※下記の漢詩は熊本漢詩紀行 三を御覧下さい。
熊城四時の楽しみ(冬)
藪  孤  山
     ※下記の漢詩は郷土熊本出身の作者 三を御覧下さい。
雪 中 即 事
二代瓜生田山桜
     ※下記の漢詩は郷土熊本出身の作者 四を御覧下さい。
水  仙  花
宮 原 南 郊
不尽の山を望める歌一首(山部赤人)
 

 【題意】

 富士山を仰ぎ見て詠んだ歌。

 【詩意】

 天と地が分かれたといわれる大昔から、神々しく立派であり

 高くて貴い、駿河の富士の高峰を

 大空遠く遥に振り仰いで見ると、空を行く太陽さえも

 あまりの山の高さに、陰に隠れてしまう、照らす月の光も、また遮られてしまう

 気ままな白い雲でさえも、遠慮して行きかねている

 暖かな季節であろうと、四季に関わり無くいつでも雪が降り積んでいる

 こんなに素晴らしいのだから、子々孫々語り継ぎ、言い伝えていかねばならないよ

 富士の御山を

 (反歌)

 田子の浦を通って、急に見晴らしの良い所へ出て見やると

 まあ、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっているよ。なんて素晴らしい景色なんだろう

 【語釈】

 田子の浦=この歌が詠われた頃は富士川河口の東側をいったらしい。

 【鑑賞】

 力強い中に気品の漂う。作者が旅の途中、突然視界が開けて絶景を目の当たりにし、

 強く心動かされた実体験が良く伝わって来る。

 写真など無い時代、その感動をとにかく他の人々へ伝えたかったのかもしれない。

 作者の時代に比べ、旅の困難さや周りを取り巻く自然環境、山自体の持つ神秘性等、

 現在、失われてしまったものは多い。

 ただ富士山という時代を超えた普遍的な存在があることで、幾らかは作者の感動を共有する

 ことが出来るかもしれない。

 今ならさしずめ、新幹線の車窓から見る富士だろうか。

 古人の豊かな精神世界には、到底及びそうにない。

 山部宿彌赤人(やまべのすくねあかひと)  

 生没年未詳、奈良時代の万葉歌人で三十六歌仙の一人。

 万葉集の歌から推定して、最期に年代が明記されている天平8年(736)頃、没したらしい。

 下級官人であったと思われるが、和歌によって朝廷に仕え、元正天皇の御代(715〜724)

 から聖武天皇の御代(724〜749)にかけて活躍したとされる。

 聖武天皇に従い、吉野、難波等の近場から、東国、四国の遠方まで赴いている。

 残されている作品は、長歌13首、短歌37首。

 天子の行幸に随行した際のものなど、旅の途中の作が多い。

 その歌風は自然の姿をありのままに詠み、洗練され上品で美しいのが特色。

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江雪(柳宗元)
 

 【題意】

 河の雪。作者が参加した、王叔文派の政治改革運動が敗れ、永州(湖南省永州市)に

 流されていた時期のもの。柳宗元33歳の作。

 【詩意】

 見渡す限り山々は、飛ぶ鳥の姿も消え

 周囲の道々には、人の歩いた跡さえも無い

 一艘の小舟 に蓑笠を着けた老人

 ただ独り、寒々とした雪の中で釣り糸を垂れている。

 【鑑賞】

 「千山」「万径」は、中国の詩人が好む大きな表現。

 前半では、広々とした遠景を詠い、後半では、目の前の情景に焦点を移す。

 絵画や映像の遠近法の様な斬新な手法だ。

 

 起句、承句、転句は、全て「雪が降っているから」という説明を省略してある。

 そして最後の最後に結句で「雪」の字を登場させ、印象的に締め括る。

 さりげない中に多くの技巧が凝らされている。

 雪の白一色に釣り人の黒い影を描いて、一幅の水墨画を見る様でもある。

 実際、後世には画題として好まれ、多くの詩や画を生み出した。

 日本の一休和尚もこの詩から秋江独釣図という詩、画を残している。

 

 詩全体にみえる光景は、都から遠く流された作者の心象風景に他ならない。

 日本の菅原道真公と同様に、左遷による環境の変化、憂患の思いが、元来才能に

 恵まれた詩人に更に磨きをかけたのであろう。

 辺境へ流されたことで、後世に名を馳せたとすれば皮肉ではある。

 生前の出世と後世での名声、作者にとってどちらが本望であったろう。

 柳 宗 元(りゅうそうげん)  

