飯田地区の古墳について
〜 さんまのメモ書き 〜
2004.3.13 飯田市上郷考古博物館 春季特別講演
『飯田・下伊那の古墳文化から伊那郡衙へ』 (西山 克己 先生)より
以下は講演の聞き取りメモですので、間違いがありましたらご指摘下さい。今後、文献を参照して内容を深めたいと思います。(さんま)
@ 長野県の前方後円墳(帆立貝形を含む)・前方後方墳は、善光寺平(24カ所)と飯田地区(30カ所)に密集しており、その他の地域には少ない(7カ所)。
☆健御名方命に関連して神話上で重要な諏訪地域に1カ所しかないのは何故か?
諏訪地域が繁栄するのは、古墳時代より後なのだろうか?(さんまの疑問)
A 善光寺平の古墳は4C〜5C後半、飯田地区の古墳は5C後半〜6Cに建造された。建造時期の違いは大和政権との関係が深くなった時期の違いであり、中央の状況と関連づけて比較する必要がある。
*善光寺平の古墳群:地方豪族が大和朝廷との同盟を狙って自己PRのために建造
*飯田地区の古墳群:大和朝廷による地域有力者創生の施策を背景として建造
<古墳の作られた年代と、歴代天皇(在位期間は日本書紀による)>
倭の五王:讃、珍、済、興、武 (宋書夷蛮伝倭国条(488)他に記事あり)
武=雄略天皇(456〜479)=ワカタケルの時代・・・5C後半
◎文人、武人が地方に多数存在した
*熊本 江田船山古墳(75字の鉄剣銘:曹典人(文人)ムリテ)
*埼玉 稲荷山古墳(115文字の鉄剣銘:杖刀人(武人)オワケノオミ)
◎外来新文化の影響が見られる
*住居内の炉(住居中央)がカマド(住居端)に移行(5C中期〜)
*金属製装飾品の流行(5C後半)
継体天皇(507〜531?)の時代・・・6C前半
○即位にまつわる謎、磐井の乱
欽明(539?〜571)、敏達天皇(572〜585)の時代・・・6C後半
◎見瀬丸山古墳(欽明天皇陵と見られる巨大(310m)な前方後円墳)の建造
*この後、天皇陵としての前方後円墳は建造されていない
○大伴氏の失脚、蘇我氏の台頭
△仏教伝来、蘇我氏(崇仏派)と物部・中臣氏(廃仏派)の対立
○皇位継承に関する血統的原則の確立
天武(673〜686)、持統天皇(686〜697)の時代・・・7C後半
○大化改新(645?)、国造制から評(コホリ)制へ地方支配の変化
◎壬申の乱(672)に東国の豪族が参戦、大海人皇子(天武天皇)を支持
*信濃から兵馬が集結した 飯田地区の豪族や兵馬も参戦しただろう
○天武年間に、令制国の成立(国境の画定)
○大宝令の制定(701)による律令国家の成立
注意 ◎・・・西山克己先生 講演より
○・・・「大王と地方豪族(篠川 賢 著/山川出版社)」による補足
△・・・その他の引用
B 古墳への殉葬馬(5C中〜後期)は、全国で60余頭発見されたが、熊本県と飯田地区で半々である。特別に馬を大切にした地域と見られる。
*殉葬馬は朝鮮文化の影響と見られるが、朝鮮では裸馬なのに飯田地区では馬具付き
であり、日本式の新文化である。
C 飯田地区では5C中期〜6Cの円墳や前方後円墳から甲冑が出土しているが、材質・技術とも地方で製造できるものではない。大和朝廷から下賜されたと考えられる。
D 飯田地区の横穴式石室は善光寺平の石室より大型で、全長10mクラスのものが見られる。また、座光寺の3古墳の石室はやや小型だが、側壁の石積み工法に特徴がある。
*大型の石を土台にして小型の石を積み上げる工法は新羅・百済・加耶の接点に
近いテグの古墳と類似している。朝鮮文化はすべて百済経由で日本に入ったと
考えられがちだが、この工法を用いた百済の古墳は飯田地区の古墳より新しい。
(新羅か加耶経由でこの工法が日本に入った)
E 飯田地区の古墳群は大きく2つに分けられるのではないか?
*武具が多く出土する伊豆木・川路・桐林・駄科地域は、古い保守的勢力
*殉葬馬、富本銭、暗文土器の出土する松尾・上郷・座光寺地区は、都や渡来人
の文化を取り入れた新しい勢力。
*富本銭が地方で流通したとは考えられず、地鎮祭や葬儀等の儀式に用いられた
と推測されるが、そうした文化も都や渡来人の風習だろう。
*郡衙が座光寺に置かれた理由は地理的条件のみでなく、中央との関係による。
(伊那郡衙=恒川(ごんが)遺跡は東北支配の重要拠点だったと考えられる)
F 前方後円墳は集落の近くや人からよく見える場所に作られる。天竜川西岸に連なる遺跡群から見て、古東山道は神坂峠を越えた後、国道151号線沿いに通っていたとしか考えられない。
しかし、令制東山道は軍道であり直線性が要求されるため、国道153号線沿いが適当だと近年考えられるようになった。