1854〜1906年。旧熊本藩士。名は友房。
現在の熊本市坪井町に肥後藩士佐々陸助の次男として生まれる。幼名、寅雄。
藩校「時習館」に入り、漢学を修めた。また、勤皇の志士である叔父・淳次郎の訓育を受けた。
明治7年末上京。福島種臣らに師事し政治を学び、帰熊後「時勢諭」を著す。
明治10年、西南の役の際は薩軍熊本隊中隊長として官軍に抗し、各地を転戦。
宮崎・佐土原での敵中突破に際し、官軍の銃弾を受け重傷を負った。
敗戦後入牢10年の刑を受けるが、明治13年、廃疾の為に特旨で放免となった。
出獄後は政治、教育に活躍。国権党を興し中央政界入り。明治23年、第一回議会に郷里
より推されて衆議院議員となった。また済々黌学校(現・済々黌高等学校)を開設した。
明治39年9月28日、東京麹町区の私邸にて病没。53歳。
安達漢城先生は後輩にあたり、たいへん面倒を看ていただいたそうである。
安達先生の話の随所に佐々先生の話が出て来る。
その中の佐々先生逝去の一部を紹介する。
「佐々氏は明治10年西郷の挙兵に参加し、池辺吉十郎を大隊長として各地に転戦したが、
右肺部に半貫通の銃創を受けた。幸にその傷は平癒したが、右肺の活動は以後停止して
用を為さざる状態であった。発病は神経痛という事であったが、疼痛が連日続き、体力の
非常に衰弱せるところへ肺炎を併発されたそうで、片肺の衰弱は如何ともすべからず、
状態悪化、安達はまだ帰らぬかと幾度も尋ねられたそうである。遺憾ながら予は逝去1時間
後に枕頭に駆け付けた次第であった。予は哀愁の情を超越して責務の重大さを自覚して
昂奮の情最高に達したるを覚えている」
熊本の政治、教育の大先達であった。
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