小野川村八十戸の寺がえ
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜
この事件がもちあがったのは、享保11年(1726)7月のことです。伍和宗円寺の「雲洞旧記集」には、次の証文が記録されています。
一 札(読み下し文)
一 当村次兵衛親、相果て(1) 候え共、浄久寺と以来出入り(2) に付き、
浄久寺頼み申す儀相成らず候ゆえ、御大儀ながら御出で引導焼香なされ下さるべく候。
もっとも先祖菩提寺(3) の儀に御座候えば申し進め候。
若し浄久寺より御察当(4) も御座候わば、拙者共まかり出で何分にも申分け仕り、
貴寺へ少しも御苦労懸け申すまじく、よって一札くだんの如し。
小野川村名主 新之丞 印
同 断 組頭 権之丞 印
同 断 五平次 印
惣百姓惣代 孫
平 印
同 断 市兵衛 印
享保十一年午七月
向関村
宗円寺和尚様
【用語の注】 (1)相果て=死亡した (2)出入り=もめごと、争い
(3)先祖菩提寺=先祖が檀家であった寺 (4)御察当=非難、抗議
この証文の意味は「小野川村の次兵衛の親が死亡したが、浄久寺(菩提寺)とはこのところ争いごとがあって葬式を頼むことができません。大儀(ご苦労さま)ながら、おいで下さって引導・焼香をお願いします。これは先祖が宗円寺の檀家でしたからお願いするわけです。もし浄久寺より抗議を申し込まれるようなことがありましたら、私共が参って申し開きをいたしますので、貴寺(宗円寺)へは少しも御迷惑をおかけしません。そのために、この証文をさし上げます。」といった内容です。
この証文を書いたのは、小野川村名主の新之丞となっています。別項「小野川村小松氏の氏神」の中に出てくる新之丞と同名ですが、年代的に八十年ほどの差がありますので、同じ家の人と思われますが、今回の「名主新之丞」はその祖父ぐらいになるのではないかと推量されます。
この葬式は、やはりそのままでは済みませんでした。浄久寺から飯田の四か寺へ宛てた次の文書が、前の証文に続いて記されています。
書 状(表題なし)
宗円寺へ四ヶ寺(1)御相談の上、相尋ね申すべき品御座候。
各触下(2)の事にこれ有り候えば御月番(3)の衆中、この地へ御出なされ、
宗円寺愚寺へ相招き申し候上の義に仕まつるべく候哉、
愚寺その元へ罷り越し申すべく候哉、罷り越し候て然るべく思しめし候はば、
日を定め仰せ下さるべく候。
もちろん宗円寺も召し寄らされ御尤もの御事と大切なる御事に候条、
御了簡の上、委細御報仰せ聞かさるべく候。以上
浄 久 寺
来 迎 寺
柏 心 寺
峯 高 寺
西 教 寺
【用語の注】
(1)四か寺=飯田の触れ頭の四か寺 (2)触下=宗円寺は四か寺の触下であった
(3)御月番=四か寺が毎月交替で触頭をつとめた。
ここでは月番の一か寺をさすのではなく、四か寺のことをいうらしい。
この書翰に対し、四ケ寺の返事が続いています。
(四か寺の返事)
御口上書被見せしめ候。然らば宗円寺義に対面の方へ御相談なされたき旨、
御申し越され候。しかれども去々年(一昨年)本山において分勤仰せ付けられ候節、
四ケ寺より用捨の品これあり候条、帰国次第右謝礼として急度相回わし候処に、
柏心寺対座にて仰せ渡され候所、今もってその儀なく候。
然る上は御対面致す可き訳これなく候。自今さように御心得なさるべく候。 以 上
八月二日 四 ケ 寺
浄 久 寺
この2通の書状は、浄久寺から飯田の触頭の四か寺へ、具体的な内容は書いてありませんが、宗円寺への尋問を依頼し、それには四か寺(又はその代表)がこちらへ来てくれるのか、又はこちらから出向くべきか、「大切なる御事」であるから、御了簡(思案)の上御返事いただきたい、と申し入れたのに対し、四か寺からは、一昨年本山分勤を仰せつかった時、四か寺より「用捨の品」があった。「分勤」の意味がよく分りませんが、「用捨の品」といってもこれは品物ではなく、四か寺が「許した、譲歩した」と解されます。それに対して謝礼をするようにと言ったにもかかわらず「今もって其の儀なく」何の沙汰もしない。これでは対面もできないから、「左様に心得なさい」と、ことわられてしまったわけです。これは、浄久寺に対するもので、「礼に来ないから、頼みも聞いてやれない」と、ずい分はっきりした返事のように思われます。