 773〜819年、河東(山西省)の人。中唐時代の詩文の大家。字は子厚(しこう)。

 21歳で進士に及第し、エリート官僚への道を進んでいたが、党派の争いに巻き込まれて、

 33歳の時に洞庭湖の遥か南、都を遠く離れた僻地、永州へ左遷された。

 挫折感は大きかったが、美しい自然に囲まれたこの地で、山河に遊び痛手を癒した。

 815年、許されて長安に召喚されるも、改めて柳州に派遣され、その地の行政改革に

 尽くして、不遇のまま47歳で没した。

 友人の劉禹錫が老母があるにもかかわらず自分より遠い播州へ左遷されたのを憐れんで任地

 の交換を願い出た逸話は、彼の友情の厚さを示すものとして知られる。

 彼は文学的生涯のほとんどを永州、柳州の辺境で送ったが、自己の心情を詠った望郷詩や

 自然を題材にした山水詩で独自の存在感を示した。

 韓愈と共に古文復興を唱え、散文でも多数の優れた作品を残している。

 紀行文、山水遊記「永州八記」等は特に有名で唐宋八大家の一人に数えられる。

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内に示す(沈受宏)
 

 【題意】

 作者が妻に対して語ったもの。旅先から贈ったものといわれる。

 【詩意】

 貧乏で年を越せないと嘆くでないぞ

 今までだって何回も北風の寒さを凌いできたではないか

 年が明けたら、うららかな陽の中で、座敷の前の桃や柳が花を咲かせ、芽を吹かせる

 また巡って来る春は、お前の眼を楽しませてくれるだろう

 【鑑賞】

 手紙を読んだ妻の反応がなんとなく心配になる。

 沈先生も手紙ということで気楽なことが言えたのでは、などとつい勘ぐってしまう。

 それは経済至上の時代に生きる現代人特有の感覚なのだろうか。

 悲しいかな慌ただしい現世に知らぬ間に染まっているのであろう。

 王士Hの「冶春絶句」や袁枚の「春日雑詩」等をみると、この時代の美しい春に思いを

 馳せることが出来る。春霞、紅い花、飴売りの声…。

 時が穏やかに流れ、人々が自然と共に健やかに生きた時代、風流人の妻は手紙を読んで

 きっとにっこりと微笑んだに違いない。

 沈 受 宏(しんじゅこう)  

 清代初期の詩人。字は台臣。

 清朝の全盛期である第4代皇帝・康熙帝の治世(1661〜1722)の頃、活躍したらしい。

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新正口号(武田信玄)
 

 【題意】

 新年にあたり、心に浮かぶまま詩を口ずさむ。

 【詩意】

 新年のめでたい空気が未だ漂っているが春は遅い

 霜や雪に苦しめられ、詩を詠む気にもならない

 とはいえ、このような無風流な気持ちを春風に笑われるのも恥ずかしいので

 陸凱の江南一枝の梅にならい詩を詠んでみよう

 【語釈】

 淑気=新春、四辺に満ちているめでたい気。  吟断=吟じよう。

 江南梅一枝=江南に住む陸凱が 「江南には何も無いので、春でも送ろう」という詩を添え、

 北の長安にいる友人の范曄(はんよう)へ一枝の梅を届けた故事による。

 武田信玄(たけだしんげん)  

 1521〜1573年。戦国時代の武将、甲斐国(山梨県)の守護大名。名は晴信、信玄は法名。

 21歳の時、父・信虎を隠居させ、家督を継承。直後から信濃へ侵攻を開始し、諏訪・小笠原・

 村上氏等を制圧して一円を手中に収めた。敗走した武将の一部は越後の上杉謙信に救援を

 求め、以後信玄と謙信は好敵手として川中島の合戦等で度々対峙する事になる。

 晩年、激しい戦いを繰り返した北条氏と和睦がなると、織田信長と対立していた武将や石山

 本願寺と結び、将軍・足利義昭の要請を受け入れて、遂に1572年10月、信長を討つべく

 上洛の途についた。

 その年の暮れには三方ヶ原の戦いで徳川家康軍と織田の応援部隊を完膚なきまでに撃破。

 まさに火の如き勢いであったが、病の悪化によりやむなく領内へ引き上げることとなり、その

 途中伊那駒場にて歿した。53歳であった。もうあと数年信玄が生き長らえていたら戦国後の

 勢力図は大きく違っていたかもしれぬとは後世盛んに述べられるところである。

 信玄は法や交通の整備、信玄堤で知られる治水事業等、領国経営にも優れた手腕を発揮

 した。学問への造詣も深く、風林火山の旗を書したと云われる快川紹喜(かいせんしょうき)

 等の高僧を招き禅学を修めた。

 詩文や和歌の才にも秀でており当時の武将中随一との声もある。

 その詩作は17首が今日に伝わるという。

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香炉峰下の山居(白居易)
 

