テーマは癒し
 
     ※下記の漢詩は春を御覧下さい。
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竹里館(王維)
 

 【題意】

 別荘地の竹林に館があり、そこを竹里館と名づけた。そこでの楽しさを詠ったもの。

 詩集「もう川集」の一首。「もう川集」からは「鹿柴(ろくさい)」の詩もまた有名。

 【詩意】

 ただ独り、仄暗く奥深い竹薮の中の館に坐っている

 琴を弾いたり、声を長くひいて心ゆくままに詩を詠ったりする

 こんな奥深い林の中のこと、誰も訪ねては来ない

 やがて日は暮れ、月がさし昇る

 明月だけは、その趣を理解しているかの様に照らしてくれる

 【語釈】

 幽篁=「幽」は奥深いこと。「篁」は「たかむら」とも読むが、竹の林のこと。

 つまり、奥深く仄暗い静かな竹林。

 長嘯=長くうそぶく。口をつぼめて声を出す。「嘯」は元来は養生法の一つで、

 胸一杯に気を吸って口をすぼめて吐き出す、その時に大きな声がする。声楽の一種。

 相照=「相」は、ここでは「「互いに」という意味は無く、「やって来て照らす」という、

 精神の相通ずることを意味する。

 【鑑賞】

 誰も知らないこの世界に、自分のこの楽しみを知ってくれるのは明月だけ。

 月明かりに浮かぶのは、ただ竹林と隠者の姿のみ。

 毎日、喧騒の中で生活しているものには羨ましいかぎりである。

 【参考】

 夏目漱石「草枕」の冒頭、主人公が熊本の山道を登りながら考える場面で、「竹里館」が

 そのまま引用されている。漱石は主人公に、

 「ただ20字のうちに優に別乾坤(別天地)を建立している」

 「20世紀にこの出世間的の詩味は大切である」

 「自分にはこういう感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる」

 「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」

 等と述べさせている。

 王   維(おうい)  

 699〜759年。盛唐時代の官僚、詩人、画人。字は摩詰(まきつ)。太原(今の山西省)の人。

 早熟、多才で画や書・音楽・詩にも秀でていた。10代半ばで都・長安に出ると忽ちその才能

 で社交界の花形となり、20歳を過ぎるとすぐに進士の試験に合格し、官僚の道を歩み始めた。

 安禄山の乱後、粛宗に起用され、書記官長である尚書右丞(しょうしょゆうじょう)まで進んだ。

 王維は晩年、都の南もう川(もうせん)に別荘を持ち、役人勤めの暇々に訪れては清閑の生活

 を楽しんだ。広大な別荘の敷地の中から20箇所のお気に入りの名勝を選び、友人の裴廸

 (はいてき)と20首ずつ詠み交わし詩集「もう川集」を作った。

 自然派の詩人としての他、山水画でも有名で、文人画の南宗の祖と仰がれる。

 後に蘇軾は王維の作を「詩中画有り、画中詩有り」と評した。

 熱心な仏教の信者で、30歳で妻を失うが終生後添いをもらわず、質素な身なりで、生臭を

 食しなかったという。李白の「詩仙」、杜甫の「詩聖」に対し、「詩仏」とも称される。

 【南宗画】

 中国絵画の系統の一つ。

 文人画家の山水画様式で、水墨の柔らかい描写と自然な味わいが特色。

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絶句(杜甫)
 

 【題意】

 「絶句」というのは、本来詩体の名であるが、ここでは適当な詩題が見つからないままに、

 詩体の名を借りて題とした。

 広徳2年(764)53歳の頃、成都の草堂にあっての作。二首連作の第一首。

 第二首は特に有名な「江碧にして鳥逾いよ白く、山青くして花然えんと欲す…」の詩。

 【詩意】

 春の陽射しに、川も山も麗しく

 春風が、花や草の匂いを運んで来る

 凍っていた泥も融けて、燕は巣作りに飛び回り

 暖かな砂浜ではおしどりが気持ち良さそうに眠っている

 【語釈】

 遅日=春の日なが。春は日が長くなり、暮れるのが遅いことから。

 江山=その付近を流れる錦江や、近くの山。    燕子=つばめ。

 鴛鴦=おしどり。鴛が雄で、鴦が雌。

 【鑑賞】

 杜甫の波瀾に富んだ生涯の中で、成都での生活は比較的平穏だった。

 それ故にこの地の美しさを詠った作が多い。これもその代表的なものの一つである。

 春先に、泥をくわえては巣作りをする燕の忙しげな様子と、陽だまりの砂浜で、

 のどかに昼寝を楽しむおしどりの対比は、同じ春の景物とはいっても、静と動の違いがある。

 杜   甫(と  ほ)  

