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阿蘇山(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 阿蘇山を詠じられたもの

 【詩意】

 一筋の晴れやかな白煙が、真っ青な空を突く様に昇っている

 阿蘇の五岳が空を削る様に、険しさを競っている

 幾度も訪れた阿蘇の路ではあるが、

 今日の阿蘇山の容姿は、初めて見る真の名山の姿である

 【語釈】

 碧旻(へきびん)=真っ青な空。  五峰=阿蘇山の五岳。

 りんじゅん=山の険しい様子。  面目真=真の様子。

 【鑑賞】

 阿蘇山は何度見ても名山であるが、今日の山容は格別にその真の名山の姿を

 表していると賦された。蘇峰先生の阿蘇に対する感慨に次の和歌もある。

 『行末を我が契りにし阿蘇の山、天衝く烟(けむり)今も燃ゆるか』

 【阿 蘇】

 火の国熊本を象徴する活火山。

 世界最大といわれるカルデラ(大爆発やマグマの大量噴出後に陥没して出来たくぼ地)

 は東西18キロ、南北25キロ、周囲128キロにもなり、周囲には外輪山が連なっている。

 カルデラの中央に阿蘇五岳(根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳)がある。

 最高峰は1592m。(ひごのくに、と憶えさせられた)

 中岳中央火口丘は現在も時折噴煙を上げており、傍にはトーチカの様な待避所があちこち

 に設置してある。観光で火口をのぞき込むことができる火山は世界的にも稀だそうである。

 鳥帽子岳の北麗には草千里ヶ浜(草千里)と呼ばれる美しい草原が広がっており、春から秋

 にかけて牛が放牧されている。

 徳富蘇峰(とくどみそほう)  
 1863〜1957年。熊本の生まれ。名は正敬。通称猪一郎、蘇峰は号。
 熊本の生んだ大偉人であり、明治・大正・昭和時代の言論人、史家、漢詩人。
 家は代々総庄屋兼代官の役を勤めた。父、一敬は実学派の横井小楠の高弟で維新後、
 県の役人に登用され県政に参画した。弟、健次郎(蘆花)は小説家として名高い。
 また母の妹が横井小楠夫人であるため、小楠は叔父にあたる。
 明治4年、兼坂止水塾に学ぶ。父一敬らの教育改革政策としてアメリカ人ジェームスを招き
 熊本洋学校が設けられ、明治6年、当校に入学、アメリカ風の教育を受けキリスト教を知った。
 また洋学校の側に新聞を印刷する会社が在った事で新聞に興味を持ったといわれる。
 明治9年13歳の時、同士と共にキリスト教を日本に広めるという誓いを熊本花岡山でたてる。
 これを「熊本バンド」と云ったが、それが元で洋学校は閉鎖、仲間と京都の同志社に移った。
 同年、新島襄から洗礼を受け正式にキリスト教徒となる。
 翌年、西南戦争が勃発。征討軍の本拠地・京都で新聞特派員の活躍やその戦況報道に
 大きな刺激を受け新聞記者を志す。
 新島からは将来に期待をかけられていたが、「校長自責事件」として有名な学生運動に
 巻き込まれ、同志社を退学して上京する事となった。
 19歳の時、熊本に帰り大江義塾を創設。この頃、板垣退助、中江兆民、福沢諭吉等と交わり
 「将来の日本」を著した。一家を挙げて上京の後、明治20年(1887)出版社・民友社を創り
 雑誌「国民の友」、同23年には「国民新聞」を発行。
 同29年には欧米視察。またロシアへ赴きトルストイを訪問している。
 同44年貴族院議員に勅撰されたが、後に息子・桂太郎の死に遭い政治的野心を捨てた。
 第二次世界大戦中、文学報国会長となり文化勲章を授けられたが、終戦後は戦犯とされて
 引退し、一切の公職や勲章等を辞退した。
 大正7年より新聞に掲載の「近世日本国民史」(全百巻)の執筆を続け、昭和27年89歳の
 時に完成した。昭和32年(1957)11月2日熱海晩晴草堂にて94歳で病没。
 辞世は「吼え狂う波の八重路をのり越えて心静けく港にぞ入る」
 先生は一世の文豪で学問も広く、その著書は三百冊に及ぶ。漢詩人としても「今山陽」の
 称がある程で、詩集には「徳富先生作詩集」「蘇峰詩集」「蘇峰百絶」等がある。
 
 香雲堂吟詠会の最も敬仰する大先達。
 初代瓜生田山桜先生を認められ、多大の御後援を賜った。本会の最高名誉顧問である。
 初代山桜先生との出会いは、昭和13年(1938)5月、蘇峰先生の熊本に於ける、
 ”横井小楠没後70年祭”の記念式典時に始まる。
 後に初代が出版された「書簡に偲ぶ蘇峰先生」によれば「式典後、先生の歓迎会が催され、
 その席上、落合東郭先生の歓迎詩を代吟して図らずもお耳に止まった訳である」とある。
 その時、初代は先生から『月明林下美人来』の七文字を揮毫して戴いたが、
 現在徳富蘇峰記念館(旧大江義塾)に展観され往時を物語っている。