 【題意】

 原題は、「香炉峰下新たに山居を卜し草堂初めて成り偶々東壁に題す」

 香炉峰の麓に新しく草堂が完成したばかりの時に、気の向くまま東側の壁に書きつけた。

 【参考】

 44歳の時、江州(江西省九江市)に左遷され、その3年目に廬山に草堂を開いた。

 【詩意】

 お日様も高く上って寝足りないわけでもないのだけど、なんとなく起きるのがめんどくさい。

 小さな家といっても、掛け布団を沢山重ねているので寒さは感じない。

 腹這いになって枕を支えにして、遺愛寺の鐘の音を聴き、

 簾を少し持ち上げてみて、香炉峰の雪を見る。

 ここ廬山は、鬱陶しい俗世間から逃れるのに絶好の場所だ。

 それに司馬という閑職は老後を送るのにもってこいのもの。

 心安らかで、体も健康で過ごせる地が、本来住むべき場所なのだろうなぁ。

 長安の都だけが、自分の帰る場所ということがあろうか。

 【語釈】

 匡廬=廬山の別名。

 司馬=元々、軍事を司った役職だったが、白居易の時代は主に左遷されたり、退職前の

 者等が就く、名ばかりの閑職だった。

 【鑑賞】

 北風冷たい冬の日に暖かな布団の中。前半の首聯、頷聯は、誰もが経験ある共感できる

 詩ではないだろうか。胸中の穏やかなことを万人に分かりやすく表現しているように思える。

 白居易の詩の人気のある所以でもある。

 この頃、彼の詩風、政治姿勢が大きく変化したといわれる。

 白 居 易(はくきょい)  

 772〜846年。中唐の官僚、詩人。字は楽天。香山居士と号した。

 代々地方官の家柄で新興士族階級の出身。父の季庚(きこう)も県令や州の次長を歴任した。

 楽天は早熟の天才と評されるが、青年期は貧困の中で苦労を重ね勉学に励んだという。

 その頃の事は後に「二十より以来、昼は賦を課し、夜は書を課し、間に又詩を課して、寝息に

 遑(いとま)あらず」と述懐している。

 16歳で長安に出た白居易は、当時の文壇の領袖、顧況(こきょう)に面会を求めた。

 顧況は白居易の名を見て、「都は『居』し『易』くはないぞ」と、からかったが、持参した詩を

 読むと、「こんなに素晴らしい詩が出来るのなら、都で暮らすのも難しくない」と前言を撤回

 したという。

 800年に終生の友、元Cと共に進士に合格。上級試験にも次々に合格し、エリート官僚の

 道を進んだ。40歳半ばで江州に左遷される挫折も味わったが、後に再び都へ召還され、

 最期は大臣クラスにまで昇った。晩年は詩と酒と琴を友とし、詩壇の大御所として君臨した。

 

 杜甫の社会批判の精神を継承し、元Cと新楽府運動を展開、諷諭詩「新楽府」等、社会の矛

 盾や不正を糾弾した諷喩詩を数多く発表。玄宗皇帝と楊貴妃の故事を詠った「長恨歌」等

 多くの作品が幅広い読者層に受け入れられた。

 白居易の詩は、異例ともいえる速さで日本へも伝来。当時の平安朝では彼の存命中から

 絶大な人気を博した。「遺愛寺の鐘…」「香炉峰の雪…」の一節は、我が国でも清少納言が

 枕草子の中で引用し特に有名。詩文集の「白氏文集」は日本の文学に大きな影響を与えた。

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親鸞上人雪中布教の図に題す
 

 【題意】

 親鸞聖人雪中布教の図に感あり賦す。

 親鸞聖人一行が布教の旅の途中、雪の中で一夜の宿を請うが、家主である日野左衛門

 は応じなかった。周囲に家も無く、親鸞はやむなく軒先の石を枕に身体を休める。

 その夜、日野左衛門は夢枕に立った観音様に戒められ改心、一行を屋敷に招き入れた。

 後に熱心な信者となった日野左衛門は親鸞聖人から法名を授かり、この地に枕石寺を

 建立した。

 詩には北越とあるが、枕石寺は常陸(今の茨城県)にある。

 【詩意】

 北国越後の冷たい北風が吹く夜半

 門前で過ごした心のうちはどのようなものであったか

 墨染の衣には人々を救う熱い願いがこもり

 珠数が鳴り 念仏が響く

 当時の石枕は今なおその地にあり

 南無阿弥陀仏の六文字の教えは永く敬仰され続けている

 【語釈】

 四更=一夜を五等分した四番目。丑の刻。午前二時頃。

 琅琅=金属や玉石がふれあって鳴るさま。

 【親鸞】

 1173〜1262年。鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。

 比叡山で天台宗を学び、29歳で法然に師事。

 1207年、師である法然へ念仏停止の命が下り、親鸞は越後に流罪となるが、

 以後も法然の教えを継承、その思想を更に徹底させ、「他力による極楽往生」を説き、

 悪人こそまさしく阿弥陀仏の本願に救われる対象であるとする「悪人正機」を唱えた。

 松口月城(まつぐちげつじょう)  

 作者略歴については、栞/熊本漢詩紀行一に詳述。

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