥後守を称し、大豪族となり、蒙古襲来でも武勲をあげた。

 南北朝時代には九州での南朝勢力の中心として活躍。

 戦国時代に大友氏により滅亡するが、後に一族の米良氏が菊池氏を称した。

 【菊池神社】

 武時公を主神として一族が合祀されている。

 明治3年(1870)、社殿を菊池城址に建立。明治35年に武時公は従一位を追贈された。

 毎年、菊池神社奉納吟詠大会があり、参詣者が多い。

 【参考】

 頼山陽の詩作の中に「南遊して菊池村を過ぐ」がある。

 結句は「翠楠未だ必ずしも黄花に勝らず」とある。(翠楠…楠木、黄花…菊池)

 菊池東郊(きくちとうこう)  

 1866〜1938年。熊本の人。

 高等小学校教諭を経て熊本詩壇に重きをなす。人格円満で生き仏と称された。

 書道にも長じ名士の碑文等も多く揮毫されている。

 香雲堂吟詠会最高顧問のお一人。初代瓜生田山桜先生の作詩の先生の一人でもあり、

 各吟詠大会には何時も御出席戴いた。現宗家も良く会われたが、白い髭を生やされた

 優しい人柄であったと記憶されている。

 日本軍が進撃した詩を賦され、初代山桜先生の処へ御持参後、一日を経ずして急逝され、

 その詩稿が絶筆となった。昭和13年1月21日歿。

 葬儀は千体佛報恩禅寺で盛大に挙行され、各界名士が500余名会葬。

 初代山桜先生が落合東郭先生作の弔詞を吟じ盛葬であったという。

 

 先生の墓地は千体佛報恩禅寺に在るが、すぐ隣に宮原南郊先生の墓も在る。

 その御縁で二代宗家厳父、瓜生田建山先生が自身の墓所を同じ場所に求め、初代宗家も

 ここに眠られている。丁度向かい合わせに三つの墓石が在り、菊池東郊先生の墓碑には、

 徳富蘇峰先生の筆による碑銘が刻まれている。

 ※報恩禅寺は、俳人の種田山頭火が得度を受けた寺としても知られる。

 ページの先頭に戻る 

百梅園(小川玉峯)
 

 【題意】

 徳富蘇峰先生が少年時代学びし、兼坂止水先生塾跡を詠った。

 梅が沢山植えてありこの名がついた。

 【詩意】

 早春といってもまだ寒く、訪れる人も無い

 兼坂先生も今は無く、文人、詩人達の集いも絶え、風流の名残も消えてしまった

 かつてここは蘇峰先生も勉強をされた、由緒ある処である

 今はひっそりと寂しい百梅園

 【鑑賞】

 寂寞とした百梅園で、昔を思い今を思う作者の心が表れている。

 滝本悠雅氏の和歌「早咲きの花のとぼしき一本の老木の木ぶり眼にのこりたる」も

 この百梅園の風情を詠じてあり、詩と共に吟ずれば良い。

 【百梅園】
 熊本市島崎。兼坂止水塾跡。
 【兼坂止水】
兼坂止水塾跡・百梅園
兼坂止水塾跡 百梅園
 細川藩士。学者、詩人として知られる。明治4年(1871)家禄を
 奉還、藩士中最初の帰農者としても有名。
 梅をこよなく愛し、数多くの梅を植えたことからその地を百梅園と
 名づけ、当地に開塾。多くの子弟を教育、世に送り出した。
 徳富蘇峰も幼い頃この塾に学んだ。  
 小川玉峯(おがわぎょくほう)  

 明治31年12月17日生まれ。熊本の人。政経界に活躍。

 漢詩を東船山に学び、熊本建極会漢詩部同人として、初代宗家とも親交があった。

 ページの先頭に戻る 

球磨川槍倒の険(瀬戸頑水)
 

 【題意】

 人吉球磨川の急流、槍倒の瀬を賦したもの。

 【詩意】

 千台の兵車が行く様に、大きな大名行列が球磨川を下る

 清流は危険な岩に激しくぶつかり、水しぶきが中に躍り上がる

 たちまち舟は、洞窟の如き奇岩へ突き進む

 岩につかえぬよう長槍を倒して急流を抜けて行く、

 ふと気付くと清らかで穏やかな流れに出ていた

 【語釈】

 千乘旅列=大名行列(参勤交代)

