The Final Tribute : Day 2

2002年10月20日(日)

スキナードのライブの興奮から一夜明けた朝。天気は快晴。今日はThe Final Tributeの二日目のイベントは、ジャクソンビルにあるスキナードの名所、旧跡を訪れるというバス・ツアーだった。

The Final Tribute

10月20日

昨日の就寝が遅かったにもかかわらず、私は8:00に目がさめた。前日の夜に買っておいたサンドイッチを食べたあと、私は9:30にモーテルを出てしばらく散歩することにした。集合場所はモーテルの駐車場、集合時間が10:30であった。モーテルの駐車場に出ると、スタッフと思しき男性が、近くのスーパーの方角を指差し、私に何かを言っている。指差す方向を見るとそこには3台の黄色のスクール・バスが停まっていた。そう、集合場所はあそこなので、あちらに行けと言うことだ。

私はバスに近づいたが、時間が早かったこともあり、そこにいた参加者はわずかだった。しばらく時間が経つとバラバラと人が集まってきた。そこに、髭面の男性が近寄ってきて私に早口で話し掛けてきた。私は彼が「おまえは今日帰るのか?」と聞かれたような気がして「NO」と答えた。あとでわかったことだが、この髭面の男性は、ダラスと名乗るストリート・サバイバーのボーカルで、私に話したのは「今日、お前が帰らないなら、今夜、この近くでトリビュート・バンドが演奏する集まりがあるから来ないか?」という意味だった。


バスは11:00過ぎに駐車場を出発した。私の乗ったバスが1号車で、バスガイドは前出のオドム氏だった。3台用意されていたバスは2台になっていた。私の乗っていたバスには25名ほどが乗っていたが、2台で合計40名程度だったように思う。The Final Tributeは、昨日のイベントとこのバスツアーがセットになっており、昨日のイベントの状況で危惧したとおり、参加募集人数の400名はとても集まらなかったようだ。ただ、このイベントに参加した人が少なかっただけで、昨日のライブでのスキナード・ファンの多さからして、スキナードの人気は、まだまだ衰えていない。

バスは、まず国道17号線を南下した。20分も走っただろうか、バスは17号線から左に折れ、しばらくして突然Uターンをして停まった。乗客が降りだし、我々日本人5人も続いてバスを降りた。全員がバスを降りたところでオドム氏が、交差点にあった3mぐらいの高さのある表示ポールを指差し説明を始めた。その表示ポールに記されていた文字は「Brick Yard」。Brick Yardという名称は、ジョニ−・ヴァン・ザントがソロ活動の時に発表したアルバム・タイトルに使われている。このBrick Yardが、スキナードに関係したどのような意味があるのかわからなかった。

みんなが表示ポールのまわりで、写真撮影などをしていると、ひとりの女性が道端の土を掘り起こし始めた。何人かがその光景を眺めていると、その女性は、石のようなものを掘り起こしていた。そう、それはBrick=「レンガ」だった。その女性は懸命にそのレンガを掘り起こす作業を続け、レンガが欠けると、その砕けたレンガの小片を眺めている人に分け与えた。レンガは掘り起こされるのに抵抗していたが、ついに巨躯の女性の力に負け、掘り起こされた。女性はレンガを片手に抱え、歓喜の雄叫びをあげた。この場所が、レンガの敷かれた道の跡だったのか、それとも他になにか意味があるのか、わからずじまいだった。

再び一行はバスに乗り込み出発した。バスが動き出すと同時にオドム氏がバスの後部に置いてあった段ボール箱からビデオテープを一本取り出し、説明を始めた。説明の内容が良くわからなかったが、自分のビデオを$20で売るという。我々はこの場にそのテープのストックがあるとは知らず、「そのテープはダビングして日本に送ってくれるのか?」と聞いたところ、段ボール箱から何本ものビデオテープが現れた。ビデオの内容がわからぬまま、バスの乗客のほとんどがこのビデオテープを購入した。日本に帰国しこのテープを見たが、なんと前半はスキナードに関係のない昔のレースの話をオドム氏が解説しているだけだった。昨日の本の一件にせよ、このビデオテープにせよ、オドム氏は商売人である。

バスはもと来た道を戻り、再び国道17号線に入ると北上した。途中、ロニー、スティーブ、キャシーのお墓のあるジャクソンビル・メモリアル・パークを通過した。一昨年、お墓が荒らされ遺体を移したからか、それともバスを停車させる駐車場がないからか不明だが、簡単な解説があっただけでバスはメモリアル・パークを通過してしまった。メモリアル・パークについては、「Ronni Van Zant Memorial」の項でレポートする。

