駒場の八軒屋敷村
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜

 イタリアのローマ市内に、バチカンという人口七百人余の小さな国があることはよく知られていますが、阿智村の中にも駒場町のまん中に八軒屋敷という十戸足らず、人口二十人ほどの小さなムラがありました。
 正式に「村」とは云わなかったようですが、元禄初年頃から駒場村は上町も下町も幕府の直轄地いわゆる天領になりましたが、この八軒屋敷は沢氏という旗本の領地として支配関係の上で別扱いでしたし、幕末になって駒場村が飯田領や奥州白川藩の領地になった時も、相変らず沢氏の領地として別の支配下におかれていました。
 山奥の方には、あるいは全戸でもこれと同じ位の小さな村があったかもしれませんが、民家の密集した宿場町のどまん中に、 このような別の領主によって支配されていた村があって、それも江戸時代のごく初期から明治維新になるまで続いたのですから、これは珍しいケースであろうと思います。

 ところでこの小さなムラは駒場のどの辺にあったかといいますと、当時の絵図の写しをのせましたが、駒場上町の北原明治先生(山田屋)のお宅の道路向かいの片側だけ、「凡そ四十二間(76m余)有り」と絵図に記されています。これが屋敷の間口で後ろの方は上御道(うえみどう)まで続いていて道が境になっています。
 この屋敷の四角形の図形の右上に、角と角を接するように位置して十三枚ほどの畑があり、更にその東側に「今宮八幡」の社叢境内地があります。この総面積がどの位あったかをみますと、屋敷地が一反歩(10アール)、上畑一反一八歩(10.6アール)、中畑二畝(2アール)、下々畑一畝六歩(1.2アール)で畑の総面積は一反三畝二四歩(12.8アール)です。
 私の見た駒場つた屋蔵の皆済目録(年貢の受取書)では三石一升となっており、ほかに「藪年貢」が二百五十文とあります。駒場の町並は山つけの方に帯状に長い竹藪があって、八軒屋敷もその一部がくいこんでいましたからこの藪に対する年貢を課せられたものですが、二百五十文というと当時の米に換算して三斗二升になりますから、この年貢はかなり高い評価をされています。

 次にこの八軒屋敷ムラの住民について史料をみますと、その名の示すように初期のころは八戸によって構成していたものとみて良いと思いますが、最も古い資料でも享保十九年(1734)で、この時が十戸でした。前記のように街道に向いたムラの間口が四十二間ですから、これをその名称の八軒に割れば一戸の間口は五間と一尺五寸ということになります。平均からみても決して狭い間口ではありませんので、広い間口をもった家では二軒に割って使うことも可能であったと思います。享保十九年の史料は、ムラ内の山田昌医正木屋の先祖で、苗字を許されていた。医者でもあったという。享保九年の文書には「名主昌意」と書かれている)に庄屋伝吉以下九名が連印で、「再びお役(庄屋)を引き受けてくれるように」という依頼状で、これから推して十戸とみたのです。あるいはこの中には入作や借家の者が入っていたかもしれませんが、八軒屋敷に十軒が住むことも可能でした。
 享保から約百年後の天保三年(1832)の史料では名称どおりの八戸となり、文久元年(1861)には再び増加して十三戸に、その九年後の明治三年三月には九戸に減っていて、このムラの住民には移動が多かったといえます。(文久元年・明治三年の戸数は宗門人別改帳による)

 さてこの小さなムラにどんな人々が住んでいたのか知りたいところですが、当時は一握りの土地でも所有していれば「百姓」として数え上げられ、詳しい職業の内容を知る資料がありません。ただ、このムラの名称は、別に「問屋屋舗(敷)」とも呼ばれ、これは公式の名称として役所へ差し出す文書にも使われています。このことから、駒場の宿場の機能のうちの何らかの役割を果たしていたとみることができますが、具体的には解明するまでに至っておりません。

 次にこのムラの家族構成をみますと、これは明らかに異常があります。というのは、周辺の駒場村にある家々と比較して、家族数が半数しかいないということです。この当時の駒場村上町の総戸数一三五軒、人口五四二人(安政二年三月人馬家数御改帳・北原明治氏文書)に比べて八軒屋敷の方は十三軒で二十七人ですから、一戸平均の家族数は上町の4.01人に対して八軒屋敷2.07人となります。ではどんな家族構成になっていたか、文久元年の宗門人別御改帳(正木屋蔵)により考察してみることにします(資料省略)。この史料でわかるように、

   八軒屋敷          十三戸中
   夫婦がいる家         三戸
   36才以上の男のやもめ暮し   五戸
   母子の家庭          三戸
   女のひとり暮し        二戸


