過去のHP作成月記

→ ブログ版はこちらへ


 <HP作成月記(平成18年 9月)>

 去る9月14日未明、中央道下り線の阿智パーキングから500mほど名古屋よりの地点で、大規模な多重衝突事故が起き、大勢の方が死傷されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 以前から駒場地区の道路の歴史について写真に撮ってまとめたいと思っていましたので、この際にと思い、雨の合間を縫って城山に車で上り、上から見た駒場の写真を撮ってみました。

魔のカーブ

 山腹の木々が大分伸びてしまい、街全体を写すことができませんでしたが、魔のカーブと3本の街道をデジカメに収めてきました。 「駒場の歴史的な街道(写真)」として、掲載しましたので、ご覧下さい。

 帰り道に長岳寺に立ち寄ったところ、住職さんがいらっしゃったので、日頃気になっていたことを、お忙しい中でしたが、いくつかお聞きしてきました。
 また、順に紹介したいと思います。

                              2006. 9.16 さんま


<HP作成月記(平成18年 8月)>

 仕事で京都に出かけることがあり、少しの時間を割いて、吉田神社に立ち寄ってきました。場所は京都大学の東隣にあたります。神社の敷地の一部(あるいは、かなりの部分か?)が京都大学の敷地に転用されているようで、京都大学へ入る道が、参道を兼ねていました。



 吉田神社は、室町時代に神道の体系化を成し遂げ(吉田神道)、江戸時代には、全国にある中小の神社すべてを統括していました。代々、神祇管領長上を名乗り、神社の格式を定めたり、神官の任命を行っていたのです。阿智村にも、吉田神社からの裁許状が残っています。

 宮司さん(?・・・巫女さんは神官と言っていました)とお話したところ、他の神社では観光色を強めているが、この神社は社も多く、維持が大変だと言うことでした。
 確かに、近所の八坂神社では外国人も含めた観光客でいっぱいでしたが、こちらは全く静かな様子で、近所の子供たちが、隠れん坊をしていました。

 重要文化財の「大元宮」周辺は改修中でしたが、八角形の独特な社は、別格の趣があります。

                                 2006. 8.10 さんま
 


<HP作成月記(平成18年 7月)>

 4月に園原で青銅製の鏡が発掘されました。京都国立博物館の久保智康先生にお願いして、この鏡の鑑定をして頂いたところ、室町時代初期の「小型梅花双鳥鏡」ではないかということでした。

            

 更に、この際にと安布知神社の社宝の鏡を鑑定して頂いたところ、何と、こちらは奈良時代の「花禽双鸞八花鏡」だという鑑定が出ました。
 八花鏡の踏返し鏡であって、他の地域に同じ絵柄の鏡があることは分かっていましたが、大変古いものだという鑑定に驚きました。

 どちらも思兼命を祀る安布知神社と阿智神社の密接な関係(元々は前宮と奥宮か?)が想像ができますし、延喜式内社であって平安時代に存在が認められる阿智神社の由緒が奈良時代まで遡ることの物証と解釈できます。

 石製模造品が祀られた古墳時代、八花鏡の奈良時代、官制東山道と阿智駅の平安時代が、一つの細い線でつながりました。

                                 2006. 7. 1 さんま


 <HP作成月記(平成18年 5月)>

 5月1日。メーデーの日は、今年最高の暑さとなり、夏日を記録しました。翌2日は、大気が不安定となり、朝から激しい雷雨。8時前には飯田周辺で直径1cm弱のヒョウが、もの凄い勢いで降ってきました。
 中国大陸から飛んできた大量の黄砂に汚れていた車も、少し洗い流してもらいました。

