送り返されたお鍬様
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜

 寛保2年(1742)2月に、伊那街道を西の方から「お鍬様」という奇妙な祭りがやってきた。
「お鍬様」は伊勢外宮豊受大神の信仰普及のための別称と言われ、豊作をもたらす神様として、圧倒的な支持者を得て大騒ぎになって村から村へとリレーされてきた。
 このことを上中関の春日社の神官塚田氏が次のように記録している。

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 お鍬様は伊勢から出発し、三河の国を通って平谷、浪合、小野川、駒場とやって来た。各村ごとに一晩ずつお祭りをして、新しく木鍬の大きいのや飾り物をこしらえ、神輿のように2人、4人、8人でかついで、わいわい声を掛けながら街道を練り歩いてきた。次の村がお迎えに参り、行き先は決まっていない。かつぎものや紙旗、木綿旗は次第に数が多くなり、ついに一村では持ちきれなくなって、二ヶ村、三ヶ村で寄り合って送るようになった。旗には「大一五穀成就」や「大一天下泰平」と大の字を書く。お鍬様は61年に一度の祭りである。
 浪合の関所を預かる阿島代官所(知久帯刀(たてわき))に大騒ぎな祭りのことが伝わり、駒場まで来たところで役人が来て浪合関所まで送り返された。上中関村でも旗など作って駒場村へ迎えに行ったが、中止になったため輿の印を持ち帰ってお祭りした。
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 駒場村、小野川村などは知久氏が預かる天領だったが、中関、上中関村は飯島代官所が預かる天領であり、その先の山本村は旗本近藤氏の領分なので、面倒を起こさぬために、自分の支配地でくいとめ、浪合関所より向こうへ送り返したのだろう。お鍬様は平谷村に留まって、現在も賑やかに祀られている。
 また、寛政年間の春日社の絵図を見ると、向かって右側に「お鍬様」の小祠が描かれており、現在も祠が残っている(S57.5月)。・・・・現在は諏訪社の中に合祀されている(さんま)。

 → 「阿智の産土神」 春日神社

*根羽から売木、新野と入ったお鍬様は、帯川の関所でくい止められたが、
   「お鍬様のお渡御だ。やぁーれ、かかあもちあげろ、三百年の豊作だ
と、狂ったようにはやし立てながら、怒濤のようであったという。
*木曽路から中山道を向かったものは、信州を通り抜け、上州安中で解散を命じられたという。
*東海道を東へ向かった一団は、新居の関で押し返されたという。
 (伊那 S34.11月号)

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