このように、宗円寺対浄久寺の出入は、一向に進展しないまま新しい年(享保12年=1727)を迎えます。当時は毎年3月に檀家の住民を詳しく書き上げて、寺はその中にキリシタンの信者のいないことを証明し、支配役所に提出する「宗門改め」がありましたから、小野川村の宗門改めをどちらの寺でするか、はっきりさせなくてはなりません。後に紹介する文書の中に、享保10年の8月小野川村80余軒が宗円寺へ寺がえしたいと総本山知恩院へ願い出たことが記されていますので、総本山でも宗門改めの前にその決定をしなければならなかったわけです。次に記されているのは、知恩院の役者(それぞれの事務を扱う寺)から、新年度の宗門改めについての指令書です。
(書 状)
其の地、小野川村百姓共、此の度上京申出候は、
駒場村浄久寺と出入未落着の所に、近々宗旨御改めの節にまかりなり、
判形相滞りて候ては難儀の由、書付をもって願い出で候。
もっとも先だって申し達し候通り、右出入りのうちは宗円寺より檀用相勤むべきの旨、
申し渡し置き候事に候えば、宗旨判形の儀も宗円寺相調え候様に申し達し候。
已 上
享保十二未ノ閏正月十九日
本山役者
源 光 院 印
法 然 寺 印
来峯柏西 連号
追啓 宗円寺御受判御納め候ように
御代官大草太郎左衛門殿へも書状をもって申し入れ候。
以 上
これは、総本山知恩院の事務を扱う寺から、宗円寺へ宛てた書状ですが、いったんは触れ頭である飯田の四か寺へ通達し、四か寺は月番の寺から宗円寺へ送達したものです。「来峯柏西連号」は四か寺の最初の一字を書いたもので、本書にはこのような略記ではなく、四か寺が併記されていたものと思われます。追啓の大草太郎左衛門は飯島代官所の代官で、当時駒場・向関・小野川等天領各村の支配役人です。
同年七月、また本山役者から四か寺に宛てて次の書状が来ています。
(書 状)
相尋ねる義これあり候間、向関村宗円寺、この書付参り次第
早速上京候よう相達せらるべく候。
且又小野川村治兵衛父相果て候節、宗円寺へ指し出し候証文連判の者、
並びに治兵衛へも相尋ねる義これあり候間、宗円寺上京の砌、
遅滞なく同道致し参り候ように各より申し達せらるべく候。 以上
(月日・寺名省略)
追而、宗円寺へ証文指し出し候連判の者、残らず参られ候には及ばず候。
弐人ほど参り候様に相達せらるべく候。 以上
事件発生から1年過ぎた享保12年(1727)7月、このような呼び出し状が飯田四か寺へ届きました。四か寺では更に次の書状を添えて、宗円寺へ通達しました。
(書 状)
本山より御用の儀申し来り候間、小野川村治兵衛父相果て候節、
取り置かれ候証文御持参なさるべく候。
これ又連判の衆中一両人並びに治兵衛同道にて
明日来迎寺まで御出でなさるべく候。 以 上
七月十八日
峯 高 寺 印
西 教 寺 印
来 迎 寺 印
柏 心 寺 印
向関村 宗円寺
本山からの呼び出しにより、宗円寺住職はじめ四人の者が京都へ出かけましたが、この時は「本山御遷化」という思わぬ事態のため、裁定に至らず帰村しています。
「雲洞旧記集」の編者は、この文書につづきに次のように添書きしています。
小野川村治兵衛養子善次郎、名代市之丞、向関にては此の年は郷蔵、都合縦誉と
四人にて上京致され候処に、御本山御遷化にて縦誉は空しく帰寺、
それゆえ仰渡しの事なし。(名代は名主名代のことかもしれない)
御本山御遷化といっても、知恩院のような大きな寺院のどの和尚さんが亡くなられたのかわかりませんが、宗円寺住職の縦誉和尚は帰村したものの、市之丞ほかは残って嘆願書のような書類を提出してきたものと思われます。同じ7月の日付で次のような裁決の文書が収録されています。
申 渡(本書には標題なし)
信州駒場村 浄久寺へ申し渡す。その方旦那(1) の内、
小野川村八十余人の者、向関村宗円寺旦那に相成りたき旨、
去る午の年八月願い出候。