熊基を発す(頼山陽)

 【題意】

 文政元年10月(1818)九州旅行中、熊本から阿蘇九重方面に旅立った時の作。

 【詩意】

 大きな道は全く砥石の様に平らかである

 (熊本から阿蘇への路は、参勤交代の道であった為に道幅が広かったと思われる)

 熊本城から東へ向かえば、青い草ばかり(麦も芽を出していただろう)

 道路の両側には、大きな古い杉の木立がずっと続いて他の樹は何も無い

 その杉の木立が一寸切れたあたり、時々阿蘇の山が見えてくる

 【頼山陽詩碑】

 旧国道57号線沿い菊陽町三里木の近くに、苔むした詩碑がたっている。

 この詩と同年月頃に、南遊過菊地村、泊天草洋、前兵児謡、下筑後川等の詩があり、

 日本の大詩人の妙を味わうことが出来る。

 【肥後の大杉並木】

 熊本市龍田町から菊陽町まで、JR豊肥線と県道を挟んで10km以上大杉が立ち並ぶ。

 参勤交代の主要交通路であった熊本と鶴崎(大分)を結んだ旧豊後街道の一部。

 熊本と大津の間は大津街道とも呼ばれ、杉並木を抜けるとやがて阿蘇外輪山に至る。

 天正16年(1588)肥後に入国した加藤清正が、街道の整備を行った際に植林した。

 築城の名人であった清正公が熊本城改築の用材に準備したとも、戦時に切り倒して敵の

 侵入を防ぐ為ともいわれる。

 杉は屋久島より運んだと伝わる。当時の杉並木は5里にも及ぶものであった。

 頼 山 陽(らいさんよう)  
 1780〜1832年、大阪生れ。江戸後期の儒家、史家。江戸期を代表する漢詩人の一人。
 父の春水が藩儒となったので安芸(広島)へ移住、7歳頃から叔父杏坪につき書を学んだ。
 幼少から大器の片鱗は現れ、学問好きで頭脳は明晰、14歳で「述懐」の詩を作ったが、
 身体虚弱に加え、激しやすい気質で、反抗児でもあった。賢婦人であった母も養育に大変
 苦労したといわれる。両親は17歳の山陽を昌平黌に入れるが、それも1年で無断退学。
 妻を娶れば落着くのではという周囲の期待も裏切り、結婚後も持病と放蕩癖で旨くいかず、
 20歳の時には無届脱藩して京へ出奔してしまう。無届脱藩はたいへんな重罪であったが、
 周囲のとりなしで狂人扱いとし座敷牢に入れられることとなった。
 ただ皮肉にも幽閉されたことで日夜読書に耽り、更にその知識を深めていくことになる。
 「日本外史」もこの時期に起稿した(28歳の時に完成)。24歳で幽閉を解かれた後、
 山陽の将来を憂えた父・春水は友人・菅茶山の廉塾に預けるが、山陽にとっては安芸脱出
 の好機としか映らなかったようだ。結局、廉塾も1年程で飛び出し、後に京都で塾を開いた。
 文化13年(1816)父・春水の死に接し、生前苦労をかけ孝行出来なかったことを悔い、
 以後は父の分も併せて母への孝養を尽くした。山陽は毎年のように母を連れて名所廻りを
 したという。その様子は『母を送る路上の短歌』で詠われている。その中で山陽は「五十の児
 七十の母有り この福 人間(じんかん) 得ること応に難かるべし」と述べている。
 48歳の時、著書「日本外史」を老中・松平定信に献上、題辞も得て注目を集めた。
 没後刊行された「日本外史」は当時の知識層の多くが愛読書とするほど発行され、
 山陽の名声は日本中に轟いた。
 天保3年9月23日病没。53歳。京都東山・長楽寺にその墓がある。
 その皇室尊崇の精神は、維新の志士達に強い影響を与え、大きな原動力ともなった。

天草の洋を望む(松口月城)
 