バスはモーテル前を通過し、ジャクソンビルの中心街方向へ向かった。しばらくしてバスは17号線を左に折れ、数分走った後、細い道を右折し住宅街に入った。この場所は中流家庭の住宅街といった感じで、ジャクソンビルの中心から南西の方向となる。オドム氏の説明が始まり、まず最初に現れたのはアレンの住んでいた家だった。ごく普通の平屋だった。住宅街であるためバスはアレンの家をゆっくりと通り過ぎた。それにしても、スクールバス2台に乗った大人達が、バスの窓を開け、身を乗り出して写真を撮っている姿は異様であったろう。道端にいたおばさんが、バスの乗客に手を振っていたが、その他の近所の人々は怪訝そうな顔で我々を眺めていた。






バスは更に住宅街を走り、木の茂った場所で停車した。バスのドアが開き、乗客が降り始め、そのまま大きな木の下に集まった。オドム氏が説明を始めたが、我々一行は話が聞き取れない。ただ、「That Smell」という言葉が耳に残った。オドムの説明が終わると、一行は木をバックに記念撮影を始め、数人がその木のく皮を剥ぎ始めた。レンガを掘り起こしたり、木の皮を剥ぎだしたり、本当に変なバスツアーである。さきほど、レンガを掘り出した女性にこの木のことを聞いてみると、やはり、「That Smell」の歌詞に出てくる木であるという。That Smellの一番目の歌詞に「Whiskey bottles, and brand new cars Oak tree you're in my way」というくだりがあり、このOak treeが、この木だということである。それにしても、コアな人たちである。

再びバスに乗り込み、バスは住宅街を走り続けた。まずスキナードのデビュー時のドラマー、ボブ・バーンズが住んでいた家うを通過した。次にスキナードの・ナンバーである"Ballad of Curtis Loew"で歌われ、ロニーらがコーラなどを買っていた「Woodcrest Store」という店の前で停車した。この店はすでに潰れており、売りに出されていた。乗客が写真撮影を終えて、また走り出したバスはロニーの住んでいた家を通過。この家には、今もロニーの父、レイシー・ヴァン・ザントが住んでいるそうである。そしてロニーたちが遊んでいた広場、アレンの住んでいた家(その2)、最後にゲイリーの住んでいた家を通過した。

ボブ・バーンズの住んでいた家
WOODCREST
ロニーの住んでいた家
ロニーたちが遊んでいた広場
アレンの住んでいた家(その2)
ゲイリーの住んでいた家

この時点で、時間は12:30を回っていた。このまま昼食はないのかと思っていた矢先に、バスはコンビニの駐車場に停車した。みんな、思い思いにコンビニでスナックや飲み物を買い、用を済ませ、バスは13:20にコンビニを出発した。

バスは高速道路に乗り、間もなくインターチェンジを降りた。しばらく遮断機が降りた踏切で停まり、電車が通過するのを待った。通過した電車は貨物列車で、車両の数を数えていなかったが、その貨物列車が通過するのに、ゆうに5分以上かかるほど引かれている車両が多いのに驚いた。ようやく遮断機が上がって走り出し、右側に見えてきたのは、ロニーらが通っていた高校「Lee High School」であった。バスが停車し乗客はが全員降りて、写真撮影が始まった。私も写真撮影をし、乗客のオーランドから来たご夫婦と世間話をしていると、乗客がひとつの場所に固まっている。何事かと近づいてみると、なんと人垣の中心にいたのは、Lynyrd Skynyrdのバンド名の由来となった、元体育コーチ「Leonard Skinner」氏、その人であった。スキナー氏は、わざわざバスの到着に合わせ、ここで待っていてくれたらしい。みんな、スキナー氏と写真撮影し、サインをもらっていた。私もスキナー氏に挨拶し、握手を求め、快くサインしていただいた。私のカメラにはスキナー氏と撮った写真が無くお見せできなくて申し訳ない。



バスはこの場所にしばらく停車し、スキナー氏が帰られたところで、乗客を乗せ動き出した。ロニーらが野球をしていたという小さなグランドを通過し、次に訪れたのは墓地であった。アメリカの墓地を見ると思うのだが、アメリカの墓地は日本の墓地のように陰気な感じがしない。それは墓石と線香のせいであろうか。この墓地も公園のような感じで、お墓のそれぞれに、きれいな花がたむけられていた。