 満開のリンゴの花に激しい天候が害を及ぼしてなければいいのですが・・・

                               2006. 5. 5 さんま



 <HP作成月記(平成18年 2月)>

 特別に寒かった12月に比べ、1月には暖かな日も何日かありました。天気の良い日にヘブンス園原へスキーに行き、ハローキティーの着ぐるみと一緒に滑りました。

 ところで、郷土史の冊子(原隆夫著)第3弾が近々出版されるかもしれません。今回は前2作に比べるとくだけた内容になる予定で、現在鋭意執筆中です。

                               2006. 2. 5 さんま


 <HP作成月記(平成18年 1月)>

 あけましておめでとうございます。

 1月1日より、浪合村が阿智村と合併し、少し広い村になりました。
 浪合村には、南北朝時代を舞台とした尹良(ゆきよし)親王の伝説があります。
 旧阿智村では、鎌倉時代から室町時代にかけての伝承等は抜け落ちています。
この時代の郷土史の話題が増えることは、嬉しいことです。

 先日、Yahooの検索をしたところ、久しぶりにこのHPがヒットしました。更新を怠っていた中ですので、少し恥ずかしいですが、また頑張っていきたいと思いました。

                               2006. 1. 2 さんま


 <HP作成月記(平成17年10月)>

 すっかり更新が滞っていました。
10月29日(土)に、飯田市上郷考古学博物館で、『阿智の古代史風景』と題して講演会がありました。
 講師は以前阿智中学でも教鞭を執られ、上郷考古学博物館の館長も務められた宮澤恒之先生でした。実は私も、中学時代に社会科を教わっていましたので、懐かしく参加させて頂きました。

 内容は−東山道とその道筋と阿知駅をめぐって−というサブタイトルに関して、考古学の研究を踏まえてのものでした。
 広い視野と沢山の発掘結果を踏まえた講演は大変刺激的でした。

 翌日、東山道の道筋に沿った現地踏査も行われましたが、私は参加できませんでした。以前、中平から網掛峠を越えて恵那山トンネル入口まで歩いたことがありますが、大変なハイキングだったことを思い出します。

                                2005.10.31 さんま


 <HP作成月記(平成17年 5月)>

 勤務先の異動などがあり、HPの更新が滞っています。もう少し落ち着いたら、再開したいと思います。この間、相互リンクの依頼等のメールがありましたが、対応が遅れており、申し訳ありません。
 HPの背景も、見づらい配色と思われます。これは、ブラウン管型(トリニトロン)のディスプレーで制作しているためで、最近主流の液晶ディスプレーでも見やすいように、変えていく必要がありそうです。

 ちょっと耳にした話ですが、石製模造品の材質が、従来は滑石と言われていたものが、地元産の石だったというのです(出所の正確な情報ではありません)。
 この近辺で、滑石が産出する話は聞いたことがありませんので、興味深く思っていましたが、また調べてみたいと思います。

                               2005. 5.21   さんま


 <HP作成月記(平成16年12月)>


 神坂峠の石製模造品(剣形、円板、勾玉、管玉、鏡形)を、県宝に指定してもらうよう申請中で、県の担当者も視察に見えたそうです。来年には指定される見通しになってきました。
 そのための準備に、村の文化財委員会で出土品の整理を行ったそうですが、以前に出版した発掘調査書の写真通りに細かい資料を並べ直す必要があり、結構な手間だったようです。70代、80代の文化財委員の面々が作業に当たったようですが、ある程度経験も必要で、誰でも代われるものではないのでしょう。

 石製模造品の出土する場所は様々で、どのように使われたのか謎が多いようです。

                              2004.12.26     さんま


 <HP作成月記(平成16年11月)>

 11月は、伍和地区の堂庵(主に札所跡)を中心に、訪ねて歩きました。

 明治の廃仏毀釈で取り壊しになったお堂跡は田畑になってしまい、集会所として転用されていた建物も多くは建て替えられて、○○センターと名前を変えています。
 また、構造改善事業により地形まで変わっているため、当時の姿を想像する事は極めて困難です。
 屋外の石仏や石塔も風化が一段と進み、拓本でも採れば多少は字が読めるかどうか。

