朝日受永の寺社評価
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜

(1) 江戸時代のごく初期に、伊那郡の代官を務めた朝日受永(あさひじゅえい)という人がいる。彼は下条氏の元家臣で、下条氏没落後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い(1600)で功労があった。家康は500石の旗本に取り立てようとしたが、受永はそれを望まず上下伊那の神社仏閣への寄進を望み許された。

 受永は寺社に石高を割り当て、更に朱印状を取る約束をした(「受永状」1601)。神社の最高は10石で、飯田の鳩ヶ嶺八幡宮(15石だが、うち5石は神宮寺分)、下条の大山田神社、辰野の矢彦神社、駒場の安布知神社の4社である。寺院では下久堅の文永寺(70石)、上川路の開善寺(35石)、赤穂の光前寺(30石)、大島山の瑠璃寺(25石)、飯田の大雄寺(20石)等が多いが、これらの寺院は「御目見へ衆」の格式があった。

 48年後の慶安2年(1649)、ようやく徳川家光の朱印状が下付されたが、寄進高はほとんど受永状のまま引き継がれた。ところが、阿智地域の寺社のみ増額されている。
 安布知神社(10石→10石)、阿智神社(0石→10石)、春日神社(3石→4石)、
 木槌薬師(3石)・長岳寺(1石)→木槌薬師<別当長岳寺>(8石)、
 浄久寺(5石→13石)
 <寺社名はいずれも現在のもの>

(2) 受永状での評価が朱印状に受け継がれ、明治維新までは寄進高が事実上の寺社評価になった。竜西地区について、受永状と朱印状の寄進高の一覧表を見ながら、受永の評価について考えたい。(資料は「伊奈郡寺社領之帳」による。最も正確である。)
 
 「安布知神社」は由来が古く思兼命を祀るところから、「式内社阿智神社」と推定したのではないか。その後、昼神の「山王権現」が「式内社阿智神社」とわかり、同格の10石としたのではないか。飯田の大宮神社、郊戸(ごうど)神社、風越山上の白山神社などには全く寄進がない。大宮神社は長久寺の鎮守神、白山神社は麓の白山寺が別当で管理が一体、神仏混淆の時代のため寺院の付属物と見たのだろう。郊戸神社は当時荒廃していたようだ。木槌薬師は天正10年(1582)に兵火で焼かれたという観照寺の跡で、仏像を預かった長岳寺と合わせて8石となっている。

(3) 阿智地域の寄進高は優遇されているように感じるが、受永が駒場(または下条)辺りの出生とする文書があり、何らかの関係があったのかもしれない。逆に下久堅の文永寺では、受永の感情を害して減額されたという伝承がある。しかし、最高の70石という評価は妥当ではないか。

 現存する受永状の発行日(平沢清人氏の調べ)を比べると同じ日付が何通もあり、離れた村へ受永が出向いて直接渡したとは考えられないが、評価の際には一通り回ってみたのだろう。残念ながら、阿智地域の受永状は一通も現存していない。
 明治維新でこれらの朱印地は上知(政府の取り上げ)となったが、江戸時代の朱印領の石高は寺社の格付けとして今も生きている。なお、朝日受永は出生地だけでなく墓地も不明である。

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