<御詠歌>
大慈大悲のめぐみもふかき水口の
山ばに響くじんじょうの声
ここには初め、
元空寺・
雲洞院の2寺院があった。元空寺は浄土宗、雲洞院は禅宗曹洞派であったといわれる。
元空寺は向関村領主であった宮崎氏の初代
半兵衛泰重の妻(
元空院殿晴誉妙寿大姉)菩提のために建立された。初代半兵衛は府中知行中に亡くなっており、当地を支配したのは2代目半兵衛からである。
半兵衛重次は浄土宗の信者であり、雲洞院へ元空寺を併合して
浄土宗雲洞院とした。
開山の受頓和尚が書き残した文書によると、
元和2年(1616)頃に三河国津具村法前寺から雲洞院に入ったようである。
雲洞院の時代に、宮崎氏は大旦那として
3石の寺領(除地)を寄進した。宗円寺と名を変えたのは貞享3年(1686)で、半兵衛重次の法名を寺号とした。
ところが、宝永4年(1707)に宮崎氏は
当主助作の乱心という名目で改易になり、当寺は地元檀家90軒が護持するようになった。宮崎氏の墓所は本堂裏山にあり、代々の
五輪塔が在地旗本の権勢を偲ばせる。
領主の五輪 苔むし並ぶ宗円寺
(阿智村かるた)
その後、享保11年(1726)に
小野川村80戸余が宗円寺に寺替えし、檀家は倍増した。
本尊は
阿弥陀如来であるが、別に
薬師如来像1体が厨子の中に安置されている。これは近くにあった薬師堂(射矢堂?)の本尊である。また、札所となっているのは
如意輪観音であると『
下伊奈案内道中記』に記されている。
宗円寺は、伊那秩父
第一番の発願寺であり、第7世
縦誉見鉄和尚の時代に札所の設定を行ったと見られる。
見鉄和尚は小野川80戸の寺替えでも登場するが、相当の才智徳行の僧だったようで、中興とされている。
しかし、地元の向関村だけで5カ所も札所設定したのは無理があり、薬師堂を
射矢堂、天満宮を
松栄堂と、観音堂でないものも便宜的に札所に加えたようだ。
伊那秩父の札所は伊那西国や伊那坂東より遅れて設定され、有力な寺院や堂庵が残り少なくなっていた事、向関村にはそれまで札所の設定が一つもなかった事が、原因とも考えられる。
→(参考) 『阿智村誌』 下巻
p.758,784