水前寺(玉城白水)
 
 【題意】

 熊本市の公園の一つ水前寺成趣園を賦したもの。

 【詩意】

 盛んに湧き出る清らかな泉、浪は太陽の光で銀色を呈している

 池の魚も、鳥も、のんびりと遊び戯れ、ともに親しんでいる様子

 人工の山川を造り、東海道五十三次の景を模して作られた公園は他には無いであろう

 この様な素晴らしい公園があるからこそ、熊本へ四季折々、沢山の人々が訪れるのである

 【語釈】

 滾々(こんこん)=水が盛んに湧き出る様。   仮山築水=人工の山川。

 【水前寺公園】

 名物スイゼンジノリを育む清らかな阿蘇の湧水と典型的な桃山式庭園として天下に知られる

 名勝。湧水による池を中心に東海道五十三次を模した庭園が配されている。

 藩主細川氏のお茶屋(別荘)で、藩主細川忠利公が肥後に移封された寛永9年(1632)に、

 豊後・羅漢寺の僧玄宅のために同地に水前寺を建立。

 後に同寺を隣地に移し、その跡地に茶屋を設けて庭園を築いたもので、忠利公の孫である

 綱利公の時代に完成したと伝えられる。

 「スイゼンジノリ」は、藍藻植物の一種で、大正13年、国の天然記念物として指定された。

 かつては、細川藩から将軍家への献上品であった。

 玉城白水(たまきはくすい)  

 明治12年(1879)8月18日生まれ。熊本の人。名は常八。

 初代山桜先生と同じく建極会漢詩部に所属し、読書を能くした。

 醤油味噌の醸造業を営み、現在もその子孫で家伝されている。

 詩は落合東郭、宮崎来城に師事した。

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三賢堂(安達漢城)
 

 【題意】

 作者が三賢堂(加藤清正、細川重賢、菊池武時を祀る)を建立し、感慨を詠まれたもの。

 【詩意】

 三賢人が後世に残した恩徳で、肥後は素晴らしい国となった

 爾来、数百年の間当地の人々は、その恩恵を忘れたことはない

 民衆の心を奮い起こした、三賢人の終生の事業

 小さな真心が大きな実りとなり、神の御意思にも添うことになった

 (私も真心を以って政治に参画し、国の興隆を願い、神の御意志に応えたいものだ)

 【語釈】

 肥州=肥前国、肥後国の総称。   畢生=一生涯。終生。

 丹誠=飾り気や偽りの無い心。真心。赤心。

 【鑑賞】

 肥後人の安達先生も、先賢を敬い、政界に投じ国の発展を願い、終生の業として歩まれた。

 三賢人と安達先生の心が固く結ばれた思いのする作である。

 【三賢堂】

 熊本市島崎。昭和11年(1936)、安達謙蔵(漢城)氏によって精神修養の場として

 建てられた。

 堂内には肥後の三賢人として、南朝の忠臣菊池武時公、肥後の藩政を確立した

 加藤清正公、細川家中興の祖細川重賢公の坐像が田島亀彦、朝倉文夫、長谷秀夫ら

 彫刻家により製作され安置されている。

 安達漢城(あだちかんじょう)  
 1864〜1948年。熊本の生まれ。名は謙蔵。父は細川藩御用方に属した。
 9歳の頃より寺小屋にあがる。14歳の時、西南の役に遭遇。
 15歳で玉名郡玉名村の友枝庄蔵の漢学私塾、忍済学舎に入塾。6年間漢学を修めた後、
 佐々友房の経営する済々黌に転学。その後東京に遊学し、佐々について朝鮮を漫遊した。
 帰熊後、雪子夫人と結婚するが、挙式4日目に再び朝鮮に渡り、「朝鮮時報」「漢城新報」を
 創刊する。
 明治18年、朝鮮閔妃事件に関連し、公使三浦梧楼と広島監獄に入監されるが、その後
 無罪となって帰熊。佐々友房を補佐し、友房の後継者として国権党の首領となった。
 明治35年、衆議院議員。大正元年立憲同志会入会。
 同13年、第1次加藤高明内閣の逓信大臣。
 同15年、内務大臣兼務。浜口、若槻内閣でも内務大臣を務める。
 昭和6年、満州事変が勃発すると、内閣総辞職にともなって立憲民政党脱退。
 国民同盟を結成して総裁となった。
 満州事変等の戦争が始まり、次第に軍部の政治力が強まった為、昭和15年11月17日、
 銅像の除幕式で政界からの引退を表明し、同17年以降、原泉荘に隠棲した。
 同23年、85歳を一期として熊本市島崎町の三賢堂にて没。
 
