木槌山観照寺の末寺
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜

 「阿智村かるた」に、 「年一度木槌に帰る薬師さま」 とあるように、毎年四月八日に、木槌のお薬師様が長岳寺から前原の元観照寺木槌の谷間にあるお堂へ五日間の里帰りをします。(探史の足あと p.62 木槌薬師堂再建
 ところで、その観照寺というお寺はどんなお寺だったのでしょうか。寺社の由来は、ともすると誇大に伝えられることが多く、古いことであるだけに真相を知ることが難しいのですが、ここに一つの史料がありますので紹介します。
 この文書は、前原の新井東洋夫さん所蔵のもので、反古紙に記してあるものですから、見かけの上では評価が低いかもしれませんが、検討に価する新事実が記されております。


  木槌山観正寺由来〔新井文書108〕 (読み下し文にして記す)
一 そもそも観正寺は大伽藍也。末寺は長岳寺、木槌にて法蔵寺、十王坂寿経院、片手石春光院、京伝坂専照寺、此の五ケ寺なりと云云。
附り 長岳寺記録には長岳寺末寺大二ケ寺木槌山十二坊と安永八年之頃書記したる向、長岳寺の位にせんと心得し事也。是は心得違いなり。小寺にても其の跡は地名となる者なり。
  観正寺御本尊は鳳来寺薬師を彫刻し給ひし残り木を槌にしける、其の槌を慈覚大師彫刻し給ひし薬師如来なり。仁皇五十三代淳和天皇天長戊申五年二月此の地に移し、八日に開山有り、十二日迄大祭りあり。此の時山号寺号初めなり。其の後光陰押し移り建長二年の頃再建にて、秋九月八日に入仏供養、十二日迄祭礼なりといふ。是より二月九月年に二度祭りなりと云云。
  其の後天正十年信長乱之時、焼失に及ぶと雖も乱世の事故誰一人も防ぐものなく、六七日も焼亡し残らず灰となりぬ。春を過ぎ、夏に至り、国も穏やかになれば、郷中の長、民等尋ね登り見れば片曽の山の久保に不思議なる哉、薬師如来飛行し給ひ恙なかりし故、早刻再覆営み奉りぬ。此の所薬師洞といふ地名なりと云。
  扨て伽藍の灰を改めて見れば不動尊の焼のこりあり、残らず灰となりし中に焼け残り給ふこそあらたかなり。依て薬師に添え置き奉りぬ。翌天正十一年三間の御堂を建立し薬師不動尊入仏なりぬ。

 以下を省略しますが、標題の「観正寺」は「観照寺」と同じで、江戸時代は発音が同じであれば文字にはあまり拘泥しなかった傾向があります。この史料の中で,私が最も興味をもつのは、末寺の五ケ寺です。長岳寺を末寺とするのは検討を保留しますが、次の各寺については、何らかの理由を見出すことができます。それぞれの寺の名称については、今は全く知る人もなくなっていますし、時代も明確ではありませんが、読者の中には関連のことをご存じの向きもあるかと思いますので、ご存じの方はお教えいただきたいと存じます。

法蔵寺 これは木槌にあったとされていますから、多分観照寺の塔頭のようなものかと想像されますが、史料も伝承も全く見聞しておりません。

寿経院 十王坂にあったと書かれています。十王坂というのは、元農協本所の北方、和地彦人さんの前あたりから園原さんと増井さんの間を通って堅町の中島勉さんの脇へ登る坂で、旧伊那街道(中馬街道)のうちです。十王坂という地名は、寺か堂のあったことを物語るものですし、かつて仏器の類が出土したという話を佐藤明氏(故人)からお聞きしました。

春光院 これは片手石と注記されています。この付近は春日神社がはじめに鎮座したところといわれていますが、字名に「寺屋敷」というのがあり、屋号の「宮屋敷」との関係が不審でしたが、この春光院の跡を寺屋敷とするのかもしれません。

専照寺 この寺は京伝坂とされています。京伝とは今の京田のことで、京田では松下和義さんの横を登る坂を「寺坂」といっていますから、このあたりをいうのでしょう。この坂を下り後沢を渡ったところに「たちうば」という地名のあることを岡庭芳臣さんから聞きました。たちうばとは「塔頭場」の転化したものでしょうが、これらも何か関連があるかもしれません。
  春光院・専照寺は共に中関のうちですし、同じ径路の上にありますので、はじめは漠然と片手石のあたりの寺屋敷へ通ずる道が寺坂であろうかと考えていましたが、二つの寺院とし考えた方がよいでしょう。

 これらの寺院は、この文書によれば天正年間のことですから時代が古く、所在を立証する文書や石像物が見つかる望みはありませんが何か心にとめておきたいものがあるように思います。     (S56・3)

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