それにつき吟味相済むまで、宗円寺方へ引導仏事頼み度く願い出候。
これにより右願いの通り、当分宗円寺相務め候様に飯田御門中まで申し渡し候。
今度右小野川村旦那之内、名主新之丞、組頭五平次、百姓惣代四郎右衛門
まかり出で候につき、吟味せしめ候所、所詮その方へ帰依(2) 仕らざるの間、
たって申し、然る上は僧侶方より相争わずの儀は3御条目に顕然に候。
右の旨相心得、相対次第に仕るべきものなり。
未ノ七月(未は享保十二年)
【用語の注】 (1) 旦那=檀家のこと、宗門改帳には女性でも「旦那」と書かれています
(2) 帰依=宗教的に心服すること (3) 御条目=ここでは浄土宗の規則、法度
この文書は知恩院から浄久寺にあてたものですが、小野川村の住民にも「申渡」があり、続いて収録されています。
申 渡
信州小野川村名主 新之丞
同 組頭 五平次
同 百姓惣 四郎右衛門
其の方事、古来駒場村浄久寺旦那たるの処、当住性誉へ帰依薄く候につき、
去る午ノ八月、向関村宗円寺旦那に相なりたき旨願い出で候。
尤も吟味相済み候まで、当分宗円寺方へ引導仏事相頼みたき旨願い出で候につき、
その意に任せ候。
然るところ、今度吟味を遂げしところ、畢竟浄久寺当住へ帰依つかまつらざるの旨申し、
然る上は宗円寺旦那に相成り候とも勝手次第に仕るべく候。
右の旨、その村の残りの者も承知仕るべきものなり。
未ノ七月
このように、まる1年が過ぎても裁決がなく、出入りは長引きましたが、暫定的にもせよ、小野川村の住民に有利な申し渡しがあり、3年目に入ることになります。申し渡しの中にもありますように、吟味(取り調べ)をしたけれども、小野川村の者たちは、浄久寺の性誉和尚に帰依する気持がないといっている。この上は、どちらの檀家になろうと勝手にしなさい。ときわめて民主的な裁定をしていることにびっくりさせられます。
井原一夫先生も浄久寺小史に書かれていますが、寺請制度が確立したと思われる時期に、しかも浄久寺は十五世性誉、宗円寺は七世縦誉、双方とも住僧のうちの傑僧であっただけに、これは大事件であったと思います。
小野川村八十余戸の寺がえ事件の経過を、宗円寺蔵の「雲洞旧記集」によって考察してきましたが、いよいよ裁決をするとの本山知恩院からの通達により、飯田の峰高・来迎・柏心の三ケ寺から、宗円寺に届いた飛脚便です。
(書 状)
わざわざ飛札(1) をもって啓上致し候。
先ずもって此の間は遠路御太儀、寛々御意を得候。
しからばその節は二十五六日時分に発足すべきように申し合わせ候所、
今もって何の御左右(2) もこれなく、心もとなく存じ奉り候。
何卒一日も早く御立ちなされ候てご尤もに存じ候。
この方よりは西教寺が登られるはずに御座候。諸事申し合わせなさるべく候。
夫に就き路用等(3) 之儀、四ケ寺登山の格(4) は
大師五百年忌(5) の時より相定め置き候。
西教寺儀道中籠にて登られ候間、左様御心得なさるべく候。
前度よりの入用の趣、別紙に書付け、これを進め候。
御賄(6) の儀は西教寺へ金子にてお渡しなされ候とも
又はお手前にてお賄い候共、御勝手次第になさるべく候。
右心得かくの如くに御座候。恐 惶 謹言
享保十三申ノ五月廿三日
峯来柏三寺
宗 円 寺
追啓 小野川の衆中御談合調いかね候わば彼の衆中をば捨て置かれ
御両寺(7) 先達て御登りなされ候て御尤もに存じ候。 以 上
【用語の注】 (1) 飛札=急ぎの手紙 (2) 御左右=たより、都合をしらせること
(3) 路用等=旅行費用等 (4) 登山の格=この場合は知恩院へ行くときのきまり
(5) 大師五百年忌=円光大師(法然上人)の五百年忌で正徳元年(1711)と推定
(6) 御賄いの儀=旅費その他経費の支払い (7) 御両寺=ここでは浄久寺と宗円寺
この文書の大要は、
「急ぎ申し上げます。先日は遠路を御苦労でした。お話は了解しました。その節25,6日頃出発するように申し合わせたのに、今もってお便りがなく気をもんでいます。どうか一日も早く出発されるように。こちらからは西教寺が参りますので打ち合わせして下さい。旅費等のことは大師五百年忌の時に四か寺できめた通りです。西教寺は道中籠で参りますから御承知下さい。前回よりの費用を別紙に記しました。経費については西教寺へ金子で渡されるか、ご自分で支払われるか、自由にして下さい。右、心得を述べました。」
