1828〜1877(明治10)年。薩摩藩士、政治家。名は隆永、隆盛。通称、吉之助など。
南洲は号。南朝の忠臣、菊池氏の子孫といわれ、一時期菊池源吾という変名も使った。
陽明学を修め、下級藩士の出ながら、藩主・島津斉彬に才を認められ、安政元年(1854)
江戸に赴き、以後斉彬の命により一橋慶喜の次期将軍擁立に奔走した。
しかし、安政5年(1858)、反一橋派の井伊直弼が大老に就任。更に、後ろ盾であった斉彬
が死去する。井伊直弼による安政の大獄の尊攘派弾圧が始まると、幕府の追及が迫る中で
藩に身を寄せることも出来ず、ついに同志の僧月照と共に海へ投身。南洲はかろうじて一命
を取り留めたが、藩はこれを死亡として幕府に報告し、奄美大島に隠れ住まわせた。
3年後の文久元年(1862)に召還され、薩摩の国父として事実上の藩主であった島津久光
の上洛に際して先発隊を務めるが、その途上に待機命令に背いたことで久光の怒りをかい、
同年、沖永良部島に遠島となった。遠島はおよそ1年半に及んだが、その間に薩英戦争が
勃発。時勢が激しく変化する中、同志の嘆願もあり、元治元年(1864)2月、帰藩を許された。
その後は直ちに上京し、長州の兵が京都で起こした「禁門の変」や、続く「第一次長州征伐」
において活躍。慶応2年(1866)、第二次長州征伐を前に、南洲は坂本竜馬らの仲立ちで
長州の木戸孝允と薩長同盟を成立させ、以後は倒幕運動の指導者となっていく。
戊辰戦争の続く、明治元年(1868)4月には勝安芳(海舟)と会談、江戸城無血開城を成功
させた。新政府では武官、文官の要職に就任し、維新の諸改革を断行したが、明治6年、
征韓論をめぐって岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らと対立し下野。郷里で私学校を設立、
子弟を教育した。
明治7年、同じく下野した江藤新平が佐賀の乱を起こす。明治9年には熊本で神風連の乱、
福岡で秋月の乱、長州で萩の乱と不平士族の内乱が相次ぎ、明治政府は南洲の動向にも
神経を尖らせた。同10年2月、緊張の高まる中、私学校生徒らの暴走を機に西南戦争が
勃発。薩軍は西郷を大将に擁して攻め上り、熊本鎮台を包囲。西下してくる政府軍と激しい
戦闘を繰り広げたが、田原坂での戦いから劣勢となり、以後敗走を重ねた。南洲は最後の
激戦となった故郷城山での戦いで負傷、自決した。
一時は逆賊となった南洲だが、明治22年、明治天皇により賊名は除かれ正三位を追贈
された。同じ薩摩藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允とともに維新の三傑と称される。
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