人
 

王昭君(白居易)
 

 【題意】

 漢の元帝の時の宮女。政略結婚で匈奴の王に嫁いだ。連首の其の一。

 【詩意】

 顔に吹きつける砂、鬢を乱す風

 美しい顔からは眉墨も消え、頬にさした紅も消えた

 憂え悲しみ、苦労を重ね、すっかりやつれ果てているので

 今では、かえって(昔、故意に描かれた)肖像画に似てしまった

 【語釈】

 胡沙=異民族(匈奴)の勢力範囲である砂漠の砂    残黛=消えかかった眉墨

 【王昭君】

 漢の元帝(在位、前49〜前33年)の後宮に入った。

 名門の貴族の娘でその美貌は国中に聞こえていたといわれる。

 政治上の駆け引きの為、匈奴王の呼韓邪単于に嫁がされ、胡の地に生涯を終えた。

 【参考1】

 宮女達は絵師に賄賂を贈り、肖像画を美しく描いてもらっていたが、王昭君は気位が高く、

 賄賂を贈らなかったので、醜く描かれてしまった。

 その為、匈奴の王より申し入れがあった際、王昭君が選ばれた。

 後宮を去る時、元帝はその美貌に驚き、深く惜しんだとある。

 【参考2】

 作者、白居易は王昭君の生きた時代から800年余り後の人になる。

 白居易は連首の其の二で、「漢の使いが都に帰る際、言伝を頼みましょう。

 私を黄金で買い戻してくださるのは何時かと。天子様が私の様子をお尋ねになったら、

 どうぞ、漢の宮廷に居た時には及ばないなどとは言わないで」

 と王昭君の気持ちを詠っている。

 白 居 易(はくきょい)  

 ※作者については栞/冬来たるを御覧下さい。

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垓下の歌(項羽)
 

 【題意】

 垓下の城で詠う。

 前202年、漢の大軍に包囲された垓下の城で詠ったものといわれる。

 【詩意】

 我が力は山をも抜き、意気は天下を覆い尽すほどであった

 しかし時の運に恵まれず、遂に名馬騅も走らなくなった

 騅が走らないのをどうしたらよかろう

 虞よ、虞よ、おまえをどうすればよいか(もう自分には何もしてやれない)

 【語釈】

 騅=項羽の愛馬の名前。

 虞=虞姫。項羽の寵姫。戦いの中で自刃。

 その流れた血から虞美人草が生まれたといわれる。

 【四面楚歌】

 漢の大軍に包囲された垓下の城には、夜になると四方から郷里の楚の歌が聞こえてきた。

 項羽や楚の兵士達はその歌を聞き、楚がことごとく漢の軍門に下ったと思い嘆いたという。

 項   羽(こうう)  

 前232〜前202年。中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。羽は字(あざな)。

 叔父項梁とともに兵を挙げ、劉邦(漢の高祖)と協力して秦を倒し、楚王となった。

 後に劉邦と天下を争う。当初、項羽が優勢で度々劉邦を追い詰めたが、形勢が逆転。

 垓下の戦いに敗れ、一度は大軍の包囲を強行突破するも烏江にて自刃した。

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弟の京師に留学するに寄す(西郷南洲)
 

 【題意】

 明治2年、末弟の小兵衛が陽明学者・春日潜庵の門に遊学する際の送別の詩。

 【詩意】

 独りでの旅立ちを憂うには及ばない

 学問という遥かな道を追求しなさい

 別れの際に送られた言葉を決して忘れないように

 誰もがみな涙を拭って帰りを待っている

 【語釈】

 京師(けいし、きょうし)=都、帝都。京都。   咨嗟=嘆くこと。嘆息すること。

 【西郷小兵衛】

 1847〜1877年。西郷南洲の末弟。1868年、戊辰戦争に従軍。

 1877(明治10)年の西南戦争では薩軍の第一大隊第一小隊長を務める。

 2月27日の高瀬の戦い(熊本県玉名市)にて官軍の銃弾を受け戦死。享年31。

 【参考】

 熊本漢詩紀行2 吉次嶺 佐々克堂   

 郷土熊本出身の作者4 城 山 西道遷

 西郷南洲(さいごうなんしゅう)  

1828〜1877(明治10)年。薩摩藩士、政治家。名は隆永、隆盛。通称、吉之助など。

 南洲は号。南朝の忠臣、菊池氏の子孫といわれ、一時期菊池源吾という変名も使った。

 陽明学を修め、下級藩士の出ながら、藩主・島津斉彬に才を認められ、安政元年(1854)