まず、最初に一行が足を停めたのは、ロニーの母、マリオンさんのお墓の前だった。墓石には右側にマリオンさんの名前と生年月日、死亡年月日が彫られており、左側にはロニーの父、レイシー氏の名前と生年月日が彫られていた。オドム氏の説明が終り、次に足を停めたのはマリオンさんのお墓から道を隔てたところにあるWILKESONと名のある墓だった。ただし、この墓にはレオンの名がなく、生年月日が1921年1月30日であることから、レオンの母のお墓ではないかと思われる。

バスは墓地を離れ、それほど走らないうちに、再度、違う墓地で停車した。この墓地に埋葬されていたのはアレンだった。この墓地も先ほど訪れた墓地と同様に公園のような墓地で、アレンは奥さんと一緒に埋葬されていた。乗客の何人かは、アレンのお墓の上にギターのピックを置いていった。アレンのお墓を見て思ったのだが、ロニー、スティーブ、キャシーのお墓に比べて、アレンのお墓がとても質素であるのが気にかかった。

ロニーの母、マリオンさんのお墓
レオンの母のお墓
アレンのお墓

バス・ツアーで最後に訪れたのは、スキナード・ナンバーでも人気の高いGimme Three Stepsの舞台になった酒場"The Pastime"だった。ギミー・スリー・ステップスの歌詞は「女の子と酒場にいたら、男が店に入ってきて“その女は俺の女だ。”といって銃を向けられ、店を逃げ出す」という歌詞で、その店がこのパスタイムとのことである。この逃げ出した男は、アレンとのことである。

パスタイムは一見、閉まっているように見えたが、乗客は次々と店に入っていった。私もみんなの後について店に入ると、何人かの客がビールを飲んでいた。あっという間に狭い店内は、バスの乗客で満員となった。乗客はビールを注文し(この小ビンのビールは実に$1だった)、談笑していると、ギミー・スリー・ステップスが流れ出した。ギミー・スリー・ステップスの舞台となった店で、その曲を聴けるというのは不思議な感じがした。みんながギミー・スリーを歌いだし、大合唱になった。この時、私はバンドでボーカルを担当していたことに非常に感謝した。かかっていたのはスタジオ録音のバージョンだったが、それが終わるとすぐに"One More From The Road"のライブ・バージョンがかけられた。またまた、大合唱。私はこの最後のパスタイムで、スキナード・ファンとして一体感を肌で感じることができた。

バスはほろ酔い気分の乗客を乗せて動き出した。バスの中ではオドム氏が最後の挨拶を終え、乗客の拍手と共に今日のバスツアーを終了した。そして、バスは出発地点のマーケットの駐車場に戻り17:00頃に解散となった。

私はロニー、ボブ、アレン、ゲイリーの住んでいた家や、ロニーやアレンが行っていた店、歌詞に歌われている店など、ここでの過去の出来事を見聞きしたことで、スキナードを耳で聴くのではなく、肌で感じることができた。

さて、この後、The Final Tributeの最後のイベントとして、19:00からパーティーが開かれた。この店の名前を失念してしまったが、モーテルから国道17号線に入り、南に下って二つめの信号を右折したところにある店である。入場料$10を支払い、手に入場スタンプを押してもらい、店内に入った。

店内は非常に広く、20人程度が座れる楕円形のカウンターが二つに4人がけのテーブルが10ほどある。一番、奥にステージが設けられており、ドラムの後ろに"Street Surviver"の垂れ幕、ステージ下に"Dilla Blues Band"の垂れ幕が掛かっていた。また、テーブルのひとつでは、"Street Surviver"のCDを販売していた。(私もCDを購入した。)

演奏が始まる前、ストリート・サバイバーのボーカルであるダラスやドラムのティー・レックスやディラ・ブルース・バンドのボーカル兼ギターと、片言の英語で話をした。彼らは非常に気さくで、私たちのことをとても気遣ってくれていた。ダラスに「今日は何曲を演奏するのか?」と聞くと、「それは内緒だ」と言われた。「Simple Man」は演奏するのかと問うと、「Yes」という答えが返ってきた。

演奏は21:00頃から始まり、サザン・ロック系のバンドUniversal Slim、Dilla Blues andtと続き、最後にスキナードのトリビュートバンド"Street Surviver"の演奏が23:00頃始まった。演奏が始まると同時にステージ前に観客が集まり踊り始めた。私たちも演奏半ばで、観客の一人から促されて、その集団に混ざった。ストリート・サバイバーはボーカル、ギター二本、キーボード、ベース、ドラムの6人編成で、音としてはオリジナル・スキナードよりも、1991年以降の新生スキナードに近い。スキナード・ナンバーの代表曲をあらかた演奏し、夜中の25:00、最後の曲、FreebirdでThe Final Tributeの幕を閉じた。