 「香雲堂」の名付け親であり、本会の名誉顧問であった。
 安達先生は政治が生命であったが、他方漢学に深い素養が有り、漢詩も善くされた。
 先生の作品はそれ程多くないが、いずれも先生のお人柄、思想、世界観をよく表現している。
 詩歌を以って国民精神を陶冶する事を志し、昭和8年10月、横浜本牧に、孔子、釈迦、
 キリスト、聖徳太子、弘法大師、親鸞上人、日蓮上人の8人の聖人の像を祭置した八聖殿を
 建立された。熊本市島崎にも三賢堂を建立し、共に幾度も吟詠大会を開催され、
 昭和13年5月、現在の日本吟詠総連盟の前身・大日本吟詠連盟を結成して、全国の吟詠
 振興に多大の貢献をされた。
 八聖殿、三賢堂で開催される全国吟詠大会には著名な吟詠家が出吟したが、初代山桜
 先生も昭和9年から18年迄、10年間出席した。
 香雲堂社中に於いても春秋の西山の景色を賞づると共に、先生をお慰めする吟詠大会を
 催した。当時三賢堂までは市電の停留所から徒歩で、弁当、水筒持参の一日がかりの行事
 であった。
 三賢堂の下、同じ敷地内に漢城先生の晩年の住居・原泉荘がある。
 (原泉は漢城先生の以前の雅号)
 二代山桜先生も少年時代、漢城先生に度々お会いした。当時先生は二階の書斎にいつも
 居られて、虎の敷物にお座りになり、「よく来た、よく来た」と言ってお会いになられた。
 ここへ来ると、今にも二階から先生のお声がする様に思われるとのことである。
三賢堂
安達漢城先生銅像
原泉荘
三 賢 堂
安達漢城先生銅像
原 泉 荘
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吉次嶺(佐々克堂)
 

 【題意】

 熊本の西方、金峰山に連なる三の岳。西南の役の激戦地で賦したもの。

 【詩意】

 幾つもの薩軍の隊が旗をなびかせて静かに進んで行く

 山は雨風に覆われ、これからの戦いはどうなるのであろうか

 どの隊が最初に吉次の峠に陣を構えるのか

 振り返ると軍中には多くの英雄の顔が見える

 【語釈】

 旌旗=大将の旗。

 【鑑賞】

 吉次嶺というが実際には吉次峠である。

 佐々友房の長詩に「吉次峠戦」(君見ずや吉次の険は城よりも険なり…)があり、より詳しく

 明治10年の西南戦争に於ける吉次峠の戦いを説明している。

 又、佐々友房著「戦袍日記」によれば、「二月二十四日平明、三小隊一齊、吉次峠を越えゆ

 細雨霏微、軽霧山をこめ、幾流の旌旗、老松古柏の間に翩翻し、胸襟爽朗ならしむ」とある。

 この後、3月4日田原坂の激戦となる。

 佐々克堂(さっさこくどう)  

