酒にまつわる詩
 
     ※下記の漢詩は「春 一」を御覧下さい。
豊楽亭の春遊
歐  陽  脩
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飲酒(陶潜)
 

 【題意】

 淵明の「飲酒」と題する詩は20首有って、何れも酒を飲んだ折に自分の心境を詠ったもの。

 この詩は、その中の第7首目のもので、淵明の面目躍如たるものがある。

 ※この4句は、全10句の詩の中の第1〜第4句である。

 【詩意】

 秋の菊が見事な美しい色で咲いている

 露に濡れたその花びらを摘み

 この憂さ払いである酒に浮かべて飲むと

 俗世間から遠ざかった私の気持ちを更に深めるのである

 【語釈】

 佳色=良い色。   露L=露をつけている。うるおう。   英=花びら。

 忘憂物=酒の異称。酒。   遺世情=世俗から遠く離れた感情。

 「菊」そのものは古来、長寿を保ったり邪気を払うものとして尊ばれる風習があった。

 【鑑賞】

 この「飲酒」連作「其の七」は、「其の五」に次いで有名な詩である。

 淵明の酒好きは有名だ。彼の作品のうち半数近くが酒に関係したものといわれる。

 「飲酒」は代表作であるが必ずしも酒そのものを主題とはしていない。

 酒にこと寄せて酔いながら気ままに感慨を詠ったものである。

 飲酒参考までに、第5句から10句迄の詩意を記す。

 

 一杯、一杯と独り飲んでいると

 酒も残り少なくなり、酒壷も自然に傾いてくる

 日が落ちて、昼の多くの物音も止み

 鳥は林に向かって鳴きながら帰っていく

 私も東の軒下で心伸びやかに放吟する時

 今日も心のままに生きたのだ、と思うのである

 陶   潛(とうせん)  
 365〜427年。東晋時代の江州・潯陽郡(じんようぐん)柴桑県(さいそうけん)の人。
 現在では江西省九江市にあたる。
 名は潛、字を淵明。又は、名を淵明、字を元亮(げんりょう)とも云われ、古来諸説がある。
 晋の名門の子孫。彼の曾祖は晋代の宰相であった。
 名門の血筋を引いてる淵明は若い時からとても誇り高い人物だったといわれる。
 才能も極めて抜きん出ていたので、決して周囲の人々に埋没することは無かった。
 しかし家は既に没落し貧しく、両親は年老い、更に戦争や旱魃、洪水等が追い討ちをかけ
 農耕生活は楽でなかった。
 29歳の時、江州の学校行政を司る官吏になったが下吏の職務に辛抱出来ず、早々に辞職。
 以後最期に官職を辞す41歳まで、仕官と隠棲の生活の間で揺れ続けることとなる。
 妻もよく貧苦の生活に安んじ、彼と志を同じうした。5人の息子がいたらしい。
 「責子(子を責む)」という詩の中で、そろいもそろって学問が嫌いで困ると、ぼやいている。
 淵明の性格を表すエピソードも多い。
 地方の監察官に対し、衣冠束帯で正装して迎えるように言われると「わずかの扶持米のため
 に頭を下げられるか」と憤慨し即日、職を辞して郷里に帰ってしまう話や、訪れる人があると
 誰であれ身分を問わず宴席を設けたが、自分が酔ってしまうと「私は寝るのでおひきとり願い
 たい」と言ったという話等。プライドが高く少しわがまま、飾り気が無く率直で憎めないといった
 気質が見え隠れする。酔って機嫌が良くなると絃の無い琴をとりだしたという。
 音はどうでもよい、琴を撫でる風趣を愛したのである。
 
 「帰りなんいざ」で始まる、有名な「帰去来の辞(きょらいのじ)」は、最期の宮仕えとなった
 彭沢の県令を辞職した際、世俗との決別の意を述べたもの。
 ※彭沢(ほうたく)は、今の江西省九江市から長江を下ること約60キロの地。
 有名な隠棲生活は42歳からで、亡くなる迄の20年余りは、州の都・潯陽を中心に隠逸詩人
 として、詩酒を楽しみ田園の風物を詠じて生活した。
 当初は潯陽のみで名を知られる存在だったが、隠棲して10年余りたった頃、都から赴任して
 きた官僚・顔延之と知り合いになったことを契機に中央にも知られるようになった。
 そして50代中ばに著作佐郎(有名な隠者等に与えられる朝廷の名誉職で出仕はしない)を
 授けられることになる。経済的な後ろ盾も得、ひいては歴史に名を残すきっかけともなった。
 当時の隠者は社会的地位の一つで決して世捨て人と同義ではない。
 官吏での出世がかなわなかった淵明は隠者として成功を手にしたといえる。
 元嘉4年、63歳で歿した。品徳を備えていたという意味で節(せいせつ)先生と贈名された。
 
