熊本漢詩紀行 五
 
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天草洋に泊す(頼山陽)
 

 【題意】

 天草灘で舟泊まりした際に詠んだ。巷間に広く知れ渡っている頼山陽の傑作。

 文政元年(1818)、頼山陽(39歳)は父・春水の喪があけたのを機に九州を旅行する。

 8月23日から25日にかけて、舟で長崎茂木から熊本三角へ向かった。

 途中海が荒れた為、島陰で舟泊まりした際の情景といわれる。

 【詩意】

 遠くに見えるのは雲であろうか山であろうか、それとも呉や越のある対岸の地だろうか

 海と空の境がまるで青い髪の毛の如く、一線を成している

 都より万里を隔てたこの天草灘で舟泊まりをすれば

 船窓より広がる海に霞は漂い、陽は次第に暮れゆく

 一瞬、波間に大魚が跳ね上がった(目を遣ると)

 空に宵の明星が輝き、月のような優しい光を舟に投げかけている

 【語釈】

 呉、越=中国春秋時代にあった国。  髣髴=よく似ていること。ぼんやりしていること。

 篷窓=小舟の窓。  瞥見=ちらっとみること。ざっと目を通すこと。

 太白=太白星の略。金星の異称。

 【天草灘】
 天草下島西方の外海。
 同じ天草でも無数の島々が点在している有明海側や不知火海側とはまた景観を異にする。
 天草郡苓北町富岡の頼山陽公園には「天草洋に泊す」の詩碑が建てられている。
 当地では毎年 「天草洋に泊す」限定の吟詠大会も催される。
天草西海岸の夕景
天草西海岸の夕景(富岡付近)
Photo  天草どっと混む   
 実際に山陽一行が舟泊まりした場所は定かでないらしいが、
 富岡から西海岸に沿って南下する道の彼方此方で、この詩に
 あるような景観を目にする事が出来る。(中国は見えないが)
 現在、天草灘を臨む西海岸沿いは通称サンセットラインと
 呼ばれ、夕焼けの名所でもある。
 頼 山 陽(らいさんよう)  
 ※作者については解説の栞・熊本漢詩紀行一で紹介しています。
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大観峯(阪井鶴庭)
 

 【題意】

 阿蘇大観峯(だいかんぼう)登山の感懐を賦す。

 【詩意】

 あまつ風は髪をそよがし、心はさっぱりと清清しい

 かつて歩いたこの道をいままた散策する

 雲も噴煙も高く五つの山に連なっている

 朝からかけて登りついた峰の素晴らしき景観であることよ

 【語釈】

 吟杖一枝=詩を作る人の表現。   旧蹤=古い足跡。かつて旅行した土地。

 【大観峯、大観峰】

 阿蘇外輪山北にある。カルデラや阿蘇五岳を一望出来る名所。その景色は圧巻である。

 カルデラ内には作り物のような家並みが点在し、様々な色に切り分けられた田畑は絵画の

 パレットを想わせる。雄大な光景は雲の流れによっても刻々と変化する。

大観峰(徳富蘇峰)  

 また五岳の連なりは古くから涅槃像にたとえられる。

 かつては遠見が鼻と呼ばれていたが、大正11年、阿蘇

 内牧町長の要請により徳富蘇峰が大観峰と命名した。

 大観峰には右記の歌碑他、高浜虚子の句碑、吉井勇の

 歌碑が建っている。

 周辺の地でも萩原井泉水、種田山頭火、夏目漱石等、

 阿蘇を訪れた多くの文学者の碑を見る事が出来る。

 阪井鶴庭(さかいかくてい)  

 1866〜1948年。熊本生まれ。名は虎太郎。

 兼坂止水塾に学び、詩書を好くした。初代山桜先生とも詩盟の友であった。

 昭和23年2月17日没。82歳。

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藤崎宮神幸式(漆島白陰)