 1854〜1906年。旧熊本藩士。名は友房。

 現在の熊本市坪井町に肥後藩士佐々陸助の次男として生まれる。幼名、寅雄。

 藩校「時習館」に入り、漢学を修めた。また、勤皇の志士である叔父・淳次郎の訓育を受けた。

 明治7年末上京。福島種臣らに師事し政治を学び、帰熊後「時勢諭」を著す。

 明治10年、西南の役の際は薩軍熊本隊中隊長として官軍に抗し、各地を転戦。

 宮崎・佐土原での敵中突破に際し、官軍の銃弾を受け重傷を負った。

 敗戦後入牢10年の刑を受けるが、明治13年、廃疾の為に特旨で放免となった。

 出獄後は政治、教育に活躍。国権党を興し中央政界入り。明治23年、第一回議会に郷里

 より推されて衆議院議員となった。また済々黌学校(現・済々黌高等学校)を開設した。

 明治39年9月28日、東京麹町区の私邸にて病没。53歳。

 

 安達漢城先生は後輩にあたり、たいへん面倒を看ていただいたそうである。

 安達先生の話の随所に佐々先生の話が出て来る。

 その中の佐々先生逝去の一部を紹介する。

 「佐々氏は明治10年西郷の挙兵に参加し、池辺吉十郎を大隊長として各地に転戦したが、

 右肺部に半貫通の銃創を受けた。幸にその傷は平癒したが、右肺の活動は以後停止して

 用を為さざる状態であった。発病は神経痛という事であったが、疼痛が連日続き、体力の

 非常に衰弱せるところへ肺炎を併発されたそうで、片肺の衰弱は如何ともすべからず、

 状態悪化、安達はまだ帰らぬかと幾度も尋ねられたそうである。遺憾ながら予は逝去1時間

 後に枕頭に駆け付けた次第であった。予は哀愁の情を超越して責務の重大さを自覚して

 昂奮の情最高に達したるを覚えている」

 熊本の政治、教育の大先達であった。

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白川の秋月(高本紫溟)
 

 【題意】

 白川の秋の月。作者は白川の傍にある無漏寺(熊本市世安)で詠んだという。

 白川は阿蘇に源を発し、熊本市を流れる川。白川水源は名水百選にも指定されている。

 【詩意】

 秋の雲も川を渡って来ない

 明るい月ばかりが川の中ほどにある

 そんな時に小舟で漕ぎ出し

 ただあてもなく鏡の中のような景色に遊ぶのだ

 高本紫溟(たかもとしめい)  

 ※作者については熊本漢詩紀行五の頁に詳述。

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加藤清正公(初代瓜生田山桜)
 

 【題意】

 昭和35年、清正公の没後350年祭が催された時の作。

 【詩意】

 桐の葉が風に舞い落ちる、季節は秋である

 豊臣家恩顧の大名達は、殆どが徳川方に移ってしまった

 その時の清正公の心中は、誠に清く正しく、行いが潔白であった

 清正公の死後も残っている恩徳は、永遠に明らかで日本国中に輝きわたっている

 (今日はその遺徳を讃える、没後350年祭である)

 【語釈】

 「桐の葉が風に舞い落ちる、季節は秋…」=豊臣家(紋所が桐)の没落を例えている。

 【鑑賞】

 初代山桜先生には、他に「清正公三百五十年祭」の詩がある。

 初代先生は非常に感激家で、特にこの加藤清正公の忠誠に痛く思いを抱き、歌舞伎等で

 「地震加藤」や「一葉落ちて天下の秋を知る」が上演されると、必ず観劇に行かれた。

清正公銅像

 【加藤清正】

 1562〜1611年。安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名は虎之助。

 豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍の一人。

 肥後の半国を与えられて熊本城主となり、文禄・慶長の役で朝鮮に

 出兵。関が原の戦いでは東軍につき、肥後一国を与えられた。

 築城の名手で、名護屋城の設計は有名。

 

 賤ヶ岳の七本槍=賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉軍にあって活躍した7人の武将。

 加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則。

 賤ヶ岳の戦い=天正11年(1583)賤ヶ岳で羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家を破った戦い。

 この結果、豊臣秀吉の全国制覇の基礎が築かれた。

 賤ヶ岳=滋賀県・琵琶湖北岸の標高422米の山。

 初代 瓜生田山桜(うりゅうださんおう)  

 ※作者紹介は香雲堂吟詠会の頁で「初代宗家」をご覧下さい。

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