 【鑑賞】

 球磨川の急流の感が、大名行列の槍倒しを用いて良く表現されている。

 槍倒しの瀬として有名であったが、現在ではダムの建設によって水没し昔時の面影は無い。

 【球磨川】

 熊本県南部を流れる川。最上川、富士川と共に日本三急流の一つ。

 九州山地から人吉盆地を抜け八代市で不知火海に注ぐ。沿岸は球磨焼酎の産地。

 現在は船による球磨川下りが有名。人吉市から九州一の規模を誇る鍾乳洞、球泉洞まで

 のおよそ18キロを下る。途中、名勝槍倒しの瀬も通過する。

 球磨川に沿ってはJR肥薩線やくま川鉄道が走っており、車窓から渓谷の自然が楽しめる。

 肥薩線はスイッチバックやループ線でも知られ、鉄道好きなら一度は乗車するといわれる。

 内田百閧フ「阿房列車」にも登場する。

 瀬戸頑水(せとがんすい)  

 明治24年生まれ。熊本県人吉の人。

 電力事業に従事し、功績を残された。

 ページの先頭に戻る 


成道寺(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 成道寺での感慨を詠んだ。

 【詩意】

 清らかで静かな成道寺

 庭園の造りが自然に沿っていて珍しい

 先人の善行の跡がそこかしこに残っている

 散策しながら古の事などに思いを廻らし、感慨深いものがあった

 【参考】

 阿蘇山

 
【成道寺】

熊本市の西方にある臨済宗南禅寺派の寺。細川藩家老・沢村大学の菩提寺。

応永33年(1426)12月8日、寧中元志和尚により建立された。その日が釈迦成道の日

(お釈迦様が悟りを開いた日)であったことが寺名の由来となっている。

深い木立ちに覆われた境内は、熊本名水百選にも選ばれた湧水が流れ、木漏れ日と

清らかな水音に包まれている。秋には美しい紅葉を目にする事が出来る。

歌人稲畑汀子が「寺の庭どこまでが庭石蕗の花」と詠んだように自然と一体の趣がある。

多くの文人が訪れており、夏目漱石は「若葉して手のひらほどの山の寺」と詠んだ。

詩碑や歌碑の他、長い歴史を偲ばせる六地蔵塔、五輪塔等の多くの有形文化財もある。

夏場は市中よりだいぶ涼しく、香雲堂吟詠会も初代宗家の頃、お寺の本堂を拝借して

夏の吟詠会を催した。泉水で西瓜を冷やしたり、そーめん流し等をして涼をとった。

 
成道寺
徳富蘇峰詩碑
稲畑汀子句碑
成道寺
徳富蘇峰詩碑
稲畑汀子句碑
 
 徳富蘇峰(とくどみそほう)  
 ※作者は栞/熊本漢詩紀行1で詳述。
 ページの先頭に戻る 
熊城四時の楽しみ・冬(藪孤山)
 

 【題意】

 熊本城下の四季の楽しみの中で、冬を詠じたもの。春夏秋冬、四首連作の一首。

 【詩意】

 馬を連ねて熊本城を出れば

 風切る弓飾りは音をたて鳴り止まない

 けれども馬を馳せていると、風や雪の寒さ等忘れてしまう

 西山での狩りこそ冬の楽しみだ

 【語釈】

 角弓=弓の飾りの角。   封豕=大きい豚。ここでは狩りの意。

 【鑑賞】

 連作四時の楽しみには、今から250年程前の熊本城下における娯楽が、春夏秋冬ごとに

 生き生きと描かれている。それぞれの風物は作者の体験に基づいて飄々と語られ、

 作者が生きた時代の風物が窺い知れ、読んでいて楽しくなる。

 冬篇では、その頃は当たり前であった「馬を連ねて」という言葉がとても新鮮に響く。

 狩場への浮きたつ気持ちが馬や風のスピード感と共に良く伝わって来る。

 藪 孤 山(やぶこざん)  

 1735〜1802年。現在の熊本市池田町富尾に生まれた。

 14、5歳で詩文を作り、藩主重賢公に認められて学資の援助を受け江戸、京都に遊学。

 頼春水等と親交があった。帰郷後、藩校時習館の訓導となる。54歳の時、病気(中風)を

 患うが時習館に出掛けては教授を続け、64歳で没した。墓は熊本市の本妙寺にある。

 

 肥後藩唯一の漢詩集「楽F集」は、孤山の撰によるものである。

 朱子学を奉じたが、その門下には、徳行の優れたもの、文学に長ずるもの他、政治、経済、

 軍学、剣道、医学、僧侶等それぞれに名をなすものが多く輩出した。

 そのような事から、孤山の教育には定評があった。弟子に伊形霊雨等がある。

 ページの先頭に戻る 

詩吟・香雲堂吟詠会浪岡鼕山教室 HOME