 【題意】

 熊本市の鎮守、藤崎八旛宮大祭の風景を賦された。

 9月15日の随兵行列、馬追いの景が眼前に浮かぶ様な作である。

 【詩意】

 太鼓と玉笛が夜明けの空に響く

 一の宮、二の宮、三の宮と神輿が光り輝き、錦の旗が鮮やかに過ぎて行く

 神に共する兵達が走り抜け、馬が跳ねる雄壮な景

 通りの両側には数え切れない参拝客が溢れている

 【語釈】

 瑤笙=玉の笛。   随兵=神にお供する兵。   賽人=おまいりする人。

 【藤崎八旗宮】

 熊本市最大の鎮守である。承平5年(935)、朱雀天皇の御代、平将門追討の勅願により、

 山城国男山清水八幡宮を分請して建立された。応神天皇、住吉大神、神宮皇后が祭神。

 元は市内藤崎台にあったが、明治10年に西南の役で焼失した為、現在の場所に移された。

 近くには相撲界のシンボル吉田司家や文豪夏目漱石旧居もある。

 漆島白隠(うるしまはくいん)  

 1890〜1967年。名は武治。代継神社宮司。

 阿蘇神社、藤崎宮、伊勢神宮の宮掌を歴任。詩を落合東郭、東船山に学ぶ。

 初代宗家とも親交があり、代継神社に於いて作詩の会等をしばしば催された。

 昭和42年没。77歳。

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鬼将軍廟(高本紫溟)
 

 【題意】

 本妙寺の加藤清正公廟を詠んだ。

 【詩意】

 発星山下に小糠のような雨が降りしきる

 暮れかかった空に鐘の音が川を渡って聞こえてきた

 朝鮮出兵で恐れられた清正公は既に亡く、その武威も消えてしまった

 ひっそりとした廟の周囲を春の雲が包んでいる

 【語釈】

 発星山=本妙寺のこと。  瞑色=うす暗い色。暮色。  異域=外国。この詩では朝鮮。

 【本妙寺】
 熊本中尾山(本妙寺山)中腹に建つ日蓮宗の名刹。加藤家菩提寺。
 加藤清正公が大阪で父の菩提寺として建立した。
 清正公肥後入国にともない熊本城内へ、清正公逝去後、現在の地へと移された。
 山門から桜並木の参道が直線に伸び、両側に数多くの寺社が立ち並ぶ。
 その先の「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる石段を
胸突き雁木(本妙寺参道)
胸突き雁木
(本妙寺参道)
 登りきると清正公を祀る浄池廟(じょうちびょう)がある。
 更に長い石段を登った処に、烏帽子姿で槍を手にした
 清正公の立像が建っている。
 清正公の命日7月23日には毎年、頓写会(とんしゃえ)が
 行われ、一晩中参拝客で賑わう。
 高本紫溟(たかもとしめい)  

 1738〜1813年。名は順。細川藩藩校時習館教授。

 祖は朝鮮王の一族で豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正の捕虜として来熊したという。

 時習館初代学長・秋山玉山は紫溟を可愛がり、肥後にまた一詩家が生まれたと喜ばれた。

 詩、和歌、文に通じ、詩は三千首近く賦したといわれる。

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杖立温泉情緒(松口月城)
 

 【題意】

 名湯杖立温泉での感慨を賦された。

 【都々逸】

 お湯は杖立 お山は阿蘇よ 二人楽しい 旅衣(作/松口月城)

 【甚句】

 日本一なら 肥後まで おいで 杖立出湯に 阿蘇の山 阿蘇の山

 【詩意】

 一風呂浴びて、手すりに寄り、澄んだ渓流に目を遣る

 躍りきらめく水面、美しい河景色に旅の心が癒される

 湯の街杖立、感慨は尽きない

 明日は大観峰から秋色に染まる阿蘇を望む

  【杖立温泉】

 熊本県阿蘇郡小国町杖立にある名湯。

 およそ1800年の歴史があるといわれ、応神天皇生誕の際に産湯として奉られた霊泉が、

 現在の元湯とされている。

 杖立という名前の由来にも歴史を感じさせる。平安時代の初め、旅の途中で当地を訪れた

 弘法大師空海が、持っていた竹の杖を立てたところ、節々から枝や葉が生えてきたという。

 また杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、帰る頃には杖を忘れるという、温泉の

 効能をたたえた由来もある。

 毎年5月には日本一の規模といわれる鯉のぼり祭りが開催される。

 全国から寄せられた3500匹もの鯉のぼりが、杖立川の上を泳ぐ姿は圧巻。

 松口月城(まつぐちげつじょう)  

 作者略歴については、栞/熊本漢詩紀行一に詳述。

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