社伝によると、建久3年(1192)に奈良の春日大社より春日明神を勧請し、中関郷の産土神にしたという。当初は片手石にあったが、文禄元年(1592)に現在地の宮山へ奉遷したと伝えられ、山主の塚田氏が明治20年頃まで神主を務めた。
小笠原氏(松尾)と下条氏の勢力は阿知川を境に対峙していたが、たびたび下条氏が阿知川を越えて侵攻し、文明年中には立石・中関・駒場・昼神あたりまで勢力を伸ばした(下条記)。その頃よりこのあたりが「境」の字名になったので、伊奈郡寺社領之帳(1636)には「さかい大明神」と記されている。
慶長6年(1601)に朝日受永から3石の社領を寄進されたが、徳川家光以降は4石の朱印地に増やされた(朱印状9通が現存)。
八幡大神、牛頭天王は、享保21年(1736)遷宮の際の棟札(社殿再建)に見られるが、勧請時期についての記録や伝承はない。また、天満宮(写真4)・鍬大明神・若宮以外の末社(写真3の諏訪社など)は、寛政3年(1791)の春日明神絵図に描かれていないことから、後に合祀したと思われる。
本殿(享保20年改築)は三間社流れ造りの素朴な社で、現在は覆屋の中にある。拝殿等は明治44年に改築され、その際に石垣・玉垣(写真2)等の境内整備を行った。この時、一段下の境内にあった社殿を、車力で現在の位置に持ち上げたというから驚く。宝物殿は、会地小学校(現第一小)の奉安殿を戦後に解体して移築したものだという。
国道に面した立派な石垣は、中関上から湯川にかけての153号線を直線化するバイパス工事の際に作られた。春日神社の参道であった竪町は神社と分断されたため、参拝の際には押しボタン式の信号機を利用する(写真1)。
秋の例祭では、氏子の幼児が保育所から神社まで台車に乗った神輿を引く。また、小学校5、6年の女子から4人ずつの舞姫が選ばれ、祭事の折には舞を奉納している。
( → は参考文献等 )
→ 『阿智村誌』 p.704
→ 『春日神社小史』(林 信夫氏 執筆)
→ 『探史の足あと』 第1章 阿智の神々
→ 『愛郷探史録』 p.174
送り返されたお鍬様
国道153号線に面した春日神社入口
拝殿正面 明治44年整備の石垣と玉垣
境内の諏訪社に、鍬大明神を合祀する