郷土熊本出身の作者 四
 
     ※下記の漢詩は熊本漢詩紀行 四を御覧下さい。
龍田の桜花
藪  慎  庵
小川を過ぐ
北 島 雪 山
天草懐古木山弾正の墓
山 口 秋 鶴
城山(西道遷)
 

 【題意】

 作者は西南の役に深く共鳴。西郷南洲自刃の地である城山を詩に賦しこれを弔った。

 【詩意】

 残り少ない軍勢で官軍の包囲を突破し故郷の地に帰って来た

 長い道のり、諸方の堅固な砦を走破して

 私の剣は既に折れ、私の馬もとうに倒れた

 それでも、秋風吹く故郷の山に骨を埋めることだけは叶った

 【語釈】

 城山=鹿児島市にある標高100m程の丘陵。

 【参考】

 明治10年(1878)2月、明治政府の諸政策に反発する鹿児島士族は西郷隆盛(南洲)を

 擁して挙兵。熊本鎮台を取り囲み、更に京へ上る勢いであったが、田原坂での敗戦を境に

 守勢に転じることになる。敗走を重ねるうちに弾薬、食糧は尽き、兵の大半も失われてしまう。

 8月15日、和田越(宮崎・延岡)では官軍五万に対し、薩軍は僅か三千。

 西郷達も既に覚悟は決まっていたと思われるが、軍議での「薩摩にて再起を図る」との意見を

 容れることになった。故郷を死に場所に選んだのであろう。

 8月18日、可愛(えの)岳において激戦の末、五百から六百ほどが官軍の包囲網を突破。

 西郷達は二週間に及ぶ過酷な山中行軍を経て、9月1日に故郷城山の地を踏む。

 その後、城山は官軍によって包囲され、20日間ほどは睨み合いの状態が続いたが、

 9月24日、官軍の総攻撃により西郷は銃弾を受け負傷、側近別府晋介の介錯で自刃した。

 これにより8ヶ月に及んだ薩摩士族の反乱は終結する。

 西 道 遷(にしどうせん)  

 1836〜1913年。熊本天草の人。名は喜大。号は琴石。道遷(道仙)は字。

 幼くして志気有り、好んで書を読み、帆足万里に師事する。

 肥後において漢方医となり、28歳で長崎に出て開業した。

 道遷の曽祖父・道俊は京で勤皇の志士達と交わり、親友であった高山彦九郎が幕吏に

 追い詰められ自刃すると、後に自らもその墓前で屠腹して果てた。

 道遷の生まれる30年以上も前のことだが、道遷もまた同じ様に、多くの志士達と親交があり

 勤皇思想が強かった。討幕計画に敗れた三条実美ら七公卿が長州へ都落ちする際には、

 これに従わんとしたほどだった。

 後の王政復古に際し「宜しく皆姓氏を称するを許すべきである」との建議を九州総督になし、

 それが容れられて一般庶民も姓氏を名乗るようになったといわれる。

 西南の役の起こる明治10年には長崎自由新聞を創刊。

 水資源の乏しい長崎で水道工事を成し遂げ、重職を歴任した。

 号の琴石は有栖川親王に賜ったものという。大正2年7月10日78歳で歿した。

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偶感(井上梧陰)
 

 【題意】

 たまたま心に浮かんだ感想を詩にした。

 【詩意】

 常日頃、国の事のみを思って、家の事など顧みなかった

 世の中を忙しく駆け回っているうちに月日は過ぎて行った

 お笑いくださいますな、この身がまるで鉄のように丈夫であることを

 まだまだ国を思う私の一心は全く磨滅してはいませんよ

 【語釈】

 歳華=年月。歳月。

 井上梧陰(いのうえごいん)  