 淵明の生きた時代には戦乱が相次ぎ自然災害も多かった。
 持病の糖尿病に加え、晩年はマラリアにも苦しめられたといわれる。
 残されてる作品は詩124篇、文12篇。いわゆる田園詩も実は30篇程しかない。
 風流な田園詩人というのは彼のほんの一面にすぎない。
 激動の世で波瀾の人生を歩んだからこそ、決して多くない彼の作品が光り輝くのだろう。
 その詩は唐代になって、「古今における隠逸詩人の第一人者」と評され、王維や孟浩然ら
 自然派の詩人達に仰がれ真価が見直されることになる。
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杯を挙げて明月に酬ゆ(伊形霊雨)
 

 【題意】

 杯を掲げ、明月に向かって捧げる。月を愛でつつ杯を酌んだ境地を詠じた。

 【詩意】

 杯を掲げ 明月に向かって捧げる

 幾ら盃を傾けても 月は一向に傾く気配が無い

 願わくばこの様な美しい月明かりの下 毎夜でも飲みたいものだ

 天上の月よ欠けることなくあれ 杯にもなみなみと酒を満たしておこう

 伊形霊雨(いがたれいう)  
 1745〜1787、名は質(すなお)。熊本玉名郡木葉の人。
 霊雨山の下に生まれたので霊雨と号した。幼少より詩を善くし才気煥発。
 21歳の時、藩校・時習館居寮生となり京都に遊学した。後に時習館で詩を教える。
 平素から李太白を自ら任じ詩も李白を学び奔放自在。
 薩摩の家老の前で酔後、詩を賦すこと千言。
 家老達は李白の生まれ変わりと言ったと伝えられる。
 代表作「赤馬が関舟中の作」は亀井南冥の「鹿児島城下作」、釈宝月の「姫島」とともに、
 九州三絶と呼ばれる。
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酒を勧む(于武陵)
 

