1863〜1957年。熊本の生まれ。名は正敬。通称猪一郎、蘇峰は号。 |
熊本の生んだ大偉人であり、明治・大正・昭和時代の言論人、史家、漢詩人。 |
家は代々総庄屋兼代官の役を勤めた。父、一敬は実学派の横井小楠の高弟で維新後、 |
県の役人に登用され県政に参画した。弟、健次郎(蘆花)は小説家として名高い。 |
また母の妹が横井小楠夫人であるため、小楠は叔父にあたる。 |
明治4年、兼坂止水塾に学ぶ。父一敬らの教育改革政策としてアメリカ人ジェームスを招き |
熊本洋学校が設けられ、明治6年、当校に入学、アメリカ風の教育を受けキリスト教を知った。 |
また洋学校の側に新聞を印刷する会社が在った事で新聞に興味を持ったといわれる。 |
明治9年13歳の時、同士と共にキリスト教を日本に広めるという誓いを熊本花岡山でたてる。 |
これを「熊本バンド」と云ったが、それが元で洋学校は閉鎖、仲間と京都の同志社に移った。 |
同年、新島襄から洗礼を受け正式にキリスト教徒となる。 |
翌年、西南戦争が勃発。征討軍の本拠地・京都で新聞特派員の活躍やその戦況報道に |
大きな刺激を受け新聞記者を志す。 |
新島からは将来に期待をかけられていたが、「校長自責事件」として有名な学生運動に |
巻き込まれ、同志社を退学して上京する事となった。 |
19歳の時、熊本に帰り大江義塾を創設。この頃、板垣退助、中江兆民、福沢諭吉等と交わり |
「将来の日本」を著した。一家を挙げて上京の後、明治20年(1887)出版社・民友社を創り |
雑誌「国民の友」、同23年には「国民新聞」を発行。 |
同29年には欧米視察。またロシアへ赴きトルストイを訪問している。 |
同44年貴族院議員に勅撰されたが、後に息子・桂太郎の死に遭い政治的野心を捨てた。 |
第二次世界大戦中、文学報国会長となり文化勲章を授けられたが、終戦後は戦犯とされて |
引退し、一切の公職や勲章等を辞退した。 |
大正7年より新聞に掲載の「近世日本国民史」(全百巻)の執筆を続け、昭和27年89歳の |
時に完成した。昭和32年(1957)11月2日熱海晩晴草堂にて94歳で病没。 |
辞世は「吼え狂う波の八重路をのり越えて心静けく港にぞ入る」 |
先生は一世の文豪で学問も広く、その著書は三百冊に及ぶ。漢詩人としても「今山陽」の |
称がある程で、詩集には「徳富先生作詩集」「蘇峰詩集」「蘇峰百絶」等がある。 |
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香雲堂吟詠会の最も敬仰する大先達。 |
初代瓜生田山桜先生を認められ、多大の御後援を賜った。本会の最高名誉顧問である。 |
初代山桜先生との出会いは、昭和13年(1938)5月、蘇峰先生の熊本に於ける、 |
”横井小楠没後70年祭”の記念式典時に始まる。 |
後に初代が出版された「書簡に偲ぶ蘇峰先生」によれば「式典後、先生の歓迎会が催され、 |
その席上、落合東郭先生の歓迎詩を代吟して図らずもお耳に止まった訳である」とある。 |
その時、初代は先生から『月明林下美人来』の七文字を揮毫して戴いたが、 |
現在徳富蘇峰記念館(旧大江義塾)に展観され往時を物語っている。 |