「(追啓)小野川の衆(人々)の話し合いがつかないようなら、その衆は放任しておいて、浄久・宗円両寺だけ先に上京されるのがよいと思います。」
このように飯田の触頭である四寺は、本山からの出頭命令に対してぐずぐずしている宗円寺と小野川村関係者にいらいらしています。しかし、その経費等については、後日に問題がおきないように、はっきり申し渡しています。次は右の文中にありました、大師五百年忌ならびに浄久寺との出入に関する費用の書付です。
(勘定書)
一 金六両 路銀
右は大師(法然上人)五百年忌の節、門中の惣代として峯高寺上る。
両替え四貫百六十四文
一 金四両
右は浄久寺出入につき、四か寺名代として柏心寺上下路金、
並びに在京二十五日分の雑用、
これは大師五百年忌の節峯高寺上京の時分の割合をもってこの如し。
但し金子の増減は両替の過不及に依るなり。已後これに順(準)ず。
両替え四貫八百文
一 金三両
右は尊胤親王御頂度の節、来迎寺上京の序をもって相勤めにつき
路金一両減少致すものなり。
以下はこの勘定書とは別もので、多分宗円寺住職の書き込んだ覚えのように思われます。訓読を略しますが、上京のメモです。
享保十三申ノ年小野川新之丞、善次郎、縦誉と三人並西教寺上京
但シ六月朔日発足、十日京着、十一日御目見、十二十三御評定、十四日裁許、
見超僧正代、
次は長文になりますが、この事件について原告の立場にある浄久寺の訴状と、宗円寺の釈明書です。まず浄久寺の言い分からみることにします。
(浄久寺訴状)
恐れ乍ら口上書を以て願い申し候事 十二日に上る
信州伊奈郡大草太郎左衛門殿御支配所、向関村宗円寺法中の作法相背き
一向断りなく他寺の檀下(1) 猥に引導焼香仕り候。
非寺院の作法の事、愚寺方より段々相尋ね候えば非道なる挨拶(2) 仕り、
小野川村よりは連判証文取り置き候故作法に相背かずと申し一円承引仕らず候故、
宗門の御条目(3) 御掟書の表を以て段々申入れ候えども
右小野川村より証文連判取り置き候上は御条目御掟書にも相構わずと申し
無作法の事斗り仕り候故、去年六月登山(4) 仕り右御吟味願い申し候えば
召し寄せられ候えども先の御丈室様(5) 御遷化の刻、御吟味も御座なく候。
後代御入院の已後願い出で候様にと仰せ出られ候。
当春御出府遊ばされ候節、御宿坊迄願い出申し候え共、
京都へ罷り出候様にと仰せ聞かされ候故登山仕り候。
宣敷く御吟味成し下され後に猥りがましき儀御座無く
宗門の御条目通り急度相守り候様に仰せ付けられ候様に願い奉り候。 以上
享保十三年申五月
信州伊奈郡駒場村浄久寺 判
本山御役者中
【用語の注】
(1) 檀下=檀家の宛て字、寺の側からは「だんした」の意識があったのであろうか
(2) 非道の挨拶=道にはずれた応待のしかた
(3) 宗門の御条目=ここでは浄土宗寺院の規定、元和元年(1615)成立、浄久寺には
縦33p長さ6m92pという長大な浄土宗諸法度(天和三年=1683写)がある
(4) 登山=寺院へ参詣すること、本来は修行のため寺に入ること
(5) 先の御丈室様=丈室は一丈四方部屋のことであるが、知恩院には大方丈・小方丈が
あり、これに因んで知恩院の最上位の僧(法主)を御丈室様といったのであろう。
ここでは遷化(亡くなられた)された先代の法主のこと
通釈しますと、
「向関村の宗円寺が規定(法中の作法)に背いて、何の断りもなく他寺の檀下(家)を勝手に引導焼香しました。これは寺院としてあるまじきやり方で、当寺より何度も問いただしましたが道にはずれた応待ぶりで、小野川村から村役人連判の証文を受け取ってしたことだから作法には背いていないといって、一向に聞き入れません。こちらからは、宗門の御条目御掟書の項目をあげて申し入れましたが、小野川村からこのことについては一切迷惑をかけないという証文連判を取ってあるから、御条目等には抵触しないと無作法なことばかりいっています。去年六月本山へ参って取調べをお願いしましたが、先の御丈室様が亡くなられたときで、お取調べもなく、新しい法主様が決まってから願い出るように、とのお指示でした。今年の春、(法主か担当の僧か)江戸へ参られた節、その宿坊までお願いに参りましたが、この問題は京都の方へ願い出るようにとのことで、この度登山いたしました。よろしくお調べ下さって、今後規定をみだすことのないように、宗門の御条目通りに急度(きびしく)守るように言いつけて下さるようお願いいたします。」