 【題意】

 花咲く佳景、友人との再会、この二つの得がたい好機が重なった今、大いに飲もう

 ではないかと酒を勧める歌。

 【詩意】

 さあ、貴方に勧めよう、この黄金の酒盃を

 なみなみ注いだ酒をどうか遠慮しないでくれたまえ

 花は開けば、風雨に吹き散らされるもの

 出会いには別れがつきものだ

 【参考】

 半藤一利氏の「21世紀への伝言」・平成9年3月18日熊本日日新聞掲載より抜粋。

 『サヨナラ』ダケガ人生ダ〜日本人の好んだ名訳。

 井伏鱒二の作品を読んだ事が無くても、この作家が漢詩を訳して案出した有名な一行で、

 これをふと口にした人は多いだろう。原詩は晩唐の詩人・于武陵の「勧酒」である。

 これを井伏は訳した。

 コノサカズキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/

 ハナニアラシノタトエモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ。

 原詩「人生足別離」はそのまま訳せば、人の生涯には別離ばかりが多くある、ということ。

 それをものの見事に日本的な無常観を織り込んで歌った。

 初めて発表されたのが1935年(昭和10年)3月号の月刊誌「作品」誌上である。

 昭和日本は国際連盟を脱退し、世界の孤児となり、対外姿勢を強めていく。

 戦争の不吉な予感が井伏の心に有ったのだろう。

 【語釈】

 金屈巵=曲がった把手のついた黄金製(又は金属製)の大きな丸い酒盃。美しく輝く贅沢な

 酒器で、宴席の雰囲気を華やいだものにすると同時に、相手に対する敬意も自然と表れる。

 満酌=なみなみと酒を酌んで。なみなみと注ぐ。

 不須辞=御遠慮は無用。 「不須…」=…するには及ばない。

 花開多風雨=現在の春の佳景が、永く留め難い事を暗示する。

 人生足別離=良会はなかなか得がたい事をいう。

 【鑑賞】

 前半の2句には、別れのじめじめとした雰囲気は無く、明るいイメージ。

 それは「満酌」という詩語が有るからだろう。後半は人生を達観している様な詠いぶりである。

 酒を盛大に飲んで愉快な気持ちの極まったところに、自ずと哀感が漂う。

 琴と書物を愛して放浪生活を送った、作者がしみじみと詠んだ心の歌である。

 言葉は短いが深い人生観を漂わせる作品である。

 于 武 陵(うぶりょう)  
 810〜???、晩唐の詩人。名はM(ぎょう)と云うが、字の武陵で呼ばれることが多い。
 杜曲(陜西省西安市)の人。宣宗の大中年間(847〜860年)進士に及第するも、
 宮仕えが性に合わず、琴と書物を携えて諸国を遊歴した。
 時には売卜(占い)の仲間に入って暮らした事もあったらしい。
 湖南省洞庭湖の辺りの地を訪れ、屈原の故地に心惹かれて、そこに住む事を願ったが
 果たさず、晩年を嵩陽(すうよう)に隠棲して余生を送った。
 詩には五言が多く、飄逸で多感な趣がある。
 ※嵩陽=現在の河南省嵩山の南。
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酒人某扇を出して書を索む(菅茶山)
 

 【題意】

 酒客の某氏から扇に何か書いてくれと求められて、これに応じ、酒の戒めを述べたもの。

 【詩意】

 酒も一杯は人が飲んで楽しいが

 三杯になると逆に酒が人を飲んでしまう

 これは誰が言ったのか知らないが

 我々はこの戒めを忘れぬ様にせねばならぬ

 【語釈】

 一杯…=一杯は人、酒を飲み。二杯は酒、酒を飲む。三杯は酒、人を飲むという諺。

 紳=中国で、朝服着用の際に用いる帯。

 書紳=備忘のために、紳の末端に書きつけた。転じて、よく覚えておき、心に書きつける。

 いつも手本として参考にする。

 【鑑賞】

 酒は度を過ごせば身を滅ぼす、というのは古今東西のならい。

 禁酒より節酒のほうが難しいと云われる。この詩は愛酒家の以て教訓とすべきものである。

 法華経抄にも「初には則ち人酒を呑み、次には酒酒を呑み、後には則ち酒人を飲む」とある。

 茶山も酒は好きで相当いける口であったらしい。「腹に葬る幾嫦娥」(杯に映る月の女神を

 何度腹に葬ったことか)と詠っている。

 酔って帰っても読書は怠らないという茶山らしい詩も残っている。

 管茶山(かんさざん・かんちゃざん)  
 1748〜1827、広島生まれ。
 若くして京都に学び帰郷後、黄葉夕陽村舎という塾を作る。
 近くに茶臼山が有ったので、自ら茶山と称した。
 頼春水、頼杏坪、紫野栗山、古賀精里等と親交があり詩名高かった。
 晩年弟子が増え、藩主の許しを得て郷校とし廉塾と命名。
 藩は年々金子を与えたが、茶山はこれを使わず、書を買い貧しい生徒を援助した。
 1809年、頼山陽も入塾し1年余り在籍している。茶山は養子にする考えもあったらしい。
 大柄な体格で、威あって猛からず人に接して温和、一見田舎の好々爺風であったという。

 文政10年8月13日、80歳にて没。

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山中對酌(李白)
 