 712〜770年。盛唐時代の大詩人。字は子美(しび)。湖北省の人。

 中年の頃、長安の郊外の少陵(しょうりょう)に住んだので、号は少陵。

 祖父、杜審言は則天武后の治世、宮廷に仕えた名のある詩人。

 杜甫は若い頃から旅に出て天下を巡り歩いた。

 33歳の夏に李白と洛陽で出会っている。この時、李白は44歳、皇帝の側を追われたばかり

 の頃であった。当時まだ無名の杜甫と有名な元宮廷詩人はどういう訳か意気投合し共に1年

 余りも旅を続ける。

 翌年の秋に別れた後、二度と再会することはなかったが、杜甫は李白を生涯敬慕した。

 李白と別れた後、都に出た杜甫は10年余りも苦しい生活を送りながら仕官を目指し44歳の

 時、ようやく下級職に就く事が出来た。ところが就職して間も無く安禄山の乱が勃発する。

 杜甫も多くの官僚らと共に反乱軍に捕らえられてしまう。

 「国敗れて山河在り…(春望)」の詩はその翌年の春、荒廃した都の様を詠ったものである。

 その後、杜甫は決死の脱出をし、玄宗に代わって帝位に就いた粛宗の元へ馳せ参じる。

 粛宗は杜甫を褒め称えて佐拾遺(皇帝の側で諌め奉る役)へ大抜擢した。

 しかし喜んだのも束の間、すぐに粛宗の不興を買って翌年には華州へ左遷されてしまった。

 そこで1年余りを過ごした杜甫はついに官職を捨て、各地を転々と渡る生活を始める。

 ようやく成都で当地の節度使・厳武(げんぶ)の庇護を受け、郊外の浣花渓(かんかけい)に

 草堂を造り、住んだ。

 49歳から54歳のこの時期が杜甫にとって物心共に一番安定した時であった。

 厳武の死後、再び放浪の旅が始まり各地を流浪、湘江を下る途中、船中で生涯を閉じた。

 享年59歳であった。

 

 杜甫は李白と並び称される中国詩人の最高峰で、李杜(りと)と讃えられた。

 性格や詩風は李白と全く正反対で、推敲に推敲を重ねた努力型の苦吟家。特に律詩に

 優れ、現実の社会と人間を直視し、常に時事を詠じたので、その詩は「史詩」と言われた。

 自身、長らく逆境にあったことが、支配者層の腐敗や支配される弱者の姿を鋭く見つめる

 目を養ったのであろう。

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鐘山(王安石)
 

 【題意】

 鐘山の麓で、隠棲する作者が、山を眺めて過ごした静かな一日を詠った。

 【詩意】

 谷川の水は音も無く竹林をめぐって流れ

 竹林の西の草花は暖かな春に芽吹き始めたようだ

 かやぶきの軒下で、山と向かい合って一日坐っている

 一羽の鳥の鳴き声も無く、山は静寂の中に幽玄な趣をたたえている

 【語釈】

 鐘山=南京郊外にある山。別名、紫金山。   澗水=「澗」は谷川の意。谷川の水。

 春柔=草花の芽。   茅簷=かやぶきの軒端。

 【参考】

 梁の詩人・王籍が詠った、「若耶渓に入る」の一節「鳥鳴いて山更に幽なり」と比較される

 結句が有名。鳥を鳴かせた方が良かったか否かで、後に物議をかもした。

 【鑑賞】

 政界にいた頃の作者には、静寂の中で日がな山と向かい合う時間があっただろうか。

 あったとしても、心の中にまで平穏は訪れなかったろう。

 俗塵から開放された今、山と対座して、人生に想いを馳せるか、それとも無の境地か。

 禅画の風景が眼前に浮かんでくるようだ。

 王 安 石(おうあんせき)  