文の始めの見出しの下に「十二日に上る」とありますのは、五月十二日に浄久寺を呼び寄せて訴状を提出させ、言い分を聞いたことを意味します。続いて翌十三日には宗円寺に出頭させて、次の釈明書につき事情聴取をしました。
恐れ乍ら口上書を以て申上げ奉り候事 十三日上る
一信州伊那郡駒場村浄久寺、拙僧寺法を相背き、
他寺の檀下(家)猥りに引導焼香仕り候様に申し上げられ候。
この儀は去る午七月二十二日小野川村治兵衛と申す者の親次左衛門相果て候に付き、
拙僧引導焼香致し呉れ候様に相頼み候間、
拙僧申し候は其の元には浄久寺旦那に御座候間、其の方より浄久寺へ断り申し、
又此の方よりも付け届け致し浄久寺返事次第に仕るべしと申し候えば、
名主組頭百姓惣代申し候は今月十日に浄久寺と手前村常念寺と出入出来仕るに付き、
小野川村の者共大門坂より上に一切上り申すまじく候。
縦え参り候ても対談罷りならずと急度申され候間、浄久寺相頼み申す事も罷りならず、
断りをも申し候わば温気の節死人差し置き彼是と申すべく候間、一入難儀至極仕り候。
御出家の御慈悲に御座候間この度の儀は御断わりなく引導焼香偏えに頼み入り候。
御断り引導焼香なされ候儀、
若し外より彼是申し候わば私共何方迄も罷り出で申し明け仕り、
少しも御難儀掛け申す間敷くと段々拠なく相頼み候間、
名主・組頭・百姓惣代の証文受取り引導焼香仕り候。
その節焼香仕舞直ちに小野川村衆中へ拙僧申し候は今度の儀は急なる儀、
達て拙僧相頼まれ候間拠なく致し申し候。重ねては承引致さず候。
又次左衛門位牌もこの方には立て申す事罷り成らず候。
若し今日の施物抔持参致され候ても曽て受納致さず候。
浄久寺と出入相済み申し候わば位牌施物浄久寺へ遣し候様にと申し候。
その後浄久寺より使僧を以てこの方檀下無断引導焼香致され候段不届に存じ候。
寺法相立て候様にと度々申し越され候間、
右小野川村より相頼み申され候段挨拶仕り候。
拙僧存じ奉り候は証文受取り引導焼香仕り候えば寺法も相立て出家の道も相立申し候
と存じ奉り、右の仕合に御座候間、
聞こし召し訳けなされ宜しく仰せ付けなされ下され候わば有難く存じ奉るべく候。 以上
信州伊奈郡向関村 宗 円 寺
享保十三年申ノ六月
知 恩 院 御役者衆中様
この口上書にはあまり難解の語もありませんので、用語の注を省略し通訳とします。
「駒場村の浄久寺は拙僧(宗円寺住職縦誉)が寺法に背き他の寺の檀家にみだりに引導焼香したと申し上げました。このことは去る午(享保十一年)七月二十二日小野川村の治兵衛と申す者の親治左衛門が亡くなったとき、私に葬式の引導焼香をしてくれるように頼みに来ましたので、その人々に「あなた方は浄久寺の檀家であるから、浄久寺へお断りして、私の方からも浄久寺へ連絡し、浄久寺でよろしいと申されたらお引き受けしましょう」と言ったところ、小野川村の名主・組頭・百姓惣代の人々が言うのには「今月十日に私共の村にある常念寺のことで浄久寺と論争になり、小野川村の者共は大門坂より上には登って来てはならぬ。もし登って来ても面談はしない」ときびしく言い渡されました。そんなわけで浄久寺へ頼むことはできません。もし宗円寺で断られたらこの暑い季節に死人をほうっておけません。などと申し、御出家様のお慈悲でこのたびはお断りなく引導焼香をお頼みします。お断りなく引導焼香をして、もし外より彼是申された場合は、私共がどこまでも出て申し開きをし、少しも御難儀をおかけしません、と頼まれて、よんどころなく村三役の証文を受取り引導焼香しました。
