向関村最後の殿様
 伍和の向関村は、江戸時代初頭の慶長6年(1601)から宝永4年(1707)にわたる約百年間、宮崎氏の領地でした。(古料は正保3年(1646)までの45年間) この断簡(手紙の切れはし)は向関村を知行した旗本宮崎氏の最後の領主助作泰之の署名と花押のある手紙で、江戸から国元を預る地方役の平野惣左衛門に宛てたものです。(平野千秋氏蔵)
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 助作は向関で生まれ、父の死によって4歳で家を継ぎましたが、4歳といえばまだ母の乳をくわえていたに相違ない、いたいけな領主でした。しかも父や祖父の時代に上納した榑木が粗悪であったということで、12歳の時に幕府から七百両近い莫大な追徴金の上納を命ぜられたのです。領主は幼少、領地は小さな山村、この滞納金は十年後もまだ四百両が残っていたという別の史料があります。このままでは租税滞納でお家断絶にもなりかねないので、江戸にいる親戚の役人衆に頼んで、元禄12年小普請という役につき、2年後には大番という役に異動しました。時に30歳。

 助作にはひとつ気にかかることがありました。それは、祖父が33歳で亡くなり、父もまた33歳で死んでいることで、すでに助作にもその不吉な年令が迫っていました。助作32歳の元禄16年6月28日、子の刻から丑の刻という真夜中に不思議な夢を見ました。三つの頭をもつ蛇が現れた。どの頭にも二本の角があり、全長四尺余、太さ八九寸廻り、とぐろを巻いていたのが首を立てて向かって来たので捕えた。殺そうと思ったところへ、傍の人が「殺すべからず」と言った。伝え聞くに両頭の蛇を見るのは不吉だというが、傍の人が殺すなというので放してやったところ、再びとびかかろうとしたので剣を抜いて守った。敢て切らなかったが、蛇は左へ廻っていきなり左脇乳下より背方に喰いついた。非常に痛かったので夢がさめた。その時、丑の刻の鐘が鳴った。(助作自筆の夢之記を宗円寺の林誉和尚が写したという文書から)助作は、自分の運命的な寿命と、若年から負わせられた莫大な滞納金と、手厳しい大名旗本取りつぶしの幕府施策の前におびえていたと思われます。

 宝永2年、34歳で職を辞し、懊悩の救いを求めて仏道に志し鮫橋(江戸原宿の近くか)の元宗寺に参籠しました。幕府はこれを、「その所業、ひとえに狂気のいたすところなり」と断定して、領地を没収して向関宮崎家をとりつぶしましたが、助作一代の食い扶持は給与しました。助作は5年後の正徳2年(1712)江戸で亡くなりました。この手紙の内容は分からないが、末尾が奈良大仏勧進金と読めます。仏道に救われたい苦悩がにじんだ断簡です。  (S56・9)