 見るからにわびしい家々の集団です。ことに「万右衛門養子」という八才の女の子は、どうやって暮らしていたのでしょう。それには悲しいつけたりがあります
  「りい儀、当八月、旅出つかまつり、いっさい知れ申さず候間、差し除き申し候」 と。

 江戸時代を通してこのような変則的な家族構成の家が多かったとは思われませんが、宿場としても相当な賑わいをみせて「花のこまんば」とまでいわれた駒場村の中心部に、問屋屋敷という立派な名称をもちながら、まるで裏長屋のような、わびしさを感じさせる過疎の家々が並んでいたと見るのはまちがいでしょうか。各戸の持高(所有耕地)を書いた史料がありませんので、内実の暮らし向きを断定することはできませんが、明治三年(1870)の宗門改帳(正木屋蔵)をみても、戸数九軒、人口男九人、女九人、計十八人と、さらに減少しており、家々が繁栄に向かっているとは思えません。

 こんな小さなムラがなぜ出来たのか、この小さなムラを包んでいる駒場村との住民関係はどうであったかなど、幕末の困窮していた小村を知る資料として、藩籍奉還が行われた明治二年、伊那県が設置される過程で、八軒屋敷は伊那県役所に対して次のような歎願を行っています。文章のつづきの悪いところや、わかりにくい箇所もあるかと思いますが、読み下し文にして紹介します。これも駒場の正木屋さんの所蔵文書です。


   恐れ乍ら書付を以て歎願奉り候

  一 高三石一升三合三勺三才
           駒場村の内 八軒屋敷
    家数 八軒 人別
         〆十八人 男九人、女九人

 右高三石一升三合三勺三才儀は慶長年中以前より御支配沢錦太郎様御知行所仰せ付け
 られ、昨辰(明治元年)まで永年の間相続仕り来り候え共、前顕の小高小村の私共に
 御座候へ共(ば)万端難渋の筋多く歎息仕り居り候ところ、近年打ち続き諸色高値に
 相成り極めて難渋仕り途方に暮れ罷り有り候処、昨辰年中当御役所御支配を頂戴候段
 仰せ渡され候に付き、この上無しと恐悦奉り候儀に存じ込み候処、直ぐ又本村御同料
 に仰せ付けられ候趣、承知仕り候間、前書の極難の私共に御座候えば本村へ出稼ぎ日
 雇い渡世致し漸々其の月(日)送り候者多く、壱字壱点わきまえざる者にて御用向き
 の儀相勤め候事のみにてこの取り続き方おぼつかなく存ぜられ候間、何とぞ格別の御
 慈悲を(以て)古来の通り本村へ御組込なし下し置かれ候、万事本村名主方の差配受
 け度く候間、本村へ一体に相成り候様、右願いの通り御聞き済み本村へ仰せ付けられ
 下し置かれ候様、此の段恐れ乍ら書付を以て歎願申し上げ奉り候 以上

   明治二巳年五月                    惣百姓代 半兵衛
                               百姓代 利三郎
                               名 主 辰次郎
 伊 那 県
   御 役 所


 ところで、この小さな変則的なムラがなぜ出来たのかをみてみましょう。まず始めに、天明八年(1788)の年貢の皆済目録を見ていただきます。まず冒頭に、「御拝領屋敷地」とあります。この呼び方が八軒屋敷村の成り立ちをそのままに表現しているのです。皆済目録というのは、年貢を完納したときに渡される領収証のことですが、問題の御拝領屋敷とはいったいいつ、何様から頂いたものなのでしょうか。
 寛政から文化年間にかけて江戸幕府が編纂した大名・旗本・幕臣の系譜集成「寛政重修諸家譜」の中の「沢氏」の項に、この御拝領屋敷のことがくわしく記述されております。必要な部分を抄出してご紹介します。

 ○沢久吉 清兵衛、今の呈譜宥知に作る。沢九郎兵衛宗久が二男、母は某氏。
 寛永十九年二月五日めされて大猷院殿(徳川家光)につかへたてまつり、小十人に列し、
 正保元年十二月二十五日廩米(扶持米)百俵月俸十口をたまふ。慶安三年九月八日厳有
 院殿(四代将軍家綱)に附属せられ、のち本城に勤仕し、寛文五年番を辞し、小普請と
 なる。延宝元年(1673)十月二十一日致仕(辞任)し、二年二月十二日死す。年七
 十一。法名道鏡。妻は法光院の養女、実は市岡理右衛門忠次が三男権兵衛忠重が女。

  法光院は初め東照宮(家康)につかへたてまつり、後尼となる。ある日のぞみの事あ
 らば、申すべしと仰せありしかば、先祖田宅の地信濃国伊奈郡駒場村のうちに今宮八幡
 宮を造立せむ事をこひ申すにより、則ちその地を賜ふ。寛永十八年法光院病篤きに及び
 てかの地を養女にあたへむ事を、大猷院殿(家光)にこひたてまつりしかば、御ゆるし
 ありてその地を養女にたまふ。のちかの女久吉が妻となるにより、その地は代々この家
 に伝ふ。 (寛政重修諸家譜 巻千百四十)