 【題意】

 「李太白集」には「山中幽人と對酌す」となっているが、要するに山荘で気のおけない友人と、

 さしつさされつで飲んだ時のもの。

 幽人とは隠者のことで、李白には隠者の友人が沢山いた。

 【詩意】

 二人が向かい合って酒を飲むと、周りには山の花が咲いている

 さしつさされつ、一杯一杯また一杯と盃を空ける

 私は酔ってもう眠くなった。君はひとまず帰り給え

 明日の朝、気が向いたら琴を抱いてまた来たまえ

 【語釈】

 山花=桃か、李(すもも)か、ツツジが考えられるが、長江中流一帯には、桐の花が多いから

 この花だと云われる。桐の花は紫色の品の良い花、この詩の情景にぴったり。

 且=このくらいにして、ひとまず。   有意=もっと飲みたいなら。

 【鑑賞】

 李白も山に住んだ時期がある。三十半ば過ぎの頃、孔巣子(こうそうほ)ら五人と共に、

 山東の徂徠山の竹溪にこもって、酒を飲み隠者の生活をした。

 世に「竹溪の六逸(りくいつ)」と呼ばれた。この詩は56歳の作という。

 李白独特の人を食った趣で、特に後半は陶淵明の故事を踏まえている。伝記によれば、

 淵明は先に酔うと「我酔うて眠らんと欲す、君去るべし」と言った、と記されている。

 第4句の「琴」の件もその話に出てくる。淵明は琴が非常に好きで、よく奏でたが、

 その琴は無絃琴といって絃が張って無かったとある。

 
 李   白(りはく)  
 701〜762年。盛唐代の大詩人。字は太白。母が太白星(金星)を夢見て李白を生んだので、
 そう名付けたという。蜀(四川省)の青蓮郷(せいれんごう)の人。故に青蓮居士と号する。
 生地については異説も多い。
 父は異民族出身の交易商ともいわれ、李白自身碧眼であったという説まである。
 若い時から詩書百家の学に通じ、やがて剣を学んで遊侠を事とした。
 五人の仲間と徂徠山に籠もり、「竹渓の六逸」と呼ばれ評判にもなっている。
 酒に耽って自ら酒仙とも称した。
 742年、ついに玄宗皇帝からお呼びが掛かり、翰林供奉という職を与えられる。
 翰林供奉は皇帝の側にあって学問や文学の話し相手をするものであった。
 ある日、玄宗皇帝が離宮内の庭園で、楊貴妃と牡丹を賞して酒宴をはった。
 玄宗皇帝は演奏される既成の歌に満足せず、李白を呼んで新しい歌詞を作らせた。
 李白はその時、非常に酔っていたが、すぐに「清平調」三首を詠み献上し、玄宗皇帝は
 その詩を当代随一と謳われた歌手・李亀年に歌わせ楽しんだという。
 宮廷詩人として寵愛されたが、才をたのんで奔放な振る舞いが多かった。
 その為か側近の高官達と合わず、3年足らずで朝廷から追われ放浪の旅に出る事になった。
 楊貴妃の機嫌を損ねたことが原因ともいわれる。
 旅の途中では様々な出会いがあった。
 杜甫や高適、岑参とも意気投合し、共に河南・山東地方を周遊している。
 755年、安禄山の乱が勃発した際、都を追われた玄宗皇帝は二人の息子、皇太子と永王に
 兵を託し長安奪回を命じた。廬山にいた李白は永王の軍に招かれ、参加するが、後に
 永王の軍は朝敵とみなされ反乱軍とされてしまう。結局、永王の軍は討伐されて、李白も
 逆賊として捕らわれ牢獄に入れられてしまった。その後、流罪となり、長江を運ばれる途中、
 大赦の令が発布された為、白帝城付近で赦免された。
 李白はその後もしばらく遍歴生活を送るが、病気の為、安徽省・当塗で県令をしている
 親戚の李陽冰のもとに身を寄せ、そこで没した。時に62歳。
 中秋明月の夜、太江に船を浮かべ、酔って水面の月をすくおうとして水死したとも伝えられる。
 
 李白は杜甫と並んで、中国の古今を通じての大詩人であったが、作風は全く相反していた。
 李白は天才的で空想を欲しいままにし、飄逸で世俗離れした趣があり、酒や神仙をテーマと
 した作品が多かった。
 長編の古詩にも優れていたが、特に絶句においては古今の第一人者と云われる。
 多くの有名詩人と異なり、彼は科挙の試験を受けていない。
 高級官僚への道であった科挙も、ある程度の家柄出身でなければ受験出来なかった。
 野にあって風変わりな道を歩んだ事が、才気溢れる異端の詩人を生んだ一因ともいえる。
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将に酒を進めんとす(秋山玉山)
 

 【題意】

 さぁ、一杯やろうではないか。

 【詩意】

 美しい人が さぁ御一献と勧め

 前に進んで 歌を謡い始める

 小糠のような雨に桃の花が映え

 軽やかな風に柳の緑の揺れる春

 貴人の家には美しい馬が佇み

 澄んだ流れの中で魚たちが光る

 どれほど徳のある人だろうが こんな時に酒を過ごさぬという法はない

 日はまだ西の空にあって 明日にはまだ幾らも間があるではないか

 【語釈】

 桑楡=日が樹木の上にかかること。日の没するところ。夕方。夕日。晩年。

 秋山玉山(あきやまぎょくざん)  
 1702〜1763年。儒学者、漢詩人。豊後鶴崎の人。
 細川家の藩医であった叔父の養子となり、昌平黌に学んだ後、熊本藩に任官。
 時習館設立を進言し、初代教授(校長)に就任した。
 詩、文章、書画も巧み、大柄で、大変な酒好きだったという。
 熊本市立田山の小峯墓地にその墓がある。
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