 【題意】

 天草の海を眺め、頼山陽の「天草洋に泊す」の詩に懐いを巡らして賦された。

 「天草洋に泊す」の有名な一節「雲か山か呉か越か…」と共に詠ずる事が多い。

 【詩意】

 限り無く遥かに霞んで、煙った様な波が広がって見える天草の海

 ぼんやりとして判然としない雲を眺めているうち、美しい風光に心を引き込まれてしまう

 その時にわかに、あの頼山陽の「天草洋に泊す」が

 澄んだ声で高く吟じられるのを耳にすると、益々感慨が深まってくる

 居合わせた人々皆が、同様な感情を抱いて、

 「雲か山か・・・」と詠われた遥かな海の彼方に見入るのである

 【語釈】

 縹=ただようさま。 渺=遥かに霞んでいるさま。水面等が限り無く広がっているさま。

 模糊=はっきりしないさま。ぼんやりとしたさま。 忽=にわかに。速やかに。

 朗々=音声が清く澄んで良く通るさま。 頼翁=頼山陽  斉しく=同じ。揃って。

 【鑑賞】

 松口月城先生が香雲堂の吟友一行と天草観光をされた時の詩である。

 【天 草】

 熊本南西の島々。大矢野島、上島、下島の他、100余りの島々より成る。

 雲仙天草国立公園に指定されている。変化に富んだ海岸線と島々の点在する海が美しい。

 室町末期よりキリスト教が広まり、隠れキリシタンや殉教者の遺跡が多い。

 かつては離れ島であったが、昭和41年9月、当時の架橋技術の粋を結集して天草五橋が

 完成した。宇土半島の三角から天草上島の松島間16.5kmを飛び石伝いに結ぶ。

 同路線は名物の真珠養殖から天草パールラインと呼ばれる。

 天草下島西岸の海は天草灘として有名。南端の牛深市はハイヤ節発祥の地である。

 他にも、豊富な海の幸や温泉、教会、イルカウォッチング等、見所は数多い。

 現在は天草空港も出来て、熊本、福岡、松山の各空港から短時間で訪れることが出来る。

 松口月城(まつぐちげつじょう)  
 1887〜1981年。福岡市出身。名は栄太。月城は号。
 少時より秀才の誉れ高く、熊本医学専門学校(現・熊本大学医学部)を18歳にて卒業、
 医者となり世人を驚かせた。
 当時、久留米出身で熊本在住の詩壇の重鎮・宮崎来城に漢詩を学び、以来詩歌の道を
 究め続ける。
 後に福岡に「月城吟社」を興し、現代詩人の雄として活躍、書画にも秀でた。
 殊に吟詠に適する詩を賦して、吟会の発展に寄与した。
 昭和49年文部大臣表彰。著書に「松口月城詩集」等。
 昭和56年7月16日没、94歳。
 平成6年4月、福岡県那珂川町に松口月城記念館が開設された。
 
 初代瓜生田山桜先生と親交があり香雲堂吟詠会の顧問でもあった。
木札
 月城先生御逝去の折まで、香雲堂流吟詠の資格を証する木札は
 先生の揮毫によるもので、初代をはじめ会員の多くが先生の書画を
 頂いたものである。その際、月城先生は初代宗家宅に宿泊され、
 木札、書画を書された。

宮本武蔵(大橋梧軒)

 【題意】

 剣聖・宮本武蔵を詠じたもの。

 【詩意】

 小さな船に身を任せて巌流島へ決闘に向かった武蔵は生死を考えなかった

 とにかく手に木剣を持って勝負を決しただけである

 心の動きははっきりしており一点の曇りも無い

 何事にもとらわれず、我を忘れて行動した処に生が生じたのである

 【語釈】

 扁舟(へんしゅう)=小舟。 輸贏(ゆえい)=勝負。

 心機朗徹(しんきろうてつ)=心の動きが判然として何の曇りも無い。

 【宮本武蔵】

 宮本武蔵の頁に詳述。

 大橋梧軒(おおはしごけん)  
 1879〜1942年。名は善次郎。熊本市上通り大橋時計店の先々代。
 兼坂止水塾に学び、その後落合東郭に師事した。詩、書共に好くし温厚篤実の人であった。
 初代山桜先生御夫妻と親交があり、夫人の万亀女史は共に徳富蘇峰先生の髪塚を建立
 された。昭和17年3月29日没。64歳。

新春熊城に登る(初代瓜生田山櫻)

 【題意】

 新春、熊本城に登る。

 新年、初代宗家が夫婦で熊本城に登楼した際、夫健山が杜甫の蜀相を吟ずるのを

 聞いて作詩した。昭和41年の作。この年、歌会始のお題が「声」であった。

 【詩意】

 熊本城の上にめでたくも神々しい気が漂っている

 新たな年の風景は吟を詠じることを催促しているようだ

 誰だろうか 良く通る声で出師の表を詠っている

 耳を傾けて最後まで聞き入った

 【語釈】

 出師の表=中国三国時代の227年、蜀の諸葛亮孔明が出陣に際し、劉備の後を継いだ

 主君劉禅に奉じた文章。名文として知られる。

 両三声=二声、三声。

 初代 瓜生田山櫻(うりゅうださんおう)  
 ※作者については初代宗家の頁を御覧下さい。

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