 江戸に赴き、以後斉彬の命により一橋慶喜の次期将軍擁立に奔走した。

 しかし、安政5年(1858)、反一橋派の井伊直弼が大老に就任。更に、後ろ盾であった斉彬

 が死去する。井伊直弼による安政の大獄の尊攘派弾圧が始まると、幕府の追及が迫る中で

 藩に身を寄せることも出来ず、ついに同志の僧月照と共に海へ投身。南洲はかろうじて一命

 を取り留めたが、藩はこれを死亡として幕府に報告し、奄美大島に隠れ住まわせた。

 3年後の文久元年(1862)に召還され、薩摩の国父として事実上の藩主であった島津久光

 の上洛に際して先発隊を務めるが、その途上に待機命令に背いたことで久光の怒りをかい、

 同年、沖永良部島に遠島となった。遠島はおよそ1年半に及んだが、その間に薩英戦争が

 勃発。時勢が激しく変化する中、同志の嘆願もあり、元治元年(1864)2月、帰藩を許された。

 その後は直ちに上京し、長州の兵が京都で起こした「禁門の変」や、続く「第一次長州征伐」

 において活躍。慶応2年(1866)、第二次長州征伐を前に、南洲は坂本竜馬らの仲立ちで

 長州の木戸孝允と薩長同盟を成立させ、以後は倒幕運動の指導者となっていく。

 戊辰戦争の続く、明治元年(1868)4月には勝安芳(海舟)と会談、江戸城無血開城を成功

 させた。新政府では武官、文官の要職に就任し、維新の諸改革を断行したが、明治6年、

 征韓論をめぐって岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らと対立し下野。郷里で私学校を設立、

 子弟を教育した。

 明治7年、同じく下野した江藤新平が佐賀の乱を起こす。明治9年には熊本で神風連の乱、

 福岡で秋月の乱、長州で萩の乱と不平士族の内乱が相次ぎ、明治政府は南洲の動向にも

 神経を尖らせた。同10年2月、緊張の高まる中、私学校生徒らの暴走を機に西南戦争が

 勃発。薩軍は西郷を大将に擁して攻め上り、熊本鎮台を包囲。西下してくる政府軍と激しい

 戦闘を繰り広げたが、田原坂での戦いから劣勢となり、以後敗走を重ねた。南洲は最後の

 激戦となった故郷城山での戦いで負傷、自決した。

 一時は逆賊となった南洲だが、明治22年、明治天皇により賊名は除かれ正三位を追贈

 された。同じ薩摩藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允とともに維新の三傑と称される。

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野村望東尼(松口月城)
 

 【野村望東尼】

 1806〜1867年。江戸末期の歌人。勤王家。名はもと。号、招月・向陵。

 福岡藩士、野村貞貫の後妻。夫の死後、剃髪して望東尼と称した。

 平尾山荘に隠遁、僧月照や平野正臣、高杉晋作等、多くの勤王の志士を匿い、

 しばしば密会場所としても提供した。

 1865年、佐幕派に捕えられ、姫島に流されたが、後に高杉晋作の計らいで脱出。

 三田尻(山口県)にて、明治維新の直前に病没。62歳。

 【詩意】

 雲、行き乱れ、平尾山荘(望東尼が隠遁した)の月は冴える

 風、吹きすさび、玄海孤島(望東尼が流された姫島)の波は高い

 禅尼となった望東だが、勤王の志は真に激烈である

 国を憂う思いは、その詩にほとばしっている

 多くの勤王の志士が、望東尼を母の様に思い、敬慕した

 維新の偉業も、志士達を陰で支えた望東尼の功労を抜きに語れない

 松口月城(まつぐちげつじょう)  
 ※作者については解説の栞・熊本漢詩紀行(一)で詳述しています。
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吉田松陰(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 吉田松陰。江戸末期の思想家。その過激な言動により安政の大獄に連座、刑死するが、

 松陰の私塾「松下村塾」より輩出した高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文らは、

 後に政権交代や明治政府に関わるキーパーソンと成っていく。

 徳富蘇峰先生、明治二十六年、三十一歳の作。同年、「吉田松陰」の著書がある。

 自らも言論人として時代を駆け上がっていこうという意気込みが感じられるようだ。

 【詩意】

 政治の場では議論が揉めに揉めている

 松陰先生は卓越した学者でありながら、時代に入れられなかった最たる人である

 雄々しく駆け抜けたその一生の功績は素晴らしいものだ

 しかしながら今、松陰先生の小さな墓に心を留める者は少ない

 【語釈】

 台閣=中央政府。  崇論=立派な論議。

 徳富蘇峰(とくどみそほう)  
  ※作者については熊本漢詩紀行一の頁に詳述。
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耳無芳一(平池南桑)
 

 【題意】

 小泉八雲著「怪談」で取り上げられた「耳無し芳一」より題された。

 八雲は一夕散人(いっせきさんじん)著「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)を典拠にしたと言われる。

 舞台は長州赤間関、阿弥陀寺。現在の下関市壇ノ浦海岸近くの赤間神社。

 【詩意】

 芳一の弾く琵琶の撥の音、弦の音、語りが熱を帯びていく

 夜深く、墓前に集う茫とした人影

 平家の霊が芳一の耳を断ち、詩歌は止んだ

 浮かばれない霊魂のすすり泣きだけが聞こえる壇の浦の浜

 【語釈】

 平螯=平家蟹。甲羅の凹凸が人の表情に見え、平家の怨霊が乗り移ったと言われる。

 平池南桑(ひらいけなんそう)  

 1890〜1984年。大分県の生まれ。

 漢詩は豊後森藩園田天放氏に師事。

 福岡女学院高校勤務。退職後は太宰府に移り、福岡詩道会等を指導された。

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