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 広拯山長岳寺 (ちょうがくじ/伊那坂東第18番札所)

    所在地(江戸時代の村名):阿智村駒場(駒場村)      
<御詠歌>
 春ごとに梅まつ山の色添えて
 匂ひ妙なる長岳(ながおか)の寺


 天和3年(1683)の輪王寺宮令旨によると、当時は梅松山長岳寺栄寿院と称していた。
 太平洋戦争後、山本慈昭氏(慈昭法印)が住職の間に、山号を広拯山と改めた。

 長岳寺は天台宗のお寺である。最澄(伝教大師)が弘仁6年(815)に東山道神坂峠を越えた際に大変苦労し、峠道の苦難を救うために峠の両側に布施屋を建てたと伝えられるが、長野県側に建てられたという広拯院に因んでの命名である。尚、園原の月見堂はその跡地といわれ、夜烏山広拯院と称している。(昭和52年認可)

 本尊は十一面観世音であるが、近年まで薬師如来が当寺の本尊として据えられていた。これは、天正10年(1582)に兵火に会った上中関の観照寺の本尊で、長岳寺が別当として預かっていたものである。朱印地の割り振りから見て、長岳寺は観照寺の末寺だったのかもしれない。

 戦国大名の武田信玄が病死したのは、根羽〜駒場にかけての道中と思われるが、その遺品といわれる兜の前立ちなどが長岳寺に残されている。

   信玄の 遺品がのこる 長岳寺
         (阿智村かるた)

 寺は当初駒場市ノ沢の長岳寺平にあったが、19世慈修法印のとき駒場上町に移転した。ここは、領主であった宮崎太郎左衛門八反歩屋敷跡で、境内には近年まで駒場保育所があり、山本慈昭氏の奥さんにも大勢の幼児達がお世話になってきた。国道バイパス工事と中央道工事のため、昭和46年(1971)に現在地(水神淵の上)へ再度移転した。

 山本慈昭氏は、中国残留孤児の肉親探しに全力で取り組まれた。境内には、平和を願う「望郷の鐘」があり、参拝者は鐘を打つことができる。
 近年、天台宗の勢いは益々盛んであり、園原に信濃比叡広拯院を開設してTV等にも報道されている。
 尚、取材に行ったところ改装工事中だったため、写真は今後差し替えの予定です。
   (取材、撮影:2004.11.27)
 
長岳寺正面 左手に望郷の鐘
長岳寺本堂
境内の「またぎ石」