1758〜1831年。江戸後期の禅僧、歌人、詩人、書家。
俗名山本栄蔵、後に文孝。号は大愚。越後三島郡出雲崎の名主の長男として生まれた。
少年時代は江戸より帰国した大森子陽の塾に入門し、漢学や漢詩を学ぶ。
18歳で家を弟に譲り出家、曹洞宗光照寺の玄乗破了和尚の見習いとして修行を始め、
22歳の時、寺に訪れた国仙和尚に従い、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺に赴き
得度を受けて良寛と称す。
以後、円通寺に留まり厳しい修行を続け、34歳からは諸国を行脚した。
文化元年(1804)38歳の時、父が京都桂川に入水したという知らせを受け帰国するが、
その後は生家には戻らず、国上山五合庵に隠棲した。
所持品は一衣一鉢。一つの鉢が鍋代わりであり、食器であり、手足を洗う桶であった。
良寛はそのような生活の中で「焚くほどは風がもて来る落葉かな」と詠んでいる。
13年余りをそこで過ごし、59歳の時、山麓の乙子神社境内の草庵へ移住。
農民達とも親しく交流があり、子供の守り等をしてよく手毬をついた。
有名な手毬歌はこの時期に詠われた。
更に69歳で島崎村に移る。この頃、貞信尼が良寛を訪ね、以後歌を唱和したり、交流が続く
が、天保元年(1830)の夏、健康を害して暮れには危篤となった。
翌年正月6日、良寛は布団に坐り直し、貞信尼に看取られ世を去ったという。74歳であった。
辞世の句は「形見とて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみじ葉」
あるいは「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」も辞世として伝わっている。
良寛には数々の逸話が残されている。五合庵に泥棒が入った際、わざと気付かぬふりをして
盗まれるままにし、後で「ぬす人に取り残されし窓の月」と詠んだことは有名だ。
「災難に逢う時節は災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのが
るる妙法にて候」は近在で大地震が起こった時、知人に宛てた見舞い状の一節である。
自らを「僧に非ず、俗に非ず」と言い酒も煙草もたしなんだという。
良寛の漢詩は押韻や平仄等の規則に拠らない型破りなものだったが、高い悟りの境地を示し
たものであった。また優れた書家としても知られる。
良寛の示寂後、貞信尼の編んだ歌集「蓮(はちす)の露」がある。
貞信尼は明治5年(1872)75歳で天寿を全うした。
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