 寺尾の秋葉社は改修中のようでしたが、ここに御柱が立っていたのは意外でした。

                              2004.11.29     さんま


<HP作成月記(平成16年10月)>

 大型の台風23号が日本列島を縦断しています。阿智村も暴風域に入り、真っ暗な窓の外で、ゴーゴーと風の音がしています。

 10月16日に飯田市上郷考古博物館で、『縄文時代の土偶 −その造形と展開− 』という原田昌幸先生の講演がありました。 土偶というと、尖石遺跡の「縄文のビーナス」が有名ですが、あのように優美で立体感があり完全な形で「埋葬」されている土偶はごくわずかで、通常はもっと簡素な板状であり、破壊されている物がほとんどだそうです。
 博物館には、一部欠損したり、かけら状になった素朴な伊那谷の土偶達が展示されていました。まだ発見されていない優美な土偶がどこかに眠っていて、騒々しい世の中になったものだと思っているかもしれません。

                            2004.10.21    さんま


<HP作成月記(平成16年 9月)>

 相次ぐ台風の影響で、庭のコスモスやオクラが倒れてしまいました。

 オクラの方は起こして支えをした所、また元気に花を咲かせています。コスモスは手の施しようのないくらい絡まってしまいました。

 高度成長時代に村が変わり行く中、大切なものを語り継いでいこうという動きが起こりました。「古老は語る」、「郷土史巡礼」、「阿智村かるた」、「阿智村誌」といった出版物、他には写真集も発行されました。
 改めて読み返してみたいと思い、HPにも簡単な紹介を載せてみました。。

                            2004. 9.11    さんま


<HP作成月記(平成16年 8月)>

 阿智の産土神はほぼ回り終えたので、次は江戸時代に伊那西国などの札所になっていたお寺やお堂を巡る事にしました。
 お寺というと、お葬式や法事をする所で普段は行きづらいのですが、お堂の方は神社と同じような心持ちで出かけられます。

 残念な事に、お堂の多くは明治時代に壊されたり、集会所に変わっていたり、荒廃していたりします。今さら信仰の対象として復活させるわけにもいかず仕方のない事ですが、写真を取りに行って、もう何十年か早く写真に撮っておけたら良かったのにと、悔やまれます。
 もし、古い写真をお持ちの方がいらしたら、少しの間お借りできないでしょうか。

                              2004. 8.19    さんま


<HP作成月記(平成16年 7月)>


 暑くなり、外での取材が進まないこの頃ですが、元気を出して家の近所を散策しました。
 衆生院の仏像を収める中関公会堂の裏手に中関大井が流れています。そこで、「水天宮、諏訪大明神、水神宮」と彫ってある立派な石神に興味を持ったのですが、家に帰って調べたら、中学時代に同じ石神を調査したスケッチが出てきて驚きました。

 観照寺の末寺があったとも伝えられる京田付近の寺坂を上り、月夜島、弘法様、十王坂、妙見堂、隆法寺、更に旧伊那街道(東山道跡か?)を進んで湯川の庚申弘法大師庵まで行った所で、デジカメのカートリッジが満杯になり引き返しました。

                             2004. 7.24    さんま


<HP作成月記(平成16年 6月-2)>

 先日、上郷考古学博物館で、伊那谷の縄文時代に関する講演会がありました。講師は樋口昇一先生でした。

 縄文時代=縄目の土器、と思ってしまいますが、実は時代によって押型文土器や唐草文土器など、様々な文様があり、文化圏(クニ)ごとに異なる様式を持っていたそうです。

 特に、長野県中南部は「縄文王国」と呼ばれるほど遺跡の密集地と知り、驚きました。

                             2004. 6.24   さんま


<HP作成月記(平成16年 6月−1)>


 村のHP等からリンクして頂き、アクセスも少し増えました。ありがとうございます。

 昨晩、「大日本実行会」について研究している方からメールを頂きました。明治32年に結成された会で、伍和の原九右衛門翁が中心メンバーの一人だというのです。原九右衛門といえば、伍和の学校を創設したり、恩田井水を発案し開通に漕ぎ着けた、伍和地区の偉人です。