その焼香を終ったその場で、小野川村の人々に私が申しましたのは、今度のことは急なことであり、たっての頼みだったので仕方なく引導焼香したが、重ねては引受けしません。又治左衛門位牌もこちら(宗円寺)に立てることはできません。もし今日の施物などを持参されても決して受取りません。浄久寺との出入が済んだなら、位牌・施物を浄久寺へ納めるようにと申しました。
その後、浄久寺より使いの僧をよこして、浄久寺の檀家を無断引導焼香したのは不届である。寺法を立てるように、と度々申して来ましたが、私は小野川村から頼まれた事情を申しておきました。私が考えますには、証文を受取り引導焼香をしましたのは、寺法も相立ち、出家の道も相立つことと存じます。右のようなわけでありますから、事情をお察し下さって、よろしく仰せ付け下さいますように。」
この文の中で、浄久寺の大門坂とは、中央道やバイパスで寸断された参道の坂道と思われます。また「温気の節」とありますが、当時は陰暦ですから、古文書辞典により換算しますと、治左衛門が死亡した享保11年7月22日は太陽暦の8月20日となります。この宗円寺の口上書は、「温気の節死人差し置き」とか「御出家の御慈悲」「施物は受納致さず」等々弁明の効果を高める字句が所々にみられます。
12日浄久寺、13日宗円寺と双方の言い分を聞いて評定をした知恩院の役者(役務を担当する僧)は、翌14日双方を呼んで裁定を下しました。
申 渡
信州向関村 宗 円 寺
その方事、駒場村浄久寺檀那小野川村次左衛門相果て候節、
同村庄屋・年寄・百姓の証文差し出し候を取り置き、
浄久寺へ一往の届に及ばず引導焼香いたし候儀、寺法に背き不届の至りに候。
これにより帰寺後即日より二十日之遠慮申し付け候。
尤も寺法に背き候事は重き事に候えども、宗門に志ふかく、私欲の方にてこれなき故、
料簡をもって軽く申し付け候間、有難く存ずべく候。 以上
申ノ六月
惣本山 役 者
この申し渡しを通訳しますと、
「その方(宗円寺)事、駒場村浄久寺の檀那である小野川村の次左衛門が相果てた節、同村の役人の差し出した証文を取っておいて、浄久寺へは一度の届けもせず引導焼香したのは寺法に背き不届の至りである。よって寺へ帰って後20日の遠慮を申し付ける。もっとも寺法に背いたことは重大であるが、宗門に志深く、私欲のためではないから、特別にとりはからい軽く申しつけたのである。有難く思うべきである」
となります。浄久寺の方へも何らかの申し渡しがあったと思われますが資料がなくわかりません。
この申し渡しによって三年がかりの事件も落着しました。申渡しの文書のあとに次の付記があります。
十四日に御裁許状頂戴致し、御内意を窺い得て十五日に常福寺、大雲院、光徳院、
浄善寺、如来寺、法然寺、この六役衆中へ謝礼として相回られ候よし
以上少し丁寧すぎるような解説をしてきましたが、一人でも多くの方に読んで理解していただければと思ってのことです。この事件の経過を年表にしてみました。
「雲洞旧記集」にはこの後に、京都へ往復の西教寺の旅費の受取り3両と884文が11月21日の日付であり、その後に「西教寺では旅費のほかに京都の宿坊光照院への土産物代として銀4匁を小野川村から出すようにといって来たが、これは出せないということや、西教寺では小野川村が謝礼に来ないといっているが、今度のことは小野川村で頼んだことではなく、寺役で行ったことだから謝礼には行かないと小野川村の人たちが言っていた」との後日談を記しています。
この寺がえ事件の発端となった常念寺のことというのがよくわかりませんが、一説には、浄久寺の末寺で当然浄土宗であるべき常念寺に、旅の僧が住みついた。小野川村の人たちには好感のもてる僧であったらしい。ところがこの僧は禅宗の僧で、本寺である浄久寺から禅僧では困るという異議があって、それが原因となっての出入であったという話もあります。
なお、引導焼香で問題になった「治兵衛の父次左衛門」はどこの家の人か不明でしたが、私の伯父小松寛治が生前に「大沢の原の人では」と言ったことがあり、調べてみると死亡年月日が一致していて、私の母方の家の先祖なのでした。
(H2・1〜2)