 1021〜1086年。北宋の詩人。撫州臨川(江西省臨川県)の人。

 字は介甫(かいほ)、号は半山(はんざん)。政治家であり、学者としても名をなす。

 22歳の時、科挙の試験に合格し、後に宰相にまでなった。

 政治では、国家財政を立て直す数々の新法を打ち出した。しかし改革が急進的過ぎて、

 既得権を守ろうとする、いわゆる抵抗勢力の猛反発にあって成功しなかった。

 晩年、職を辞して後、現在の江蘇省南京郊外にある鐘山に隠棲。

 絶句は北宋随一といわれ、また散文でも唐宋八大家の一人に数えられる。

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意に可なり(良寛)
 

 【題意】

 無欲恬淡、山水を賞し、子供達と一緒に楽しんでいた頃の心境を詠じたもの。

 【詩意】

 欲が無ければ、何かが足りないと思うこともない

 何かを求めようとするから、万事が窮まるのである

 質素な野菜も飢えを満たすに充分であるし

 僧衣は身にまとうに何も不足無い

 一人、鹿を伴として暮らし

 村の子供達と高らかに声を張り上げて唄う

 岩下を流れる清流は俗事のけがれを洗い流してくれるよう

 嶺上の松を揺らす風の音は、我が心に適う様に清々しい

 【語釈】

 淡菜=淡白な野菜。   衲衣=僧の着る様な衣。   糜鹿=大鹿。

 良   寛(りょうかん)  

 1758〜1831年。江戸後期の禅僧、歌人、詩人、書家。

 俗名山本栄蔵、後に文孝。号は大愚。越後三島郡出雲崎の名主の長男として生まれた。

 少年時代は江戸より帰国した大森子陽の塾に入門し、漢学や漢詩を学ぶ。

 18歳で家を弟に譲り出家、曹洞宗光照寺の玄乗破了和尚の見習いとして修行を始め、

 22歳の時、寺に訪れた国仙和尚に従い、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺に赴き

 得度を受けて良寛と称す。

 以後、円通寺に留まり厳しい修行を続け、34歳からは諸国を行脚した。

 文化元年(1804)38歳の時、父が京都桂川に入水したという知らせを受け帰国するが、

 その後は生家には戻らず、国上山五合庵に隠棲した。

 所持品は一衣一鉢。一つの鉢が鍋代わりであり、食器であり、手足を洗う桶であった。

 良寛はそのような生活の中で「焚くほどは風がもて来る落葉かな」と詠んでいる。

 13年余りをそこで過ごし、59歳の時、山麓の乙子神社境内の草庵へ移住。

 農民達とも親しく交流があり、子供の守り等をしてよく手毬をついた。

 有名な手毬歌はこの時期に詠われた。

 更に69歳で島崎村に移る。この頃、貞信尼が良寛を訪ね、以後歌を唱和したり、交流が続く

 が、天保元年(1830)の夏、健康を害して暮れには危篤となった。

 翌年正月6日、良寛は布団に坐り直し、貞信尼に看取られ世を去ったという。74歳であった。

 辞世の句は「形見とて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみじ葉」

 あるいは「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」も辞世として伝わっている。

 

 良寛には数々の逸話が残されている。五合庵に泥棒が入った際、わざと気付かぬふりをして

 盗まれるままにし、後で「ぬす人に取り残されし窓の月」と詠んだことは有名だ。

 「災難に逢う時節は災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのが

 るる妙法にて候」は近在で大地震が起こった時、知人に宛てた見舞い状の一節である。

 自らを「僧に非ず、俗に非ず」と言い酒も煙草もたしなんだという。

 

 良寛の漢詩は押韻や平仄等の規則に拠らない型破りなものだったが、高い悟りの境地を示し

 たものであった。また優れた書家としても知られる。

 良寛の示寂後、貞信尼の編んだ歌集「蓮(はちす)の露」がある。

 貞信尼は明治5年(1872)75歳で天寿を全うした。

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