 まだまだ不勉強ですが、いろいろと調べるきっかけになりました。

                              2004. 6. 1   さんま


<HP作成月記(平成16年 5月)>

 氏神様のお祭りがあり、雨天だったため集会所で行いました。幣束を立てる台の一つは山神と書いてあり由緒も分かりましたが、残りは何の神様とも分かりません。
 熊野神社やお諏訪様を祀る方も近所に見えるため、うちの氏神様は何だろう? と神主さんにも聞いたところ、氏神様は特定の神様でないのが普通だそうです。
 言われてみれば遠いご先祖様のようなものかと納得しました。
 
                              2004. 5. 5   さんま


<HP作成月記(平成16年 4月)>

 今年は6年(数えでは7年)に一度の御柱祭りだそうで、テレビでも木落しの様子が放映されています。

 かつて天正6年(1578)に諏訪明神の造宮が計画された時、前宮一之御柱の造立が伊賀良の庄に割り付けられたといいます。まさか諏訪まで天竜川を遡って御柱を運べる訳もなく、寄付金の割付がなされたようです。
 近くの七久里神社へも、最近御柱を運んだようで、前回よりもほんの少し長い材木を奉納しなければならないそうです。

                               2004. 4.13   さんま


<HP作成月記(平成16年 3月)>

 3/13(土)に、上郷考古博物館で「飯田・下伊那の古墳文化から伊那郡衙へ」と題して西山克己先生の講演会がありました。
 善光寺平は4〜5C後半、飯田地区は5C後半〜6Cの古墳密集地であり、その歴史的意義が異なる事。殉葬馬(5C)は熊本と飯田以外にはほとんど見られず、石室の石積みと並んで朝鮮文化の影響を示す事。富本銭や甲冑、暗文土器など、都との強い関係を示す出土品があること。など、考古学的に飯田地区が重要である事を教えて頂きました。

                               2004. 3.15   さんま


<HP作成月記(平成16年 2月)>

 寒い毎日が続いています。先日、ヘブンス園原スキー場へ行った際に、(元)中御山神社の石段がゴンドラ基地の近くにあったはずなので、年輩の従業員の方に尋ねてみました。

 「さあ・・・、川の向こう(園原)ならいろいろ遺跡があったはずだが・・」とご存じない様子。仕方なく建物の裏側へ探索に行ったところ、雪に埋まって一直線に山を下りていく道らしきものがあり、その雪が段々になっていました。春になって確認できたら、写真に撮りたいと思います。

                              2004. 2. 7   さんま


<HP作成月記(平成16年 1月)>

 年末年始は、モデムの不調でインターネットができない日々でした。通信手段を断たれてしまうとパソコンもただの箱で、仕方なく資料の片づけなど懸案の課題を片付けました。

 この間、村内の神社数社をお参りしました。2年参りは水晶山の2尺玉花火を見がてら、産土神の春日神社へ。水晶山の花火は音が3秒ほど遅れて来るものの、スターマインの構成の面白さ、ひときわ高く打ち上げられた2尺玉の轟きが印象的でした。

                              2004. 1. 6   さんま


<HP作成月記(平成15年12月)>

 思いつくまま作り始めたHPのため、あちこちが工事中の状態です。
  『探史の足あと』は3章以降が原文を取り込んだところで終わっています。『愛郷探史録』も1,3章以外は全く手つかずです。阿智村の歴史は奥が深いなー。これでは、完成までにあと何十年かかるか見当もつきませんが、70才までには仕上げたいと思っています。

 ライフワークになるのかなー。

                               2003.12. 6   さんま

表紙に戻る 総合目次 更新履歴 さんまのメモ リンク集