 1843〜1895年。肥後熊本出身。政治家。名は毅(こわし)。

 細川藩士、木下@村(犀潭)に学び竹添井井、阪田警軒と共に木門の三傑と呼ばれた。

 幕末には官軍兵士として戊辰戦争にも参加している。

 維新後上京し、司法省入省。才能を認められて司法卿・江藤新平の渡欧に随行している。

 帰国後法制局長官として憲法の起草にあたり、元田永孚と共に教育勅語の草案を起稿した。

 更に枢密顧問官、第二次伊藤内閣の文部大臣を歴任、子爵を授けられた。

 明治28年3月、52歳にて歿。

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水仙花(宮原南郊)
 

 【題意】

 水仙の花をとおして、人もそのように在りたいと詠われた。

 【詩意】

 寒さをものともせず、早くも咲く水仙の花

 厳しい気候に耐えることで、自然と気品が備わっている

 消え入ることの無い、その可憐で清らかな香りを皆愛してやまない

 華やかに咲き誇る花だけが、世人に賞美されるということがあろうか

 むしろ私達はこの様な清純可憐な花を愛するものである

 【鑑賞】

 私達自身も華美に装い賑わい栄えるより、素朴で気高く凛々しく俗世間に耐えて生きる事で、

 清らかな香を放つものである、との意。まさに南郊先生の境地ではないだろうか。

 宮原南郊(みやはらなんこう)  

 1887〜1961年。名は謙次。学業優秀、銀時計組。元陸軍主計大尉。

 後に熊本信用金庫の監査理事を務めた。

 香雲堂顧問のお一人。自宅は熊本市坪井旧香雲堂の近所で瓜生田建山、山桜両先生と

 親交があり、詩酒に親しまれた。

 天才的な頭脳の持ち主で弁舌爽やか、詩書に長じる大文化人であった。

 昭和36年1月13日歿。74歳。

 先生のお墓は旧香雲堂の裏手、報恩禅寺に在り、瓜生田建山、初代瓜生田山桜先生夫妻

 や菊池東郊先生の墓と並び向かい合って在る。

 令弟の宮原雲山氏も香雲堂の古い会員としてたいへん活躍された。

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 【題意】

 芳野山で懐古しての作。

 【詩意】

 後醍醐天皇の陵の辺りは草が寂しく生い茂っている

 沢山の木々、深き山を抜けて御陵へ向かう道は遠い

 かつて帝の御車が通ったであろうこの道、今はただ静かに季節だけが行きすぎる

 散り落ちた桜は、この芳野の山を覆い尽くし帝の魂を慰めている

 【語釈】

 鳳輦=天皇がお乗りになる車。

 長岡護美(ながおかもりよし)  

 1843〜1906年。肥後細川藩・家老職長岡家に生まれる。号は雲海。

 藩主・細川斉護公の五男。明治維新では御所警護の為、勤皇党を率いて上京。

 京童歌で「肥後の牛若さん、早く乱世治めいね」と唄われた。

 22歳の時、維新の功により朝廷から剣一口を下賜せられる。

 明治元年(1868)参与職に任ぜられ、同5年にはアメリカ、イギリスに留学。

 同11年帰朝後ベルギー、オランダの初代公使に就任、語学堪能な外交官として活躍した。

 同37年貴族院議員。明治39年4月、64歳で没した。

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春の柳(初代瓜生田山桜)
 

 【題意】

 揚柳の季節の景を日頃の生活の中に捉われ詠われた。昭和30年5月の作。

 【詩意】

 白川は広々として静かに流れ、川岸の緑を写している

 風が川面を渡ると、白い綿の様な柳の穂が乱れ飛び水に浮ぶ

 詩吟のお稽古も済み、他に用事も無いので

 ふらりと川岸の柳の木陰に立って、ホトトギスの声を聞いている

 【語釈】

 白水=白川。阿蘇山に源を発し、熊本市を流れ有明海に注ぐ。   杜鵑=ほととぎす

 初代 瓜生田山桜  
 作者略歴については、香雲堂吟詠会初代宗家の頁に詳述。
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