 この家譜の文章が示すように、当時の最高権力者であった徳川家康から拝領したのがこの八軒屋敷の地であり、拝領したのは「法光院」という女性だったのです。では、法光院とは何者であったか、といいますと、別稿「まぼろしの美女おせん様」の娘(林丹波の娘)「おまつ」のことです。(中関宮崎氏の系図)
 天正の末期、この地の郷士であった宮崎筑後泰景の娘お仙が、駿河にいた徳川家康の目にとまり奥勤めをしました。それも一人ではなく連れ子をして行ったといわれます。当時の武将は多くの側室を持つのが常で、家康は二妻十五妾といわれるように、幕府祚胤伝に収録されているだけでも十五人の側室がおり、お仙もその一人でした。お仙がどんな事情で家康の奥勤めをするようになったかは記録がありませんが、「子連れでもよろしい」というほどの美人だったと思われます。

 お仙の連れ子おまつも、長じて家康の奥勤めをしたことは前記の沢氏の系図に「初め東照宮につかへたてまつり、後尼となる」とあることによって明らかです。ただの勤めであれば、尼となることはなかったでしょう。しかし家康が母子共に側室にしたとは、俗にいう親子丼で、幕府編纂の祚胤伝にははばかって載せなかったものとみられますが、沢氏の系譜によって察知せられるわけです。沢氏の系譜によりますと、おまつが奥勤めのある日、家康から「のぞみの事があらば申してみよ」とじきじきのお声がかりがあり、「先祖の田舎である信州の駒場村に今宮八幡宮を造立したいと存じます」と言上すると、「よしよし」とうなづいた家康はこの八軒屋敷の地をおまつに与えたというのです。家康がなぜこのような機嫌のよいことを言ったのか、おまつはどのような心願があって今宮八幡宮を造立しようとしたのか、これには阿智地域の寺社朱印状とも関係のありそうな深い意味さえ含んでおりますがそれはさておき、おまつはこの地に今宮八幡の社祠を建ててまつり、この地の年貢米のうちから今宮八幡宮の祭祀料と浄久寺への灯明料を寄進していました。今宮八幡宮の位置は前掲の地図にありますように、岩の沢のほとりで、現在ガソリンスタンドのある付近です。

 やがて家康がなくなり、おまつは尼となって法光院と名を改め余生をおくっていましたが、寛永十八年病気が重くなったとき、すでに定めてあった養女おくににこの八軒屋敷の地を相続させてほしいと時の将軍家光(大猷院)に願い出て聞き届けられ、その後おくにが沢清兵衛久吉の妻となるに際し化粧料として持参したため、八軒屋敷の地は沢家の所領となり、代々沢家に伝えられて明治維新まで続くわけです。このお仙の連れ子として奥勤めをしたおまつは、駒場又は備中原の領主林丹波の娘といわれ、浄久寺にある「お姫様のおたまや」(探54)に残る位牌には「芳杲院殿名誉貞珠大禅定尼」とあり、一方過去帳の方には「法杲院」とあるなど、沢氏系譜の「法光院」と合致しませんが、当時の表記には宛て字が多く、どこかで安易に誤り伝えられたものと思われます。
 八軒屋敷の由来が少し長々しくなりましたが、このような由来をもつ八軒屋敷の住民は、将軍じきじきの拝領地ということで、かなりのプライドをもっていたと思われます。しかし沢氏は扶持米二百五十俵の旗本で、領地としてはこの八軒屋敷の外にはなく、法光院のおまつ、春芳院のおくににゆかりのある宮崎・市岡の両氏が健在であったころはともかく、この両氏が改易になり、沢氏の世代も孫から曽孫となるにつれて、八軒屋敷の土地・住民に対する取り扱いは次第に冷淡になっていったように思われます。

 八軒屋敷の年貢については享保元年申年(1716)の年貢の請取覚より古いものが残っておりませんので初期のことは分かりませんが、この時はすでに初代の清兵衛久吉から四代目になっていて、沢九郎左衛門の署名があります。年貢高に関する部分だけとり上げてみますと、

 一高三石一升三合 但し納方口米共に
   内壱斗三升 月牌料(浄久寺へ上げるもの)
   同弐升   御初尾(今宮八幡で上げるもの)
  引残而弐石八斗六升三合
   代金四両三分と銭五拾文
   外ニ藪年貢 金壱分
  二口合金五両 銭丁五拾文

 前にこの八軒屋敷の石高は三石一升と書きましたが、これは八軒屋敷の石高であるとともに年貢米のことのようで、沢氏は十割という途方もない高率の年貢米を賦課していたのです。この八軒屋敷の反別は、屋敷地が一反歩、畑の計一反三畝二十四歩しかありません。これは石高にして丁度三石一升四合ほどになりますが、当時天領の屋敷や上畑に対する年貢率は四三%程度で、50%を超すことはなかったのに、八軒屋敷の住民は100%という課税に甘んじていたものと思われます。

 沢氏の重税はそれだけではありません。前に掲げた二通の年貢皆済目録にあるように「藪年貢」を賦課しています。この藪は駒場村上町の背景をなす大きな藪ですが、藪年貢を課せられているのはこの八軒屋敷だけで、地続きの藪に対しては天領であった相違もありましょうが、藪年貢を課せられた記録は見当たりません。それに、この藪年貢なるものが驚くほどの高額で、享保元年の金一分というのは米一俵に相当します。沢氏は先祖の供養のため浄久寺と今宮八幡宮へ合わせて一斗五升の寄進米をしていますが、実は他領では取っていない藪年貢を課税し、その半分にも足らない額を奉納して大半は自分の懐に入れていた、これで小規模領地の費用だおれをカバーしていたのでしょうか。
 この法外な年貢に対して、住民から何の不満も訴願もなかったのかは記録が残っていなくて不明ですが、駒場正木屋の山田いほさんのお話によると、「年貢を七年間も滞納したことがあって、江戸から役人が取立てに来てお調べを受け、孝行まつという人が親孝行のほうびにお上から頂いた田地までも売り払って納めた」というようなことも、何か関係があるのかもしれません。ただ一つ、この地は享保の頃すでに「問屋屋敷」と呼ばれ、宿場としての何らかの特権を付与されていて、それに対する賦課も含まれていたのではないかとも考えられますが、資料がなく今後の研究課題であります。

 つぎに、この小さなムラをとりまく母村ともいうべき駒場村の住民との関係はどうであったか、ということですが、これに関する資料があまりありません。最初は、八軒屋敷の人々は御拝領屋敷の誇り一すじに駒場の中心部に頑張って生きていたものと思っていましたが、だんだん調べていくに従い同じ街道に軒をならべる天領駒場村とは比較にならない、倍以上の年貢を賦課され、歎願するにしても十戸足らずのミニ村では金もなく人もなく、泣きねいりより仕方がなかったのではないかと思われます。
 母村である駒場村との関係を示す資料として、知久保山の入会について向関村と出入(論争)のあった文政八年(1825)の駒場村上下両町名主から飯島の代官役所へ差出した文書をあげてみます。

   恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候 [矢沢広行氏文書]

 一山論一件御吟味に付き、分郷 沢勇之助様御知行所 字八間屋舗の分は、右論所には
  相拘わらざるや御糺しに御座候。此の義、いつの頃よりの御領分違いに御座候や相分
  らず、矢張駒場村の内にて万事一村同様に取計らい、尤も山御年貢の義は御私領にて
  はこれ無く、御料所村ばかりにて当御役所へ相納候得共、右論所知久保山は勿論その
  外入会山の分は八軒屋敷の者共も一同入会来り、駒場村一体の入会山にて、御料私領
  いずれを地元と申す義は御座無く候。御糺に付き此段申し上げ候。 以上

   文政八酉年二月
                           伊那郡駒場村上町 官兵衛
                              同 村下町 多右衛門    
 羽倉外記様 飯島御役所


 このように、八軒屋敷に対しては、「やはり駒場村の内だから一村同様にしている」といい、山年貢は天領村の方だけで出しているが、知久保山に限らずその外の入会山へも八軒屋敷の人々もわけへだてせず入会している」と、母村らしい寛大さを見せています。  この宿場町の中にはさまれて江戸時代を生きつづけたミニ村八軒屋敷も、明治維新と共に沢氏の手からはなれ、すべての面で駒場村へ融合となりました。この時の住民の心情は前に紹介した明治二年の嘆願書によって推察することができます。
 又この村の住民の人々のその後のことですが、不思議なことに現在この屋敷内にふみ止まっている家は一軒もありません。現在わかっているお家は、 正木屋(山田氏)、井戸端(熊谷氏)、松屋(杉山氏)、蔦屋(熊谷氏)、伊勢屋(荒井氏)、榎屋(小林氏)等です。
 また、おまつの創建になる今宮八幡宮は、明治初年の社寺整理によって安布知神社の境内に移されており、当時の御神体であった阿弥陀如来の懸仏(神仏混淆の時代には八幡神の本地仏は阿弥陀仏であった)は山田等さん方にまつられております。(探31) (S55・5〜6)

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